まことのぶどうの木
 旧新約聖書に登場する植物の中で、飛び抜けて重要な役割を演じている主演スターは、言うまでもなく葡萄です。
 日本人も葡萄が大好き。世界でもずばぬけて花卉の品種改良に優れている日本ですが、葡萄の栽培に至っては、ネット栽培の高層化で有名です。
 さて、葡萄と言えば、そのまま食べる(生食)、干し葡萄、ジャム、葡萄ジュース、葡萄酒など、さまざまな楽しみ方があります。
 葡萄の原産地をご存知ですか。アジア西部、すなわちペルシャ、コーカサス地方です。砂漠あるいは高原地帯です。日本では山梨県(甲州)が一番有名ですが、関西では、河内、奈良盆地です。丘陵の傾斜地が、湿気が少ないので葡萄作りに適しています。
 どうも現在の私どもキリスト者は、葡萄と言えば、キリスト教の代表的植物と思いがちですが、日本には、もともとシルク・ロードを通して伝わってきたのです。その終着点が正倉院ですから、仏教と深く関わっています。明日香、奈良の仏像の台座に刻まれている模様の多くが、葡萄からヒントを得た唐草文様であることもご存知の通りです。ちなみに甲府市のある寺は、葡萄栽培の発祥地とされています。日本の教会で葡萄で有名な教会あるいはクリスチャン・スクールを、私は耳にしたことがありません。
 現在のイスラエル、欧米では、葡萄栽培は、ネット高層化ではなく、基本的には、一本一本ずつです。その方が聖書の葡萄のイメージに近いのです。もっともイスラエルでは、地に這わせて育てたりします。砂漠と石が多い土地なので葡萄の実が腐る心配がないのです。あとは生け垣方式で、しばしばイチジクと葡萄が同じ土地で育てられています。
 埼玉で一戸建てに住んでいたとき、葡萄の苗を一本、ポリバケツで育てていました。ぐんぐん伸びて、薄い緑色の花が咲き、やがて実をつけました。伸びる、伸びる、凄く大きくなって、玄関前までいっぱい実がぶらさがったのです。ある朝、葡萄の房がなくなっていました。翌朝もその次の朝も、しかも種だけが玄関のタイルに吐き捨ててあったのです。近所の悪ガキたちの顔が浮かび上がりました。   
 が、なんと犯人はカラスだったのです。さらにびっくりしたのは、ポリバケツの底を突き破ってぶどうは地面の底の方へと深く深く根をはっていたのです。葡萄はまさに生命力の象徴です。
 もう一つ、葡萄の魅力。あの葉っぱです。心臓の形です。ハートがいちめんに空に広がっている光景は圧巻です。
 ヨハネによる福音書は、他の共観福音書と重ならない場面が多いのですが、今日のテキストもヨハネ独特の場面です。長い長い説教です。これは、地上での最後の説教であり、普通決別の説教と言われています。この世を去っていく主が弟子たちにいろいろと細やかに配慮をしていますが、その根底は、「互いに愛し合いなさい」という「愛」の遺訓に尽きます。弟子たちに残す教えであります。このヨハネ福音書の最初の奇跡を思い起こしてください。カナの結婚式の水甕を、良質な葡萄酒に変えたあの奇跡です。二人で歩む人生を祝して行った粋な計らいでした。そしてエルサレムでの最後の夕食のこの現場でぶどうの木について語るのです。
 この頃、ローマ帝国は、ユダヤ教を公認宗教の一つとして認めていました。つまり合法だったのです。ヨハネの下に集まったヨハネ教団は、そのユダヤ教の新しい流れであると思われていたのですが、どうも違うらしいと気が付き初めてもいました。というのはユダヤ教の支配層たちが、ヨハネ教団が明らかにイエスを中心として大きな流れを形成していて、もはやユダヤ教とは言えない。公然と神の権威を冒涜する異端だと判定し、イエス逮捕に走っていたのです。ローマが最も嫌がる不穏な動き、騒動から体制に刃向かう暴動の恐れもあると判定しつつあったのです。明らかに迫害が迫っていました。その危機的状況の中で、イエスさまは、最後の別れの説教を始めたのです。しかもそのテーマは、イスラエルにとって決定的な葡萄だったのです。
 そもそも葡萄畑あるいは良い葡萄の木そのものがイスラエルの比喩なのであり、象徴なのです。そのぶどうの木がどうなったか、旧約のイザヤ章(1067頁)を開いてみましょう。イザヤ書5章2から6節まで、「ぶどう畑の歌」が載っています。
 1節
  わたしの愛する者は、肥沃な丘に
  ぶどう畑を持っていた
  よく耕して石を除き、良い葡萄を植えた。
  その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り
  良い葡萄が実るのを待った。
  しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さ、エルサレムに住む人、ユダヤ人よ
  わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
 これが、神に背き続けるイスラエルの現実の姿だったのです。
 7節、
  イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
  主が楽しんで飢えられたのはユダの人々。
 この失望は、エレミア書2章21節(1175頁)でも繰り返されている。
  わたしはあなたを、甘い葡萄を実らせる
  確かな種として植えたのに
  どうして、わたしに背いて
  悪い野ぶどうに変わり果てたのか。
 イスラエルの民は自分たちが葡萄の木の比喩であることを詩編の時代から自覚していたのであります。
 詩編80編9節(918頁)
  あなたはぶどうの木をエジプトから移し
  多くの民を追い出して、これを植えられました。
と歌っています。
 旧新約聖書を一貫しているのは神の忍耐強さです。そしてイスラエルがどんなに背いてもかれらを救おうとして実行した神の凄さに驚かざるを得ません。歴史とはまさに神による救済史(歴史)なのであります。
 その旧約時代を総括してマルコによる福音書の12章1から12節(83頁)では、あの「ぶどう園と農夫」のたとえが登場しているのです。主人が自分のぶどう園の管理のために送った最初の僕を袋だたきにし、二人目を侮辱し、三人目は殺した。最後に愛する息子を送ったが、その息子まで殺し、ぶどう園の外に死体を放り出してしまったというあの残酷なたとえ話。あれは、むろん旧約の預言者殺しを指している。にもかかわらず神は、イエスさまをこの世に送ってくださったのです。今度は、決定的なほんとうのぶどうの木として歴史の只中に植えられたのであります。
 では、この場合の「まことの」とは、どういう意味でしょうか。旧約以来、神が選んだイスラエルが「ぶどうの木」という比喩で表現されたのは、ぶどうの木であれ、そうあるべきだという理念と願望が込められた比喩として表現されていたのです。しかし、人間の集団であるイスラエルは、その理念を体現できなかった。愛の共同体は、理念で終わってしまったのでした。
 そこで、神は、ついに愛するひとり子に人間の形を取らせた。受肉させて、人間の世界に送り込まれたのでした。愛の共同体を体現するために、その愛がいかなるものであるかを自ら証しするためであります。その父のみこころを示す最後の日が目の前に迫ったのであります。その夕食の時、イエスさまは弟子たちの足をお洗いになられた。そしてユダの裏切りを指摘された。「ユダは、「パン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」13章30節」。 さらにペテロの離反も予告しました。
 そして、弟子たちの顔をじっと見詰め、厳かに、励ますように、言われたのです。「心を騒がすな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、命じられたあと、この別れの説教を開始されたのであります。
 15章1節、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。 もう理念ではない、願望でもない。その理念と願望を体現しているのがあなたたちの目の前にいるこの私なのである。この、わたしにつながっているかぎり、あなたがたは、わたしとあなたがたは、一体なのである。わたしとあなたがたは、一本のぶどうの木として枝を広げ、豊かな実りの季節を迎える。なぜなら、3節、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」からだと断言したのです。イエスさまは、行動する言葉をいつも生きています。ヨハネによる福音書は、この点が際立っている。この言葉が生きており、その言葉に拠って清められる。これがキリスト教信仰の核心であります。冒頭で、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と謎解ききのように始まっているヨハネによる福音書ですが、ここに至って、はっきりと清くされ神の子として迎えられた弟子たちが誕生したのです。このあと、イエスさまを見捨てて逃げ去ってしまう情けない弟子たちですが、そうと知りつつ、弟子たちをあらかじめ清めて祝したことの場面に接する時、私どもは、神の測り知れない恵みの前に圧倒されるのであります。やがて復活したイエスさまに励まされて、それこそまことの伝道へと出発をしていく弟子たちの足取りの伏線がすでにここで用意されていたのであります。
 今日のテキストからは、ややはみだしますが、9節をご覧ください。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。
 この「とどまる」と「つながる」は、実は、ヘブライ語の原語では、同じ単語なのです。同じぶどうの木の体として生きて行く愛の共同体であるならば、「つながる」と「とどまる」、この二つの単語が同じ意味であるのは、十分納得できるのです。
 葡萄酒の奇跡に始まり、一本のまことのぶどうの木として完成した愛の共同体こそ、私どもの教会なのです。この事実を知る時、私どももまたすでに清められている事実の前に、震えるような喜びを覚えずにはいられません。そして、この大震災の日に重なる聖日の重さがあらためて私どもに語りかけているとき、愛の共同体である教会が、何をすべきなのかは、はっきりしているのです。
 私どもは、被災者のために、列島全体の復興のために、この一年間、本気で祈り続けてきたでしょうか。何が正義であり、なにが信用できる情報であるのかを吟味してきたでしょうか。
 やるべきことはいっぱいあります。原発と震災は、起こってしまった以上、嘆いているだけでは何も解決できません。イエスさまの言葉に拠って清められた私どもは、歩み出しています。今日は、日本キリスト教団に属する私どもの再出発の日なのです。
 イエスさまの、この別れの説教「まことのぶどうの木」を胸に刻んで、この道を力強く歩んでいきましょう。 
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