愛がなければ
テキスト コリントの信徒への手紙 13章1〜23節
 赴任して以来半年、じつは堺の名所旧跡を一度も訪れたことがありません。時々来られるお客様たちに対しても、責任をもって説明ができません。
 九月二十九日午後。いつまでもこのままではいけない。思い切って、今日、行こう。ちんちん電車に乗り込みました。真っ先に南下して南海線の浜寺駅舎をちらっと眺めてから、棚田形式の薔薇園を歩きました。その後、北上して、ザビエル公園、与謝野晶子生家跡、千利休の邸跡、旧堺の掘り割りなどを観てまいりました。
 浜寺公園の薔薇園には一六〇種もの薔薇がありました。その中に「アンネ・フランク」がありました。ドイツ・ナチスに捕らえられるまで隠れ家の二階で『アンネの日記』を残した少女に関わるあの薔薇の花です。赤と黄色とわずかな白が混じった中輪のこの愛くるしい薔薇は、日本では主に福音系の教会の玄関先に植えられています。
 花の女王と言われる四季咲きの薔薇は、世界中の人々から愛されています。薔薇の花言葉は愛です。
 今日のテキストは、愛の賛歌と言われているコリントの信徒への手紙Tの十三章一〜十三節です。この部分だけが一人歩きしていて、たとえば結婚式に新郎新婦に送る愛の断片集として一般化してもいます。
 では、これはほんとうに愛の断片集なのでしょうか。それはまったくの思い付きにすぎません。キリスト教の世界化のために命を掛けて働いたパウロの手紙は、じつはもっともっと荘重で、厳粛なキリスト論なのです。
 パウロが最初に建てたのがコリント教会です。、ローマ帝国の要衝地、国際的な貿易都市コリントは、ギリシア哲学の影響が強く、肉体的官能的な快楽への誘惑にも満ちた世俗都市でもありました。コリント教会もその影響を受けて教会内で分派争いが起こっていたのです。その報告を聞いたパウロが、みんあが心を一つに合わせるようにと強い願いを込めて表した勧告の書簡がこのコリントの信徒への手紙なのです。ですから私どもが信じるキリストへんも信仰告白の確認でもあるわけです。当然書簡の中心は、キリスト論なのであります。
 三一七頁の小見出しは、ずぱり「愛」です。が、そのすぐ後は、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」で始まっています。ここは前章すなわち十二の終わりなのです。ということは、十二章のまとめでもありますから、十二章の主要な問題点である、霊の賜について十分理解したうえで、十三章に進みなさいという意味です。この「愛の賛歌」は、サンドイッチなのです。十三章の終わりは、そのまま十四章の一節、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」に続いているのです。十三章だけを切り離して、自分勝手に解釈して、「いいぞ、いいこと言ってるぞ、新郎新婦へ贈る愛の断片集にしよう」と悦に入るのは、的外れなのです。
 そうではなく、礼拝の本質と霊の賜物についてパウロが語ってきた文脈の中で理解されるべきなのです。とすればこの書簡は、教会論でもあります。
 とすれば、この文脈の中で大きく纏めると、愛とは、現実に立ち向かう行動力のことである。言い換えれば、愛とは全動詞を総動員して、共に生きて行く永続的な力であるといえるでしょう。
 冒頭の「最高の道」とは、言うまでもなく「愛の道」です。しかし、この後に続く愛の定義が、じつはほんとうに難しいのです。ぼんやり読んでいると何が何やら整理がつかなくなります。ですからゆっくりと何遍も読んでみましょう。この十三章は、愛についてのちゃんとした構成で成り立っているのです。三部構成です。すなわち一〜三節までは、「愛がなければ」無に等しい。何の益にもならない、と断言しています。これらは、みな否定的に捕らえることによって、逆説的に、「愛があれば」という愛の絶対的な必要性を強調しているのです。四〜七節は、愛の働き(機能)について、八〜十三節は、愛の永遠的な持続性について語っているのです。ここまで整理がつけば、はっきりしてきます。愛の原型(本質)は、イエスさまご自身がしめされた行動そのものなのです。十字架への歩みと詩からの復活が語ってくるものが愛です。
 五節の「いらだたず」とはどんなことを言っているのでしょうか。これは、他者の犯した罪や悪を記憶しないことという意味なのです。ちょっと思いつかない解釈ですが、こういわれると、ああ、そうかもしれないなあと思う方もいらっしゃるかもしれません。愛の働きの決定的な部分です。「主の祈り」の「我らに罪をおかす者を我らがゆるす如く」というあの祈りが浮かび上がってきます。赦すか赦さないか、そのときに私どもを襲うあの「いらだち」、そのとき、「いらだたず」というパウロの言葉が響いてくるのです。「いらだたず」、ここから和解が始まるのです。
 六節「不義を喜ばず」、これらの主語はみな「愛」です。「不義」という日本語は、不義理とか密通とかいろいろな世俗化した多義性をもっていますが、本来の意味は「不正」です。つまり他人の不正を見逃したり、庇っりして共犯者に陥っていけない。真理こそ互いに喜ぶべきであるという意味です。
 そして、七節、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」、これは、いったいなんだ、しつこすぎる。いじめに慣れっこになれというのか、被虐趣味ではないか。
 これらは、まったく信仰の何たるかを理解しようとしない世俗的反応でしかありません。パウロは、ここでコリント教会の分派争いと内紛の根の深さを示唆しているのです。
知恵を誇り、霊肉二元論に立つギリシア的哲学が麻薬のように入り込んでしまった教会の現実を冷静に分析して認識しているパウロが、この現実から、どのように信仰者としての人間を造りあげるのか苦闘しているのです。この教会での果てしない戦いから、どのように教会を再び建ち上げるのか、その苦しみの中で、この課題に果敢に挑みなさいと命じているのです。これが「すべてを」、 「すべてを」と四回もしつこく繰り返す理由です。「すべてを忍び、信じ、望み、耐える」、 これらはけして実行できっこない指針ですが、実行しないかぎり教会の再建は危ない。まさにこのときこそ、私どもの信仰が問われるのです。人間の力を越えた神さまへの徹底的な従順なくして、神さまに全く委ねることなくして、前進は不可能なのです。
 八節以降は、「愛は決して滅びない」で始まっています。なぜなら、この世俗の歴史の終わりが、始まりである「そのとき」だからです。この世のあとに始まる「そのとき」こそ私どもが待望するイエスさまの来臨のときなのです。「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」、 なんという大胆な言葉でしょうか。さんざん成績や学歴や名声や財産で振り回されているこの世での現実を、ばっさりと「廃れる」と言い切る聖書の切り込み、「預言」も「知識」も過大視してはならない。あくまでも一時的なものでしかない、限界あるものである。部分と全体、この世と再臨のとき、この大胆な神の救済史観(救いの歴史)、 この救済史観を受け入れるか否かが、信仰に入るか否かの分岐点です。
 十節を御覧ください。「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」この行に続いて、十一節、「幼子だったとき、わたしは幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」
 ここは幼子性の否定である。幼子は人間として未完成であって、人間の一時期、つまり部分でしかないという意味です。半分比喩的表現ですが、幼子すなわち無垢、純粋、素直と安易に全肯定してはならない。幼子の自分中心主義、わがままもパウロは十分知っていて警戒しているのです。教会の幼児性を批判しているのです。異言重視、愛の軽視のコリント教会の批判です。
 いよいよ結論へと突入です。十二節「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、はっきりしられているようにはっきり知ることになる。」
現代文明のなかの鏡は、しわまで克明に見せてくれます。歳をごまかせないのが写真と鏡だろ言われる暗いです。が、二千年前の古代においては、化gみはおぼろにしかみえないのです。人間はどうにかしてはっきり見たい、はっきり見える鏡が欲しいと思ったことでしょう。水鏡という言葉もそんな頼りなさを表現していたのであります。おぼろではなく「顔と顔とを合わせて」(十二節)みることになるのです。間接的に出はなく直接的に神を見るとは、なんという後裔でしょう。旧約の時代には、神を見たら死ぬと信じられていたのです。「はっきりと知られているように」とは、日本語としては、ちょっとへんな表現です。神さまは、私について何もかもご存知であります。つまり私という存在のすべては神さまに知られているという事実、これは安心観の表明であり、さらには感動である。「はっきりと知られている」ことは名誉でさえある。ここは信徒としての神さまへの感謝の表現なのです。「主よ、あなたは私のすべてをご存知ですから、安心しています。あなたにすべてを委ねます」という信仰告白の表現です。こういう告白は、神道や仏教からは積極的には出てきません。きわめてキリスト教的なのです。
 ここから十三節「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」。
 もう十分でしょう。
 こうして、十四章「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に、求めなさい」以下に展開されていくのです。霊的な賜物はあくまでも一時的なものでありますが、パウロはないがしろにはしていません。相対的な価値は認めています。「熱心に求めなさい」と言っているのです。
 ここまで学んで、きっと、この「愛の賛歌」が、軽い愛の断片集でないことを納得なさったことと思います。私どもは、この歴史の時間の中に突入して下さったイエスさまの出来事こそが愛の原型であり、実証であり、イエス様を通してのみ真実の交わりの奥義に預かり、主のお助けをいただいて、現実の変革のための愛を追い求めていくことが出来ることを感謝しましょう。「愛がなければ、わたしに何の益もない」。
 長い夏がようやっと終わろうとしています。堺にも麗しい秋が訪れることでしょう。実りの秋です。私どもも、身体全体に霊を注いで頂き、魂肥ゆる秋を走り回りたいと思います。

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