神はなんでもできる

マタイによる福音書19章16〜30節
 厳しい寒さが押し寄せています。慣れないせいか、埼玉よりもいっそう寒く感じます。が、土師町の緑を見ていますと、夏みかん、金柑、柚、かぼす、レモンもなっています。アロエの赤い花も咲いています。千葉県房総半島の南端部辺りと同じ温かさということになります。堺が今年異常気候なのでしょうか。
 さて、去年の夏にホームセンターで蝋梅の苗を買いました。晩秋葉っぱが枯れ始めて、次々に落葉し、最後にしがみついている葉っぱも茶色に変色しています。その枝に固い蕾がついてだんだん大きくなり、クリスマス直後、とうとう開き始めました。手数をかけて創りあげたブローチ彫刻と言いたいほど、見事な蝋細工です。何もない真冬の庭で、芳しい香りを放っています。
 蝋梅に限りません。花の香りは、人間が創りだせない不可思議な奥行きと幸せな芳しい香りを放ってくれます。国会議事堂の香りと言うでしょうか。堺市の海岸コンビナートの香り、まして「原発の香り」とは消して言わないでしょう。
 では、「イエスさまの香り」はどうでしょうか。イエス様の愛に包まれて歩む喜び、イエス様が周りに放ってくださる幸せな芳しい香り、これはまさにイエスさまという神さまの香りではないでしょうか。
 蝋梅、少年時代の私が知らなかった花です。一般家庭に普及したのは、30年くらい前からのことではないでしょうか。まさに真冬の花の代表選手です。そして間もなく立春です。私には初めての土師のイースター(復活節)が待ち遠しい。
 さて、赤児のイエス様ももうすぐ生後一ヶ月を迎えます。神の子・イエス・キリストの生涯を振り返ってみますと、病人や障害者の救済、徴税人との食事、イエス様一人だけの離れた所での祈り、五千人の給食、海上の嵐鎮めなど、不可思議な出来事が一杯あります。二千年間、数え切れない人々によって、イエス様の言葉と行動の解釈がなされてきましたが、いまなお分からないところだらけと言ってよいでしょう。しかし、だからと言って、それらを解く鍵はどこにあるのかという鍵探し自体、イエス様の御心から、ずれている、ぶれているのだろうと思います。そうではなくて、一人一人に与えられた信仰を通して伝わる救いの奥義があるのです。救いの奥義に感謝して生きる、これが信徒の一日であります。
 
 今日のテキストは、じつに分かりやすい。が、それは表面だけであって、実際は、出口がなかなか見つからない迷路になっています。
 では、一緒にテキストを紐解いていきましょう。マタイによる福音書19章16節からです。金持ちをめぐるお話です。三つの共観福音書に登場しています。マタイでは、この金持ちは、「青年」であり、ルカでは、「議員」となっています。共通点は金持ちであるという事実です。この人は、まともな質問をしています。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。 この質問は、誰にも共通の問いです。ところでイエス様の答えは、「善い方はおひとりである。 
 イエス様は、この青年が真面目で率直であることを認めているのですが、同時にその限界を鋭く指摘したのです。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか」と。「どんな善いこと」という青年の問いには、善いことにはいろいろな種類があって、その中の「どんな種類の善いことをすれば」と聞いたのです。その質問に対してイエス様は、「どんな」ではなくて「善い方はおひとりである」という言い方で、「善いには種類がない。善いは一つであり、しかも善い存在とは、唯一なる神さまお一人だけなのだ」と教えているのです。質問と答えは擦れ違っています。イエス様の答えは、いつも擦れ違うのです。質問している本人が気が付かない決定的な弱点を逆に教えてくださるのです。
 この場面の状況に即して言えば、永遠の命とは、神そのものなのであり、神を受け入れること、目の前にいるイエス様に出会うことが、永遠の命を得ることなのだと語っているのです。もちろん、この青年には分かりません。そこでイエス様は、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と命じます。18節「どの掟ですか」。 イエス様が答えました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」と。皆さんは、これらの掟がどこから来たか、すぐお分かりです。週報の裏の十戒です。ご覧ください。十戒の後半、六、「殺してはならない」、 続いて七、八、九です。そして五に戻って、「父母を敬え」をここに位置付けます。最後の隣人愛は、レビ記が出所です。この隣人愛が掟を貫く原理なのであります。
 ここまで言われたら、皆さんならどう反応しますか。「殺すな」と言われたら、70代以上の方ならあの第二次大戦を思い出すでしょう。日本のアジア侵略、アメリカの原爆投下、そして今回の原発事故、「私は殺していない」と主張出来る人がいるでしょうか。
「私は知らなかった、わたしの手は白い、だから無罪」と言い切れるでしょうか。「偽証するな」の掟の前で、誰が反論できるでしょうか。私どもは、みな罪人なのです。この罪意識なくして生きられない。 
 この青年は、真面目であるが故に、あるいは真面目であるにもかかわらず、現実認識が甘い。何よりも自分を見詰める目が甘い、緩い。何と答えたでしょう。20節、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か足りないでしょうか」。 この青年は、真顔で答えたのです。掟をみな守っているという自負さえ見えるではありませんか。安易な自己肯定です。ある意味でおめでたい人物であります。ファリサイ派にありがちな律法主義の人なのです。自分の中にある梁が見えない。
 イエス様は、その点をあえて見逃しています。ですからマルコでは、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い」云々と続いています。
 マタイに戻ります。マタイでは、視点を変えてこう言います。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。ルカでは、「持っているものをすべて売り払い」と言っています。イエスさまは、この真面目な青年が、ほんとうは何に気が付いていないのかを十分にご存知でした。財産、すなわち富です。だから、最後に、「天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と命令したのです。青年の内部にある弱点は、ここであからさまになったのです。イエス様は、財産が悪である、あるいは財産が敵である、と、言っているのではありません。青年の自己認識の弱さを突いているのです。22節、「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った」。 とあります。
 この青年が、この後どうなったか。いつものように聖書には何も書かれていません。私どもはどうするのか、が、問われているだけです。
 イエスさまは、この場面を共有していた弟子たち言ったのです。24節、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。イエス様の比喩はいつも誇張の度が甚だしい。けれども、この誇張が生き生きと目に見えるように描写されているので臨場感が盛り上がってくるのです。「らくだと針の穴」の比喩は一度聞いたら忘れられない、強烈なイメージです。「では、あなたはどうする」というイエス様の問いかけとセットになって迫ってくるのです。ですから弟子たちは、非常に驚いて、25節、「それでは、だれが救われるのだろうか。」 と言ったのです。
 イエス様は、26節、「彼らを見つめて」とあります。弟子たちの救いに対する理解力の無さに明らかに失望しています。青年に対する時と同じように弟子たちに噛んで含んで言いました。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と。人間を罪から救い出すこと、このために神さまは、歴史の中に入って来てくださったのです。
 「だれが救われるだろうか」という弟子たちの愚かな疑問。今目の前にいらっしゃるイエス様がどなたであるのかがいまだに分からない。
 人間が人間を救うことなどできっこない。「人間にできることではない」というイエス様の言葉は真実なのです。しかし、弟子たちをそのまま放り出したくない。イエス様は、「神は何でもできる」と優しく語りかけたのです。あるいは、これは厳しい断言だったのでしょうか。イエスさまの愛情が、辺りに香って来るようです。
 その愛情表現の微妙さが分からないペテロは、またしてもおっちょこちょい。27節、
 「このとおり、わたしたちは、何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」。 
 ペテロに嘘偽りはないでしょう。だから困った存在なのです。ペテロは、「わたしたち」と力を込めてしゃべっています。ここまでは、偽りがないにしても、捨てたからには、ご褒美が欲しいという、さもしいこの世的な物差しに戻ってしまうのでした。
 ここでイエスさまは、一同に向かって答えます。「はっきり言っておく」云々。この世的なご褒美に預かろうとしたペテロの意図は見事にうっちゃりを食ってしまうのです。イエス様がくださるものは、世俗的にはまったく無意味なもの、じつは、神さまの栄光に預かるというもっとも感動的な出来事なのです。
 しかし、二九節をご覧ください。そこには、厳しい条件が書かれています。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。 マルコでは、何何を「捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが」という表現が挿入されているのです。この条件の厳しさは、金持ちの青年の場合どころではありません。肉親をも捨てる、こんな恐ろしいことができるはずがありません。しかもイエス様は十戒の五番目、「あなたの父母を敬え」と言ったは
ずではなかったか。敬い、かつ捨てる、とはどういうことでしょうか。ここでイエスさまが何を伝えようとなさったのかは、またしても何も書かれていません。この不可能な絶望の真ん中に立たされ、初めてペテロたちは、震え戦きながら、目の前のお方を見詰めたに違いありません。
 そして、弟子たちはどうなったか、聖書は沈黙したままです。
 それから、イエスさまは、一同を引き連れエルサレムへ昇って行きました。そして自らの死と復活を予告するのです。三度目です。弟子たちが皆、主を見捨てて逃亡するあの死のドラマの幕が切って下ろされるのでした。
 あの日々の弟子たちの情けない行動は、そっくり私どもの姿であります。にもかかわらず、弟子たちと共に私どもも復活の主によって、この世へと派遣されたのであります。
 イエス様は、あの金持ちの青年も、名もない貧しい人たちをも、完全に救うことがおできになります。まさに「神は何でもできる」のであります。私どもは主の放つ香りに包まれて前進しましょう。祈ります。。

 
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