イエスさま誕生の背景
テキスト マタイによる福音書2章16〜23節
 ここにいるみなさんは、自分の生年月を間違えることはないでしょう。が、生まれたあの日の時刻、世界に顔見せした時の感動を覚えていますか。誰も覚えていません。あとから肉親の証言を聞いて信じているだけです。
 同じく必ずやって来る自分の死亡月日・時刻を知っている人も誰もいません。今日か明日か十年後か。ああ、今私は死んで行く、あっ、今死んだ、さよなら私、などという確認をするでしょうか。
 自分の誕生も最後も、私自身は、記憶として所有出来ない。あるいは自分の生き死にを支配できない。自分でない誰かの記憶の中にしか私は痕跡を残せないのです。
 みなさんは「千の風になって」という歌をご存知でしょう。
  私のお墓の前で 泣かないでください
  そこに私はいません 眠ってなんかいません
 私どもは、「風」になって「吹きわたってい」る死者を信じていません。が、空っぽのお墓には、共感する方はいるでしょう。
 では、なぜ墓があるのでしょうか。
 この世を生きた証拠を残したい、からです。しかし、墓石が立つようになったのは、室町以降であります。もともと仏教は、墓を必要としなかったのです。
 日本仏教は、生、老、病、死の無常観に立っています。が、無常観は、人生の儚さを情緒的に語ってきました。「はかなし」は、漢字で人偏と夢と書きます。が、平安時代の『今昔物語』を見ていますと、「はかなし」は、「墓ナシ」と表記されています。現在のお墓と同じ字です。もともと「はか」とは、単位とか尺度とか徴」という意味です。現在、秤があります。これは重さをはかる道具です。あるいは、仕事が捗る捗らないともいいます。仕事のすすみ具合でしょう。人生がここにあったという徴が、墓なのです。
 この墓を建てるために葬式があるのです。
我が家の宗教が仏教だと分かっていても肝心の宗派を知らない人も増えている。それでもキリスト教で葬式を行う人は殆どいない。結婚式は、キリスト教式で挙げる人が増えていますが、信仰とは無縁、単なる流行です。
 さて、今日読んでいただいた招詞は、モーセの誕生、テキストは、イエスさまの誕生をめぐるお話ですが、両者とも赤児・幼子殺しという血なまぐさい事件を背負っております。
 誕生があれば、必ず締めくくりの死がある。みなさんはモーセの墓がどこにあるのかご存知でしょうか。申命記の最終部分三四章六節、「主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」とあります。イエスさまの誕生地と墓のあとに誕生教会、墳墓教会がありますが、あくまでも伝承にすぎません。
 さて、モーセとイエスさまには、類似点があります。モーセめぐる捨て子伝承は、日本でも七〇代の方には身近なお話であって、生まれた直後に隣の家の門前に一時的に置かれたという話を聞いた方もあるでしょう。幸せを招くために、誕生直後に棄てられるという風習があったのです。これはアラブ、東アジアに共通する捨て子伝承です。モーセは自分の属するイスラエル民族の解放のために出エジプトを果たします。イエスさまもヘロデの魔の手を逃れるため、夢のお告げで一時的にエジプトに逃れ、やがて民を救うために出エジプトを果たしたのであります。旧約最高の預言者モーセと旧約を完成する福音を樹立したイエスさま、二人とも、墓はない。
 第一章、イエスという名前は、当時、ごく一般的な名前ですが、福音書記者は、ヘブライ語の原義、「罪から救う」を意識している。ゆえに「その名は、インマヌエルと呼ばれる」、 この名は、「神は我々と共におられる」という意味であると主の天使が告げたのです。(「マタイ1章23、24節」)。
 福音書の記者マタイは、第二のモーセとしてでは無く、明らかに「神としてのイエスさま」の誕生を描き出したのであります。
 第二章は、いよいよイエスさま誕生の物語です。「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか』。 マタイ福音書にだけ登場するこの学者たちは、クリスマスのページェント劇では、なぜかいつも三人ですが、聖書的根拠はありません。おそらく三つの貴い捧げ物があったからでしょう。この学者たちはおそらく二年掛かって旅を続けてきたのでしょう。「二歳以下の男の子」が犠牲にされたことから推し量ることができます。記者がもっとも言いたいことは、彼らが遠い所からやってきた外国人であるということです。やがて民の救いに打って出るイエスさまの福音が、イスラエルを越えて世界化されるという確信を持って誕生物語を書いている。これがマタイ福音書の際だっている点です。この一、二章は夢が何度も登場していますが、夢が神のメッセージを告げる役割を担っているのです。
 十四節、「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れて」とあり、「我が子と妻」と書いていないところに、この家族の複雑な状況が透けて見えています。そしてヘロデが死ぬまでエジプトに留まったのです。イスラエルとエジプトとの関係は、現在でも複雑骨折していて、単なる憎悪の対立で説明できるようなものではありません、ヨセフ、モーセ、イエスさまの生涯を追っているだけでも、深い結び付きに気が付くのであります。エジプトに約十パーセントのコプト派のキリスト者がいる事実も知っておきたいことなのです。15節の「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(『ホセア11章1節』) とあるのは、二年後のことであります。
 イエスさまは、夢のお告げがあったその夜の内に、ベツレヘムを脱出したのですが、その夜、あるいは翌日、16節、ヘロデは、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」。 これが歴史的事実であったかどうかは、今なお証明できないままですが、あり得た虐殺事件であります。ヘロデの人生の軌跡を追って行けば頷けるのです。権力意志に燃えて、嫉妬深かった暴君ヘロデは、こともあろうに身内六人、息子三人を殺しているのです。ヘロデの残虐、無慈悲の性格を知れば、こんなこともあり得るでしょう。ヘロデに限らず、歴史上、王は自分の安全のためにしばしば虐殺を厭わなかったのであります。
 このことは、モーセの場合にも言えることです。出エジプト記の一章15、16節(94頁)を見ると、「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人は、プアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」という台詞は、女の子には慈悲を与えるという意味ではなく、奴隷として使うという意味です。歴史とはしばしばこういう残酷な殺意に満ちているのです。モーセはナイル川の葦の茂みの籠の中から拾われたのであります。
 赤ちゃんであったイエスさまは、当然自分が生まれた直後の虐殺を知りません。両親が話されたという記事も聖書にはありません。もっと不思議なのは、少年期のイエスさまについては、ルカ福音書に一回だけ神殿での賢い少年イエスに皆が驚いたという場面があるあるだけです。ここで私は想像します。おそらく母マリアは、夢の中で天使からイエスさまの誕生の受胎告知があったこと、その時の驚き、夫ヨセフとの関係などと共に、あのヘロデによるベツレヘムの虐殺についても話したことがあったに違いありません。その話を聞いた少年イエスの衝撃は、いかばかりであったことか。少年の心に真っ黒な重い影を落としたことでしょう。手工業者として父の家業を継いでからも、自分が成長した背後にぴったりとはりついた膨大な幼児たちの阿鼻叫喚と幼児たちの父、母たちの絶望の中で成長されたのであります。自分が殺される運命にあった。にもかかわらず自分でない幼児たちが殺されてしまった。生きるとはいったいどういうことなのかを考えつづけたに違いありません。そうして何時何処でおのれを確立したのかは,聖書は何もかたりません。マルコもヨハネ福音書も、父なる神に派遣された神の子イエスの言葉と行動を伝えるのみです。
 さて、二章に戻ってみましょう。19節以下、主の天使が夢で現れて「イスラエルの地に行きなさい。命をねらっていた者どもは死んでしまった」。 23節、「ナザレという町に行って住んだ」とあります。
 何故ナザレなのでしょうか。イザヤ書11章1節は、皆さんがご承知の個所です。旧約の1078頁、ちょっと開いて見ましょう。「エッサイの株から一つの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる」とあります。この若枝のギリシア語への転化が「ナザレ」になるという説明が一般的です。
 こうして福音書記者のマタイは、イエスさまがダビデ家出身のメシア(2章4節)であると同時に、ナザレ人であることを証明しようと試みているのです。ちなみに「黙示録」の中では、イエスさまを「ダビデのひこばえ」と言っております、ひこばえとは、若枝のことです。
 イエスさまは、期待されてご誕生になりました。公に伝道活動に立ち上がったのは、30歳から33歳頃までの3年未満いう短い期間だと言われていますが、その間、夥しい仕事をされました。ヨハネ福音書は最後にこんな言葉で締めくくられているのです。「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」と。
 イエスさまの活動の背後にあった最大のものは、間違いなくその出生の時の虐殺事件です。夥しい死者たちの呻きの声が常にイエスさまを取り巻いていたに違いありません。殺された幼児たちの生きられなかったその人生を、その呻き声を、イエスさまは十字架まで抱きしめていたにちがいありません。そして、この幼児たちは、一人残らず、イエスさまと共に天国へ昇っていったに違いありません。
 そう言えば、あのベツレヘムの馬小屋を訪れた学者たちが献げた贈り物は、2章11節、「黄金、乳香、没薬」でした。どれも貴重な捧げ物です。とりわけ乳香と没薬は、珍重されていました。
 没薬は、カンラン科の没薬樹の樹液から取った黒褐色の樹脂です。止血、抗菌、胃腸薬、傷薬として用いる。ミイラの防臭剤。
 と言えば、皆さんには、鮮明な記憶が甦るでしょう。そうです、マルコ福音書十五章二三節、ゴルゴダの丘で、「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」(95頁)とあります。没薬には、鎮痛剤としての働きもあったのです。そして、イエスさまのご遺体に塗られたものも没薬であります。ヨハネ福音書の19章39節です。(208頁)、「二コデモも、没薬と沈香を混ぜた者を百リトラばかり持ってきた」のです。
 マタイ福音書の記者は、イエスさま誕生の馬小屋の現場に、没薬を登場させて、イエスさまの死を預言していたのであります。それはすぐイエスさまの身代わりという幼児虐殺の悲劇へと連続しました。マタイ福音書は、捨て子伝承に始まり出エジプトを経て、民の解放へと大胆な筋書きで展開しますが、首尾一貫して死が漂っています。生と死のドラマの中でこそイエス・キリストの物語が見えてくるのです。
 しかし、イエスさまは、復活されました。復活が無ければ、私どもの信仰もない。復活信仰は、イエスさまから与えられたものであります。
 イエスさまの復活の現場は、福音書によれば、エルサレムとガリラヤの二つがあります。           
 が、私は、想像します。復活されたイエスさまが真っ先に現れた場所は、エルサレムでもなく、ガリラヤでもない。ベツレヘムなのです。愛する我が子を虐殺されたあの父たち、母たちの真ん中であります。死を克服して復活されたイエスさまと出会った父母たちのその後の物語は、みなさんと共に考えて見たいと思います。祈ります。 
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