その絵を買った場所のことは、あまり覚えていない。

 いや、まったく記憶にないと言うわけではないのだ。
 ゆっくりと記憶をたどろうとするたび、美しい町並みをまず思いおこすことができる。
 時間が経つにつれて深みを増すブリック・レッドの町。おそらく熟練の職人の手が、ひとつひとつ丁寧に積み上げ、または敷きつめていったのであろう煉瓦は、長い年月を経て貫禄さえある。
 日本の建て売り住宅などに貼られる薄っぺらいレンガタイルなどではどう真似しようもないほど重厚で、確かにそこが異国であり、遠い遠い町なのだと思い知らされずにおかない。


 そう。
 遠い遠い異国の地。


 その絵を買った場所として記憶にあるのは、瀟洒な石造りの外国の街を流れる美しい細い川。
それにかかる橋の上、ぐらいだ。
 ごつごつとした古い工法の石組みの橋で、ごくゆるやかなアーチ型をしていた。
 その橋の――そう、ちょうど、『彼』が渡り終えたあたりのところに、白い髭を蓄えた老人がうつむいて座っていたのだ。
 老人の顔は覚えていない。
 目深に被った薄汚れた帽子と、髭に埋もれた外国人の人相などは、そう詳しく思い起こせるものでもない。
 座りこんだ彼の周囲には大小さまざまの油絵、水彩画が、一応売り物の体裁を整えて並べられていて、いかにも売れない絵描きがそうしている風だった。

 それが。
 土産物に目もくれず、気ままな旅を楽しんでいたはずの彼の目をふと引いた。
 あるいはその為に、彼はこの町に降り立ったのかも知れなかった。
 でなければ、その不思議をどう説明したものか。


 彼の目を引いたのは、一枚の何ということもない花畑の絵だった。
 花の咲き乱れる向こうには緑の丘があり、一本の大きな木が生えており、木の側に寄り添うように小さな赤い屋根と白い壁の家がある。ごく小さく描かれているので詳細は判らなかったが、どうやらその家のドアも窓も大きく開けはなたれていて、いかにもうららかな空気の中、と言う情景だ。
 ありがちな構図、ありがちなおとぎ話めいた架空の風景図であった。
 しかし描かれた花のひとつひとつはとても繊細で美しく、種類も様々で、絵心のない彼の心をも十分引き付けてやまなかった。
 異国の地、異国の小さな町、その奇妙に童話めいた光景が、どこか彼を夢心地にさせていたのかも知れない。


 大きさはポスターほどだ。持って帰るにもさほど苦になるまい。
 彼はそう考え、老人に近寄った。
 老人は終始うつむいたまま、また無言のまま彼に絵をごくごく安価で売り渡した。
 絵を小脇に抱えた彼のことを、もの言いたげにちらりと帽子の下から見やったが、それも一瞬のことであった。




 そこは、絵はがきの中にしか存在しないような煉瓦造りの町。
 家々の窓や玄関にはテラコッタの鉢が並べられ、美しいとりどりの花があふれかえる。女達は清潔な綿のスカートをひるがえらせ、日本では殆ど見ないクラフトの袋に長いパンを詰めて石畳を歩く。
 日溜まりには猫が集い、町の外れの草原には野草が咲き乱れ、少女達がハーブや野いちごを探し求めて籠を手に手にはしゃいでいる。
 そんな、もう一昔前にしか存在しないような、優しい夢のような町。
 そこだけ時間が止まったような町。
 何故彼は、そこに降り立とうと思ったのだろう。
 不思議なことに、帰国してまだ一週間だというのに、降りた駅の名も、町の名前すらももう思い出せないのだ。
 地図をひろげてあの日たどった路線を指でなぞっても、これだと思える駅も、そんな町もひとつもないのだ。






「そりゃ君、化かされたんじゃないの」
 彼の旅の、その不思議の数日間を聞き終えるなり、コーヒーを一口啜って友人はあけすけにそう言った。
「ほら、きっと地元の狐か狸だよ。君はきっとその数日間、余所様から見たら墓場のど真ん中で寝起きをしてたに違いないよ。そのへんの葉っぱとかを有り難そうに、木の枝のフォークとナイフで頂いたりしてね。ああ、場所が場所だから周囲は全部ケルト十字とかかな。それもステキだな、見るだけならね。――僕は決してやりたくはないけど」
「英国の狐や狸も人を化かすのか」
 大まじめに答えたそれが友人のツボに入ったらしく、彼はころころと笑い転げた。
 そうして、几帳面に片づいたばかりのその部屋の、最後の仕上げとして壁に掛けられた絵を改めて見やった。
「それにしても、こういうものが好きだったの、大石は」
「そういうわけじゃないけど」
「君のお得意のラッセンもいいけど、これもなかなかいいじゃない、少女趣味な綺麗な絵で」
「少女趣味だけ余計だぞ」
「じゃ叙情的」
 笑う友人に、大石秀一郎も苦笑した。
「でも本当に、まったく覚えていないんだよ、その町の名前とかさ。だいいちどうしてあんなところで降りたいだなんて思ったのかも、今にして思えばさっぱり」
「だから、狐か狸だってば」
「不二…」
「その、まあ狐か狸だとしても、どうして君はこの絵を持って帰ってきたものかなあ」
 からかい半分、純粋な興味半分で、不二周助はかけられた絵を見上げた。
 肩を竦めてもう一度笑いながら、本当にどうしてだろう、と大石はあらためてその絵を見上げる。
 

 長い長い列車の旅。景色を眺めるのも本を読むのにも飽きてうとうとしはじめた。何かの拍子にふと目を覚ましたとき、山間のその小さな町が車窓から見えてきたのだ。
 どうしても降りなければ、となぜだか思った。
 旅行鞄を網棚から下ろし、人気のないホームに飛び降り、しゅうしゅうと煙を吐く列車を後にし、当初の目的地が印字された切符を手渡した車掌からは妙な顔をされた(けれど彼にはそのあとずいぶん親切に、町のホテルのことなどを教えてもらったのだが)。

 もちろんその小さな町にも旅人がまったく通りすがらないわけではなさそうだった。彼らの為らしい小さなホテルも数件あるにはあって、旅人相手の商売でつぶれない程度には需要もあるらしかった。
 それでも『彼』のように数日滞在する旅人――まして東洋人自体あまり見ないらしく、町の人間は好奇を多少取り混ぜながらも『彼』にはそれなりに親切だった。

 だが。

 彼には――大石秀一郎には、その町の名を思い出せないのだ。
 それはよく考えなくとも不思議なことだった。
 数日とは言えたしかに滞在した町だ。親切な初老のフロントマンも、なじみになった近所のビストロのマスターの顔も、彼に案内されたバーで握手を交わしたバーテンダーのことも、よく思い出せる。
 しかし、そこがどういう町で、なんという駅で降りていったのか、と言う段になると途端に記憶が曖昧になる。
 プチホテルの行き届いた気配りと、おおらかなビストロのマスター。お薦めだという煮込んだ羊の肉の美味しさや、煉瓦の道を行き交う少女達のひらひらしたスカート。
 橋の上の、絵売りの老人。
 そういうものはしっかりと思い出せるのに、どういうわけだろう。


「確かな記憶と言えば…そう、この絵を抱えて列車に乗り込んでね。それでまた、その駅からいくらもいかないうちに眠くなっちゃって、ぐーぐー寝てしまって。気が付いたら本来の目的地につく寸前だったんだ。もうあとはあわただしく行程を終えるのに夢中でね。それで、いざ日本に帰ってきてみたらさ」
「その街の記憶だけが、なんだかぼんやりしてる、と言うわけ?」
「あの町に降りたこと自体、寝てる間に見た夢かとさえ思ったんだけどね。でも、くだんの絵はここにこうしてあるわけだし」
「ふーん」
 なにか仕掛けでもあるかとその絵をちらちら見ていた不二は、ふと何かに気づいたようにマグカップを床に置き去りにすると、ずいと絵に鼻先を近づけた。
「…あれ?」
「どうした、不二」
「ねえ、こんなところに人がいる」
「――人?」
 これこれ、と友人が白い指先で指し示した場所には、確かに小さな人影が見えた。
 千紫万紅の花に紛れ、小指ほどの大きさで確かに人の姿が描かれている。
 白い服のようなものを着ていたが、なにしろその程度の大きさではそれが男か女か、大人か子供かは判らなかった。
「こんなところにこんなの描いてあったかな」
 花に紛れて気づかなかったのか。
「こんなにちっちゃいんじゃ、見えなくてもしかたないよ。まあこういうところに描いてあるのは、木綿の長いワンピースでも着た、髪の長い女の子と相場は決まっているけどね。大石だってそう思うだろ」
「そうだな。花かごとか持っていたりな」
「そうそう。あ、三つ編みでも良いね、きっとエプロンドレスでね」
 不二は笑ってそういった。
「まあよほどおどろおどろしい絵ならともかくも、こんな罪のない、綺麗なだけのものなら特に考えこむことはないんじゃない。君にしては珍しい趣味だとは返す返すも思うけど、単に健忘症ってことにして深く考えるのはやめたら?」


 じゃあ明日ね、と言い残して不二が帰ったあと、彼はもう一度コーヒーをいれて、改めてひとりの部屋に座り込んだ。
 ベッドと机と本棚とで、ほとんど一杯になってしまう部屋だ。ソファなどという洒落たものを置く余裕はなく、自然彼がソファがわりに座るのはベッドの上になる。
 そこにそうやって座っていると、その絵に視線がちょうど向くようになるのだ。
 彼は花畑の中の、その小さな人影を見やった。
 そうやってじっと見つめていると、幾重にも重なる描かれた花たちがまるで本物のようにも思えてくる。

 これだけの花が咲き乱れれば、どんなにいい匂いがするものだろう。
 きっと風も穏やかで、あたたかい空気なのに違いない。

――あの子も、花を摘みにきたんだろうか。

 花の中のちいさな人影を見やり、彼はそんなことを考えた。

 花を摘んだら器用に編んで繋いで、頭に飾るのだろうか。それともとりどりの束にして、あの丘の上の小さな家に持ってかえるのだろうか。
 白い陶器の花瓶に飾るのか、素朴なガラスのポットでもいいだろう。
 花の馥郁たる香りに包まれて、今夜は花畑の夢を見るのだろうか。

 ひとりでいるのだろうか。
 あの家には誰か待つのだろうか。

 彼はいつのまにか口元をとても優しい微笑みの形にしていた。
 しんとした静かな部屋の中で、ずいぶん長くその「少女趣味」な空想に耽っていた、と彼が気づくのは、思い出したように口に運んだコーヒーがずいぶん冷たかったせいだった。









 花の絵は、大石に思いもかけず安らいだ時間をもたらし始めた。
 実際、彼自身は何をするでもない。
 ぼんやりと絵に見入り、花の中の人影がどんな姿をしているのか、どんな色の花を好んで摘むのか、ときおりその蜜を吸ってみたりするのか、そうする唇はどんなふうなのだろうとか、そういうたあいのないことをあれこれと空想するだけの時間にすぎない。
 しかしそうしてみると、その間に限っては仕事や人間関係諸々の雑事を全て忘れ、ごく静かに、心穏やかにいることが出来るのだった。
 この絵全体を包むいかにも盛りの春らしい優しい空気。
 押しつけがましくない色彩と香りに満たされた花畑。
 もしもそれらを実際に体感できたとしたら、きっと誰でもこういう心持ちになれるのであろうと素直に思えるほど、彼はその優しい空想の時間に夢中になった。

 あの子は、いつも佇んでいる。
 花畑の中に佇んでいる。
 たったひとりで佇んでいる。


「寂しくはないの?」
 その姿に聞いてみた。
 答えが返るはずはなかったが、それでも大石はそうやって自分が絵を見守れることに、ひそかな満足を得ているのだった。









「彼女でも出来たの」
 最近の彼の、そのらしくない浮かれ具合を面白半分、心配半分にからかった友人が彼のそのワンルームマンションを訪れた。
大石が例の不思議の数日間を含んだ旅から帰国して、一ヶ月ほど経ったころだ。
「いや、そんなものはいないけど」
 いつものようにコーヒーを差し出しながら、大石は少し笑った。
「そうお? なんかあやしいなあ」
「あやしいって何がだよ」
「最近は飲み会もお見限りだってね。ずいぶんうきうきして帰ってるみたいじゃない。…まるで新婚のダンナみたいだ、って君の課の女の子達ためいきついてたよ」
「ああ、そういうこと」
 大石は少し考え込んでいたが、うまい言い訳が見つからなかったのだろう。少し苦笑してこう言った。
「まあ、帰るのが楽しみだっていうのはあるけど」
「なにそれ」
 さては手料理を振る舞ってくれる彼女がやっぱりいるのだろう、とからかいまじりに問いつめようとして、不二はふと口をつぐんだ。
 彼は――大石は、いかにも幸福そうに、壁の一点を見つめていたからだ。
もしも、本当に彼に愛する恋人がいたとしたらまさしくそういう顔で、相手を見やるに違いない。
 不二は彼の視線を追った。
 白い壁に、綺麗な木目の額がただひとつかけられている。
 例の、花畑の絵だ。

「この絵、気に入ってるみたいだね」
 それを見る彼の表情がなんとも言えず幸福そうで、不二はそんな言葉しか言えなかった。
 以前この絵を初めてみたときのように、からかい混じりの言葉などかけられない。
 そんな、第三者には立ち入りがたいような空気さえ、ただよっていたのだ。
「見ているととても幸せな気分になるよ」
 大石は意味ありげに笑ってそう言うと、もうそこに友人が訪れていたのも忘れ果てたかのようにじっと絵を見つめ続ける。
 なんとも居心地の悪い気分になりながら、不二もふとその絵に見入る。
 花畑。緑の丘。おおきな木と赤い屋根の家。
 そして。

「――あれ?」

 不二は、思わす声を出していた。

「なに、不二」
「この子…この、花畑の中の子」
「うん」
「…後ろ向きなんだね。赤い髪してる」
「――」
「ここ、こんなにはっきり描いてあったっけ」
「――」
「…人物の大きさも…」
「――」
「なんか、前と違って見えるんだけど」
 大石は応えず小さく笑った。笑って、そしてその間も飽かず絵を見つめる。

 少し恐ろしいような気分になりながら不二が辞去の意を告げるときも、大石は一応別れの挨拶らしきものを口にしたが、なんともそっけなく気がなかった。
 花の絵から視線をひとときたりとも離してなるものかと言うように、玄関までを形ばかり見送り、扉の閉じたその向こうであわただしく絵の側へ走り寄っているのであろう足音が聞こえてきた。

 不二は心配げに、そしてやや恐ろしそうに閉じたばかりのドアを見やったが、何が出来るわけでもなく、その日はその場を去るしかなかった。





 花畑にいるのが少年だと彼が気づいたのは、それから一週間ほどしてからだった。
 もう最初のぼんやりとした姿ではなく、とりどりの花の中でもはっきりとその華奢な様子が見て取れるようになってきていた。
 じっと見ているとよく判るのだが、少年は白いシャツとジーンズとで、とても快活な、動きやすそうな姿をしている。
 花の中で彼が飛び跳ねているとするなら、笑っているとするなら、なんとそれは美しい、愛しい光景であろうかと思う。

 どんな声をしているのだろう。
 自分の名前を彼が知ったら、どんな風に呼んでくれることだろう。
 あの赤い髪には白い花が似合うだろうか。
 それとも鮮やかなオレンジ色の花がいいだろうか。
 髪にさしてやろうか、くるりと編んで冠にしてみようか。
 花の中で遊び疲れたら、あの丘の上の家に帰るのか。彼はどんな顔をして眠るのだろう。
 夜が恐ろしくて泣くことはないだろうか。ひとりで寂しくはないのだろうか。
 気まぐれな風があの大きな木の枝をやたらざわつかせて、この少年を怖がらせたりする夜などがなければいいのにと思う。
 ひとりで寂しがる夜など、なければいいのにと思う。
 恐ろしくはない、こわくないよと彼の傍らで、自分が言い聞かせてやれたらと思うのだ。

「俺がいるからね」

 前髪がかかって、絵の中の少年の顔はよく見えない。けれど熱に浮かされたように見つめ続ける大石の目には、それでも十分のようだった。

「ずっと見ていてあげるからね」

 絵は応えなかった。
 ただ、ほんの少し彼のほうに振り返ってくれようとしている。
 そうして振り返ってくれたとき、自分は彼と恋に落ちる。

 そんな確信めいた幸福が、大石をますます有頂天にさせ、絵に夢中にさせるのだった。








 不二周助は、その三日後からつづけて大石のもとにくるようになった。
 ドアの外で大声で呼ばわり、どんどんと乱暴に叩くような真似さえして、大石をいらつかせた。
 本当はそのまま放っておきたかったが、管理会社に鍵をかりに行くとまで言い出したので、仕方なくドア越しに話をした。
 ドアまで歩くのも、今の大石には少し時間がかかる。
 足下がふらつくのはなにも食べていないからだ。
 食べるために台所に立ったり、まして外に買い物に出かけたりと、そんなことに時間を使うつもりはない。
 そんな時間があったら、絵を見ていたかった。
 少年のために見つめていてやりたかった。

「ねえ君、大石、どうしたの、いったいどういうことなの」
「何のことだよ」
「急に辞職だなんて」
「――その通りだよ、辞めたんだ」
「…子供じゃあるまいし、電話で『もう行きません』で済むと思ってるの。どういうことだよ、出てきて話してよ」
 しつこいな、と大石はためいきをついた。
 とにもかくにも早く話を済ませて、彼の元へ行ってやらなければ。
 あの子はあんなにも寂しがりなのだから、目を離すときっと不安がる。
 自分が見つめていないことに気づいたら、一人がおそろしくなって泣いてしまうかもしれない。
 せっかくこちらを向いてくれようとしているのに、すねてそっぽを向かれてしまってはどうしようもないではないか。
 きっと猫のように気まぐれで可愛いあの子の、機嫌をとって暮らそうとしているのに。
 甘やかして甘やかして、うんと甘ったれさせて、大事にして。
 花の中で、暮らしたいのに。

 大石、とさらに呼ばわる友人の声に、怒鳴りたいのをこらえて言う。
「今は誰とも話したくないんだ、不二」
「――大石!」
「悪い。しばらくほっといてくれ」
「大石!!」
 ドアの向こうで友人が、悲鳴のように彼の名を呼ぶ。

 ああ。
 本当はあの子に呼んでほしいのに。
 早く、呼んで欲しいのに。
 花の中で。



 来る日も来る日も絵を見つめ続けている大石の前で、少年はゆっくりと顔をこちらに傾けてくれているようだった。
 時折耐えきれない乾きに水を含むぐらいのことはしていたが、そうでない時間は、大石はひたすら絵を眺め続けた。
 その頃になるとはっきりと見てとれるようになっていた、少年の手足のすんなりと伸びたさま、可愛らしく髪のはねる様子などは、すっかり大石を虜にしてしまった。
 髪を撫で、唇にくちづけ、肌にもじかに触れてみたいと狂おしいほど思いつづけた大石の望みは、彼が絵ともに帰国してから二度目の満月の夜に、ようやくかなえられるのだった。



 絵の中の少年が、どこか恥じらったように顔をあげ、その愛くるしい容貌を彼に見せてくれたのは真夜中のことだった。
 はりあけたカーテンの向こうからこれでもかと取り込んだ月光を浴びてその絵は、その中の少年は、これ以上はないほど美しく輝いた。
 毛先が軽やかにはねた赤い髪と、不思議な色にきらめくふたつの目が、ようやくひた大石の姿をとらえた。
 大石は、彼自身でもうすうすその予感があった通り、ひと目で少年の虜になった。

――ひとりで寂しかったかい。

 大石は問う。絵の中の少年は、寂しげに頷いたようだった。

――綺麗な花の中でも、優しい空気の中でも、ひとりは寂しかったかい。

 恋の幸福に目をくらませながら、彼はふらふらと絵に近づいた。
花畑の中を、少年もおずおずとやってくる。

――こわがらなくていいよ。これからずっといてあげる。
――毎日一緒に花を摘もう。丘の上の赤い屋根の家にふたりで住もう。
――夜がこわければずっと一緒にいてあげる。
――ずっと抱いていてあげるから。
――君も俺を好きになって。
――どうか俺に恋をして。


 大石がおぼつかない足取りでようやく絵にたどりいた頃、同じように少年も花の道を進んで、彼にたどり着いた。
 恥じらう花嫁のように少しうつむいた少年の顔を覗き込む。
 目の大きな、思った以上に愛くるしい容貌は彼を喜ばせ、そして愛しさで彼の胸をいっぱいにした。
 彼はこの上ない幸福をかみしめて少年にくちづけた。
 少年もかすかにおののきながら彼のくちづけを受け入れる。
 咲きほこる匂いゆたかな春の花が、いつのまにか彼の足もとに優しく敷き詰められていて、くちづけに夢中になる大石を優しい穏やかな空気が包み始めた。
 風が草を揺らすそよそよとした音さえ聞こえ始める。
 長いくちづけから大石が顔をあげたとき、一面の花と、その向こうに緑の丘が見えた。
 大きな木と、赤い屋根の家。
 千紫万紅の花々。
 そうして腕の中には、この世界のどんな花より美しい少年が、彼に摘み上げられたことを喜んでそっと寄り添っているのだった。
 少年と肩を寄せ、赤い屋根の家に向かう大石の背後でなにかが永遠にとぎれた。
 断ち切られた、と言うほうがいいのかもしれなかったが、たとえそうだと知らされても、大石には振り返ることも、ましてその断ち切られたものを未練がましく思うことすら無かっただろう。
 彼には――世界の誰よりも幸福でいる彼は、そんなものの存在すらも忘れ果てていたのだから。







 現代の社会において衰弱死だなんて、とテレビのコメンテーターは揃って同じような疑問を口にした。
 金に困っていたわけでもない。何か悩みがあったとも聞いていない。
 まして仕事や人間関係が、彼をひどくうちのめしたような話は聞いていない、とかつての同僚や上司も同じように、悲しみよりもむしろ困惑していた。
 壁によりかかるように息絶えていた彼の最期の表情がその困惑に拍車をかけたのだろう。ほほえみ、やつれた死に顔ながら幸福に輝き、家族も友人達も一様に不思議がった。

 彼の友人だけは、その不可思議な死の真相を探る騒ぎには加わらなかったが、彼の部屋の絵を引き取りたいと遺族に申し出てかなえられた。
 それは、普段の彼の好みを知るものならば首を傾げるような、多分に叙情的、童話的な、美しいがたあいのない絵だった。
 花畑と丘の上の木、赤い屋根の家。
 美しく描かれた花畑の中には、花を満杯にした綺麗な籐籠を下げ、よりそいあって歩くふたつの人影。

 友人はそれを悲しく眺めているだけで、ついにひとことたりとも、彼の死について口にすることはなかったのだった。



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