立ち働いてたか
 私は埼玉県さいたま市生まれです。父は小江戸といわれる川越生まれです。秩父に源を発する荒川は川越をさいたま市を下って東京湾に流れこんでいます。わたしの祖母の実家は、さいたま市の別所沼の池畔の「万店」という川魚料亭ですが、もともとは街道を旅する人の休憩所兼よろず屋でした。うなぎとなまず料理が有名です。幼い頃、昭和二〇年代初期には、祖母に連れられてしばしば万店に行っては、川魚を食していました。雀のお汁もありました。こってりした関東の蒲焼が好きです。ひとは誰でも育った地の食べ物が好きです。とくに母の作ってくれたものが体に沁み込んでいるようです。私には、万店の川魚料理が沁み込んでいます。とくに幼少期に食べたウナギの味が。あとは祖母が戦後しばらくうどんを手作りして稼いでいました。手でこねたうどんを入れた袋を両足で踏み込んで、寝かせてから包丁で切っていく手作りうどんです。お手伝いもよくしました。うどんは大好物です。
 誰でも食べることは大好きです。家族と、あるいは友人と、みんなで食べることはとてもいいものです。教会の会食も、二千年前から続いています。愛餐会です。
 この始まりと思えるものの一つが今日のマルタとマリアの家の物語です。ルカによる福音書十章三八節、「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」。 イエスが弟子たちを連れてガリラヤ湖の周辺を宣教して回ったあと、エルサレムの周辺をも宣教し続けました。
 さて、マルタの家は「ある村」にあるのですが、どこにあったのでしょうか。ヨハネによる福音書に拠れば、この姉妹の家はベタニアにあります。姉妹の兄弟(おそらく弟)がラザロです。病んだ末死んでしまったラザロをイエスさまが復活させてくれた奇跡が描かれています。その十一章の大半が、この家族の物語であります。
 ルカとヨハネの二つの物語で共通しているのは、この家の主がどうやら男性ではなく、マルタというお姉さんらしいということです。マルタという名前は、もともと女主人、あるいは、女支配人という意味であります。二千年前のイスラエルで、女性が家の主であるという事実があるだろうか。あるのです。金持ちの未亡人、あるいは未婚の女主人などです。それらの女性たちは商売をしていることもあったようです。着物の仕立てとか販売、福祉的な仕事があったようです。マルタもそういう類の自立した女性の一人であり、姉妹そろってイエスさまの弟子だったのです。
 イエスさまは、マルタとマリアの家に弟子たちと一緒に訪れているのです。こういう訪問は一回限りのことではなく、しばしばあったと考えられます。三九節、「マリアは主の足もとに座って」と、弟子がイエスさまに聴従するスタイルを取っているのです。
 マルタとマリアの描写が男性の弟子たち一般よりも詳細に生き生きと描かれていることにも注目したいものです。
 この家はイエスさま一行の宿泊所も兼ねていたのではないでしょうか。それだけの財力がマルタにはあったのです。一行のお世話をすることは女性のほうが適していた、その能力を発揮できたのであります。ある種の家の教会の始まりであったかもしれません。そこでの食事は、愛餐会の始まりでもあったのです。
 ルカ伝の物語は、従来、余りにも解釈が紋切型になっています。行動派のマルタと聴従派のマリア、そしてマリアが称賛されるという図式。明解過ぎて拍子抜けしてしまいます。
 イエス様と弟子たちが訪れた。さあ、どうもてなすか。召使たちがいるとは言え、準備がたいへんです。弟子であれば、イエスさまのお話を聞きたいのはマルタも同じ。でも、一行の旅の疲れをいやしてもらうには、まず足を洗う洗足からです。そしてお茶、そして云々といった具合。三八節「家に迎え入れた」という表現は、計画していた通りであったことが推測できます。たまたま通りかかったではない。だから忙しくてもやらねばならない。
 38節、「イエスはある村にお入りになった」を、イエスさまが、弟子たちを置き去りにしたまま、一人でマルタの家を訪れたと解釈することは可能ですが、とすると、あとの描写がへんです。イエスさまただ一人のもてなしであれば、マルタが苛立つことはなかった。いつも馴れていたはずですから、手早くてきぱきと応対できるはずです。つまり客はイエスさまと弟子たち一行だったのです。
 40節、「マルタは、いろいろなもてなしのためせわしく立ち働いていたが」、 「いろいろなもてなし」とは何だったのでしょうか。ヨハネでは、イエスさまを「石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と、弟子たちが、ユダヤに近づくのは危険だと進言したにもかかわらず、イエスさまはベタニア村に足を踏み入れた。そんな状況であっても訪れたマルタの家なのです。
 ルカ福音書に登場する女性たちが、生き生きと描写されている事実は特筆すべきことです。幼子イエスを腕に抱いていけにえを捧げるために神殿を訪れた両親を見て、神を賛美する女預言者のアンナが、ルカによる福音書の2章で登場します。新約聖書の中でたった一回、女預言者が登場する。2章36節、「非常に年を取っていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、」 37節、「夫に死に別れ、84歳になっていた」とあります。神に仕えて活動しつづける老女が「84歳」と明記されているのです。凄い女性です。
 そして十章のこのマルタの活躍も見事です。男たちは、伝道の第一線で活動します。が、イエスさまの弟子であっても女たちは、アンナを除いて、どちらかというと控え目です。
 しかし、十字架上で息を引き取られた最後の現場には、男の弟子たちはいなかった。みな逃げ出してしまった。そこにいたのは女性たちだったのです。
 さらに、キリスト教信仰の要である復活を最初に確信したのも女性たちであります。
 週の初めの明け方早く、空っぽの墓場に来た時、「輝く衣を着た二人の人」からイエスさまの復活を知らされた女性たちは、その「一部始終を」弟子たちに知らせましたが、「使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」。 見たものしか信用しない実証主義に傾きやすく、男尊女卑思想を引きずっている男性の弱点が見えてしまいます。
 ヨハネによる福音書のマルタは、ラザロを癒していただく直前、言います。「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と。
 それでは、もう一度ルカによる福音書のマルタとマリアに戻ります。
 男尊女卑思想の枠組みの中にいる当時のイスラエルへの家族構造への抵抗が、ルカにはあった。その時、イエスさまの家族観がその転換を促すのであります。あの有名な8章21節、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(119頁)は、神の前での徹底的な平等を宣言しているのです。肉の母マリアをここで超えたのです。神の家族、つまりキリスト者の群れが拠って立つ原理なのです。私どもの教会は、この原理に立っています。だから原始キリスト教が共産主義的な共同体を築き上げることができたのであり、社会福祉がキリスト教から始まった理由もここにあるのです。
 ならば、マルタとマリアという姉妹の行動はどのように考えたらよいのでしょうか。先ほど少し触れましたが、二人ともイエスさまの弟子ですから、真っ先にイエスさまのお話に耳を傾けたいと願っていました。が、マルタは、一行のおもてなしをしなければなりません。女主であるマルタのそれは自分で選んだ仕事なのです。当時のイスラエルでは、客人の食事の給仕をするのは一番身分の低い者の仕事であったのです。にもかかわらずマルタは召使いを使っていたとは言え、そのもっとも卑しい仕事を選んでいるのです。ここには自分の仕事に誇りを持っている自立した女性がいます。
 なのに、マルタはついついイエスさまに訴えてしまったのです。妹のマリアに直接言っても良かったはずです。姉としてはごく自然の流れであったはずです。にもかかわらずイエスさまに訴えたのは、理由があります。二人とも弟子として平等な立場であるからです。主を尊敬しているからです。主の答えが聞きたかったのです。
 が、イエスさまの答えは、肯定でも否定でもありません。41節、「マルタ、マルタ」と二度も名前を呼んでいます。どんなにマルタのことを思っているか、イエスさまの心がびんびん伝わってきます。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。 乱さないでいいんだよ。なぜなら42節、「必要なことはただ一つだけである」。 言うまでもありません。答えは、信仰です。二人はここで全く一致しているのです。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。 これをマルタの否定と解釈するのは間違いです。そうではありません。マルタが本来の仕事から外れて心を乱したのがよくないよと言っているのです。決してマルタとマリアの比較をしてはいない。またマリアは、自分にとって何が今一番ふさわしいことかと考えたら、主のみ言葉に耳を傾けること、聴従こそふさわしかったのです。これが「良い方を選んだ」という内実なのです。マリアもマルタも自分で選んだことをしている。ただしその役割を固定化していいというのではありません。聴従するだけで発言しない、具体的な行動をしないならば、み言葉を食べたことにはならない。直前の物語「善いサマリア人」の最後のように、イエス様から、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われてしまうでしょう。
 ルカによる福音書は、一筋縄では解けない多義性、多声性を含んでいるのです。ルカ自体が時代の限界の中にいながら、それらを突破していくきっかけをイエスさまの言葉の中にたくさん見出して福音書を書いています。
女性とは何か、男性とは何か、伝道とはどういうことか、それらを総点検しながら、書きつづったのがこの福音書なのです。
 ですから、ほんとうの答えは、私ども一人一人が探し出さなければなりません。「あなたにとって、今何をするのがふさわしいのか、よく考えて行動しなさい」とイエスさまは、今日も、私どもに、語りかけていらっしゃるのです。
 祈ります。 
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