  | 
    
    
      
       
       | 
    
    
      | 灘まつりの始まり | 
    
    
      ◆放生会 
      仏教の教え『殺生戒』(生類保護・殺生禁断の仏教思想) 
      =捕らえていた魚・鳥などを解き放つ 
      (8月15日松原川=放生川などへ)儀式。 
      (海の幸、山の幸に感謝すると共に家内安全・商売繁盛・交通安全を祈る儀式・神事) 
      日本最古の放生会は720年宇佐八幡宮、その後、鶴岡八幡、 
      石清水八幡など各地(4万余)の八幡神社に広がった | 
    
    
       | 
    
    
      ◆現在の屋台のルーツ(社殿再建の喜び) 
      嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱(かきつのらん) 
      この争乱が応仁元年(1467年)応仁の乱の誘引となった。 
      松原地区も一連の争乱のため松原八幡神社・八正寺は兵火にかかり鳥有に帰してしまった。 
      一般の民家も大きな犠牲をうけた。 | 
    
    
       | 
    
    
      文明3年(1471年)松原八幡神社の社殿再建 
      天成時代に羽柴秀吉が三木城を攻めた際にも松原八幡宮は焼かれたともいわれる。 
      竣工祭には米二百俵を寄進しました。 
      氏子喜び盛大な竣工式を営み米俵をお旅山までかついで行列のお供をした。 
      文明5年(1473年) 
      神輿太鼓(屋台)→木場屋台(現在の屋台の原型) | 
    
    
       | 
    
    
      ◆八幡宮御神事御規式定(宝暦8年9月6日・1758年)抜粋 
      獅子や練り物が増えたので行列順序を決める。 
      神輿かつぎは7か村を東山・八家・木場、宇佐崎・中村、松原・妻鹿と三つの組に分け、 
      各村3年に一度の役を務める。 
      神輿の出発は八正寺が鳳凰の擬宝珠を差し込んでからかつぎ上げること。 
      練り物は例年出している物は獅子の次とするが神輿太鼓(屋台)後方に置く。これも古い順とし、 
      一番木場、次いで松原、中村とし、今後差し出す村があればその順とする。 
      などの規式定。 | 
    
    
       | 
    
    
      ◆祭典にかかわる口伝=祭典に係る口伝 
      各村参拝の順序は神功皇后三韓御征討当時の順序(八正へ挨拶に来た順)で 
      東山村八幡宮の御紋入りの御旗を持ちて 
      第一に進み、第二番は木場村、第三番八家村、第四妻鹿村、第五松原村、第六宇佐崎村。第七中村伝々。 
      屋台は三韓御征討の時に用いられし軍船にかたどりたるにて屋台をかくものは 
      赤き布切を頭にいただく。など | 
    
    
       | 
    
    
      ◆昭和40年以前の14日;宵宮 
      宇佐崎と中村が宮入(楼門前到着)するころは他の屋台はすでに境内にはいませんでした。この頃、 
      境内は日没後で暗かった=昭和31年中村屋台は時代を先取りしカラー電飾をする。 
      昭和41年から最後の中村が納めてから東山から順次帰ると決まった。 | 
    
    
       | 
    
    
      ◆灘まつりの変遷 
      ◎放生会(灘まつり)養老4年720年九州宇佐八幡宮で始まり以後、全国の八幡宮に広まった。 
      ◎ケンカ祭り(ケンカ)の始まり 1239年→1332年 米俵・酒〔樽入り)等の 
      豊作物を八正寺にミコシで奉納。  
      〔先を争う様子がケンカのように見えた(祭礼日11月7・8日)。 
      ◎祭典にかかわる口伝=祭典に係る口伝(赤松政則神社社殿再建=竣工祭に米俵200俵を寄進) 
      各村参拝の順序は神功皇后三韓御征討当時の順序(八正へ挨拶に来た順)で 
      東山村八幡宮の御紋入りの御旗を持ちて 
      第一に進み、第二番は木場村、第三番八家村、第四妻鹿村、第五松原村、 
      第六宇佐崎村。第七中村伝々。 
      屋台は三韓御征討の時に用いられし軍船にかたどりたるにて屋台をかくものは 
      赤き布切を頭にいただくなど。 
      百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高麗(こうらい:高句麗)の三国を三韓と呼んでいた。 
      ◎1709年御旅所決定  1730年御神幸行列はじまる 
      ◎文化3年(1806年)祭礼日、9月14、15日に変更(旧11月7、8日) 
      ◎今日の灘まつりの形態は江戸時代の文化5年(1808年)藩政改革が行われた年からで一揆、 
      播磨大水で姫路藩の財政はひっ迫していた。 
      寛延2年、河合家前橋より姫路に移る。 
      河合寸翁は文化5年藩政改革を行う〔地域の民衆が力を蓄える事を警戒した)。 
      姫路藩の名家老河合寸翁は大衆の力に気を使い地域の力を分散させるため 
      祭礼に興味を示し、村村の屋台を競争させ祭礼を派手に行わせた。 
      これにより民衆の財力も低下させ地域の大きな力を低下させる目的で 
      祭礼を大いに奨励、盛大に行うように指導した(祭政一揆として政治的に取り入れた)。 | 
    
    
       | 
    
    
      ◆祭礼日の変遷 
       放生会時代:旧暦8月15日から始まり現在の新暦10月14日、15日時代に至る。。 
       明治5年(1871)年までは旧暦:太陰太陽暦 9月14、15日。 
       明治6年(1872年)新暦:太陽暦へ改暦。。 
       明治6年(1872年〜明治42年までは旧暦に該当する9月14、15日。 
       明治43年(1910年)新暦の太陽暦10月14日、15日に変更。 | 
    
    
       | 
    
    
      ◆祭礼様式《基本的》神輿を中心にその前後を礼服に威儀を正した。 
      ◎神役人(しんやくにん)たちが社宝、武具を奉持し、  
      伶人(音楽担当)たちが管弦の雅楽を奏でながら厳粛に御旅所まで 
      神幸渡御(しんこうとぎょ)するのが基本な形→さまざまな変還。 
      ◎初期の放生会時代=捕らえていた魚貝を放生川(松原川)の川口で 
      解き放し自然の海、川に戻してやる儀式。 
      ◎武家社会の鎌倉時代=流鏑馬行事が御旅所前面馬場で行われる。 
      ◎江戸時代=獅子屋台(壇尻)、神輿屋台を出すようになった 
      →厳粛に行われていた神輿かつぎ作法が粗暴になり先を争ったり 
      ぶつけ合うようになった | 
    
    
       | 
    
    
      ◆山陽電鉄(明姫鉄道)開通;明石〜姫路間) 
      大正12年8月19日 
      姫路駅前〜妻鹿,,1区11銭、大塩2区21銭、高砂駅前3区40銭、終着明石駅前7区64銭) 
      この頃白浜海水浴場開設。 
       
      ◆カスバ (外敵から守るため城壁に囲まれた城塞(じょうさい)=城、砦(都市) 
      船舶から放棄された使用済みの石炭、コークスが「ろくべい付近 
      =舊枩原村海岸〜妻鹿港間」に漂着し蓄積された場所。 
      (漂着時は残炎があった物もあった=再利用可の物あり) 
      ◆ろくべい=大貝などの貝類、ゴカイなどがよくとれた。  | 
    
    
      
       
       | 
    
    
        |