カタカタと音を立てて
テキスト エゼキエル書 37章1〜10節 
 台風一過、秋晴れの紀伊半島を南下して、白浜に到着しました。大阪教区の教師研修会が開催されたのです。
 初めての白浜に私はわくわくしていました。その名の通り、真昼の光の下に広がっていた白浜は、目映いまでに明るく、石英が砕けてできたのでしょう、きらきらと輝いていました。さすがに万葉集にも歌われた浜辺の光景でした。ただしこの美しさを保つためにオーストラリアから真っ白な砂粒を輸入して手が入っているのも事実であります。
 浜の波打ち際近くに四本の竹が立てられています。何かなと思って近づいてみると、海亀が産卵したとのことです。六月下旬です。普通は、六十日で孵化するので、九月上旬には、亀の赤ちゃんたちが海を目がけて、カラスなどの天敵を逃れるように必死になって走っていったことでしょう。この目で見たかったなあ。
 ところが九月に観測史上最大の暴風雨が襲来したのです。台風十二、十五号です。熊野、十津川、新宮、勝浦の惨害はご存知の通りです。この白砂青松の浜辺も、もの凄い、土砂降り、砂浜の上に高波が襲い掛かり、砂が流出、さらに重くなった砂がのしかかり、覆い被さって、卵は全滅してしまったのだそうです。亀の赤ちゃんになれなかった卵たちの涙がぎっしりつまっているだろう真っ青な太平洋を見詰めながら、開会礼拝に望みました。
 さて、いま読んでいただいたテキストは、赤ちゃんになれなかった白浜の卵たちとは対称的に、死の谷に広がっていた「甚だしく枯れていた」骨が、ついに「自分の足で立つ」場面であります。骨となってしまった死者たちの復活のイメージが、映像となって迫ってくるのです。
 しかも、その場面は、どこかでバスの中から見たような気がするのです。
 旧約聖書の中に登場する預言者たちは、それぞれの特徴があります。今日学ぼうとするエゼキエルもひときわ目立つ人物です。紀元前六世紀の前半に活躍するエゼキエル(神が強くするという意味です)は、ユダヤ人のバビロン捕囚期に活躍しました。彼はエルサレムの祭司の家の出身であり、ヨヤキムと共にバビロンに連れて行かれ、その地で神から召命されたのです。彼は、高い教養に恵まれ、ユダヤ人の旧約の歴史に詳しく、捕囚された現地で民族の指導的な位置にありました。その中で、堕落したエルサレムの陥落を預言しました。しかし、陥落前と後とでは預言の内容が異なりました、陥落前までは、裁きを預言して、陥落後は、民族の回復と国家の再生を預言したのです。激動する歴史の現場で、行動する神の言葉に徹底的に仕えた預言者であります。エジプトを脱出したシナイ伝承と、繁栄する王国を造ったダビデ伝承の両方から多くの影響を受けて、さらに先輩の預言者たちの預言をていねいに再構成して、時代を背負って駆け抜けた異才、すぐれた預言者なのです。その根底には、ひたすら神の栄光を称える、揺るがぬ姿勢があり、私という存在は取るに足らない卑小なものにすぎないとする自覚があります。エゼキエル書は、最後に、「主がそこにおられる」という確信で閉じられているのです。
 では、テキストに入りましょう。
 この三七章は、エルサレムの滅亡(紀元前五八六年)の報を聞いた直後からの預言であります。エルサレムの滅亡の報は、彼を打ちのめしました。ユダヤ人への裁きを預言してきたのですが、彼自身紛れもなくユダヤの一員なのです。その心を襲った絶望は、どんなに衝撃的であったことか。捕囚の地での危機から立ち上がるべく、あらゆる努力を傾けてきたのですが、滅亡がほんとうに本当になってしまった時、エゼキエルは、どれほど祈ったことか。そしてそこから彼は民族の行方を透視する幻が与えられたのであります。
 一節を御覧ください。「主の手がわたしの上に望んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた」。 
 「主の手がわたしに望んだ」とは、神の強い意志がわたしに直接的に働きかけた」という意味です。つづく「主の霊に連れ出され」とは、主にすべてをお任せした、自在に空間を走りぬけるイメージであります。アニメーション的な、これは、空中飛行なのです。「主はわたしに、その周囲を行き巡らせた」のであり、エゼキエルは鳥になって、上から一帯を見渡せたのです。「見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」のです。あたかも空中撮影された映画の一場面のようです。二千数百年前にこういう構図で地上を見渡す目を与えられた事実には驚かずにはいられません。三節「そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』 わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』 なぜ分かりきったことを神は聞いたのでしょうか。エゼキエルは、すぐ答えました。人間は小さな者に過ぎないことをここで再確認しているのであります。だからこそ主は、四節、「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい」と言われて、「見よ、わたしはおまえたちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」 と。霊を吹き込むと生きる。これは創世記のアダムとイブの誕生のドラマと同じです。エゼキエルは、旧約を十分に読みこなしていて、その一貫性を生きているのです。五節の「筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む」とありますが、「筋」とは、何でしょうか。血管あるいは筋肉でしょう。祭司の家系であるエゼキエルは、犠牲の動物たちを通して医学的、解剖学的知識には精通していたのです。
 二千年前の日本と比べてください。まだ縄文時代でしょう。文字もなかったのです。日本では、現在でも言葉という漢字は、言語の「言」+葉っぱの「葉」と二文字で書きます。日本人は、草や木の葉っぱの表情、つまり風に吹かれて揺れる、あるいは雨に濡れてうつむく、などなど、そんな表情から言葉の定義を造ったのです。日本人がいかに自然と密着して生きてきたかが、この事からだけでも分かります。
 七節、「わたしが預言していると、音がした」とあります。あまりにもそっけない書き方ですが、原文の意味は、「地震の振動音」のことなのです。だいたいトルコからシリア、イスラエル、エジプトあたりまで古代から地震地帯なのです。イエス様が息を引き取られた直後にも地震がありました。聖書世界に於いて、地震は、神のご意志の現れなのです。  
 続いて「見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた」、とあります。 「カタカタ」は、地震の震動の音なのです。大地の震えの中で死から生への甦りがなされるのであります。イエス様は、地震を序曲にして三日後に甦ったのであります。この骨の甦りの場面は、じつに劇的であります。これらの死者たちは、祖国を守るために戦った兵士たちでありましょう。今、再び立ち上がるのです。
 私は、五〇年余り前にここを学んだ時、深い意味は分かりませんでしたが、直感的にというか肉感的に感動しました。死者の甦りを信じたくなったのです。
 その頃、個人的には、いろいろな問題を抱え込み、飽和状態になっていて、放り出して逃げてしまいたいくらいでした。そもそも血気盛んな青年時代には、血気と同時にそれゆえの不安と迷いもまた人一倍強いのです。自分でとうてい解決できない、おそらく生涯かかっても解決出来そうにもない問題にいちどきに目覚めて苦しんでしまうのが青春というものなのです。
 当時の私は、出口のないトンネルを歩きつづけているのだと思い込んでいました。そんな自分がどうしたらごく普通の人間になれるのか、必死で救いを求めていたのです。骨まで枯れていた、絶望という名の電車に乗りこんで、私も乾ききっていたのです。
 じつは、エゼキエルが見た累々と山をなしていた、谷の骨、カタカタと音立てて近づいていく骨たちの幻は、現実の骨の山ではなく、壮大な比喩なのです。祖国の都エルサレムの陥落の報を聞いた捕囚の民が熱望した、民族的な復活のイメージが、神の言葉を通して、幻の中に実現されていくのです。比喩のイメージは、そのまま実体なのであります。それを散文的に説明すると、絶望からの脱出というのであり、第二の出エジプトになるのです。エゼキエルははっきりとシナイ伝承に立って、バビロンからの帰還を確信しているのです。
 今日のテキストからはみ出してしまいますが、続く十二節は、「わたしはお前たちの墓を開く」と主は宣言しています。主は、先に眠った死者たちをも立ち上がらせて、祖国に連れ帰るというのです。
 二年前、真冬のプラハを訪れました。かつてのユダヤ人ゲットー(ユダヤ人がそこに閉じ込められていた地区)の一角の狭い狭いユダヤ人墓地を訪れました。墓地の墓石は、幾重にも重なって倒れかけているのもあり他の墓石の上に、突き刺さっているものまでありました。累々たる死者の群れであります。その下の白骨は、きっとばらばらになっていることでしょう。犇めき、呻きながら、復活するその時を待っているように思えました。その光景に圧倒されて、帰ってきました。
 先ほど申しました、どこかで見たような光景とは、府立大の側にあるニサンザイ古墳を囲む環濠堀に沿った共同墓地です。
 あそこは、ユダヤ墓地とは違って、整然としていますが、見えない死者たちは、やはり復活を熱望しながら、待っているように私には、思えてなりません。お彼岸の墓参に見える家族を越え、家族や親族というこの世的な限界も越え、みな共に、共同体そのものの復活を熱望しているように思えてなりません。
 ところで、教会墓地は、肉親がいなくなっても教会として行い続ける永眠者記念礼拝によって守られております。なぜなら、死者も生者も同じ信仰に生きる共同体だからであります。
 エゼキエルがなした預言は、民族全体の帰還と甦りであります。これも共同体の復活なのです。
 新約の時代に生きている私どもは、キリストの体である教会の中に生きています。私どもは、復活信仰によって一つなのであります。復活する、再び起き上がることは私どもの熱い希望であり、確信なのです。エゼキエルが見た幻は、そのまま現在の私どもに引き継がれているのです。神と共にある栄光に包まれて生きる復活を確信しているのです。
 週報のいちばん上にある本年度標語「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」は、じつはエゼキエル書三七章二三節(一三五八頁)の聖句なのです。
 復活信仰に固く立っている私どもは、教会共同体の新しい幻を胸に刻み込んで前進していきましょう。
説教一覧へ