大麦のパンと魚を持っている少年
テキスト ヨハネによる福音書 6章1〜14節
 イエスさまは、人と食卓を共にする共食(会食)が好きでした。ことに収税人(ローマ帝国支配の代理人〈請負人〉としての税金取り立て人)や律法を守れない罪人たちと好んで食事を共にしました。イエスさまが来られた目的は、罪人を招くため、かれらを解放するためであったのです。救いとは、罪からの解放なのです。
 さて、食事は、いつの時代でも嬉しい幸せなひとときです。一人住まいの人には、他人と一緒の食事は、ひときわ美味しいものです。今日も礼拝後、待ちに待っていた会食懇談会がございます。
 ところで、今日のテキストは、五千人の給食野外パーティ物語です。四つの福音書が、みなこの伝承を取り上げています。共観福音書(共通の視点に立った福音書、マタイ、マルコ、ルカ)と比べますと、ヨハネ福音書の成立は、遅くて、おそらくエルサレム崩壊以降の八十年代以後だろうと言われています。古代教会のイエス・キリスト信仰が堅固に確立していった頃でしょう。ゆえに、ヨハネによる福音書は、三福音書を補おうとして編集加筆された形跡が色濃く、極めて具体的であり、生き生きとした描写が物語性に富んでおります。そしてイエス・キリストの愛の書として輝いています。
 今日取り上げる、給食野外パーティは、きっとイエスさまのなさった業の中でも代表的なものとして広く言い伝えられてきたのでしょう。四つの福音書は、大筋は同じですが、それぞれ微妙な表現の違いがあります。
 ただし、小見出しは、「五千人に食べ物を与える」となっていて、どの福音書もみな同じです。これは翻訳編集委員会が付けた小見出しですが、あまりよい題名だとは思えません。何故かといいますと、あまりにも即物的な題名です。イエスさまのメッセージを掴むヒントがなさすぎます。今日の宣教の題名、「大麦のパンと魚を持っている少年」は、ヨハネ伝に基づいていますが、この奇跡の物語を皆様と一緒に考えるヒントにはなるかも知れません。四月以来毎週水曜日の祈祷会では、ヨハネ伝を学んできましたので、ヨハネ伝のテキストから神さまのみ言葉に触れることができれば幸いです。
 今から、この四つの福音書の物語の共通点と、異なる(違う)点を上げますが、その個所を開く必要は、ありません。ヨハネ伝のテキスト個所を開いたまま、耳だけこちらに向けてくだされば十分です。
 では、共通点を上げます。物語の舞台がガリラヤ湖(ティベリアス湖)の岸辺であります。(ルカ伝のみ「ベトサイダという町」と固有名詞で指定している)、 登場人物は、群衆、人数が五千人(男の成人)、 食べたものは、パンと魚、そして二百デナリオンというお金の巨大な額であります。
 では早速、テキストのヨハネによる福音書の六章に入りましょう。向こう岸に舟で渡ったイエスさまを、二節、「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」とあります。
 新約聖書で「群衆」と表現されている場合には、大抵、自分たちの行動に対して、責任を取らない、自分の興味本位、あるいは好奇心、あるいは自分の利益中心に動く人々の群れを指しています。しかし、必ずしも悪い意味ではありません。ここでも群衆は、舟を雇う経済的余裕がないので、岸辺つたいにイエスさまを追いかけていったのです。群衆のひたむきな行動の根底にあるのは何でしょうか。紛れもなく、貧困がもたらす現実的な飢えでありますが、それを上回る霊的な飢えがあるのです。絶対的な貧困がもたらすものは、病気であり、ときには生まれながらの障害であります。医者にかかる余裕がない群衆にとって、イエスさまがなさった癒しは驚愕である、と同時に、救われる希望であったはずです。そのイエスさまに一歩でも多く近づくこと、そこで何がどのように展開するかは分からないが、とにかく近づくこと、そこに開かれてくる、見えてくる何かを直感的に感じているのです。
 マタイ伝では、十四章十四節(二八頁上)。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」とあります。
 群衆はどうしたらいいのか分からなかったのです。飼い主のいない羊の群れだったのです。当時、多くのの病人、障害者、飢餓状態の人々がいたでしょう。かれらは、争うようにしてイエスさまの側に接近してきたのです。湖の岸辺を必死になって夢中になって走って、あるいは足を引き摺りながら、あるいは仲間に抱えてもらいながら、近づいてきたのです。ヨハネ伝六章三節に拠れば、イエスさまは、「山に登り、弟子たちといっしょにそこに座」り、押し寄せる群衆をご覧になっていたのです。何をなすべかをきっと考えていたに違いありません。
 群衆の一人一人と目を合わせ、必要とあらば、手を取り、 病いを癒し、あるいは教えて、いました。
 次に、各福音書で、異なって(違って)いる表現を見てみましょう。
 第一に、時刻が、「時もだいぶたったので」(「マルコ伝」)、 「夕暮れになったので」(「マタイ伝」)、 「日が傾きかけたので」(「ルカ伝」、です。
 ヨハネ伝だけは、時刻ではなく、時節に触れていて、四節、「過越祭が近づいていた」とあります。「草の上」(「マタイ伝」)とか「青草の上」(「マルコ伝」)に座って、などが登場して来ることを合わせると、ガリラヤ湖の時節は、三月から四月にかけてでありましょう。わずか二週間の花咲く期間、それはユダヤ民族にとって大切な過越祭の頃なのです。
 第二に、登場人物が、群衆とイエス様に加えて、使徒たち(弟子たちとも)(「マルコ伝」)、 弟子たち(「マタイ伝」)、 使徒たち(「ルカ伝」)、です。
 ところが、ヨハネ伝は、弟子のフィリポとシモン・ペテロの兄弟アンデレ、そして少年が登場します。弟子の名前がはっきり出てくるので、興味が増します。そして名前が記されない少年の出現であります。
 が、次に展開される二人の弟子たちの反応は、まことに愚かしいものです。イエスさまの弟子たちの多くが漁師出身ですが、いつになっても愚かであるのはとても残念です。が、だからこそ弟子なのかも知れません。愚かな私どもと変わらないからこそ、救われるのだとあえて自己弁護しておきます。七節、フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えています。今の値段では、およそ二百万円くらいでしょう。女や子供も勘定に入れれば、やく一万人になり、ひとり百円ほどの予算になります。
 アンデレは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と。
 フィリポの答えは、私どもを悲しくさせます。イエスさまは試みたのです。もしかしたら信仰の地盤に立って、お腹が空いている人々が喜ぶようなすばらしいアイデアを出しやしないかとイエスさまは期待していたのではないでしょうか。
 アンデレは、この少年を見出した時、いったいどんな行動を取ったのか、何も書かれていません。少年の気持も書かれてもいません。
 みなさんがフィリポやアンデレだったら、この現場でどうしたでしょうか。
 私が、考えたのは、こうです。この子は、家族とともに必死で走ってきた。お父さんは病気で苦しんでいる。お母さんからあずかった大麦のパン五つと、焼いた魚二匹、これが一家の大切な食事の全部です。貧しいので小麦のパンは食べられない。夕暮れになってしまってみなが空腹。少年は、お父さん、お母さんと相談して、はにかみながら。「少ししかないけれども。必要ならば役立ててください」といって籠をアンデレに差し出したのでした。その思いやりにあふれた思いをまっすぐに受け止められずに吐き出した台詞が、「何の役にも立たないでしょう」だったのです。失望して深い溜息をついてから、イエスさまは、十一節、「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」のであります。
 そのあとをご覧ください。十一節「欲しいだけ分け与えられた」。 十二節、「人々が満腹したとき」。 
 驚くべきことが起こっていたのです。少年は、イエスさまの側でうれしさのあまり泣き出してしまいました。お父さんの病気が直っていたのです。
 第三が、決定的な違いです。共観福音書は、みな「「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて」となっています。
 が、ヨハネだけは、十一節、「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」とあります。つまり、「パンを裂いて」がないのです。祈りを唱えて、すぐに「分け与えられた」のであります。
 共観福音書は、みな「パンを裂いて」に力点があって、これは聖餐式へと連続していく重要な伏線なのです。が、ヨハネ伝は、あえてこの「裂いて」を省いています。しかし、後の方、すなわち六章五三節以下で、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」と断言しているのです。ですから野外給食パーティの場面を通して、共観福音書と同じく、聖餐式を暗示しているのです。
 この少年は、貧しかったにもかかわらず、籠を差し出したのでしょうか。いいえ、そうではありません。自分たちも空腹であった、つまり貧しさの中にいたまま、籠を差し出したのです。古代きぃうかいのキリスト者が「施す」という意味は、余裕があるから、余っているから上げるのではありません。自分たちも貧しい、あなたがたも貧しい、だから分け合ったのです。これは徹底的な平等精神でしょう。この草原の草の上の群衆たちは、満腹しておわったのではありません。「満腹したとき、イエスさまは、「少しも無駄にならないように、残ったパンのくずを集めなさい」と命じたのです。
 十三節、「十二の籠がいっぱいになった」。
これはイスラエル十二部族全体を指している。すなわちイスラエル全体が満たされて、なお余りある喜びを意味しています。これは、もはや肉体的満腹を越えています。共食の喜び、共に生きる喜びであり、霊的な感動なのであります。曠野の四十年間、私どもにマナを降らせてくださった神は、今も与えてくださっています。だから私どもは、何を食べようか、何を着ようかと思い煩う必要はないのです。
 イエスさまの身元に走って近づいて行くだけでいい。お風呂に入るとき、裸になって、飛びこんでいった幼子のときのあの全幅の信頼を、今あらためて求められているのは、この私どもなのです。祈りましょう。
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