彼がそこを見つけたのは、本当に偶然だった。 それまでどこをどう通ったのかも判らなくなりそうな路地を抜けたその先に、それはあった。 高いビル、古びた町並み、めまぐるしくうつろいゆく人の営みそのものを現すかのように、木造の旧時代も鉄筋の最先端も入り交じった、街の光景。 その中にはまだ、そんな場所がある。 細い細い、猫でなければ知りようのない隙間を彼は駆けてゆく。放り出されたままの子供のバケツや、もともとの用途も判らなくなったつまれたままの木材などを、ひょいひょいと飛び越えながら。 そうしていくつか路地を抜け、町中に取り残された神社の鳥居をくぐり、ごちゃごちゃとした古い木造家屋がひしめき合う中を抜けるとそこにいきつくのだ。 「そこ」は、森というほどではないにしろ、都会の子供なら十分怖がるような鬱蒼とした木々に囲まれた場所だった。 そうして、どうしてこんなところに、と思うような案外大きな洋館がその中にある。ずいぶん昔にたてられたような、古びて風格のある館だったが、今は誰かが住まいにしているわけではないようだった。 その鬱蒼とした不気味な木立に囲まれて古めかしく佇んでいるようすは、非常に似合いであった。普通の常識と良識のある大人ならば、買い物にも交通にも不便であるのにどうしてわざわざこんなところにこんな大きな家を、と思いもするのだろう。 だが、いまこの館の様子を木陰から伺っている、冒険心に満ち満ちている『人影』にはそんなことはちらとも思い浮かびはしなかった。その古めかしい外観、謎めいたたたずまい、ミステリアスな空気、と言ったものが好奇心を駆り立ててやまないようだ。 人影はしばらく周囲をうかがっていたが、誰も自分をとがめ立てする人間の存在はないと悟ったらしい。さびてなかなか動かしにくい鉄門を力を込めてあけると、枯れた芝生や崩れ落ちたままの花壇がある中庭を抜け、まっすぐに大きなドアを目指した。 「ろう人形の館」 ドアの隣に取り付けられた古びた木の看板には、手書きの文字でうっすらとそう読める。 きい、と軋むドアを開いて、人影はその中におそるおそる身体を滑り込ませた。 「――だれも、いない?」 誰かが答えれば答えたでビックリするのだろうに、彼はどきどきと高鳴る胸を押さえるように、なんとなくそんなことを口にしてみた。 勿論、誰からこたえが返るわけでもない。少年は、残暑の厳しい戸外に比べて驚くほどひんやりした空気に、そっと首を竦めた。 その少年は一四か五、と言うところだった。赤みがかった髪は、別段今時の若者ふうに染めたりしているわけではない。洋猫の美しい毛並みのように艶やかな赤銅は、生まれつき彼に与えられた色だった。 その髪の先をくるりとまいてはねさせているのは、勿論彼のちゃめっ気ではあったけれど、その大きな目や可愛らしい唇や、少年らしくすんなり伸びた手足とよくあっていた。少女とは間違いようのない姿形ではあったが、誰が見ても口もとをゆるめずにはおかないような、そんなかわいらしい少年だ。 夏の名残の白いシャツも眩しい、もっとものびやかできれいな年頃である。 若さを誇り、どこか幼さを残した笑顔さえも人目を引く。こんなうっそりとした古びてかび臭い建物よりは、よほどのこと春の花の中にでもおいておきたいような風情だった。 重たく軋むドアをあけたその側には、アクリルガラスか何かでくるりと囲われ、手だけを出すように下の部分だけ穴を開けられた受付のような場所がある。しかしそこもアクリルがひび割れ、カーテンが閉じられてしまっている。 大人料金や子供料金を掲示していたとおぼしき場所には、その上からいかにもなげやりな筆文字で「観覧無料」と書き殴ってあった。その文字もずいぶん昔に書かれたようであった。 「なんだ……入ってもいいんじゃん」 少年は呟くと、ほんの少し残念な気持ちになりながらも、ほっと胸をなで下ろした。これで万が一誰かにとがめられても、一応の言い訳はつくというものだ。 つい先日に、何かの拍子にこの場所を発見してからと言うもの――昼の明るい日差しの中にも何故か鬱蒼とした、どこか秘密めかしたこの場所のことを見つけてからと言うもの、彼は少年らしい好奇心と探求心が疼いてならなかったのである。 細い埃っぽい路地をいくつも抜けてたどり着いた先に、突然現れる謎の館。 その中には何があるだろう。謎めいた美少女が現れるか、陽光を好かない青白い顔の男がいるのか、はたまた意味ありげに鍵をかけられた、異次元に続く大きな両開きのドアがあるのか。 都会の中にもひっそりと息づいている、不思議の世界への手がかりを見つけたような、そんな気分で少年はやってきたのだった。 もちろん、少年にしてみればそれは軽いお遊び、ちょっとしたいたずらのつもりだ。 どれほどファンタジーがもてはやされ、映画や小説に人々が群がったとしても本当はそんなものなど決して存在しないのだと言うことを、誰もが心の奥底では判っているように、少年も決してこの館にそんなおどろおどろしいものが実在すると思っていない。 第一本当にそんなものがいたら、馬鹿正直にやってきはしない。 瞳をかわいらしくくるくると動かしながら、少年はぐるりとその中を見回した。 ろう人形館、とは言うものの、適当にそれらしくあつらえた、という造りではなさそうだった。玄関を入ったところの大きなホールや、二手に分かれてホールに降りる優雅な木彫の手すりの階段や、高い天井に下げられたシャンデリアなどは、埃が積もっていたけれどとても立派で重厚なものだ。足下の絨毯も、その大部分が擦り切れて平べったくなってはいたものの、壁ぎわに微かに残るあたりはまだ毛足が長く美しいエンジ色をしていた。 壁にも何やらたいそうな絵が大きく描かれていたが、そこにきいろく変色した薄い画用紙が張り付けてあるのに気づいた。 「順路」 とかかれ、赤い矢印がしたためてある。 よくよく見れば、内部は埃臭くはあったけれど荒れてはおらず、びろうどの巨大なカーテンも開け放たれ、金朱の房でよせて括られたままだったので館内は思ったよりも明るかった。 せっかくのペンライトが無駄になったな、と思いつつも、その明るさにどこか救われたような気分になって、少年は赤い矢印に従って歩き始めたのだった。 闇夜に浮かび上がる、巨大な城。 枯れ果てた森と黒いマントをたなびかせ、振り返った男の顔。醜く耳まで避けた口と白い鋭い牙、手に抱えた白いネグリジェ姿の女の首には深い噛み跡がついている。 その隣には全身毛むくじゃらの、巨大な狼男の姿があった。低く構えて唸る姿も顔つきもほとんどがけだもののそれであるのに、まだ腕や足、耳の当たりに少しばかり人間であった頃の片鱗が残っているのが、またグロテスクだった。口にくわえているのはなんだろう。今にも血が滴り落ちそうな引きちぎられて赤い肉片だ。 そのとなりにはうってかわって静かな夜の情景があった。小さな海が造られ、ぽつんと突き出た岩に腰から下は魚の姿をした女が腰掛けている。女の視線は遠い水平線に浮かぶ帆船のあかりに固定されているようだった。 蝋人形、と言っても、本物そっくりに似せた人形を無秩序に並べ立てているわけではなさそうだ。巨大な水槽のようなものを立体のキャンバスに見立てて、遠くに城を造り、森や海を造り、パノラマの技巧を駆使して、そこに人形を配する。 そうして見事に、だれもがよく知る物語の一景を表現しているようだった。 少年ももちろん、それぞれの出自が判らなくもなかったので、思わすそれらに見とれて歩く。蝋人形はとてもよく出来ていたので、少年はしばしばガラスの前で立ち止まり、誰もいないのをいいことにぺたりとガラスに張り付いてはその造作を観察した。 全ての人形を展示するための大きなホールは、さすがにこの建物の中に無かったらしい。だが部屋数だけは目を剥くほどあるらしく、広々とした廊下にはあちこちの部屋の扉が開け放たれたままになっている。「順路」の文字がなければ、どこの部屋の展示を見たか見ていないか、途中で判らなくなってしまうだろう。 ガラスの靴を片方置き忘れてとまどう少女の美しいものがあったと思えば、その隣では半ば腐乱して熔けた、もとは美しかったのであろう女が古い日本の衣装をまとい、男に追いすがっている。 白い薔薇を己の血で赤く染める小夜鳴鳥。 全身に矢を撃ち込まれて走る白馬。 夜の森で輪になって踊る妖精ウィリー。 つづらの中から生贄の娘を引きずり出す巨大な山猿。 よく出来た作り物、よく知る物語の光景を見るうちに、なにやら自分がどこにいるのか不安になってきた。 振り返ればちゃんと出口はあるし、玄関に続く階段も残されている。駆け下りて扉を開ければ、ちゃんと外に出られるのだ。 だと言うのに、どこか奇妙な夢の中をさまようような――創り出された神話やおとぎ話や伝説の、その情景こそが本物で、自分はその世界に放り込まれた哀れな異邦人ではないのかと、疑いたくなってくる。 たとえばその中に――血まみれの美女や、生贄の生首や、古城の吸血鬼、月に吠える狼男の中に、ひとつふたつ『本物』が混じっていたとしても、不思議でないような。 薄汚れた順路の紙が示した、ひときわ大きな部屋。 そこは、ただひとつの巨大なガラス張りの展示品があるだけだった。 少年はふらふらとそこに近づいていく。どこか酔ったような、夢と現実のあやうい境目を漂うような、そんな気分になりながら。 それは――どこか奇妙な感じのする展示だった。 どこまでも続く春の光景。もちろんそれは、遠近感を巧みに利用したパノラマのなせる技だったが、今までのどの展示よりも見事なできばえだった。 ひょっとしたらここは町はずれの古びた館でも何でもなく、自分はどこかの窓からこの春の光景を眺めているのではないかと、そんなふうに勘違いをさせるほど。 やさしくそよぐ木々や一面の花畑を背景にして、一人の青年が佇んでいる。 とても古い時代なのだろう。映画の中でしか見ないようなデザインの、しかしどこもかしこも真っ黒い布で出来た衣装で彼は微笑んでいる。ぞろりと長いトーガのようなものを肩からかけていたが、それもまた真っ黒だった。 花畑のとりどりの色合いにはそぐわない出で立ちだったが、少年はその青年の顔にはたと引かれて見上げる。 非常に凛々しい顔立ちの青年だった。 鼻梁はうつくしく通り、目は切れ長で涼しげだった。なでつけられた髪は黒く、額に落ちたわずかな髪がなまめかしい。外国人と言うより日本人のようなどこかエキゾチックな顔つきをしている。 しかし、何かがおかしい。 ――そう、足りないのだ。 青年の右手は、何かを掴み空中にかかげている。すくなくともそういう手の様子、格好をしている。しかしその右手には何もない。 左手は何かを抱えているようなポーズを取っていた。 ダンスの相手の貴婦人の腰でも抱き寄せているのか、と見えなくもなかったが、それにしては右手はなんだか奇妙だった。少なくとも手を繋いだ格好ではない。 だがその、左手に抱えた何かを見やる青年の顔はとても優しそうだった。優しく、愛しげに微笑して、もしも抱えたものが人間ならば、すぐにも口づけそうなほど。 あんな人に好かれるのなら、あんな人の恋人だとしたら、どれほど綺麗なのだろうか。 いいなあ、と少年が小さなため息をついたときだった。 「それを気に入りましたか」 突然声をかけられて、少年は飛び上がった。 あわてて後ろを振り向くと、綺麗なタキシードを着た長身の男の姿が目に入った。 彼はちょうど少年に背を向け、この巨大なホールの扉を閉じているところだ。 「うわ! す、すみません、勝手に入ってきちゃって!」 観覧無料を言い訳にしよう、と考えていたことなどころりと忘れ、少年はあわてて頭を下げた。 「構いませんよ。久しぶりのお客様だ、どうぞゆっくりなすってください」 「す、すみません、俺、あの……うわあ!」 さらに言い訳を続けようとした少年は、入ってきたその男と顔を合わせるなり素っ頓狂な悲鳴を上げた。 男は、どこやらの国のカーニバルによく登場するような白い仮面――白く染めた皮で出来、目の回りをラインストーンでふちどり、カラフルな鳥の羽で飾った――をつけていたからだった。 「驚きましたか。――いえ、申し訳ない。案内人はこれを付ける決まりになっていましてね」 少年の驚愕にも飄々とした態度で、男は悪びれず仮面をつるりと撫でる。 隠れていたのは顔の上半分だけで、下半分は薄くて形のいい唇や綺麗な形の鼻筋やらが覗いている。決して人ならぬものというわけではないようだ。 「それにしても、よくここを見つけましたね」 男は気を悪くした風もなく、少年の傍らにやってきてそんなことを言うので、少年もやっと肩の力を抜いた。 「はい――あの、すみません」 「いいえ、本当に構わないんですよ」 もう一度言いながら、男はくすっと笑った。薄い唇がやさしくゆるんだ。 「別に商売としてやっているわけではないし、まあ道楽ですからね。いつでも来ていただいて構いませんよ」 「あの……はい、ありがとうございます」 少年はぺこりと頭をさげた。 なんと言おうかともじもじしていると、男の方からこう話しかけてきた。 「この展示、少し妙だと思ったでしょう?」 「あ、はい」 「いろいろと足りないものがあるのですよ、この展示には」 仮面の男は、少年が疑問に思っていたことを先に口にした。 「この蝋人形はずいぶん古いもので――ここへ移動するまでになんやかやとあったのでしょうね。長らくこのように不完全でしたが、少しずつあるべきものを集め始めているところですよ」 「あの、これって、なんの人形なんですか?」 「さあて」 男はもう一度笑った。 少し肩を竦めて見せたりするのがいかにも悪戯じみていて、英二はその奇妙な仮面のことも気にならなくなっていた。 「少しずつ小道具を揃えていけば、きっと君にも判るでしょうね」 「有名……なものですか?」 「まあそれなりにはね――とりあえず、この週末にひとつ、小道具が届くことになっていますよ。もしよかったら見においでなさい。……それまではこれが何だかは秘密」 ちょっと悪戯じみたようすで男は白手袋の指を自分の唇に当ててみせた。その仕草に少年はよほど安堵して笑った。 そうして再び、少年はその蝋人形の青年を見上げる。ぼんやりとしたその視線に気づいて、男が小さく笑む気配がする。 「彼を気に入りましたか」 「――優しそうな人だね」 「それは光栄」 謎めいた答えを返して、男は改めて少年に向き直る。 「君の名前は?」 「――英二。……菊丸、英二、です」 「私は大石秀一郎といいます」 男は再度優しげに笑ったようだった。その白い仮面が隠してしまっているので、口もとでしか確認することは出来なかったのだが。 「そうそう、せっかく来てくださったのですから、いいものを上げましょう」 「――?」 「口をあけてごらんなさい」 もうそのころにはおおかた警戒を解いていた少年は、言われるままひょいと唇を開いてみせた。男の指がつまんで口の中に放り込んでくれたのは、きらきら光るルビーのような小さなひと粒だった。 「……なに、これ?」 あめ玉かと思ったが、舐めても甘くない。噛んでみるとぷちりとつぶれ、甘酸っぱい味が口の中を満たした。 「……くだもの?」 男はまた口元だけで笑った。 「そんなところです」 少年――英二は、それから幾度もその館へと足を運んだ。 不思議であやしげで一歩踏みいれた途端に夢に酔うような、そんな奇妙な感覚は決して不快ではなかったせいかもしれない。 なによりもその館の蝋人形は数が多く、とても初回に見て回りきれるものでもなかったし、ひとつひとつのできばえが素晴らしかったので見とれて立ちつくし、時間を過ごしてしまうことが多かったのだ。 深い木々に囲まれた古い洋館。 謎めいた仮面の男。 そしてきらびやかだがどこかあやしい狂おしい、蝋人形の物語。 現実の世界に必ず帰ってこられるのなら、多少の不思議の冒険は望むところであったし、これほど美しく妖しい夢ならもっと見たい、と思うのは当たり前のことだ。 もっとも『謎めいた仮面の男』については、少々その冒険の対象からはずれるのかも知れなかった。 初めての邂逅から二度目。 例の人形の小道具が入るからと言われたその次の週末に、英二は喜んでやってきた。そのとき大石秀一郎は例の展示の前で佇んでいて、子犬のように走りよってきた英二をとても優しく出迎えたのだ。相変わらずその顔の上半分は白い仮面で隠されていたけれど、慣れてしまえばさほど気になるものでもなかった。 大石が指し示す例の黒づくめの青年人形の右手に、細い皮紐のようなものが持たされている。それも蝋人形の青年のいでたちにあわせてあつらえたかのような真っ黒いものだったが、いったい何なのかがよく判らない。 「これ、なに?」 首を傾げて聞いた英二を、なんと可愛いものだと言いたげに見やって、大石秀一郎は低く優しく言った。 「馬手には手綱がつきものでね」 「めて?」 「右手のことだよ」 どこかから送られてきたらしい、古びた木箱を片づけながら大石は説明してくれた。 「右手に手綱を持つから、馬手。その場合、左手には弓を持ったことから、弓手、と呼ぶこともあるんだよ」 「めて、と、ゆんで?」 「そうそう」 くすくすと笑って、大石は人形を指さした。 「手綱と、今度は馬車が来ることになっているよ。また来週だけどね。馬車、といってもシンデレラのああいうものを思い出したりしないようにね。一人乗りの……そうだな、古代ローマの戦車レースに使われたみたいな」 「……?」 首を傾げた英二を笑って、大石は展示室の外に手招いた。 「一見に如かずだね。まあこんど見てごらん。――その次には馬がやってくるだろう」 「一週間にひとつずつ揃うの?」 「はからずもそうなってしまったね。よければ見においで。次も、その次も」 もちろん英二に否やはなかった。 この美しい蝋人形の青年に、会えるのなら。 手を入れ磨き抜けばさぞかし立派なこの洋館に、ひとりで蝋人形と暮らしている、と大石秀一郎は英二に語る。 彼はいつも優しく、うまずたゆまず英二のために出来うる限りの歓迎をしてくれた。 週末ごとにやってくる彼のことを快く迎えては、展示しきれない豪華な宝飾品、パノラマの為の手の込んだミニチュアの城、小さな山小屋、風車小屋、宮殿、てのひらサイズの調度品、またにせものの森や小さな小さな牛、羊の群、馬などを見せてくれたり、青水晶で造られた人魚のうろこの余ったものをくれたりもした。 またそうしてやってくる彼をあれこれと連れ回しては、いちいち展示品の説明をしてくれるのも、大石は実に楽しそうだった。 決して英二の前では外されない仮面のことも、英二はじきに気にもならなくなってしまった。いつもその口元は英二にむけて微笑んでいたし、英二を案内するために肩を抱いてくれる手が優しくなかった試しなどないのである。 「ほら、英二、見てごらん。この可哀想な小夜鳴鳥」 大石がこの年若い客人のことを親しげに、英二、と呼ぶまでにさほど時間はかからなかった。そうして、英二、英二と呼ばれれば、その声はいかにも優しげで耳に心地よく、英二はすぐにこの青年に懐いてしまったのだった。 「さよなきどり?」 「ナイチンゲールと言えば判るかい。――そら、その白薔薇が半分ほど赤く染まっているのは、その小鳥の胸の血だよ」 バラの刺を自らの胸に刺し、なおも高らかに唄う小鳥のすがたをとどめた蝋人形のパノラマだった。 「ナイチンゲールは人間の青年に恋をしていたけれど、彼は別の女性のことを好きでね。舞踏会に一緒に行ってほしければ赤い薔薇をと、その女性が彼に要求するんだけど、その時期森には薔薇はない。ナイチンゲールは恋した青年のために自分の胸にとげを刺し、自分の血で薔薇をよみがえらせて赤く染めるんだ」 「――死んじゃったの?」 「そうだよ。薔薇を一輪、深紅に染めるほどの血を流したら、こんな小さな鳥はすぐ死ぬんだよ」 「彼の方は?」 「赤い薔薇をもって女性の処に行ったけれど、ドレスに合わないと言って拒絶される。小鳥は死んで二度と唄わず、彼の恋も適わない」 「――……」 「森に響いていたナイチンゲールの歌声も、二度と聞けなくなった。……英二、英二、これはおとぎ話だからね」 「――――」 「よしよし。なにも英二が泣くことはないだろうにねえ」 鼻を小さく鳴らした英二の髪を撫で、二階にある日当たりのいいホールへつれてゆく。 ここにつけられた窓はとても巨大で、それに合わされたとおぼしき深紅の天鵞絨のカーテンも驚くほど大きい。古びた格子ガラスの向こうにこの洋館を取り囲む木々と、さらに彼方に町並みが見える。 その絶妙の場所に、アンティークものらしい立派なテーブルセットが備え付けられている。そこで英二はいつも、これまた年代物の立派なティーセットでお茶と焼き菓子を振る舞われるのだ。 こうして午後の暖かい日差しを浴びながら自分の生まれ育った街を遠目に見ていると、なにかしらほっと安心できる。いかにこの館が不思議とあやかしに満ち満ちていようとも、それはあくまでいっときの夢でしかない、と改めて知らされるようなのだ。 それは、確かにいつもの日常へと帰っていける安心感と、そしてこの不思議な夢の終わりを告げる寂寥とが相対する奇妙な瞬間でもあった。 「ほら、口をあけて」 大石は手ずからいろいろと英二の為に運んでやり、菓子を並べてやるあいだに、英二の口に例の赤い果実の粒を放り込む。 「……んむ」 「それで、七つめ」 「これ、なんの実?」 「美味しくないかい?」 「んん、そんなことないけど」 大石は優しく笑って言った。 「また教えてあげるよ。……今のご時世、あまりなじみのないものかもしれないけどね」 大石は仮面を取らないのと同様、時折英二の口に悪戯めかして放り込む赤い果実の粒のことをも教えてくれない。 毒ではないだろうし、食べた英二にも何の変調もないのだから心配するようなことではないだろう。 紅茶のいい香りに目を細めてみせた英二は、彼らのすぐ側、ホールの壁に立てかけてある大きな板のようなものを見つけた。 「これ、なに?」 「今日届いたものだよ」 大石は上品にカップを口元に運んで、そう言った。 「あの展示の説明版。ようやく見つけたんでね」 「説明版?」 黒ずくめの青年人形の原典がなんなのか、長らく判らずにいた英二はぱっと顔を輝かせてそちらを振り返る。のみならず、英二は椅子ごと壁へ向き直り、その古い古い鉄板に顔を近づける。 「英二、たぶん無理だよ」 大石は見透かしたように笑って言う。 「……なに、これ……」 「英語で書いてある上に、ところどころ読めなくなってしまってる」 「うー」 顔をしかめた英二は、それでもなんとか、説明版のタイトルだけでも読みとれないかとさらに顔を近づけた。 「H……A? えーとそれから、D……」 「――」 「E……うー? ちがう? ちがうみたい?」 あれこれと呟きながら眉間にしわを寄せ、英二はうーうーと唸っている。難しいテストにもこんな顔をして立ち向かうのだろう。 鉄板に彫られた古いアルファベットなど結局解読できず、くるりとこちらを向いた少年の顔の情けなさ。ぷっと吹き出した大石は立ち上がって彼の傍らに佇んだ。 「王は花嫁を迎えんとて、地獄の裂け目より地上におどり出た。闇炎のたてがみの黒馬が鋼の車を引いて現れたとき、空はかき曇り、雷鳴は三度轟き、世界は奪われる乙女を嘆いた」 「――え?」 「ここにはそう書いてあるよ」 「読めるの?」 「そりゃもう。これが本物かどうか、本当にあの蝋人形の説明版かどうか、読めなければ確かめられないじゃないか」 「そっか。……そうだよね。ふうん、王様なんだ、あのひと。それで?」 「花々も嘆いて彼女の名を呼んだ。三度の雷鳴に抗い、三度彼女の名を叫んだ」 「――」 「――」 「――」 「――続きは?」 椅子に腰掛けたままの英二からはちょうどいい位置にある大石のタキシードの裾を、英二はくいくいと引いた。 可愛らしいその様子にほほえみ、大石は彼の髪を撫でて優しく言った。 「続きはまたね」 ええっ、と残念そうな声を上げた英二の口に、大石はまたどこから取り出したものやら判りかねる例の赤い実を放り込む。 なにかしらごまかされてしまった英二が、難しい顔をするのにまた笑って、大石は言う。 「さあ、それで八個目。――英二、お菓子を食べたらこの板を展示室に運ぶのを手伝ってくれるかい。そうしたら次に来たときには、美味しいお昼をご馳走するからね」 翌週、蝋人形は黒光りする馬車に乗った姿になっていた。 馬車と言っても英二が想像したような平和にがらがらと引いてゆかれるものではなく、ごく小さな二輪の、操るのも体勢を維持するのも難しそうなものだった。 黒光りして頑丈そうだ。きっと物凄いスピードが出るのだろうな、と英二は思い、蝋人形の青年を見上げた。 それほど激しい乗り物に乗っているにも関わらず、人形の顔は相変わらず穏やかで優しげだった。見ているとなにやら英二自身が彼にほほえみかけられているような気になって、どきどきと胸を高鳴らせてしまうのだ。 名前も呼べない蝋人形の青年を、その綺麗な姿を英二は焦がれてぼんやり見つめる。 見上げるだけで胸が甘く痛い。からっぽの左腕の中を見つめるその眼差しが、自分に向いてくれたらどんなにいいだろう。 英二は切ないため息をついた。 「このひとの名前だけでも教えてよ」 そう言ったのだが、大石はただ笑うだけで英二のその質問に答えようとはしなかった。 英二に相変わらず優しいのは変わりなく、約束通りの昼餐を振る舞ってくれた。もちろん英二に、あの赤い実をふたつぶほど食べさせるのを忘れなかった。 その翌週には馬車を引く馬がいずこかから届けられた。 四頭立てだと大石から説明されていたが、届いたのは二頭だけだった。 「あとは次の週に届くんだよ」 大石はそう言い、どこか熱に浮かされたように人形を見上げる英二の肩を優しく抱きよせて言うのだ。 部屋の中はその展示だけを浮かび上がらせる状態にしてあるので、その人形の青年は闇の中でくっきりと存在を誇示していた。 綺麗で凛々しい顔立ち。 優しそうな口元、ほほえみ。 とても上品に感じに見えるのに、一方で恐ろしいような気さえする黒光りする馬車――もうその頑健な印象は、闇色の戦車と言ってしまっていいだろう――そんなものを軽々と操るたくましさ。 黒一色の姿は、かえって彼の姿の良さを引き立てているのだ。 「彼のことを、気に入ったんだね」 耳元で囁かれても、英二は人形を見上げ続けていた。 ほんの少し頬を紅潮させ、愛しい人を見つめる少女のような切ない目をした英二のことを、大石は見透かしたように片腕で抱きしめる。 「英二」 耳元でささやかれた低い声にため息をもらしながら、英二はぼんやりと考えた。 この人形の青年はどんな声だろう。 こんなふうに、ささやくように、低く優しく喋るのだろうか。 自分の名を呼んでくれたら、どれほど嬉しいことだろう。 想いをつのらせる英二の唇に、大石は例の赤い実を押しつける。条件反射のように開いたそれが、赤い実と大石の指先を含んだ。 白い仮面と、きらきらしたラインストーンが英二の視界を覆う。仮面の向こうから、黒い深い瞳が英二を射抜いた。 狂ったカーニバルの音が遠くから鳴り響く。 麻薬のようなその幻聴に身を委ねて英二は、大石が頬に口づけるのを感じて目を閉じた。 ああ。 あのひとの唇なら、どんなふうだろう。 あくまで触れるだけであったが、大石はずいぶん長く英二の頬や耳朶を唇で愛撫した。英二の吐息が熱く、長くなったころを見計らってこうささやく。 「来週、かならず来るんだよ。英二」 英二を抱きしめ、耳もとで。 「そうしたら、馬と言わず、最後の『もの』も揃ったところを見せてあげられるからね」 何かを感じたように英二はぶるりと身を震わせた。だが大石の腕から逃れようとはせず、ぼんやりと彼の言葉を聞いている。 その様子に、英二のはねっ毛に埋もれた大石の唇が、笑みの形に歪んだ。いつも英二に向けられている、いかにもいとおしいと言いたそうなものとはまったく違っていた。 英二には彼のその笑みの理由を、知るすべはない。 抱きしめる大石の腕を人形の彼とすげかえて望むほど、動かぬ黒ずくめの彼に魅入られていたのだった。 空は青空、空気は夏を過ぎておだやかであった。 世界の何処かにそんな不穏な企みごとがあること自体、うたがわしくなるような情景であったが、英二はそのなかでひとり夢心地のままだった。 決めごとのように鬱蒼とした木々の間をくぐり、錆びついて重い鉄門をあけ、朽ちた中庭を通ってゆく。 世界はそこから青空を忘れ、ゆっくりと曇天の不吉さを増していく。 いつものように扉をあける。 軋む音は同じだったが、その日は何かが違っていた。 「……あれ?」 入口にあった、あの壊れた受付場所がない。アクリルガラスに囲われた、奇妙にみすぼらしくもの悲しいようなその場所が、きれいさっぱり失せていた。 代わりのように、足下の絨毯の鮮やかなエンジ色がよみがえっていた。踏みしめるとふかふかとして、擦り切れて薄っぺらくなってしまっていたあの絨毯の名残はどこにもない。 やけくそに書かれて貼られていたかのような「順路」の画用紙も勿論ない。その代わりにゴブラン織の美しい巨大なタペストリーが、その大きな壁を飾っていた。 見上げると、天井のシャンデリアには灯火が入れられている。ちらちらと瞬いて、それが本物の炎であると知らしめているのだ。いささかの埃の影も、その輝きを邪魔することはなかった。 あの巨大な窓のカーテンは全て下ろされていたので、館の中はシャンデリアの灯火と、二階のホールからずらりと並べられた三つ足の燭台に頼るしかない。炎の朱色はせわしなく瞬いて十分明るくはあるけれど、どこか妖しい、異界じみた不気味さをかもしだしていた。 英二はふらふらと、いつものように歩き出す。 その英二の様子をそっと伺いながら玄関の扉がひとりでに閉じたが、英二にはそんなことを構っている余裕はなかった。 判っている。 よくわかっているのだ。 自分が異界へと足を踏みいれようとしていることが。 二度と戻れぬその場所へ、向かおうとしていることが。 二階の、いつもホールからは左右にずらりと足のついた燭台が並べられていた。ちょうど英二の身長ほどの立派なそれは、すべて同じ造り、綺麗なひと揃いになっている。そういうものがずらずらと寸分の乱れなく並べられているのは壮観ではあったけれど、いったい何処へ導こうとしているのかと不安にもなってくる。 その燭台が導く先を、英二はいくらもいかないうちに悟った。 例の、黒ずくめの青年がいる部屋。 あの蝋人形の部屋だ。 肉の爛れたような奇怪な炎を燃やす燭台に取り囲まれ、見送られ、英二は通い慣れてしまったその部屋に足を踏みいれる。 「……あ」 内部の展示を見るなり、英二は思わず声を上げた。 もうよく見慣れ、細部まで観察し、幾度となく密かな恋心を持って見上げたその黒ずくめの青年は、がらりと様子を違えてしまっていたからだった。 いや、正確に言うならば何が変わったわけではない。 青年の凛々しい顔立ちはそのままであったし、手綱を引いた手も、新たに二頭付け足された黒馬も、黒光りする鋼の馬車も、なにもかわらない。その黒ずくめの青年には似つかわしくないような春の花の光景もそのままだった。相変わらず、青年が左手に抱えている『なにか』だけはからっぽの空間のままであったが。 変わった、とするなら。 違う、と言うなら。 その全体の印象だろう。 今までは、どうしてこんな場所にこんな姿でと黒ずくめのいで立ちに首を傾げることはあったものの、それきりだった。なにか背景と人形のコンセプトを組み間違えたのじゃないかと思いさえしたが、それだけだった。 しかし。 英二は、思わずその傍らへより、しげしげとその人形を見つめてしまった。 花の中には似つかわしくない彼。 優しげに何かを抱きよせるそのいっぽうで、不吉な黒馬を猛々しく操る。 真っ黒い、不吉なほど黒いそのいで立ち。花をけちらす勢いの戦車に乗って現れ、彼はいったい何をその左手に抱いたというのだろう。 ――王は花嫁を迎えんとて、地獄の裂け目より地上におどり出た。闇炎のたてがみの黒馬が鋼の車を引いて現れたとき、空はかき曇り、雷鳴は三度轟き、世界は奪われる乙女を嘆いた。 (地獄……) かつて大石が英二に語って聞かせたことを、英二は今更のように思い返した。 その、なんとも言えない不吉な様子。 相変わらず青年の顔は綺麗なままであったし、左手の何かを見つめる目もとても優しいものだった。しかし、その青年の様子は、何か――そう、とても邪悪な何かに変わってしまっていたのだ。 動かぬ人形に着せかけられた衣装ならだらりと垂れているものなのに、その長いトーガが不吉なコウモリの羽のように大きくひるがえっていることも一因であったろう。 奪うものの歓喜。 強奪の成功を喜ぶ表情。 略奪の――大石の説明の言葉を借りるなら――花嫁を、己がしとねへと連れてゆく惨い悦楽。 限りない慈しみと同じだけの限りない陵辱。 そんなふうに。 美しい、とても美しい光景ではあるけれども、どこか悪夢の匂いがする。 悪夢の中にこそ、それだからこそ存在する、毒々しい綺羅。 それはとても恐ろしく、追ってくるとするならまず逃げ出すのであろうに、どこかで『つかまりたい』という欲求すらもあるものだ。追いすがられ、追いつかれ、その冷たいかぎ爪に捕らわれる瞬間は、どれほど甘やかであろうかとそれを望んでしまうほど。 悪夢が自分の喉を食い破ろうとする瞬間。 近づけられるその唇は、なすすべのない哀れな生贄への愛に満ち満ちていることだろう。 魅入られる、というのはそういうことだ。 ぞっとした英二は、震える足をなんとかいさめて、背後にあとずさった。 切ない恋心は恐怖へと変わっていたが、それでも英二はその目を彼から離すことは出来ない。全てを恐ろしがるには青年は美しすぎたし、英二は彼に長く恋をしすぎた。 数歩後ずさったところで、英二は何かに背後から抱きこまれた。 己を抱きすくめるのが大石秀一郎だと知っていてもなお、英二は恐怖の為に震えてしまう体を止めることは出来なかった。 「綺麗だろう、英二」 大石はそっとささやいた。 「ようやく全部揃ったよ」 意味ありげに、大石の手が英二の身体をまさぐりはじめる。英二は震えて声もない。 「そうそう。続きを教えてあげるよ、英二。……あの、説明版の続き。なんて書いてあったのか」 「……」 「――王は花嫁を迎えんとて、地獄の裂け目より地上におどり出た。闇炎のたてがみの黒馬が鋼の車を引いて現れたとき、空はかき曇り、雷鳴は三度轟き、世界は奪われる乙女を嘆いた……これがなんの神話だか、英二は本当に知らなかったんだね」 「――」 「彼がさらった乙女は、冥府のもてなしで出された柘榴の実をほんの四粒だけ口にした。だから母親の懇願によって地上に戻されたあとも、一年のうち四ヶ月だけは冥府の住人にされてしまう。それならどんな手を使ってでも、十二粒食べさせておけば良かったと彼は思ったに違いないね」 「――」 「略奪の花嫁を年中、いや、永遠に手元に置けるようにね。……ねえ、英二」 思わぬ強引さで、大石は英二を自分に向き直らせる。 「いままで幾つ、あの赤い実を食べたか覚えている?」 仮面越しに、彼の目が英二を射すくめた。仮面越しでもその目は深く、美しく、底のない夜のようだった。 その夜が英二をひきよせる。出来る限り近く、そば近く。 抗いがたい痺れは英二を彼に引きつける。 鼻先が仮面をかすめても、わななく唇に男の吐息が届いても、ついには唇どうしが深く合わさっても。 それは、逃れようのない悪夢のかぎ爪が己を捕らえる瞬間だと、知っていても。 身体が。 身体が、動かない。 まるで悪夢に絡め取られたよう。 そうなることを己は本当に望んでいたのだと、心の何処かが歓喜している。 甘い恐怖に、それこそに、愉悦の声があがる。 「いや」 しかし英二はかよわげに言った。せめてもの抵抗だった。 大石の手は優しく、容赦なく、英二の肌を暴いていった。 例の仮面が彼の顔を隠していたが、そのあざといきらびやかさがいかにもたちの悪い白昼夢めいていて、よけいに英二を酩酊させた。 唇が英二の白い胸元を這う。妙に赤くぬめぬめとした舌はなんとも淫猥であったが、英二は顔を背けているばかりだったので知る由もなかった。くすぐったいのも、乱暴にいじられて痛いのもまるで、水底で味わっているかのようにどこか茫洋としている。 大石のみならず、館の空気そのものが英二をいかがわしく愛撫しているようだった。 遠くに放り出されてしまった自分の服の残骸を見ていると、何故かとてつもなく恐ろしくなってくる。 中学校の制服、などというものが、このレトロな洋館で激しく浮いているのをひそかに気にしていた英二だったが、こうして男の手で素裸に剥かれてしまっては何処へ連れて行かれても不思議ではない気がする。 あの服は、まだしも自分と人間の世界を繋ぐ最後のものではなかったのだろうか。その頼りないよすがさえ無惨に奪い去っていった男の手は、どこまでもあくどかった。 「や、だ」 必死にあわせた膝を押し開かれる。じんわりとした痺れを引き連れ、男の舌が英二の内腿を這う。ついにそこにたどり着き、唇の間に英二を抱き込んで大石はさらに惨い愛撫を続けた。 英二はひとたまりもない。男の残酷な手ほどきのまま精を放ち、それすら奪い取られて逆らう気力などもう無かった。 「お食べ」 男は、どこから取り出したのか英二の唇に赤い果実を押しあてた。英二は哀れなほど従順にそれを噛みしめ、飲み込む。 「いい子だ。よく食べた。……それが十二粒目だ」 「――」 「十二粒目の柘榴だよ」 言いながら大石は英二の足をぐいと開いた。 「あ……」 おぼろげながら恐怖を感じてずり上がる身体を、大石は許さなかった。 熱さと恐怖と快楽の余韻。何かにすがりたいばかりにゆらゆらと頼りなくさまよう英二の両手を、ひとまとめにし、ひとつかみにし、彼の頭上に押さえつけた。 そうしておいて残る片手で、大石秀一郎はゆっくりと仮面を外す。 その顔立ちが現れるに従って、英二の目は同じ速度でゆるゆると見開かれていった。 「…あ、あ……あ」 そこで微笑んでいるのは、あの、蝋人形の顔だった。 暗黒の炎のたてがみを持った馬の、くろがねでしつらえられた馬車に乗り。 馬手に真っ黒な手綱を引き、弓手に略奪の花嫁を抱くはずの。 あの、人形の。 ひい、と哀れな声を上げて英二の喉が仰け反った。 それは男に初めて穿たれる無垢なるものの悲鳴か。それとも彼の心が言いしれぬ恐怖に壊れるその寸前の断末魔か。 「ああ、ああ、あ……」 英二は男の手に掴まれ、腰を軽々持ち上げられ、好きに揺さぶられた。 大石の手は肌に食い込むような冷たさだった。大石のその冷たい指が暖かい英二の肌を突き破り、身体の中へとやってくるような。 泣き濡れて英二が見上げた先、深紅の天鵞絨のカーテンはばさりと大きくはためいて、一瞬だけ、戸外の空の色を英二に見せつけた。 あの青空が嘘のように、生き物のように蠢く黒雲がうねうねと広がりゆく。それはいびつで歪んだ顔が醜く笑うさまによく似て、英二の心の最後の一片を壊した。 ばたん! 大音響が、英二の悲鳴をうち消した。 それはこの広い洋館の中、あちこちの展示室の開かれたままだった扉が、物凄い早さでばたりと閉じた音だった。 まるで何か、大事なものをようやく手にした子供のように。 手に入れたそれを、あわてて隠すように。 どこにも逃がすまいとするかのように。 ばたん、ばたん、と扉は次々閉じていく。 洋館の外で雷鳴が、きっかり三度轟いたが、もうそれは英二の耳には届かなかった。 そうしてその洋館は。 今度こそ本当に朽ちてゆく運命にあった。 季節外れの雷が、三度、この館の上で轟いた夜。 例の黒ずくめの蝋人形が、ながらく空白のままだった左手に小さな身体を抱いていた夜。 黒ずくめの青年が愛しく抱いていたそれが、何故か神話になぞらえた春の乙女ではなく、赤い髪の華奢な少年人形であったことを知る者は誰もいない。 なによりも一夜明けたとき、そこにそんな人形があった形跡そのものが失われていたのだ。 花畑のパノラマに悪意のように開けられた黒く深い亀裂を残すばかりで、もうそこには四頭の黒い炎のたてがみの馬も、黒鋼の戦車も、黒衣を翻す青年の姿も、その腕に抱かれた少年すらも、忽然と消え失せていた。 あとには壊れた人形が転がり、蜘蛛の巣のはる古びた館があるだけ。 いずれ誰かがこの館を偶然から発見しこわごわその中をのぞき見ることはあっても、もうあの不思議な、闇の世界を覗き見ているような妖しい夢の名残は何もないだろう。 この館を美しい悪夢の住処となしていた存在は、望みの花を手にしたのちにはもう此の世から姿を消していた。地上がどうあろうと、人間がどれほどこざかしく立ち回ろうと、彼は彼のしとねに摘みよせた花にしか興味はない。 ましてその為に現した悪夢の名残の始末など、ことさら思いたちもしなかった。 高いビル、古びた町並み、めまぐるしくうつろいゆく人の営みそのものを現すかのように、木造の旧時代も鉄筋の最先端も入り交じった、街の光景。 その中にはまだ、そんな場所がある。 人の世には今も、ところどころにそうやって、美しい悪夢の名残が落ちている。 |
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