「ああ」 彼の声。 かすかな吐息の混じった、とても低くて優しい彼の声。それはため息とも苦笑ともつかぬものが混じって、俺の耳をくすぐる。 それは彼の声――泥にまみれた俺の姿を見た彼の声。 「また、来たの」 見上げるのは背の高い彼の姿。ほんの少し痩せていて、けれどもとても美しい。優雅で穏やかな、彼のひととなりをそのままあらわしたかのような立ち居振る舞いが。 彼は俺の姿を見つけ、ほんの一瞬、わからないぐらいのあいだだけ眉を顰めた。 その目の色に嫌悪感が混じる。面倒なものがまた来た、というふうに。 困ったなあ、と言って、美しい切れ長の目をほんの少し細めて、そうしてもう次には俺を遠ざける方法を思いめぐらせる彼のその顔。 そういうときにさえ彼の顔は他の誰に見られても、美しく穏やかにしか在り続けないのだ。うとましくて仕方ない相手にさえ、彼はこうして笑ってみせる。 「どうしておまえは帰って来ちゃうんだろうね」 俺は人の言葉は話せない――彼も俺の言葉を知るすべなどない。 永遠に彼には理解できない言葉で、俺は訴える。 ――はい。 ――帰ってきました。 俺の言葉はかすれた、「にゃあ」と言う小さな鳴き声になって彼の耳に届いただろう。 それを聞いてまた彼は苦笑する。美しい黒瞳の端に侮蔑の光を閃かせて。 それすらもとても美しい。彼のすべては俺の胸をときめかせる。かなわぬ恋に絶望させる。 帰ってきました。 貴方に捨てられるために。 どこかの街の片隅のじめじめした暗がりで生まれ、ひょんなことから母親や兄弟達とはぐれ――ひとりっきりで街の片隅にうずくまっていた、小さな薄汚れた動物の子供。 赤みの強い三毛の、やせっぽちの仔猫。 生まれてまもなく泥の中に放り出され、その泥さえも汚らしく足や体にこびりつき、痩せて骨ばかり浮いた。 それが俺。 ひとりで心細く、ひもじくて、俺以外のどんな動物をも警戒する術さえ知らなかった、どうしようもないほどちっぽけな生き物。遅かれ早かれ餓えるか、カラスにつつき回されるかして、そのまま街の片隅で死んでいく運命だった。 ――あれ。猫だ。 俺は、空腹と不安でふらふらになりながらも、冷たく吹き付ける風を少しでも避けられる場所を探し、ようやく小さな灌木の茂みにうずくまった。 そこが人間達の住処――綺麗に芝がかられ、剪定された植木でととのえられた庭の片隅だとも知らずに。 ――どこから入ってきたんだ。……小さいな、まだ子供なんだな。 そう言って俺を覗きこむ美しい黒瞳を見上げたときも、俺は動きもしなかった。なにより空腹でそんな気力はなかったし、何が危険で安全なのか教わる時間さえ俺にはなかったのだ。 ――死んでるのかな。いや、違う、おなかすいて動けないだけなんだな。 彼はふいと姿を消し、やがて暖かく甘い香りをさせながら戻ってきた。 ふちの欠けた小皿に、白い暖かい液体がなみなみと注がれている。彼はそれを、俺の前においてくれたのだ。 甘い飲み物。 暖かい飲み物。 俺は、何の疑いもなくその小皿に鼻先をつっこんで、あっという間に飲み干した。 彼はその様子をじっと見ていた。薄く笑い、なんともいえないさげすみの色が混じる瞳で俺を見おろし続けていた。 たぶんそれは、彼の同情だったのだろうと思う。 あるいは、自分の家の庭先で死なれては困るから、さっさと元気になってどこかへ行ってもらおうと言う考えであったかもしれない。 それでも――たとえその年には似合わぬほど物腰も考え方も大人びている彼の中にも、それでもまだそんな一面も残っていたのだ。 俺はまだ親とはぐれたばかりで、俺以外の動物を疑うすべなんか知らなかった。 ただただ寒くて悲しくて、ひもじがって鳴くしかなかった。その俺の前に差し出された暖かい甘い飲み物。 それを置く彼の指の長さ、美しさ。俺の見おろす彼の瞳。哀れみと、ほんの少しの好奇心に満ち、優しさの欠片もない。 けれど俺はそれに恋した。なにも知らない、ちっぽけな仔猫の身で。 俺を決して愛さないであろう、あの美しい彼に恋をした。 彼はそののち、ミルクでおなかをふくらませた俺を抱きあげ自転車の前かごに乗せて、町はずれのあの草原へつれていった。 彼は俺を手の中であやしながら、丈たかい草いきれのどのあたりに俺を置き去りにすればいいかと考えていたのだろう。 赤く不吉な空が見える夕暮れ時。 俺が捨てられるのは、いつも黒ずんで赤い夕焼けの空の下。 体を埃まみれにしながら、数日かけてようやく彼の元に戻った俺を、彼は苦笑して見おろした。 「しょうがないなあ。うちでは猫は飼えないんだよ」 猫に、俺みたいなけだものにわかるはずもないのに微笑む。それがどれほど冷酷で無情であるのか、このひとは一生理解しない。 どれほどこんなちいさなけものの心をも魅了してやまないか、知ることはない。 彼の偽善はあやしく美しい指先に現れて俺を絡め取る。 彼からはもうミルクすら与えられなかった。彼は、そのミルク目当てに俺が何度も戻ってくるのだと思っている。 俺の腹はもう満ちることもなかったけれど、もっと別のもので胸をいっぱいにして彼に抱えられた。 いつものように自転車の前籠に乗せられ、おとなしくうずくまる。 彼が俺を連れて町はずれの草原へゆくあいだ、黙って待っているのだ。 「今度は、ちゃんといい人に拾ってもらえよ」 本当は俺の行く末になど興味もないくせに――ただ今度こそ、またこの薄汚れた仔猫が自分の処に戻ってきて、自分に手間をかけさせないようにということばかりしか考えていないくせに、彼はそんなことを言う。 それでも、俺はわかったようなふりをしてにゃあと鳴く。俺を見おろす彼を、精一杯の思慕をこめて見上げるのだ。 草原についても、乱暴に放り出すこともしない。 ちいさな生き物を壊すまいと――このあとに俺がどうなろうと、車に跳ねられようと、よしんば飢えて死のうと知ったことではないのだろうが、彼の手に俺があるあいだだけは、彼は俺をとてもていねいに扱った。 それは、彼が誰にも後ろ指をさされないために。 彼自身にすら、それで言い訳がたつのだ。 決して俺を愛さない彼の手が俺を抱く。その美しい手がどんな愛撫よりも優雅に、なまめかしく俺をつつんで彼の胸に抱え込む。 俺の体の小ささ、頼りなさに肩を竦めながら、取り落とさないように運んでゆく。夕暮れ時に落ちてくる薄闇の中、彼の面輪はひときわ清々と輝く。 空は夕陽の名残で不吉に赤い。 まるで貴方の苛立ちのよう。 その手の暖かみ。貴方の胸に顔を押し当てられるこの幸福。 籠から抱き下ろし草原の真ん中に置き去りにする、そのひととき。 たったその数十秒。 この一瞬貴方に抱かれる為だけに、俺は生きている。 暖かい寝床も、おなかいっぱいになる餌も、そのどんな誘惑だって勝てやしない。 この幸福には叶わないのだ。 餌と寝床に不自由しない――そんなちっぽけな安堵感がこの瞬間の絶頂にかなうものか。 刹那の愛撫。 瞬間の抱擁。 たとえば貴方が、俺をちっとも愛していなくとも。 「おまえはまだこどもの猫だから、わからないかもしれないけど」 彼は微笑んで言う。 「道に出ると危ないよ、車に跳ねられるからね。俺の家は道の向こうだし、あぶないからもう来るんじゃないよ」 俺は、かすかな声でにゃあ、と鳴いた。彼は俺を抱き下ろすと、もうあとは後ろも見ずに去って行く。 彼の姿が草いきれの向こうに消え、闇に滲む夕空に自転車の軋む音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺はゆっくり歩き出した。 草むらを抜け、トンネルを通る。 長い長い河川敷を歩き、電車の音を真上に聞きながら、人通りを抜ける。大きな車が何台も、それこそ昼夜問わずひっきりなしに行き交うあの道を横切れば、彼の家のある住宅街なのだ。 俺はそこへまた戻る。 彼が俺を抱き上げてこのくさはらに運んでくる、そのひとときのためだけに。 上空から狙ってくるカラスには気を付けなければ。俺みたいなちいさな生き物と見ると拾い上げたがるお優しい人間たちの手もかいくぐらなければならない。 うっかり間違えて犬たちのテリトリーに紛れ込んでしまうと、さらに危険だ。 気を付けて、気を付けてゆかなければ。 俺はぼろぼろの尻尾をぴんと立て、草むらを抜ける。 空はまだ赤い。 眠らない人間の世界に向かって、俺はよちよちと歩いていった。 「英二」 俺は、ぽかりと目をあいた。 突然開かれた視界は薄闇の中で、決して俺の目を灼くことなどはなかったが、それでも唐突に戻された現実に眩暈がした。 今は不吉に赤い夕焼どきでもないし、此処は寒さをしのいでいた灌木の下でもない。 俺は恋人との秘密めいたまじわりの果てに疲れて眠ってしまったものらしく、彼のベッドの上で暖かい毛布と彼の肌とにくるまれていた。 「まだ夜中だから寝てていいんだよ。……うなされていたから、起こしちゃったけど。こわい夢を見た?」 俺の肩まで毛布を引き上げてくれながら、俺の隣で寝ていた人が優しく聞いた。 汗の引いた肌を彼の手が丁寧に撫でさする。少しだけかさついた、節の目立つ美しい長い指が俺の頬をそっと拭う。 「英二、泣いてる」 俺は乾いた唇を開いて声を出そうとした。 にゃあと鳴けるかと思ったが、そこからは小さな風のような吐息がこぼれただけだった。 「大石」 「どうしたの」 いかにもむずかる子供をあやしなれた様子で低く囁く彼の声が、俺の耳を包んだ。 「大石、大石」 「大丈夫だよ、そんなに抱きつかなくても――どこにもいかないよ」 「大石」 「よっぽどひどい夢を見たね。……よしよし、泣かなくていいから」 英二、と彼に呼ばれて、俺は初めて自分が涙をこぼしていることに気づいた。 大丈夫だよ、と繰り返しささやく声や、俺の髪を撫でる手の暖かみが、さらに俺の涙を誘った。 そうして優しく慰められれば慰められるほど、俺はひたすら声をあげて泣いた。 ここへくるときに見かけた、ちいさな仔猫の骸のことを思い出して。 車道の端にぽつんと転がった、ちいさな三毛の仔猫のことを思い出して。 黒ずんで赤い夕焼け空の下、誰にもかえりみられることのない、ちいさなその骸。 その傍らで立ちすくむ俺の後ろで、車に跳ねられたんだね、と大石は言った。とても静かな口調で、少しだけいたましそうに。 こどもの猫だから車が危ないのがわからなくて、道に出ちゃったんだね、と。 けれどそのまま背を向けて――彼はその骸には背を向けて去ろうとしたのだ。 かわいそうだね。そのひとことだけ、その言葉を言う一瞬に見せた彼のほんの少しの同情と、冷淡さ。 野良猫のたくましさも持たない、やせっぽちでちびの猫。きっと何も判らず、寒い思いをして、餓えていただろう。不安でどれほど心細かっただろう。 誰の処へ行こうとしていたのだろう。 誰に抱き上げてもらいたかったのだろう。 かわいそうに、と思うよりも、ただただ切なかった。 その仔猫の思慕を思うと、その仔猫を取り巻いた世界のありようを思うと。 けれどわかるまい。 彼には決してわかるまい。 俺がなぜ泣くのか。 どうして通りすがりの、自分の飼い猫でもない生き物のむくろにそんなに心をかけるのか。どうして公園の片隅に墓を作って花まで手向けて、まるで少女のおままごとのような弔いまでしたのか。 黙って泣く俺を、大石もまた黙って、慰めるように頭を撫でてくれた。 けれども彼にはわからない。 わかりはしない。 しないだろうけれど、その手の暖かさが優しさのように思えてきて、また泣けてしようがなかった。 手があたたかいからと言って、それがそのまま彼の優しさに繋がるはずなんかないのだ。 彼の手は暖かく、そして冷酷だ。 美しく長いその指先がどれほど残酷なのか、俺はよく知ってる。 大石の手が俺を抱く。俺の背を撫で、肩を抱きしめる。このひとときのためだけに、俺は身体も心も明け渡したようなものだ。 俺の全部を彼に渡して、彼の抱擁を待ちこがれる哀れないきもの。 彼の冷酷さを知りながらそのぬくもりにすがろうとする。 冷たい貴方の優しい手。 ただ一度きりの、ミルクのような。 |
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