種を蒔く人
 木の芽起こしの春の恵みの雨が、訪れる季節になりました。もう身震いするような寒い朝ではなくなりました。まだ朝のお日さまは力強さが足りませんが、明らかにぬくい。土師の雀たちもふくら雀ではなく、一枚脱いだようなほっこりした顔つきになっています。花屋の店先も色彩の洪水です。チューリップが似合う春。保育園、幼稚園、小、中、高の学校や、大学など、あちこちから卒業式のニュースが流れてきます。東日本の震災地からの卒園、卒業式のニュースも、次々に入ってきます。大震災から、早くも、なのか、まだなのか、もうなのか、一年が過ぎました。復興という言葉が宙吊りになったまま、私どもの胸には痛いものが走ります。
 さて、巡って来た春は、まるで初めての春のように光で一杯です。希望という漢字を初めて覚えた小学生のように、新鮮な感動を込めて、「希望」という漢字を毛筆で認めたくなります。庭に出て、花や野菜の種を蒔きたくなります。
 今は、イースターを待つ受難節でもあります。イエスさまの生涯の一つ一つの場面を想起しながら、一日一日をその意味を噛み締めながら過ごしたいものです。
 さて、今日の宣教の題名は、「種を蒔く人」であります。農民を描いた画家・ミレーの絵を想起するかも知れません。種蒔き、ここは土師だから畑はまだあちこちにあるよ、種蒔きしている人もときどき見かけるよ、という方もいらっしゃることと思います。
 が、ちょっと待って!
 イエスさまの時代の種蒔きって、今と同じかな。答え、同じ場面もありますが、ちょっと違っている場面もあります。一つ、人が立って歩きながら、大きく手を振りながら種を蒔く。これが、ミレーの「種を蒔く人」の姿であります。もう一つ、畑の中をロバが行く。その背中の両側には、種が詰まった袋がぶら下がっている。袋の尻尾には穴が空いていて、そこから種がこぼれ出る。つまり落ちていく。
 この場面を思い浮かべれば、今日のテキストが納得できます。
 13章1節からは、「『種を蒔く人』のたとえ」から始まって、「たとえを用いて話す理由」、 「『種を蒔く人』のたとえの説明」と続きます。これと重なる記事は、マルコ、ルカにもあって、正直に言うと、みな、やや、くどい。その背景にあるものについても考えてみようと思います。
 1節、「その日、イエスは家を出て」、 この家は大工・イエスさまの自宅兼仕事場のことでしょう。二節、「大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた」。 船上なので身の安全のためでもあります。が、当時のラビ(教師)たちは普段は座って語られたのであります。三節、「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた」。 すなわち、種蒔き、毒麦、からし種とパン種、天国という具合に、天の国というテーマを順序立てて展開したのです。これらはすべてたとえでした。
 4節、「蒔いている間に、ある種は道端に落ち」とあります。ロバの背中からこぼれ落ちていったのです。5節、「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち」、 七節、「ほかの種は茨の間に落ち」、8節、「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち」という筋書きです。現在の農業とは違っています。現在の常識で考えるなら、道端や石地や茨に種蒔きするはずがありません。趣味の園芸のテレビ番組を見ていると丹念に丁寧に耕してから指を使って注意深く蒔きます。宏大な畑であればなおさら、十分に耕して良い土壌にしてから蒔きますから、このようなたとえが生まれて来る余地がない。そこは十分理解して、たとえ話に耳を傾けてみましょう。テキストでは、「蒔く」と「落ちる」という表現が同じ意味になっているのです。
 というわけで、8節が「ところが」という逆説の接続詞で始まっている意味が分かるのです。そして、「実を結んで、あるものは、100倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった」とあります。当時の農業の実体が分かれば、この収穫の喜びがこちらに十分伝わってくるのです。
 ここで、このたとえを注意深く見ていますと、九節が、気になるはずです。「耳のある者は聞きなさい」で閉じられています。おかしいなあ、いままで良く聞いていたのに、どうしてイエスさまは、「耳のある者は聞きなさい」と念を押したのだろうと弟子たちは、考えたのです。
 そしてイエスさまに質問したのです。
 が、その前に、そもそも、「種を蒔く人」とは、誰でしょう。第一義的には、言うまでもなくイエスさまです。種とは、もちろん福音のことです。この話を聞いていた弟子たちは、私どももイエスさまに続いて福音という種を蒔くのだと気持が高ぶったことでしょう。マルコによる福音書には、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」とあります。
 そして、10節以下、「なぜたとえを用いてお話しになるのですか」と尋ねたのです。ここから始まるイエスさまの答えは16節まであります。群衆に向けて語られたたとえよりも長い。
 では、あらためて「たとえ」とは何でしょうか。
 たとえとは、まったく異質の領域にある二つの事柄を比べて、身近なよく知っている例を挙げて、全く知られていない事柄がもっている思想や道徳的教訓を分からせる方法です。とすれば、このたとえは、どんな教訓を含んでいるのでしょうか。答え、耳があっても聞かず、目があっても見ず、真心で受け取らない人々は、何ものにも代え難い真理を逃してしまうのだと言っているのです。その耳がない人を意識して、先ほどの九節で、「耳のある者は聞きなさい」と念を押したのです。
 続く12節、「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」、 これは、いろいろな人生経験を積んだ人には実感的に思い当たる節があるはずです。ここではイエスさまのみ言葉に耳を傾けない結果について言っているのですが、それに限らず、人生のあらゆる場面に当て嵌まるのです。私どもに決定的に必要なものは、耳が耳として働くこと、目が目として働くことです。盲目の人の方が本質をきっちりと掴み取るということを福音書は告げています。もっとも肝心なのは、私どもの心の働きであります。
 そして18節以下、イエスさまは、懇切丁寧にこのたとえが意味することを説明してくださったのであります。すなわち、「種を蒔く人」の福音はどのような土地にもっとも染み込んで行くのかを語っているわけです。あなたの心は、道ばたに転がっているままなのか、あなたの心は、薄い石地なのか、あなたの心は、とげとげの茨なのか。あなたには、ほんとうに聞く耳があるのか、見る目があるのか、あなたには、感じる、考える真心があるのか。そして善いものを見分けて受け止める訓練ができているのか、と厳しく問い詰めている。
 もう一度、おさらいしましょう。イエスさまは、イザヤ書から引用して、彼らは、15節、「心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」と駄目押しをしているのです。旧約を良く紐解いている方は、旧約の口調が分かるでしょう。大切なことは、素朴な素直な感受性の受信装置を私どもが持っているかどうかなのです。イエスさまは、弟子たちに、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」と言います。とは言え、弟子たちがすでに真理の奥義を悟っていると断言はしていません。もしあなたがたが、素朴な素直な感受性の受信装置を持っているならば、天国はすでにここに来ていることが分かるはずだよと言っているのです。
 続けて、16節、「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と断言しています。この「幸いだ」という言い方を、どこかで私どもは、聞いています。そうです。聞きました。同じマタイによる福音書五章の山上の説教です。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」「悲しむ人々は幸いである。」 あの幸いと同じなのです。つまりイエスさまの強い祝福がここに溢れているのであります。 
 17節、旧約の「多くの預言者や正しい人たちは」、 「あなたがたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである」。 とあります。
 今語っている私こそ、旧約以来熱望されてきたメシアなのだとイエスさまは、ご自身を証しされたのであります。メシアであるイエスさまの到来、これこそ、そのまま、天の国の到来であるのです。
 にもかかわらず、私には、ある疑問が湧き出てくるのを押さえつけることができません。これでは、群衆がかわいそうではないか。イエスさまは、貧しい群衆の友だちではないのか、と言いたくなります。
 おそらくもう一つの理由が背後にあると推測できます。それは、イエスさまに従いていく人々が急速に増えていることに対するユダヤ教の指導者たちの反感であり、あわよくば神を冒涜しているという口実でイエスさまを貶め、逮捕にまで持っていきたいと狙っている策略を、十分に知っているイエスさまの反撃でもあるのです。
 18節、「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と説明をするのです。聞いても、見ても悟らない指導者たちがいる。その指導者、支配層らが群衆の中に紛れ込んで機会を窺っているので、イエスさまは、このたとえを用いてかれらを遠ざけたのに違いないのです。
 しかし、素朴な素直な耳と目と真心がある群衆ならば、このたとえは、まっすぐに心に入っていくのであります。ここには、福音の真理の秘密を開く鍵が指し示されています。弟子たちは、懇切丁寧な説明をしているイエスさまがどんなに群衆を救おうとして腐心なさっているのか、その御心にじかに接して、福音の広さ、深さ、そして厳しさを再認識したのであります。まさに、聞く耳を持たない者は、その現場ですでに裁かれているのです。
 ここまで来て、はたと気が付きます。この譬えは「種を蒔く人」ではなく、ほんとうは、「種が育つ土壌について」という見出しの方がよい、と。
 私どもは、今ここに到来している天の国に招かれている。イエスさまの到来自体が天の国の始まりなのです。
 イエスさまは、このたとえを通して、イスラエルの転換を促している。天の国の到来を告げている。耳を閉ざしているイスラエルに、最後の転換の機会を与えている。同時にこれは、21世紀の私どもへの警告なのであります。宗教的感受性が音を立てて崩れていく現在、神の言葉に背を向け、拒んで止まない時代の中で、私どもまでが、どこに向かって歩いているのでしょうか。私どもの心は、道端に転がったままではないでしょうか。薄い石地で焼け死にそうになっていないでしょうか。茨の中で、「世の思い煩いや富の誘惑」に溺れて傷だらけになっていないでしょうか。
 主は呼び掛けていらっしゃいます。肝心なのは、真心だよ。感じ、考え、受け入れる柔らかい真心だ、と。
 「良い土地に落ち、見を結んで、百倍にもなる」のは、この現場で起こる自然な出来事なのだよ、というイエスさまの声は、春の恵みの雨のように優しいのです。 
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