子犬とパン屑
 凄い寒波が来るというので、恐れていました。日本中シベリア季節風の寒波に覆われているよです。娘二人が新潟県の日本海側にいます。雪には慣れているので、こちらの心配にもかかわらず、「まあ、いつもこんなもんよおっ」と気楽な返事が帰ってくるので、安心しています。むしろ大雪だと車が渋滞するので、「切ない」そうです。「切ない」は方言で、渋滞のため苦労するという意味らしいです。意味の温度差と言ったらいいのでしょうか。「切ないのう」と言われると、むしろほっとした気分になってしまいますが。ご本人は、つらそうな顔つきなのです。
 さて、土師はどうかと言えば、風が強くて、ほとんど雪が降らないので、厳しい寒さだけです。夜、教会の駐車場から見上げますと、オリオン星がピカっと光っています。良くみるとその周辺の星屑もきらきら光っています。二千年前の天文学者たちが導かれたあの輝く星には、はるかに及びませんが、私としては、何年かぶりに、冬の星に魅せられています。オリオン星が、もう50年前の大学時代を思い出させてくれました。 奈良に新薬師寺という天平時代(739)に光明皇后が聖武天皇の眼病平癒を祈って創建した寺があります。本堂の中心に目がぎょろっとした薬師如来がでんと構えています。左手に薬壷を握っています。医学博士如来さまです。
 この新薬師寺に良く泊まったものです。五右衛門風呂に浸かり、つつましい精進料理をいただきました。この寺で富山の高校生と知り合いになりました。この高校生とは、その後早稲田大学で再会しました。彼はキリスト教に深い関心を寄せました。そして倉田百三の『出家とその弟子』、ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』、トルストイのキリスト教についてのエッセイなどを通して文学的求道者になりました。が、教会の門を叩くところまでは行き着けませんでした。
 そして、夏休み、立山連峰の山小屋で住み込みの番人になりました。そのアルバイト中に、私に葉書が届きました。が、突然自殺してしまったのです。彼が残した大学ノートによって、父は戦死、母子家庭であったことを知りました。狭き門は見えていたはずでした。もう一歩でした。力になれなかった私は、ついに彼の墓参りをすることを断念しました。彼と二人で一緒に、輝く導きの星を見詰められなかったのです。
 その新薬師寺のオリオン星と富山の高校生時代の彼とを、教会の駐車場で想起していました。今、こうして伝道者になったことを彼にどうしたら伝えられるでしょうか。彼も先夜、オリオン星を見詰めていたのかも知れません。
 さて、星を仰いだように、食卓から落ちてくるパン屑を仰ぐようにして待っている女がいました。マタイによる福音書15章の「カナンの女」をもう一度追ってみましょう。
 21節、「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」とあります。ここは現在のレバノンであり、イエスさまは生涯でたった一回、異邦人の国へと行かれたのです。宣教としるしの業に疲労され、しかもイエスさまの逮捕を目論む支配層の罠から、しばらく逃れて、静かな所で休養されようとしていたのです。けれどもイエスさまの行動する言葉を求めて、レバノンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。「主よ、ダビデの子よ」という叫びは、イエス様に対する信頼のなのです。イエス様の行ったしるしをある程度知っていたに違いありません。しかも、この「憐れむ」は、単なる同情ではない。全身で返り見てください、という激烈な訴えなのであります。「娘が悪霊に苦しめられています」。 子を持つ親ならば誰でも、「代われるものなら代わってやりたい」という切羽詰まった切実な叫びをあげるのです。23節、「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」という弟子たちの気持ちも分からないわけでもない。が、弟子たちは、冷淡すぎます。弟子12人とイエスさま、そして叫びつづけるカナンの女の姿は、映画館の銀幕に写し出されたら、異様な光景であります。とても静養に出かける状況ではありません。女の必死な叫び声がスピーカーから轟いているのです。二四節、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスさまは答えたのです。これはイエスさまが12人の弟子たちを派遣されたときの言葉と一貫しています。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」(「マタイ10章6節」)です。
 が、現在、そのイエスさまが弟子たちと共に異邦人の地を歩いているのです。そしてカナンの女は、「イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った」のです。悪霊にひどく苦しめられている娘を持つ母であるカナンの女の自分を投げ出しての懇願に、ついにイエスさまの心は動いたのであります。そして、派遣の原則からはみ出すのであります。というよりは、この女の切実な訴えが、イエス様のしるしを行う力を引き出し、誘発する契機となったのであります。イエスさまの心の底にあったものは、世界を創造された神のみ心であります。それは人種や国境や差別を越えた福音の伝播であったのです。その経過を26節、27節が見事に伝えてくれます。イエス様が、二六節、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えます。当時のユダヤ人は、外国人の血が混じったサマリア人を同胞と見なさず侮蔑的に対していたことはご存知の通りです。他の外国人についても同様でした、神の選民としての誇りが夜郎自大化してしまったユダヤ民族は、外国人を「犬」と呼んだのです。その場合の犬とは、野良犬をさしていました。現在の日本でも「犬」は蔑む意味の蔑称として使われます。「あいつは警察の犬だ」などと。つまり子供たちのパンを取り上げて、「小さな犬」に与えることはできない」とイエスさまが答えたのですが、女は、そこまで言われても怯みませんでした。そして、その女は、「小犬」という言葉を逆手に取って言ったのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と。これはイエス様に対する反論でしょうか。そうではありません。第一に、最初に出てきた時のように「主よ」と呼びかけています。この呼びかけそのものが、イエスさまへの信頼の表現であります。第二に、「ごもっともです」という言い方。ユダヤ人から蔑まれている外国人としては、その事情をよく弁えていますという了解を言い表しているのです。つまりこの女は、「小犬」という蔑称を蔑称だといって怒ったのではない、抗議したのでもない、了解したのであり、もっと寛やかな心の持ち主なのです。第三に、「落ちる」という表現です。マルコ福音書では、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」とあります。が、マタイによる福音書は、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」となっています。私は、マタイによる福音書の方が好きです。こちらは、「主人の食卓から落ちるパン屑」です。子供や主人が放って投げ与えてくれる、という意味ではなく、自然に「落ちる」なのです。残り物をねだっているのではありません。あくまでも星を仰ぐようにして待っているのです。
 現代の私どもは、食パンの耳でさえ、サンドイッチを作るときには、切り捨ててしまいます。ましてやパン屑を再利用しようとはしません。するとしたら畑の肥料用か家畜の餌くらいでしょう。
 では、「屑」とは何でしょうか。屑とは、役に立たないので捨ててしまうもののことです。「人間の屑」というひどい言い方さえあります。が、星屑はどうでしょうか。この場合は、「小さなもの」という意味です。星屑とは、ちいさな星たちなのです。テキストの「小犬」は、小さな犬という意味ですが、犬への蔑称と微妙に絡まっているわけです。
 この女は、ユダヤ人ではない自分の立場を十分弁えていましたので、パンの分け前を権利として要求しているのではありません。その意味では謙虚そのものでした。が、同時にその行動は叫び、ひれ伏し懇願という母の愛が全身から迸ったものであります。
 イエス様は、ついに答えを出しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。 その言葉がこの女の身内を貫いたのです。自分の願いどおりになる、娘から悪霊が出て行く、わたしのほんとうの娘が戻って来る。えっ、ほんとうにほんとうだろうか。女は、きっと跪いて手を合わせ、イエスさまにお礼の言葉を返したに違いありません。「主よ、あなたの言葉を信じます」と叫んだことでしょう。そして脱兎のように家の方に向かって走っていったのです。「そのとき、娘の病気はいやされた」と聖書には、簡潔に書かれてあります。イエスさまが言葉を放ったその時であったのです。母と娘は喜びのあまり抱き合って泣いたことでしょう。それからユダヤ人のイエスさまを必死になって探しまわったはずです。「人はパンのみにて生きるものではない。神の口から出る一つひとつのの言葉によって生きるのである」という主の言葉を、この母子は、やがて噛み締めてパンを食べたことでしょう。イエスさまが与えるパンがイエスさまの体そのものであることも間もなく知ったのであります。
 28節、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」というこの時の「立派」とはどういう意味でしょうか。みなさんが、とうにお分かりのように、求道とはひたすらな懇願なのです。「助けてください」、この切なる叫びが信仰への突破口なのです。
 同じマタイによる福音書の八章、中風で苦しんでいる僕のためにイエスさまに懇願したローマ兵の百人隊長の時にも、イエスさまは、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たたことがない」と頌えたことを想起せずにはいられません。ファリサイ派を代表とする頭でっかちの信仰とは、180度異なるひたすらな求道が外国人によって実現されていることをイエスさまは指摘したかったのです。
 現在の私どももたくさんの限界をもっている弱い人間です。けれども求める心と意志だけは誰にも与えられているのです。信仰は、自分が意志して持てるものではありません。ひたすらな求道によって与えられるものなのです。これだけは誰にもできることです。ローマ人の百人隊長のように、カナンの女のように、私どもも他者のために自分のことはかなぐり捨てて祈りたいものです。「求めよ、さらば与えられん」も、もともとの意味は、何度も何度も求めなさい、そうすれば云々なのです。さあ、神さまに遠慮なしに懇願しましょう。ひたすらな懇願と祈り、これこそ現在の教会に欠けているものです。讃美と祈り、そして感謝と喜びに満ちた土師教会は、この立春の季節に、天使の歌声を聞いています。
 さ、祈り求めましょう。 
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