ふるり、ふるふる。

 それはおまえの笑い声。





 悪かったね。ずいぶん遠くまで連れてきちゃってさ。

 人気のない山の中につれていかれて、ちょっとビビってたろ。はは、こんな場所だけど、ちゃんと生活は出来るよ。ほら、車で一時間も走れば街に出るからさ。今日だって、そんなに時間かかんなかっただろ。
 まあ入ってよ、今電気つけるから。そんなにちらかしちゃいないつもりだけど、一応男のひとり暮らしなもんで、あんまり気の利いたことはできないのは、勘弁してよね。
 ん? なに? ああ、この家? 広くて綺麗だろ。ぱっと見、ペンションかなんかみたいに見えただろ、そういうメルヘンチックな外観してるし、こういう森の中にあるからね。
 家具も白く、カーテンは白いレースで、照明はあんなふうにクラシックなシャンデリア。
 へへへ、少女趣味。
 けれどもとても綺麗なおうち。
 
 ここ、俺の家だよ。つーか、たてたのは大石だけどさ。
 うん、そうそう。大石。大石秀一郎。青学の男テニ副部長。なつかしい?
 正確に言うと、俺も今は大石だよ。養子縁組したの、大石秀一郎と。
 んー。まあ、そういうことだよ、察してよ。でなきゃ、中学卒業して12年・・・…いや、13年か、そんなにもなるのに、男ふたりつるんでる理由ないじゃん。
 大石秀一郎がこの家を建てて、俺が相続したんだ。
 そっちは? テニス、やめたの? ふーん、結構いいセン行ってたのにな。
 俺は・・・…まあ、俺も大学までだったな。大石とずうっとペア組んでた。知ってる? インハイで結構いいとこまで行ってたんだぜ。
 まあ俺達の場合、いいとこまでいきはするけど所詮そこどまり、ってやつで、手塚やおチビちゃんみたいなのは、また格が違うんだよなー。
 ああ、おチビは、おチビだよ。越前リョーマ。知ってるでしょ? 手塚と二人で、よく話題になってたじゃんか。世界ランキングのトップ争いが日本人ふたりだもの、そりゃあマスコミも騒ぐわ。
 最近は、とんと聞かないけどね。
 ふたりとも行方不明になって一年もたたないってのに。


 ああ、ごめんごめん。どうぞ座ってよ、そこ。今、何か飲むもの出すからさ。――酒はもういいの? そりゃふらふらだったものね、どんだけ飲んだの。
 わかった。水持ってきたげる。あと、酔い覚ましに冷たい、とっても冷たい、いいのあるよ、それもね。
 ああ、いいよ。俺のこと英二、って呼んでよ。
 あのあたりじゃ俺、結構カオなんだぜ。
 今日は昔のよしみでお前にしたの。――なに、男抱いたことないの? そんなわけないか。ま、そのあたりのわけわかんないのに引っかかって、安ホテルで済ませるより俺のがいいと思うぜ。
 ベッドルームはこっち。先にシャワーあびる? 別にそのままでもかまわないよ、好きなことしてあげるよ。
 せめてお楽しみぐらいはね、名残にさ・・・…いや、こっちの話。
 いいの? なんだよ、そのつもりであそこうろうろしてたんじゃないの?
 女買うほど金もないし、それぐらいなら見てくれのいい若いのでも拾おうとしてたんだと思ったよ。
 俺は別にいーのに。変なヤツ。ま、そっちがいいなら、別にいいよ。シャワー浴びたくなったら、言ってよね。
 じゃあとりあえず水とね。あと。
 ゼリー。
 うん、ゼリーだよ。



 綺麗でしょ、薄青くて、透明で、水底からあがる水泡もそのまま柔らかく固めたような、ゼリー。
 とても綺麗なゼリー。
 三日月の形、星の形にくりぬいた黄桃をしずめて、固めて、ぷるぷる言わせて。
  俺、ゼリーって好きなんだよね。子供の頃から。綺麗な水がそのまま固まって、宝石みたいに光りながら、でも柔らかい質感を残してふるふる揺れてる、って言うの。
中にフルーツとか入ってたら、もう最高。リンゴにパイナップルに苺に桃に。
 柔らかい綺麗な色の液体に包まれて、それは優しくつつまれて、リンゴにパイナップルに、苺に桃に。
 きっと永遠にその中でいられるんだろうな、って思ってたよ。水の中に沈むよりも、こんなふうに優し いゼリーに包まれたら気持ちいいだろうな、ってさ。
 おっとと、俺ってばまた要らないことばっかり言ってるね。
 悪い悪い、食べてよ。大きめのカクテルグラスに盛ってきたけど、このぐらいの量ならなんともないだろ。とっても冷たくて、美味しいはずだよ。冷たくて綺麗な――夜の湖ぐらい冷たい。
 蒼くて、冷たくて、永遠の月の夜みたいに。
 味がしない? あれ、おかしいな、砂糖入れ忘れたのかな。まあ、いいや、中の黄桃食べてよ、甘みが強いだろ――それは、ほんものの黄桃だから。ああ、いや、気にしないで。それもこっちの話。


 食べちゃった? ああ、食べちゃった、食べちゃった。嬉しいな、おまえ、食べてくれた。
 ひとつのこらず、口にしたね。


 どうしたの、ゼリーが冷たすぎた? 腹の底から冷えるみたい? 
 あはは、やっぱり飲み過ぎだよ。まあそこに座ってて。お湯が沸いたら、少しあったかい飲み物でも作るよ。

 ん? ああ、俺のこと? 別に、なんにもしてないよ。働かないでも、とりあえず食っていくぐらいは金あるし。
 そりゃそうだよ、別に体売って生計たててるわけじゃないぜ。
 うーん、時々ね。どうしても・・・…なんつーのか、いらいらしちまって。気晴らしだよ、気晴らし。大石死んで、二年にもなるんだもん。
 あれ、知らなかった?
 うん、死んだの、二年前。
 仕事帰りに、駅のホームで殴られて、打ちどころ悪くて。
 よくある話じゃん、そーゆーの。酔っぱらいに絡まれてた女の子助けたら、その酔っぱらいの若いのに逆恨みされて殴られて。
 そういうヤツに限って、相手が死んだとわかったら、ビビって警察に自首してくるんだよな。相手の男と来たら、二五にもなって、親に付き添われて出頭、だってさ、アホなんじゃないの。
 そんなことしたって大石帰ってきやしないし。
 悪いことしてない、むしろいいことしようとしたヤツが死ぬなんて、やな世の中だよね。
 そんで、結局、どうでもいい、むしろ死んだ方が世のため人のため、みたいなバカな連中だけがのさばるんだよ。自分勝手で、金に汚くて、傍若無人で、そういうヤツに限って、大きな顔して生きてて、それが恥ずかしい、って思わないような厚かましいクズどもで。

 あ、ごめん。ついつい、気合いはいっちまった。はは。
 悪いね、くだんないグチ聞かせて。ちょっと暑いね、窓を開けようか。
 ちょっとここからの眺めは凄いんだぜ、特に今日みたいな月の綺麗な夜はさ。
 せっかくだから、まあこっち来て見てみなよ。俺を抱かないんなら、それくらいつきあえって。
 ほら。
 ほら、凄いだろ?
すっごく綺麗だろ、この湖。これもうちの土地だよ。そんなに驚いてもらえたら、俺も嬉しくなるじゃん。
 湖、と言うのより少し小さいかな。正確に言うと池、かなあ。でも、大石はみずうみ、って呼んでた。 そのほうが語感がきれいだ、って言うんだよ。
 山あいにあるせいで、森に囲まれてるから凄く神秘的だろ。ここはものすごく透明度が高くて、昼間見ても、本当に綺麗なんだ。
 みずうみの底の底まで見渡せる、青い、蒼い、すくい上げたくなるようなうつくしい光景。今みたいな暑い季節でも、本当にひんやりして冷たいんだぜ、このみずうみは。
 そう、とても冷たい。氷を孕んでるみたいに。
 さっきお前が食べた、ゼリーみたいに。
 それがこんなふうに夜に――月光で、あちこち蒼く染まるような、こういう夜に見ると。
 暗い空に、綺麗な綺麗な黄金の粉を吹くともしびのような、そんな月がかかる夜には。
 きらきらとしたゼリーみたいに光るんだ。

――ふるり、ふるふる。

 声?
 声、ってなに。――笑い声? いやそんなの、聞こえないけど。ああ、みずうみの表面が、さざめいてるね。透明なゼリーがゆれるときみたいにさ。
 だからそれ、幻聴だよ。風の音と間違えたんじゃないの。風だよ、風。――そりゃあ、あのあたりの木立どころか、葉っぱ一枚揺れてないけどさ。
 風、ってことにしといたほうがいいんじゃない。
 そういうことはよくあるよ。
 気にしない方がいいよ。

――ふるり、ふるふる。

 
 え? 帰るの? 
 無理だって、今から俺シンドくて、車出せないよ。だいいち今から街に帰ったって、電車ないってば。タクシーだってこんなとこまで来てくれやしないよ。
 泊まっていきなよ。
 この家広いから、おまえひとりぐらい横になれるよ。
 …・・・どうしたの? なにをそんなに、青ざめてんの? 気分悪い? やっぱもう寝る?
 ……え、なあに?
 窓のところがどうかしたの。
 ・・・…あはは、あれ? なんだよ、あんなのが怖いの。
 うん、判るよ。俺にも見えてる。窓枠の処から、ゆっくりと這い出てきてるヤツだろ。
 どろどろのスライムみたいに見えるって、うん、似たようなもんなんじゃない? でもおまえ、あんな気持ち悪いホラーみたいなのと一緒にしないでよ。
 だってあれは綺麗だろ。きらきら光って、銀色だろ。

 あれは、さっきおまえが食べたゼリーだよ。

 月の色に美しく染まって、蒼い夜の色に染まって、ひんやりと。
 窓枠の処から、ぞろぞろと染みだし、あふれ出す月夜のゼリー。知ってる? あれ、すぐそこから来てるんだよ、そこのみずうみから。
 ふふ、俺はなんにもしてないって。
 あれは勝手にはいずってきてんのさ。俺はあれが入ってきやすいように窓を開けてやってるだけだよ。
 なに? あれが何だ、って?


 ふるふる。
 ふるり。

 あのみずうみは、蒼いゼリー。
 蒼く透明な、ゼリーだよ。
 中に人が沈んでる。
 ほら、ゼリーの中に、きれいなフルーツが閉じこめられてきらきら光るだろ。あんな感じに、腐りもしないで、老いもしないで、きらきら光ってるんだ。
 大石が。

 まあ聞いて。もう少しだから逃げないで聞いてよ。無理だよ、ドアはあかないよ。そう怖がらずに聞いてよ、聞けってば。
 俺、あのみずうみの中に大石を沈めたの。うん、大石の死体をね。
 だってヤじゃん。土に埋めたり焼いたりするの。俺の大石が、そんなふうにあとかたもなくなるの嫌だったんだもん。
 こんな月夜にはね、あのみずうみはふるふる震えて、綺麗なゼリーになるんだ。その中に、大石はきらきら光りながら沈んでる。
 夢を見てるんだよ。
 幸せな頃の夢。十五の、俺達がほんとに楽しかった、しあわせだった、世界が俺達に優しかった、あのころの夢。
 生きる目標も、努力する喜びもあった。未来はきっと明るくて、とても楽しいものだって信じてやまなかった頃の夢、だよ。
 ほら、みずうみのゼリーがふるふる震えながら、床を這ってやってくる。

 あれが「何」か、って?
 俺が「何」か、って?
 そんなこと知ったこつちゃないよ、おまえも俺も。
 俺はただ、大石とずっといっしょにいたいだけなの。
 幸せなあのころから、どこにも行きたくなかっただけなの。

 どっちにしたってもう遅いよ。
 おまえ、食べたろ? ゼリーを食べたろ? まだ腹ん中、冷たいだろ? ああ無理無理、吐いたってもうどうにもならないよ。
 いってあげて。
 おまえもいってあげてよ。
 こんな世界、こんな世の中、もう辛いだろ。
 あのとき、おれたちの幸せだったときに、一五のときに戻ろうよ。お前も戻ろうよ。
 会社づとめ、つまんないって言ってたじゃん。一生懸命やってんのに報われなくて、ズルするやつばかりが得をして、あげくの果てにリストラなんてつまんない、って。
 つまんない。おまえの言うとおり、こんな世界つらくてつまんないよ。俺達のための世界じゃない。俺たちに優しい世界じゃないんだ。
 優しいひとに優しくない世界なんだもの。
 生きにくいよね。こんな世界、生きにくいものね。辛くて悲しくて、優しい事なんてなにひとつないよね。
 だから、みんなで幸せだったときに戻ろうよ。
 大石が寂しくないように、俺、一杯連れてきたんだ。
 手塚も、おチビちゃんも、タカさんも、桃も。みんなあの底で、大石と楽しくやってるよ。一五の頃に戻って、笑ってる。
 心配しなくても、あとからあとから仲間が増えてくよ。
 青学以外じゃおまえが三人目だけど、他校の連中も、お前のチームメイトも、きっとつぎつぎ連れて行ってあげるからさ。
 そうしてにぎやかになったら、俺も行くよ。だって大石は、俺をずっと待ってるんだもの。

 英二、って笑いながら、待ってんだものね。

 ああ、もう聞こえないな。おまえ、俺を抱かなかったのは一生の不覚だったよ。今度会うときはみずうみの底。そうしたら、大石がもう決して俺を離さないもの。
 それにしても、相変わらず、みずうみの蒼いゼリーは仕事が速い。
 そろりと床を這い、のびてきて、足首にぐるりと巻き付いたら、もうそれでおしまい。おまえみたいにうるさく言う奴は、首にもまとわりついて、ちょっと力を入れる。もうそれでおとなしくなる。
 あとは全身を綺麗なゼリーで包んで、みずうみに引っ張ってゆくだけ。
 俺は月夜に、みずうみから蒼いゼリーをひとすくいカクテルグラスに汲んで、呼び寄せた人たちにふるまうだけ。
 結構大変なんだよ、これでも。昼間や月のない夜は、あそこは普通のみずうみだし、潜っていっても大石達はいないんだもの。
 俺が昔の顔なじみの男をさそうのは月の夜だけ。
 この家に誘って、ゼリーを飲ませて。ああもちろん、気が向けば相手をしてやってもいいよ。
 ゼリーのみずうみのそこは、もうだいぶにぎやかだろうね。俺も早く行きたいな。でもまだ不二と、乾と、海堂が残ってるものね。
 今度不二に電話してみよう。なつかしいね、あいたいね、って。


 ああ。大石、嬉しいんだね。

 みずうみに満たされたゼリーが震えて、笑い声が聞こえる。

 ふるり。
 ふるふる。

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