天から降ってきたパン
 私ども六〇代以上の日本人ならば、ほとんどの人が知っている子守唄の民謡があります。代表的なのが九州の「五木の子守歌」です。「おどまかんじんかんじん あんしとたあちゃ よか衆 よか衆 よか帯 よか着もん/おどま盆切り盆切り 盆から先きゃ おらんど 盆が早う来うりゃ はよ戻る」。 
 日常語に直せば、「私は貧しいよそ者 あの人たちは いい暮らし いい帯しめて いい着物着てる/私は お盆まで お盆までで終わり 盆から先は知らないわ 盆よ早く来て そしたら 矢のようにお家に帰る」。 
 では、「中国地方の子守唄」をご存知でしょうか。「ねんねこ しゃっしゃりませ 寝た子の可愛さ 起きて泣く子のねんころろ 面にくさ ねんころろ ねんころろ」。 
 日常語訳「眠ってる子 とても良い子 寝た子はかわいいな けど 起きて泣く子はなかなか泣き止んでくれない その顔を見てると憎たらしいったら ありゃしない 眠ってよ お願い」。 
 こんなところでしょうか。
 日本の子守唄は、子守という労働をせざるを得なかった貧しい娘たちの唄なのです。ほとんどは遠くから送り込まれた住み込みの子ども家事労働者です。かつてのNHKの朝のドラマ「おしん」がそうでした。あのドラマは、中近東やアフリカ、南米などで大評判となり、ものすごい共感を勝ち得たそうです。
 子守唄ひとつ取り上げても、圧倒的な貧民の歴史がその背後に浮かび上がってきます。
 二千年前、遠いイスラエルでも同じようなものでした。その貧しい民衆たちの只中にイエスさまは飛び込んでいったのです。今日のヨハネによる福音書もその民衆の世界の物語であります。
 今日のテキストは、六章ですが、その冒頭に五千人の給食が登場しています。その中にいた少年が奇跡の発火点でありました。この物語については、夏の宣教ですでに触れさせていただきました。五千人が満腹したのです。その民衆がイエスさまを追いかけて、ガリラヤ湖を小舟に乗ってカファルナウムまでやって来たのでした。かれらが求めていたものは、何だったのでしょうか。イエスさまは、それを見抜いておられたようです。
 だから、26、27節でぎくりとする厳しいことを言われたのであります。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」と。
 いったい何を言われたのでしょうか。腹一杯食べられた喜びが感動として体験できた民衆は、再びあの感動が欲しくてイエスさまを捜して舟にまで乗ってやってきたのです、が、イエスさまは、よく分からないことを言うのです。「永遠の命に至る食べ物」って不死の薬?それは欲しいけれども、今切実に欲しいのは、お腹いっぱい食べられる毎日だ。「先生、あなたは飢えることのつらさが分かっているのですか」と民衆は問い返したかったに違いありません。
 イエスさまは、民衆の不満そうな心のつぶやきを聞いていました。イエスさまは、毅然として、厳粛な口調で、32節、「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」とお答えになったのです。
 イエスさまは人と対話する時は、いつも問いに対して直球でお応えにはならず、わずかに視点をずらして、思いがけない答えをしてくるのです。何か凄いことを言っているなとは思うものの、しかし、それ以上は分からないのです。多くの場合、十二人の選ばれた弟子たちにすら、ほんとうの意味が分からない。ほんとうのこと、大切なこと、真理は、目の前にあっても見えない、聞こえないものなのです。現代の私どももまた、「永遠の命」と言われて、それがどんなものかを本気で考えたり、求めたりしようとしない事が、ままあります。「永遠の命」は、絶対に延命処置のことではありません。ミイラにしたご遺体の保存でもありません。不死の薬を飲むことでもありません。
 ですから、イエスさまは、噛んで含めるように、34節から59節まで、神のパンについて語っているのです。51節、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と断言します。しかし、民衆には、先祖たちが曠野の旅の最中で与えられたマナとの違いがよく分からない。
 しかも驚いたことに、五三節、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。 
 なんと、肉と血を食せ、と言っているのです。血を飲むことはレビ記で固く禁じられています。一般のユダヤ教徒には、考えられないタブーであり、犯罪でさえあるのです。そんな条件反射の強烈な反感に囲まれながら、イエスさまは、ユダヤ教の会堂で語り続けたのです。
 イエスさまの真意は、聖餐式を重んじるキリスト者の私どもにはよく分かるのです。が、それは死んで復活したイエスさまによって救われたからであります。二千年前の生きて活動しているイエスさまから、初めてこの言葉を聞いたユダヤ人の会衆の多くは、びっくりし、そして怒りさえ覚えたことでしょう。
 今日の招きの詞は、五七、五八節であります。
 「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」とあります。イエスさまは、この私を食せよと命じているのです。人肉を食う、考えただけでも身の毛のよだつような恐ろしい行為ではありませんか。
 が、これが聖餐式なのであります。明治時代、「耶蘇は血を飲むらしい」という噂が出回って、そこにあった教会の牧師は、その村から追放されたという話をある本で読んだことがあります。誤解であるとは言え、そんな事件はあり得る事であった。イエスさまの真意、本当に言わんとしていることは、それほど驚天動地の内容だった。
 信仰の本質は、理性や良識や学問だけでは手にすることが出来ないものです。それを日本語では、奥義と言って来ました。
 「わたしは、天から降って来た生きたパンである」という時、「降る(くだる)」とは、意志的に降りてくるという意味であって、「天から降って来たパン」ではありません。「降る(ふる)」は、自分の意志で降りて来るのではなく、自然現象として上から下に落ちて来るという意味です。雨が降る、雪が降るとは言いますが、雨が降(くだ)るとは言わないのです。「降る(くだる)」は、父のいます場から下にやって来るのです。そして私ども人間と関わるのです。父と子と人間の縦の交わりです。その交わりを成就してくれるものが「生きたパン」であるイエスさまご自身であり、しかもこの私・イエスを食べよと命じているのです。こう説明されても十分納得は出来ないでしょう。
 ただし、一般的に分かることは、母は子を食べてしまいたいくらい愛するものです。あるいは、法隆寺の玉虫厨子に描かれた捨身飼虎図をご存知ですか。お釈迦様が崖の上から、谷底で飢えて死にかかっている虎を見て、自分の体を食べ物として与えるためにひらりと谷底に身を翻したというあの絵です。
 これもテキストの私を食べよとそっくりです。
 ところで、私どもキリスト者は、救われて初めて信仰の中身を理解するようになるのです。信仰は、まさに与えられるものであって、説明されても手に入れられるわけではありません。イエスさまとの出会いを通して、いつのまにか与えられるものなのです。ならば自分の生涯に決定的な影響を与えてくれた先生や偉人が亡くなった後、形見がほしくなる。あるいは師と仰いだ人と自分を結び付ける具体的な物を見える形で残していたいとしばしば思うものです。
 たとえば、730年に創建された奈良の薬師寺の東の塔、凍れる音楽とも言われていますが、塔の基盤に仏舎利(お釈迦様の骨)が収められてあります。あの塔は、お釈迦様の立っている姿を表現しています、骨そのものの釈迦立像だとも言われています。釈迦の足を象った仏足も信仰の対象の一つです。私どもは、尊敬する人物の足跡(あしあと)を追い求めたりもするのです。
 が、キリスト教は、違います。聖書のみ言葉を通して語りかけてくるイエスさまに出会うのです。そのみ言葉によって私どもは、励まされ、慰められ、何よりも鍛えられるのです。そのみ言葉が食物なのです。イエスさまを食するとは、み言葉を食べることなのです。が、美味しくなければ、食べない、美味しくて栄養に満ちていて、しかも毎日食べられるもの、食べずにいられないもの、それが聖書であります。礼拝は、みんなで食べる会食なのであり、その精髄であり、象徴かつ実体が聖餐式なのです。聖餐式は、単に、イエスさまを思い出す儀式ではありません。記念会でもありません。文字通り、イエスさまを食べる出来事なのです。血だらけの十字架を体験することでもあります。これは真剣で、しかも真剣であるが故に感動的な食事なのです。
 今日のテキストがしつこいまでに、肉と血について語っているのは、こういう意味なのです。弟子たちの多くは、イエスさまのなさったこと、語ったこと、それらすべてを正確には納得できないので、60節、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやくのです。イエスさまは、気付いて言われます。63節、「命を与えるのは、霊≠ナある。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。 この63節が、肝心な所です。この場合の肉とは、人間の存在を指しています。人間は何の役にも立たない。何てひどいことをイエスさまは言うのだろうと短絡的に反応するのは早とちりです。イエスさまは、じっと観察しているのです。民衆は、パンを食べることしか見ようとしない。生きたパンが見えない。弟子たちもまた、福音の精髄を理解していない。人間のそんな悲しい現実を十分に分かっているイエスさまは、憐れみを覚えたことでしょう。しかし、そこに留まって妥協してはいけない。妥協すれば、自分を与える意味は無に帰してしまう。だから厳しく人間の現実を指摘した。人間の行動や理性だけでは、救いの前では何の役にも立たない、と。66節、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」。 67節、「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。
 これは、ここにいる私どもへの問いかけでもあります。十二人の選ばれた弟子たちも、緊張していました。十二人もまたイエスさまの真意が明確には、分からなかったのです。イエスさまに従うことへの微かな動揺、困憊が顔に表れてしまったのです。
 が、68節のペテロの言葉によって、私どもは、はっと自覚するのです。「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」
 ここまで他の誰でもなく、主よ、あなたと共に歩んで来た私どもは、あなただけを信頼しているのです。あなたをぞっこん信頼しています。そしてあなたをぞっこん知っているのです。あなたが神の聖者であることを」。 何という凄い信仰告白でしょうか。微かな動揺と困憊の中から紡ぎ出されたこの告白によって、ペテロは祝福されているのです。
 私どもも、あやうい地点で時々揺らいでいますが、信じかつ知るという信仰告白によって何度でも立ち上がりましょう。命を与える霊、イエスさまの言葉を毎日食べて、食べて、食べ飽きることのないパンを与えられている喜びを、回りの人々と分け合って生きていきましょう。 
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