-神戸のみどり-公園誕生異聞
                                                         野元 正

■ (株)コー・プランの山手大学教授 小林郁雄氏と天川佳美氏のご好意により、神戸市の主な公園建設のいきさつを書く機会を与えてもらいました。小稿は、大震災24日後の1995年2月10日に阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワークの広報機関誌として発行され、1997年8月27日第50号で終刊した「きんもくせい」を復刊した『月刊きんもくせい』に連載したものです。ここにその旨を記し、感謝します。
【目次】
1.六甲山植樹100年 2.21世紀都市林「こうべの森」をめざして 3.しあわせの村誕生異聞
4.布引ハーブ園誕生異聞 5.相楽園異聞

1.『六甲山植樹100年』

1.森林の中の石積み

 確か1982年年のことだったと思う。 私たちはその2で書く予定の『都市林こうべの森』の基本計画を立案中のときだ。 私たちスタッフは再度公園の仙人谷ハイキングコースを歩いていた。 そこで新聞や雑誌などによく掲載されている草木が生えていない山を段切りした石積みを見つけた。 約80年過ぎ、 はげ山から豊かなみどりへ変わった森の中で石積みは今もしっかりと息づいていた。 そしてその石の一つひとつを積んだ先人たちの思いが私に伝わってきた。

2.明治初期の六甲山

 明治初年の六甲山は、 (1)1867年12月7日の開港当日の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のイラスト (2)明治中期ごろの神戸港上から見た絵はがき (3)明治14年(1881年)4月、 我が国を代表する植物学者牧野富太郎は高知から東京へ行く途中神戸に上陸し、 海上から見た六甲山を「私は瀬戸内海の海上から六甲の禿山を見てびっくりした。 はじめは雪が積もっているのかと思った」と随想『東京への初旅』に記述 (4)『六甲山の100年そしてこれからの100年 神戸市2003年発行』記載、 松下まり子氏作成の明治20年(1887年)ごろの六甲山荒廃図などから草木のない白い花崗岩の露出した山であったことを知ることができる。

3.六甲山緑化のはじまり

 慶応3年(1867年)12月、 開港に伴い神戸外国人居留地が設けられ、 多くの外国人が交易のために集まってきた。 神戸はこの欧米人から多くのことを学んだ。 特に英国出身のA.H.グルームは六甲山上の別荘開発や我が国初のゴルフ場の整備などを手がける一方、 私費を投じて植林や登山道の整備を行い、 県知事などに六甲山の砂防、 植林の必要性を説いたと言われている。

 (1)このような外国人の提言 (2)近代都市として歩み始めた神戸の人口増加は著しく、 コレラなど疫病の流行もあって上水道の整備のため生田川上流に布引貯水池が設けられた。 しかしその集水域の山地は荒廃がひどく、 大雨の度に泥流が流入して良質な水の確保は困難だった。 そのため水源涵養林の整備は急務であった。  (3)また外国人居留地始め市街地は大雨の度に洪水や浸水に悩まされた。 そのため洪水や土石流防止の砂防植林が必要な状況にあった。

 このような状況の中、 ドイツへ留学し、 ドイツ林学を修めた東京帝国大学教授本多静六に神戸市は調査を依頼し、 明治35年(1902年)11月13日植林作業の一つ地拵えに着手した。 これが計画的で大規模な六甲山植樹開始元年である。

4.風致林の考え方

 この大規模な計画的植林で特筆すべきことは植栽樹種の多さだ。 クロマツなど砂防樹を主にしながらも、 木蝋を採取するハゼや樟脳を採るクスなどを混植して森林経営の安定を図る一方、 20種に及ぶ樹木を植林していることはもともと地形の急峻な六甲山での森林経営の困難さを見抜き、 風致林に重きを置いた植樹がされていることだ。 このように都市林としてのドイツ林学の特徴である「森林美学」論に基づく神戸市の近代都市としての発展を見込んだ風致林(都市林)の整備が考えられていたらしいことは先人の明に感謝したい。 この考え方は今日まで継承されており、 また将来へ引き継がれていくと確信している。

5.市民の山・六甲山とレクリエーション

 六甲山にはトゥエンティクロス、 シュラインロード、 シェールロード、 カスケードバレー、 アイスロードなど横文字の登山道が多い。 居留地の外国人がつけた名前だ。 彼らは出勤前に毎朝、 背山に登り、 休みの日はハイキングや軽い登山をするなど季節の折おりにレクリエーションを楽しんだ。 そしてその外国人のまねをして登ったのが、 今日でも市民の間に盛んな「毎日登山」だ。 「毎日登山発祥の地」の碑のある再度山の善助茶屋(現在は碑のみ)では音楽を聴き、 紅茶やトーストなど欧風の朝食も用意されていたと聞く。 結構その辺に庶民の隠された楽しみがあったのかもしれない。 また陳舜臣の『神戸ものがたり』の「布引と六甲」には、 外国人の毎日登山の「習慣」と外国人たちの本当の楽しみ、 布引茶屋のスリーグレーセス(三美人姉妹)との恋物語が書かれていておもしろい。

 神戸における最初の登山団体は「神戸草鞋会」だ。 この会は外国人のグループMGK(The Mountin Goats of Kobe)のワーレンが登山道を整備している姿に感じて、 塚本永尭が会員を募集して明治43年に作った民間登山会である。 塚本らは烏原貯水池から摩耶山まで約40Kmの登山道を整備した。 その他「ヒヨコ登山会」「神戸突破嶺会」などは今日も活動している。 このような底辺の大きい市民登山を下地として新田次郎の『孤高の人』の主人公、 六甲山を拠点とする不世出の登山家加藤文太郎が現れる。

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明治元年ごろの六甲山 (神戸市蔵) 明治30年ごろの六甲山 (神戸市蔵)
 
 
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明治36年ごろの六甲山(神戸市蔵) 現在も残る森林内の石積み
 

6.六甲山と災害

(1)山火事
 昭和3年(1928年)、灘区高羽から芦屋川上流までの区域500〜600haを消失する山火事が起こっている。住吉村は「秘蔵の原生林」を失っており、翌年から約100haの植林と防火帯の整備を行っている。また山麓の自治体が協同して「六甲山系火防協会」を組織して山火事の早期発見に努めた。防火帯については明治の植林開始時から山火事の延焼を防ぐため設けてきたが、4〜8mの防火帯の外側にさらに7〜8mの帯状のヤマモモ、マテバシイ、ユズリハ、サンゴジュなどの防火樹林帯を設け、延焼の防止に努めた。この防火帯の管理は今日も続けられている。

(2)土砂災害・水害
 六甲山系の土砂災害は30年周期で繰り返されるといわれている。六甲山において本格に近代的砂防工事や治山事業が始まったのは昭和13年(1938)7月の「阪神大水害」のときからだ。それまでは植林が行われてきたにもかかわらず、災害を忘れた乱伐が繰り返され、多くの被害を受けた。このあとも昭和42年(1967)7月の大水害などを経験する。私たちは土砂災害防止のためにもさらに植林を続けていかなければならない。そのためには、今ある森林の改造が必要であり、災害に強い森林を作るための継続した地道な森林の手入れが必要である。人の手によって創られた森林は人の手で管理しなければならない。

(3)地震
 六甲造山運動が始まって約200万年が経過している。今、六甲山最高峰の標高は約931mである。平成7年(1995年)1月17日午前5時46分の「阪神・淡路大震災」では13cm隆起したという。単純に換算すれば、今の山容になるまでに今回の規模の大地震が7,000回以上もあったことになる。ただ人間が忘れてしまっているだけだ。この地震で六甲山系は約770箇所の崩壊地が確認されたが、市街地から眺める六甲山は厳然と存在し、私たちの心のよりどころとなった。

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(神戸市蔵)
 
7.国立公園の編入

 第二次世界大戦後、昭和23年(1948年)に六甲観光交通委員会が結成され、昭和27年(1952年)には新池スケート場、六甲山牧場、六甲ゴルフ場が再開した。さらに昭和30年(1955年)には奥摩耶ロープウェイが開業するなど次第に復興していった。そんな中、昭和31年(1956年)5月10日六甲山は六甲山地区として瀬戸内海国立公園の一部に編入された。このことにより、大都市に近い国立公園として六甲山の自然の保全と適正な利用が自然公園法に基づき行われるようになった。それはそれからの六甲山の未来を変える大きな契機となった。そして現在、国立公園である故に自然はある程度守られているが、十分でなく、これからの六甲山はどうあるべきか、その保全と適正利用についてそれでいいのかという問題を抱えている。国立公園の存在は六甲山を魅力ある観光資源として復元するためにはどうしたらよいのか、議論する上で大きな課題となっている。

8.市民活動による六甲山緑化

 明治初期に居留外国人によって提唱され、六甲山植樹の市民植樹は今も続いている。また大都市に隣接して存在する森林の価値がいわゆる「里山」として大きく見直され、都市林の整備が大きく唱えられている現在、市民の都市林・六甲山緑化に対する関心は高まっている。

 昭和30年(1955年)、第二次世界大戦により手入れもされず荒廃した六甲山の市民の手による植樹が始まった。それは阪急百貨店の清水雅社長が提唱した六甲山を緑のオアシスしょうという「六甲を緑にする会」の運動だ。また「六甲の緑化はまず地元のわれわれが……」という思いから始められた国立公園六甲山地区環境保全要綱の緑化協力事業もある。六甲山地区にホテル、山荘などを建てるときに建設費の1%を基金に積み立て六甲山を自ら緑化しようとするものだ。しかし、近年の金利の低下や六甲山から撤退する企業の増加やまた逆に進出する企業の極端な減少によりその運用はかなり困難になっている。

 神戸では居留外国人の影響を受けて、六甲植樹の黎明期から市民による登山道の植樹が行われてきた。毎日登山の会のハイキングコース管理会や六甲全縦走市民の会は今も修景樹や防火樹の植栽を続けている。

 その他、阪神・淡路大震災後、「ドングリネット神戸」「こうべ森の小学校」「こうべ森の学校」「雑木林会議」などさまざまな緑化市民活動が始まっているし、企業のよる社会貢献の一環として名ブランド「六甲山」への100年の将来を見据えた貢献も始まっている。今後もこのような新しい形の市民運動が裾野を広げていくと思う。

9.再度山永久植生保存地

 昭和49年(1974年)国際植生学会が神戸の再度山と森林植物園で行われた。そのとき、ドイツの世界的な植物学者チュクセン教授から再度山を「植栽した樹種、本数、面積などが記録され、禿山から緑が復元されてゆく様子が写真で残されているのは貴重である。

 植生を観察する場所として保存することを考えてみては?」と提案を受け、神戸市ではその後、5年ごとに調査を神戸大学に委託し調査を継続している。このことは自然観察の事例として世界的にも貴重な調査だと思う。

10.みどりの継承 〜これからの100年〜

 六甲山植樹は100年経ったが、まだ道半ばといえる。この森林が本当の意味で定着するのはまだ70〜100年かかる。100年目の今を生きる私たちは後世の人たちから何をしていたのだと言われないように、今すべきことをしなければならない。100年目を考える市民懇話会は下記の提言をしているので、それを掲げこの章の結びとしたい。

・過去100年の取り組みを見つめ直し、これからの100年に向けた長期的視野を持つ。

・市民生活と密接に関わる「ふるさとの山」として六甲山の緑を育て次代に継承していく。

・自然と人々との共存をめざし保全と利用のメリハリをつけて六甲山の緑化活動を発展させる。

・人の手によって継続的に森林を育成し、量から質への転換によって質の高い森づくりを行う。

・自然や環境や人に関する学習の場所として活用を図る。

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六甲山市民植樹の活動 (神戸市蔵)


2.『21世紀都市林”こうべの森”』をめざして

1.序にかえて

 「明日までに今検討している“こうべの森”計画の参考になるヨーロッパの都市林を調査するなら、どこへ行きたいか? 調査項目も含めて企画書を書いてこい」

 1982年(S57)、私は当時の神戸市公園課長から言われた。もしかしたら、ヨーロッパへ行かしてくれるのかもしれない。そんな淡い期待を抱いて徹夜で企画書を作った。

 私は企画書を創りながら、印象派の画家マネとモネの同名の絵画『草上の昼食』を思い出していた。マネの絵にはなぜか裸婦が描かれており、モネの絵はマネの作品に構想を得て描かれたと言われている。林相は異なるものの両方とも平地の深い森林の中でピクニックを楽しむ男女が描かれている。ヨーロッパの主要都市の近郊には都市を抱くように広大な平地林が人の手による植林によって創られていた。それをぜひ見たい。神戸市も六甲山系を背山として都市の背後に広大な人工林を持っている。平地林と山岳林の違いがあるにせよ、都市における豊かな自然環境保全や都市民のレクレーション資源としてヨーロッパではどんな思想で都市林が創造され、管理運営され、利用されているか?を知りたかった。一晩かかってフランスの“ブローニューの森”、オーストリアの“ウィーンの森”、オランダの“アムステルダムの森”、西ドイツ(統一前)の“フランクフルトの森”を調査したい旨、企画書をでっち上げた。

 何日かして兵庫県の自治体職員研修団(団体で移動し、それぞれの国、都市で共通視察と個々にテーマ別調査を行う研修団。テーマ別調査の予約・承認、交通手段の確保、通訳の手配等は各自でリザベーションを行うシステム)に参加してヨーロッパ行きの決裁が下りた。しかし私が一番行きたかったオーストリアの“ウィーンの森”は他のメンバーの移動の関係から断念せざるを得なかった。

 私がヨーロッパの都市林で学んだことは「市民の理解と協力を得ながら、今、何をなすべきか? 立ち止まってはだめだ。着実な毎日の積み重ねが子孫にかけがいのない豊かな緑を残す」と彼らが考えていることだった。言い換えれば、ヨーロッパの都市民は私たちより多くの緑の享受を受けながらもさらに市民の身近に緑を増やし、それを子孫に残そうと常に緑の必要性を市民に訴えながら日夜努力していることだ。そして土地の狭い日本では非常に難しいが、緑の管理はできるかぎり自然のままにするというのが彼らの基本的な考え方であった。もちろんただ放置するというのでなく、一定の管理をしながら森を自然へ返すことを考えていた。

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  2.都市林とは?─都市林“こうべの森”計画策定のいきさつ─

 神戸のみどり『六甲山植樹100年』で述べたように、明治の初頭の草木のなかった荒廃した六甲山は幾多の先人の努力によって神戸の特色ある背山として豊かな緑を市民のみならず近畿圏の人々に提供している。   1967年(S42)の災害のあと策定された中央森林公園計画は、15年経過した1982年(S57)には市民の理解と協力を得て、先人たちの努力を継承しながら大きな成果をあげていた。しかし、日本経済は高度成長から安定期へ移るとともに、高齢化社会も進み市民のライフサイクルやライフスタイルも時代の流れに沿って大きく変化していった。余暇時間の増大のみならず、人々の活動やレクレーション動向も多様化しつつあった。また緑の問題も1971年(S46)から始められたグリーンコウベ作戦は13年目を迎え、無剪定街路樹や交通安全や死角による犯罪など市民生活との軋轢も生じ、“みどり”も量から質への転換を迫られていた。

 そんな時代的背景と今までの成果のもとに新しい世紀21世紀をにらんだ新計画の策定が急務とされた。それが1967年(S42)に策定された六甲山の西側(主として神戸市有林 約2,300ha)の森林の利用と保全の計画である『中央森林公園計画』をベースに1983年(S58)策定された『新・中央森林公園計画』いわゆる『都市林“こうべの森”計画』である。もちろんこの計画は六甲山植樹100周年も21世紀初頭に迎えることも十分念頭に置くものであり、貴重な“みどり”をどう守り育て、子孫に引き継いでいくかも重要な課題であった。

 そろそろ都市林とは? に答える必要があろう。私たちはその定義として「都市近郊にあって、都市の圏域に位置し、環境保全やレクレーション機能を通じて市民生活に深い関わりを持つ森林をいう」とした。ただし、下線の文言は当時の定義には書かれていないが、都市林“こうべの森”の計画内容・趣旨から当然想定していたことであり、現時点で私が文言を追加し、誤解のないものとした。 

3.計画の概要

 計画区域は六甲山系でも最もよく自然が保全された区域のひとつであることを踏まえつつ都市の“みどり”としていかに利用も考えるかだ。それには都市林“こうべの森”が市民の心に深く根ざしている必要がある。すなわちふるさとの山として捉えられることが大切なのだ。そのためには神戸の“風土”に根ざした都市林を考えていく必要があり、21世紀をめざす長期的な視野に立った森林形成に引き継がれる。

 ある市民は毎日登山という利用形態でこの都市林を“裏山”として、ある市民はうさぎ追いしかの山、すなわち“里山”として、あるいは“ふるさとの山”として捉えられるようとする。また広域的には都市近郊のレクレーションの場や観光資源として考えていく必要があろう。そして利用のための交通アクセスの改善に努め、誰でも手軽に都市の雑踏から離れてハイキング・自然観察・歴史散策などすべての分野の楽しみを都市林 “こうべの森”のふところの中ででき、かつ人と人のふれあいや生き甲斐を再発見できる場の創造も大切であると考えた。また高齢者と若者の役割分担を考え、積極的にジェネレーションギャプを解消していく試みも推し進めるべきだと議論した。そのためには都市林“こうべの森にに誰でも誘い合って参加できる雰囲気づくりのみならず、誰でも参加できる都市林“こうべの森”の中での活動には「都市林作法」ともいうべき利用のためのルールづくりが必要になってくる。

(1) 計画策定の基本方針

@目的:すべての市民始め広域的にも気軽にいつでも利用できる市街地近郊のレクリエーションの場の創造をめざす。

Aみどりの施策:神戸市民にとってかけがいのない“みどり”を利用だけでなく守り育てる施策を神戸市だけでなく関係行政機関とともに協力して進める。

B施設計画と交通計画:森林植物園、布引公園などエントランスエリアに位置付けられた核となる公園を整備するとともに、利用のための交通アクセスの整備、改善を推進する。

C管理・運営:総合インフォメーション体型の整備やイベントの開催など森林と親しくふれあう雰囲気づくりを行い、利用者が四季を通じて森林浴等が楽しめるよう総合的な管理・運営を進める。

(2) 利用者・関係団体の責任と市民参加

 関係団体は“みどり”の保全と利用を図るため、相互に緊密な連絡・調整・協力し、それぞれの責任において総合的に整備し、管理運営する。そして利用者も自らの責任を自覚し、都市林利用の作法を高めていく必要がある。利用者と市始め関係機関は責任と分担を明確にする必要がある。

(3) 計画区域及び利用と保全ゾーン等の設定

計画区域は約2,300haで土地所有者は大部分が市
有地(注:1995年の阪神・淡路大震災後、一部国
有地となるも土地利用は変化なし)である。

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(4) 実現するための施策

 
計画区域内には学術的にも貴重な森林や森林レクリエーションに適した森林がある。都市林“こうべの森”として好ましい森林形態と具体的施策を提案し、積極的に保全と利用の調和を図る。

@好ましい森林形態

・景観重視型森林
明治初期の植樹計画から計画されていた市街地からの景観林。市街地から見える森林は神戸の風土にねざす常緑広葉樹と落葉広葉樹及び花木林による四季楽しめる森林を形成する。視点として三宮市街地、北野地区、ポートアイランドを考える。

・自然重視型森林
内陸部の良好な自然植生は学術上も貴重で自然重視型で保全する。特に再度山永久植生地、摩耶山のアカガシ群落、穂高湖周辺のウラジロガシ群落、かわうそ池周辺のコナラ林は積極的に保全する。

・利用ゾーンの森林
再度利用ゾーンの周辺では林間レクリエーションの場として快適な疎林を維持・創造する。また利用ゾーンには花木林や松など特徴ある針葉樹林の保全・維持・創造により積極的に森林景観を保育していく必要がある。なお、利用ゾーンは森林植物園・再度利用ゾーン、摩耶・六甲山牧場利用ゾーン、布引利用ゾーン、諏訪山利用ゾーンの4地区を設定する。

A具体的施策

 @の好ましい森林を保全・創造していくためには計画地内の森林景観の評価、その具体的修景実施計画を策定・実施する。また貴重な森林の調査・評価、自然保護区の設定、その調査・評価のための専門部会の設置が急務である。

(5)利用のための施策

 施設整備にはそれぞれの利用者層のニーズや利用動向を調査し、利用ゾーンの設定・施設の連携・連絡を図る必要がある。また国立公園計画との整合を図りながら、六甲山系の良好な自然を保全しつつ、豊かな自然と調和の取れた施設整備を進める。施設整備の具体的計画は6つのエントランス(諏訪山口、布引口、摩耶口、六甲山牧場口、小部口、洞川口)を入り口にふさわしい景観的整備を行う。またそれらの施設を結ぶ交通アクセスの整備は急務だ。一方、交通アクセスの拠点となる連絡拠点(かわうそ池、穂高湖、洞川、市が原)の整備も急がれる。ハイキングコースも重点的に整備管理する。その他ドライブウエイやハイキングコースのところどころに不法投棄がなされ、景観を害している。ここは沿道スポットの整備や沿道緑化を強力に推し進める。

(6)管理運営計画

 計画区域内にはほとんどが国立公園区域であり、その制約を受ける。また種々の管理者がおり、都市林“こうべの森”の管理運営は各管理者の立場を尊重しながら相互に協力し、利用者の立場に立った管理運営が必要だ。問題点と現状は単一管理者でないため、施設整備、PR、イベント、サイン、インフォメーション、統計などいずれも統一されていないのが問題点であり、現状だ。そのためには総合管理の可能性を探り、そこまでできないとしても総合インフォメーション、統一イメージによるPR、共同推薦ルートの提供、総合あるいは提携イベントの開催など緊密な連携が肝要である。一方、市民参加による管理運営を強力に推進する必要がある。

(7)今後の課題

 都市林“こうべの森”計画は当初からその実施の困難性が指摘されていたため、計画に多くの課題が記されている。例えば、計画の再評価、各機関の協調、具体的実施計画の困難さ、ミニバスなど交通アクセス改善の困難さ、自家用車の入園制限、水資源の枯渇などをあげ、こうした課題に取り組み人間環境都市神戸において西暦2001年に、都市林“こうべの森”が市民生活の一部として機能していることを期待しているとした。

4.都市林“こうべの森”計画の検証

 この計画は1982年(S57)の実務段階の六甲山特に西半分の市有林部分の問題点を浮き彫りしているため、現在でも六甲山管理運営に当たる担当者のバイブルとして利用されている。この計画における施設整備はほとんどが実施され、特に森林施業は地道に進められていると思う。また震災で市有林のうち約500haが国有林となった。しかし六甲山観光ポテンシャルの低下や私たちの努力不足せいか、交通アクセスや総合的管理運営は20年前とあまり変わっていない。そしてこの計画で欠如していた市民参画による森林管理の議論は2002年(H14)の六甲山植樹100年目に『六甲山植樹100周年市民懇話会』に引き継がれたと思うし、都市林“こうべの森”計画の思いは脈々と『六甲山植樹100周年市民懇話会』の提言の中に息づいていと確信している。都市林“こうべの森”計画も六甲山植樹と同じようにこれからの100年が大切である。私たちはこの時代を生きた証として、「今、何をすべきか?」を忘れてはならないと思う。


3『しあわせの村誕生異聞』

1.村のはじまり

 今(2006年)から36年前、相楽園の大会議室でのことだった。昭和46年度の神戸市の予算査定のとき、老人医療の公費負担などが議論されたあとのブレークタイム、ほっとした空気が会議室に流れていた。

 「そうだなあ……、障害者だとか高齢者、つまり心身に何らかのハンディキャップを持った人たちが、そこへ行けばよけいな気を遣わず過ごせる、心が和む、そんな場所『しあわせの村』とでもいうのかなあ? そんなものを今すぐというわけではないが、ぜひ創りたい」故宮崎辰雄市長が財務課の担当者たちに呟くように言ったという。私はこの話をその当時財務課で、開村のとき上司だったある人から聞いた。おそらくこれが『しあわせの村』構想がスタートした始まりだと思う。

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2.計画立案 ──構想から着工まで10年──

 
そんな発想が語られたあと、昭和46年度から『しあわせの村』構想が着手された。当時故宮崎市長の構想がどのような理想をもとに出されたのか誰も分からなかった。とにかく基本構想(案)策定が当時の民政局から外部コンサルタントA設計に委託された。その構想の概要は昭和51年(1976)10月に公表された『新・神戸市総合基本計画(第2次神戸市マスタープラン)』によると、「老人・児童・身体障害者を中心に市民一般に開かれた施設であり、相談・指導施設・通所・短期滞在施設・教育・研究施設等を備えた福祉医療、教育の専門的な福祉サービスから、さらに文化・レクリェーション・コミニュティ活動が行われるしあわせの村を構想する。村は一般社会から隔離したものでなく、身近で、開かれた環境のもとの、中核的福祉地区であり、実験的福祉都市建設の核として位置づけられる」とある。

 ここに至って故宮崎市長の構想は具体性を帯びてくる。この構想の考え方はまさに「ノーマライゼーション」の実現にあった。ともすると世の中から隔離・分断されてきた福祉施設を、本来のあるべき姿に復活させる考え方だ。「ノーマライゼーション」はデンマークで最初に提唱された。その意味は高齢者や障害者を隔離・分断するような社会はアブノーマルであり、高齢者も若者も、障害者も健常者も、すべて人間としてノーマル(普通)な生活を送るため、ともに暮らし、ともに生きることのできる社会こそ、ノーマルだ、という考え方だ。現在ではかなり社会に浸透しているが、当時はまだそんなに知られていなかった。

 そして、昭和52年(1977), 『しあわせの村』計画地は現在地に決定した。決定要因はまず、(1)谷部の棚田の民地を除いて大部分が市有林であり用地の確保が進めやすいこと、(2)神戸市のほぼ中央にあることだった。神戸市域は正方形に近い。地図を広げると、『しあわせの村』は確かに市域の“へそ”にある。このことはこの施設が神戸市の総合福祉ゾーンとして全市民の中心施設であることを象徴している。

 当時、長田箕谷線沿いには墓園、拘置所、特別老人ホーム、軽費老人ホーム、消防学校、ひよどり住宅があるだけで、道路から西は約1,000haに及ぶ広大な森林が続いていた。それは今も村西側に広がっている。そして私たちは計画立案と用地買収の調査のため、白川村から濃いみどりと木漏れ日と清らかな水が岩に踊る白川沿いに村予定地に入っていった。民地は谷沿いの棚田だ。小さな田に稲が実り始めていた。所どころに小さな池があった。池の周りの木立が涼しげに水面に影を揺らしている。棚田の畦で食べた弁当の味が忘れられない。

 昭和54年(1979)、基本構想をもとにした基本計画(案)の策定がBコンサルタントに委託され、翌年(昭和55年(1980))「しあわせの村研究会」が設置され、基本計画(案)について福祉、医療、教育、建築、土木など各方面からの意見を聴取し、基本計画(案)のオーソライズを進めた。全体面積約205ha、全体事業費約520億円の基本計画(案)が固まるにつれて、もともと大きな問題であった財源確保が急務となってきた。当時、福祉関係の国庫補助金は微々たるものだった。そこで前々から考えられていた社会福祉施設と都市公園の複合施設構想がにわかに現実味を帯び、同年(昭和55年(1980))、『しあわせの村』を社会福祉施設(民生ゾーン)と都市計画公園(広域公園)の2ゾーンに都市計画決定し、同時に環境アセスメントを環境アセスメント審査会に上程した。

3.建設 ──着工から開村まで8年──

 昭和56年(1981)、ポートピア ’81(神戸ポートピア博覧会)で賑わっていた年、『しあわせの村』は着工した。造成工事にかかりながら社会情勢や福祉施策の進展にともない、昭和56年(1981)〜58年(1983)にかけて都市計画研究所に委託することによって「しあわせの村施設総合研究会」が設置され、基本計画の施設内容や配置計画の再検討や施設の総合的な管理運営が模索され、神戸市の福祉の核となるにふさわしい新しい手法の開発をめざした。「ノーマライゼーション」の実現が前面に出た。そのため、基本計画の見直しが進められ、昭和62年(1987)、身障者のみならず、子どもからお年寄りまで誰でも快適に過ごせる健常者も楽しめる施設の目玉である「温泉健康センター懇談会」を設置し、伊香保温泉で実際にホテルを経営し、温泉の権威である(クワハウスの創始者)木暮金太夫氏を中心に整備内容と管理運営について意見を聞いた。昭和63年(1988)、村の統一的管理運営主体を(財)こうべ市民福祉振興協会が担うことになった。

 そして平成元年(1989)4月23日開村記念式典、同26日村は正式に開村した。実に構想から18年の歳月が過ぎていた。

4.新しい発想 ──制度の枠を超えて──

 『しあわせの村』の素晴らしさは既成の考え方に囚われず、新しいものを開拓していったことにあると思う。これはなかなかできない。どうしてもしがらみや制度の枠に囚われてしまう。『しあわせの村』はそれができた。故宮崎市長やその考え方を推進したふたりの故人(山下彰啓氏と加藤春樹氏)の業績は計り知れない。彼らは市民のためになるのであれば、国や市の制度にこだわらず柔軟に対応すべきだという考えですべてを進めた。当時、都市公園と社会福祉施設の複合施設など考えられないことだった。当初、都市公園整備を福祉施設と一体的に整備することを建設省(現在の国土交通省)に相談したとき、苦悩する担当官の顔を私は覚えている。しかし当時建設省も新しい都市公園のあり方を模索していた。「やってみよう」そう言った補佐の顔は輝いて見えた。少なくても都市公園ゾーンの国庫補助金とその関連事業の起債が容易になる……と。

 「でも、福祉ゾーンも計画決定することが条件です」彼は言った。そして『しあわせの村』は全国で初めて社会福祉施設を都市計画決定した施設となった。同じ意味でその当時補助対象でなかった温泉関連施設も建設省がちょうど推進しようとしていた「健康増進施設」の補助対象施設の拡大による「健康増進施設」のモデルとすることで交渉がまとまった。私たちは東京から神戸に帰る新幹線の車窓に缶ビールの空き缶を何個ならべたか覚えていない。

 それから何年かして福祉施設のみならず他省庁関連の他施設との複合施設補助は都市公園国庫補助の正式なメニューとなった。

5.温泉と夕焼け

 『しあわせの村』は隠れた夕焼けの名所だ。北ゲートに近い丘の上に造成工事を担当していた神戸市整備公社の現地事務所があった。今は禁止されているが、仕事が終わったあと、私たちは疲れた身体を癒すため、みんなで食材を持ち寄ってバーベキューをした。夕焼けは遠く森林や空を真っ赤にしていた。ビールが腹に滲みる。みんなの顔も夕焼けに染まって赤い。笑いが溢れる。

 「ノーマライゼーションってさ、一般市民もこなくちゃなあ?」、「ああそうや。何かいいアイデアないか?」、「今の計画だと目玉がないぞ」、「客寄せパンダがほしい」誰かが酔って舌の廻らない感じで言った。「俺、温泉に入って、冷たいビールが飲みたいんや」、「それや! 温泉を掘ってみようや。一般市民だけでなく誰でも喜んでもらえるしなあ」。現在はクワハウスとかスパとか大衆風呂とか○○温泉とか人気が高いが、その当時はまだそれほどでもなく、民間の施設も少なかった。

 早速、調査が始まった。「総合福祉ゾーン(しあわせの村)建設事業<造成工事の記録1>よると、まず温泉工学研究所の調査で村区域の西中央下の堂防調整池附近が有望と出たので、兵庫県温泉審議会に「温泉掘さく許可申請」を出した。しかし工事工程や地形上二次揚水が必須であったため断念。別のコンサルタントに地表地質調査と弾性波調査を依頼した。その結果、温泉が湧出する可能性の高い、花崗岩と神戸層群の境目で比較的深度が浅い(約400m)2ヶ所が候補になった。そして土地利用計画等を勘案して、現在の神戸リハビリテーション病院の東にある駐車場の山裾をボーリングすることとなった。

 このボーリング結果に基づいて本掘削を行いようやく温泉を掘り当てた。しかしこの掘削はあくまで井戸の掘削であったため手続き上問題が生じたが、最終的には温泉として認定された。泉質等は以下のとおりだった。この温泉を掘り当てたことにより健常者誘致施設、すなわち温泉と健康を結びつけた健康運動施設「温泉健康センター」の計画は一気に進んだ。

 不謹慎かもしれないが、夕焼けを眺めながら飲んだビールが肩から力を抜き、柔軟な心が素晴らしいアイデアを生んだように思う。昨今、このような息抜きがすべてだめだという風潮だが、節操のある催しは時として有意義な場合が多い気がする。

※「しあわせの村」の温泉概要
●泉質 単純弱放射能冷鉱泉(単純ラドン泉)
●泉温 18.3℃
●湧出量 235L/MIN
●効能
 (1)浴用…1)神経痛 2)筋肉痛 3)関節痛 4)五十肩 5)運動麻痺 6)痛風ほか15項目
 (2)飲用…1)痛風 2)慢性消火器病 3)慢性胆嚢炎 4)胆石症 5)神経痛 6)筋肉痛 7)関節痛

6.基本理念を生かすための基本計画と管理運営計画

 しあわせの村の基本理念はノーマライゼーションの実現をめざし、「こうべ市民の福祉をまもる条例」の精神である“自立と連帯”を基本に市民福祉を進めていくことである。また一方でともすると、閉鎖的で暗いイメージ(コロニー)になりやすい社会福祉施設を緑豊かな自然のもと、明るく開放的な空間で障害者はもちろんのことすべての人々が、健康・スポーツレクリェーション・芸術・社会活動・授産・ボランティア活動等に参加できるようにすることを目標に基本計画及び管理運営計画を立案した。

(1)ウエルネスパークとして、生涯を通じてすべての市民がリフレッシュできる場を提供できるようにする。

(2)高齢者や障害者等ハンディキャップのある人々に、必要な訓練・介護・指導・など総合的なサービスを提供し、自立や社会参加を促進、支援する。

(3)高齢者、障害者、児童、女性、勤労者など広く交流・ふれあい事業を行う。

■基本計画

1)制度による境界を設けない
 したがって村は社会福祉施設と都市公園が何処で区分されているか利用者は知る必要もない。全体が公園として整備され、広大な芝生の中に赤い瓦屋根に白い壁(カサ・ブランカ=白い家)の、スパニッシュミッション風の建物が点在する明るいイメージを展開させることした。

2)魅力ある施設
 上記の基本理念を生かし、ノーマライゼーションを実現するためには、村は障害者だけの村になってはならない。そこには日常的に多くの健常者が訪れる村でなければならない。したがって基本計画は健常者が絶え間なく訪れる魅力ある施設を考え出すこととそれをどう動かしていくかのソフトウエアの整備がポイントだった。温泉の湧出は「温泉」と計画時点での総理府(現在は内閣府)調査で国民の関心の高かった「健康」を結びつけた「温泉健康センター」を計画にのせた。

3)なじみのある空間
 村は谷を埋め、森林を切り開いて創られた。新しい町がそこに出現する。しかし人々はたとえば地蔵尊のある路地裏の町や鎮守の森など自分が生まれ育った原風景にいるとき、説明できない安堵感をもつという。そこで村の中央に昔の山をそのまま鎮守の森として残した。私たちはそれを「なじみのある空間」と呼んだ。このことはあの阪神・淡路大震災のとき証明されたと思う。人々は一次避難地として日常的に慣れ親しんでいた公園に逃げた。心の支えに厳然と存在する六甲山にも励まされた。

4)バリア・フリー
 村はその性格上、基本計画の段階からバリア・フリーはそのコンセプトの中に生かされてきたと思う。あのころは今のように「ユニバーサル・デザイン」の考え方はなかったけれど、もともと公園計画の基本の中には弱い者や自然を大切にするコンセプトは生きている。「ユニバーサル・デザイン」は意識されていなかったにせよ、新しい村を創るプロジェクトであったからバリア・フリーの意識は超えていたと思う。すなわち、

▼フェンス・柵・石積み・擁壁など視覚的、心理的バリアはできるかぎり持ち込まない。

▼村の建物は囲まない。

▼神戸市民の福祉をまもる条例の実現と都市施設の障害者等に配慮した施設基準のアップを試みる。それは「ユニバーサル・デザイン」の考え方に近く次の目標などまさに「ユニバーサル・デザイン」だ。

▼障害者の、障害者のための施設というより、さり気なく健常者も気兼ねなく気軽に使える施設基準を創っていく。施設にもよるが、専用施設にせずへだたりなく使用できる施設をめざす。

■管理運営計画

1)もてなしの心・心のふれあい・交流──ソフトの充実
 もてなしの心は、障害者・高齢者・健常者に関係なく村を訪れる人々すべてに対し平等に対応されるものでなければならない。ただそれぞれの立場でどう感じるかの違いがある。例えば、障害者をもてなすとき、かれらも我々と同じように普通の生活を過ごす権利がある。したがって介護や支援が押しつけにならないよう考えて行動し、彼らのできないこと(人によってそれぞれ違う)のみ支援していく、さり気ないもてなしが必要である。もてなしの心で問題になるのは、表面的には理解を示しても、心のなかでは偏見を持っていることが多い。その心の垣根を自然に取り除いていく仕掛けづくりが管理運営でもっとも大切なことである。また、福祉を全面に出したい気持ちが管理運営に出すぎると、健常者が我々の村と違うと思うようになり、村から離れていくことになる。村はバランスのある管理運営をするため、健常者にも障害者にも違和感を持たせないソフトが必要である。

2)縁づくり
 基本計画のなかで提案された「リボンプラン」を受けて、この村を媒介として新しい縁を作っていけるような仕掛けが、縁づくりの希薄な現代において必要となってきつつある。

3)雇用の促進─社会参加─自立と連帯
 社会参加─自立と連帯の理念を実現するために、村に必要な仕事はできるかぎり障害者や高齢者が雇用の機会が得られるよう考える。例えば、村全体は広大な公園のなかにあるようなものだから、緑地の除草・濯水・清掃など園地管理の仕事は限りなくある。それを村の障害者授産施設や授産株式会社に発注するよう計画した。また、村の宿泊館用歯磨き・石鹸・タオル等のシール貼りも福祉施設に仕事を出すことにした。村の売店もできるだけ障害者団体と契約する。ビニールのゴミ袋は、村の需要が多い。すべて村の授産施設から供給してもらうこととした。その他村のイベントのとき、村を飾るバナーは障害者の手作りを考えるなどした。

4)相乗効果
 村には、リハビリテーション病院や認知症保護施設などがあるが、入院入所者は緑豊かな圏内をゆったりした気持ちで散歩できる。また、これらの施設へ家族などの見舞いが増えるという効果がある。遊びに来たのか、見舞いに来たのか、本心は定かでないが、現実的には健常者が、しかも家族連れで入院患者や認知症患者を見舞う率が増えている。さりげない気持ちで訪れる見舞いの方が、悲壮感の漂う見舞いと比べて見舞う方も見舞われる方もどんなに心静かであることか。

5)基本理念を生かした環境デザイン─しあわせの村景観形成計画の考え方と実施方法─
 しあわせの村の景観形成は、村のコンセプトである基本理念と切っても切れない相互作用を及ぼす、と計画当初から認識され位置づけられていた。したがって、基本計画に対する何回かの見直しにもかかわらず、常に重要な項目として留意されてきた。

 このような経緯のなかで「しあわせの村景観形成懇談会jが開催され、ウェルネスパークとして明るく開放的で、かつ安らぎと魅力を持ち合わせた良好な景観が形成されるよう留意すべき基本的事項や方針について検討した。

●景観形成基本方針

(1)高齢者・障害者をはじめ村に生活する人々にとって安らぎを感じさせる「なじみのある空間」と、村を訪れる市民にとって魅力ある「非日常的景観」とが織りなす、変化に富んだ景観を形成する。

(2)豊かな緑を保全するとともに、四季折々の自然の変化を楽しめる緑化景観をめざす。

(3)建築デザインは、神戸らしい明るいイメージを持ったものとする。

(4)個々の具体的な計画に際しては、個性を尊重しながら、統一感のある一体的な景観をめざす。

(5)村全体としては、わかりやすくかつ親しみのある景観形成をめざす。

●実現のための方策

(1)デザインブリーフの作成
(デザインブリーフ:景観形成基本方針、基本ゾーニング、イメージ等の要点をまとめた要約書。(個々の施設基本計画に先立って事業主及び設計者に手渡し、協力をあおぐ資料である。)

(2)緑化計画の策定
(3)景観形成基準等の策定
(4)実施プログラムの作成

7.まとめ

 「しあわせの村」も開村して18年目を迎えようとしている。開村以来、たくさんの人たちの努力によって村は今も多くの人が訪れ、人気のある施設である。しかし長い年月の間に当初のコンセプトが忘れられていることもある。悪いものは淘汰されるのが当然だが、当初の理想が末永く継承されることを願ってやまない。私は計画・建設・管理と当初の段階でたずさわらせていただいたひとりとして、計画当初にどんなことを考えていたのか、この小論が参考になれば、と思っている。

 「しあわせの村」のプロジェクトは現在も私の人生の大きな糧になっている。

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「しあわせの村」航空写真

 
4.『布引ハーブ園誕生異聞』

1.発端

 1967年(S42)7月の神戸大水害により、布引カントリークラブゴルフ場は崩壊し、隣接した「市が原」の市民21人の尊い生命が奪われた。18ホールの無理なゴルフ場開発が原因と裁判になり、その補償が大きな社会問題となった。

 最終的には神戸市が5億6千万円で買収し、ゴルフ倶楽部はその資金で補償した。したがって、初めからこの土地利用計画は災害に強く、豊かな自然環境を保全することが条件だった。現在の地形を保全したままの土地利用計画立案は困難を極めた。

※神戸市行財政局の『神戸 災害と戦災 資料館』ホームページによると、「神戸 昭和42年7月9日には、熱帯低気圧となった台風7号は西日本に停滞する梅雨前線を刺激し、集中豪雨を西日本にもたらした。総雨量は371ミリと昭和13年よりも少なかったものの、1日当たり(9日=319ミリ)や1時間当たり(1時間最大75.8ミリ)の雨量は13年を上回るものであり、河川の氾濫により市内各地域で水害の被害を被った」とある。

2.発案

 「ハーブをテーマにした公園を布引か北神地区に創りたい」

 1983年(S58)秋の公園緑地部政策懇談会の席上のことだったと思う。若手の造園技術職員の、故・伊藤可人君が熱心にハーブ園構想を提案した。そのころの神戸市政策懇談会は、懸案事項に近い重要案件だけを議論するだけなく、一般職員からの提案も故・宮崎辰雄市長・三役まで説明できる機会があった。公園緑地部としては、同じ年の7月に神戸市公園緑地審議会に「布引ゴルフ場跡地の公園整備方針について」諮問していた。しかし、現実の問題として簡単に整備計画が決定できるものではなかった。1972年(S47)神戸市都市整備公社が神戸カントリークラブから先行買収後、1974年(S49)神戸市企画局は跡地の土地利用計画として甲南大学や県立高等学校用地などを検討しながら、1973(S50)神戸大学の田中茂教授に依頼して地質調査を進めた。平行して1976年(S51)〜1981年(S56)防災工事が兵庫県及び神戸市の手によって進められた。1977年(S52)跡地を都市公園にする含みで神戸市企画局(現企画調整局)から土木局(現建設局)に移管された。都市公園であれば、どうにか用地の買い戻しも含めてこの複雑な地形を利用した計画が立案できるだろうという結論だった。正直言って移管は公園側としてもかなり苦しかった。当時公社先行買収用地の買い戻し補助事業(公園用地)は、認められていなかった。起債も含めて事業化の目処がまったく立たない状況だったのだ。公園側の議論は「第一、どんな公園を整備するんや?」という意見を皮切りに空転し、当時かなりの不満があったことも事実である。一方、「市街地の中心地三宮に近い総合公園の整備は意義がある」「なんとかしょう」「既成概念とは違う公園はできないか?」などの積極的な意見も出されたが、暗中模索のスタートだった。

3.計画地の状況

 都市公園整備含みで計画地が土木局に移管されたとき、地質調査や市が原側の山腹工事も終わり、南斜面は基本的な防災工事が進行中だった。

 地形・地質の概略について述べる。園内を有名な布引断層に代表される大小4本の断層が横断している。当時布引断層上には廃墟の旧ゴルフ場のクラブハウスが存在した。割れた黒い窓から破れかけたカーテンの切れ端が風に揺れていた。あの阪神・淡路大震災でよく目撃されたような光景だ。ゴルフコースも崩れていたがコースの跡地形はよくわかった。すでにハギ、ヒメヤシャブシなどの低木が進入していた。播種による砂防樹だろうか?地形は六甲山系の取り付き部に当たる二つの尾根に囲まれた谷部で、今、香の資料館や香のレストランのある展望台は海抜約400mの山頂だ。9番ゴルフコースがそのまま広場になっている。地質は花崗岩で風化はかなり進んでいる。表層は約1〜2mの風化した表土で覆われていた。地質調査によると、かなり深い堆積もあるという。ところどころに岩も露出しているが、風化が進んでいる。土壌は弱酸性の砂質土で透水性が高いので、保水性と肥料の歩留まりが懸念された。

 森林構成は一部にクス、ヤブニッケ、カゴノキ、ヤブツバキなど当地の自然潜在植生である良好な照葉樹林もあるが、大部分はニセアカシア群落を主体とする二次林である。ニセアカシアは砂防樹として早期緑化の価値があるとされた時期もあったが、材質は脆く、風にも弱く、他の樹種を排除する性質もあるところから良好な森林ではない。ニセアカシアを早急に伐採し、ウバメガシ、クス、モミジ、コブシなどを植栽する森林更新を必要としていた。なお、ニセアカシアは今日的見解ではさらに有害外来種とされ根絶すべきという意見もある。いずれにしても1991年(H3)の開園当初から森林更新は進められているが、林相の良好化はまだ道が遠いという感じだ。

4.布引ハーブ園の発想の原点

 いま、なぜ? ハーブなのか?

(1) 「ハーブのある生活」は、その原点である42年災害の教訓を生かした環境に優しく、災害に強い安全な公園づくりをめざすことによくなじむテーマだと思った。

(2) 1984年(S59)9月の神戸市公園緑地審議会答申「布引ゴルフ場跡地の公園整備方針について」の自動車、コンピューターなどが発達した現代社会において、人と自然、人と人のふれあいなど、ともすると現代人が忘れがちなことを思い出させるテーマだ。

(3) それは自然、素朴、やさしさ、ぬくもり、あたたかさ、やすらぎ、手づくり、やわらかさ、いなか、ほんものなどの言葉で表現され、これらの言葉はすべて人とのかかわりの中で初めて意義を持つ概念だった。人間生活との深いかかわり、人と自然の共生、それにちょっとおしゃれなセンスを加味すれば、今までどこにもなかった新しい感覚の公園ができる。

(4) (1)〜(3)を考えていくなかで、ハーブこそ紀元前から人間の生活とともに生きてきたし、一つひとつは野草のように目立たないけれど、野辺の風に吹かれる風情は美しい。またハーブ園に訪れて感じ、かつ知って、ハーブの香りやキッチンハーブなど「ハーブのある生活」を家庭の生活に持ち込むことが出来る。

■その他計画に当たって意識したこと

●公園全体をハーブ中心とした都市公園は日本でも世界でも初めてであること。

●規模は全国スケールで整備すること。

●ハーブ専門家から見ても神戸しかないハーブ園であること。

●眺望留意、北野との連係重視の自然に囲まれた美しい花と香の公園であること。

●香の時代を予感できる新しい神戸の名所となること。

5.ハーブ園とロープウェイ

 1984年(S59)9月の神戸市公園緑地審議会答申「布引ゴルフ場跡地の公園整備方針について」を受けて、ようやくハーブ園ではない総合公園として次の段階へ進もうとしたときだった。

 1985年(S60)故・宮崎辰雄市長からロープウェイ構想が発表された。ロープウェイによるアクセスは市内部でずっとくすぶってきた問題であり、はっきりいって検討もしてきた。しかし採算面など種々の問題を抱えていた。布引大龍寺線の延伸や新神戸トンネルからのエレベーター建設なども検討された。だが、ここに至って市長の方針が出たわけだ。計画は大きく曲線を描くことになった。1984年(S59)9月答申は、徒歩によるアクセスだった。前提が違う。事務ベースは議論に議論を重ねた。「ロープウェイなら、利用者はもっと広域を考えなければ……」「ロープウェイなら全国ベースの神戸の新しい名所にしなければ、採算が心配や」「北野異人館との連係ももっと考えなければ……」「審議会答申をもらったばかりで委員の先生方の説明はどうするや? 納得してもらえるかな?」「神戸市政100年もにらんまなけりゃなあ」と。

 そのとき、にわかに「ハーブ園構想」が浮上した。先の故・伊藤可人君の提案も公園砂防部としては留保していたし、新たな打開を模索して1986年(H61)、集客企画に強い阪急系コンサルタントに構想案の提案を依頼した。若い女性スタッフを主力とするこのコンサルタントはずばり「ハーブ園構想」を提案した。ここに来て内部保留案と外部案の偶然? の一致をみた。そのあと「布引ハーブ園」と神戸市都市整備公社が進めていた「ロープウェイ構想」とのドッキングをはかり、「布引公園基本計画」(案)が完成し、1987年(S62)秋、「布引ハーブ園」は故・宮崎辰雄市長の承認を得た。そして1988年(S63)2月、「布引ハーブ園」「ロープウェイ」が記者発表され、一部防災工事に着手した。

 なおこの変更劇はかなりの激務であったことを記しておきたい。

6.ヴァルトブルグ城をめざして

 ハーブ園のコンセプトは全体をテーマのハーブに調和した中世ヨーロッパの古城とした。すべてをほんもの、自然素材志向で整備しようということになった。目標とする古城はドイツ(当時は東ドイツ領)チューリンゲン州アイゼナッハの郊外の山上にある世界遺産「ヴァルトブルグ城」だった。私たちは「ヴァルトブルグ城」の写真を事務所に貼り、コンサルタントと協議を重ねた。今も「布引ハーブ園」の香のレストラン、森のホール、香の資料館、グラスハウスの外壁を見ると、あの写真を思い出す。アイゼナッハはバロック音楽のバッハが生まれた町、宗教改革の指導者マルティン・ルターが少年時代を過ごした町だ。「ヴァルトブルグ城」での歌合戦も有名である。ワグナーの「歌劇タンホイザー」は正式には「タンホイザーとヴァルトブルグ城の歌合戦」といい、この古城で初めて上演された。また古城は「布引ハーブ園」と同じように小高い丘の上にあり、アイゼナッハの町を眺めることが出来る。しかし私たちは古色を出すために屋根瓦や石材など材料などの吟味で、費用の関係から新しいものしか使えなかったのは悔やまれる。

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写真 香のレストラン

 
7.ハーブとは?

 「布引ハーブ園」の計画や建設がスタートしたとき、恥ずかしいことにまだハーブとは? 何なのか私たちも全然知らなかった。それでハーブの初歩から、開聞山麓香料園園長の宮崎泰先生とNHK趣味の園芸の講師でハーブ研究家の廣田先生の指導を仰いだ。そして廣田先生には計画・建設・管理運営に至るまでお付き合いをいただいた。先生方がおられなかったら今のハーブ園はないのではないかと思うのでここに記して感謝したい。

 そして今、「布引ハーブ園」開園から13年が経とうとしている。市内いや全国にハーブは伝搬し、爽やかな香りと可憐な花を競い、人々の生活の中に定着している。その意味で「布引ハーブ園」の果たした役割は大きかったと自負している。

※ハーブとは?

 簡単にいうと、主に温帯に生育し、料理の風味付けや薬用などのほか、さまざまな分野で人間のくらしに役立つ香ある植物である。ハーブの歴史は古く、古代文明発祥の地ではハーブに関する神話や伝説が多く残されている。

 また、1931(S6)年に出版された「A Modern Herbal」には約2600種のハーブが紹介されている。ハーブは洋の東西を問わず各国の暮らしに根付き、その植物と利用法は代々子孫に受け継がれている。梅、ショウガ、ミョウガ、オオバ(シソノハ)、ネギなど日本でも日常生活の中に多くのハーブが使われている。

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ローズマリー(シソの仲間)

 
8.布引ハーブ園とロープウェイ建設反対運動

 「布引ハーブ園」と「ロープウェイ」建設は42年大水害の被害に発する自然保護の見地により構想段階「兵庫県勤労者山岳連盟」や「布引・市が原の自然を守る会」から厳しい反対にあった。ハーブ園やロープウェイを建設せず、ゴルフ場跡地をそのままにし、自然に戻せ、という主張だった。市は「六甲山が禿げ山から先人の努力により今日の緑が回復したが、人工によって創られた森はまだ道半ばであり、布引近辺の森も人工林であり、これから少なくても100年は人の手を入れていかねばならないし、また市は営々と森を守って来た。布引ハーブ園建設は災害防止や森林更新も含んでおり是非やらなければ」と。またロープウェイ建設は「子供から高齢者まで誰でも気軽にハーブが楽しめるようにするには是非必要だ」と説いた。相手のいろいろな運動に対応しながら、守る会との会合は開園後の平成6年まで都合13回に及んだ。現在年間50万人弱の入園者が「布引ハーブ園」を訪れている。

 なお、工事道路は熊内からのルートしかなく、工事用自動車の通行制限などの協定を作って対応したが、追い込みに入ると、「おい、朝6時トラックが通って家内の額を落とした。どうしてくれる?」「壁が落ちたがどうしてくれる?」など苦情も多く、沿道市民に多大の迷惑をかけた。ここに記し、協力に感謝したい。

9.投げ込み式入場料徴収システム

 2006年(H18)から指定管理者制度が適用され、民間会社が「布引ハーブ園」「ロープウェイ」を一括管理することになったので解消したと思うが、当初、「布引ハーブ園」は(財)神戸市公園協会が神戸市より受託を受けて管理運営し、「ロープウェイ」は公園施設を設置・管理許可を受けた(財)神戸市整備公社が管理運営していた。そのため、料金体系が二重になり、利用者に高額感を感じさせる恐れがあった。料金統合は開園前から検討協議されたが、運輸サイドの指導から解決できなかった。そのためアメリカ・ワシントンのスミソアン博物館のように入園者の良心に訴える投げ込み式料金箱が設置された。数字はさし控えるが歩留まり良好であった。なお、この件について私はローマの「真実の門」をまねしてその口に料金を入れる案を提案したが、「馬鹿者」と上司に一蹴された。今でも苦い、残念な思い出である。

10.今後のこと

 先に書いたように指定管理者制度によって「布引ハーブ園」と「ロープウェイ」は民間会社が管理運営している。施設の生い立ちは誰が管理運営しても大切である。悪弊は改革したらよいが、いいものは踏襲してほしい。そために今、この小論が少しでも役立てば、と思う。

5.『相楽園異聞』

1.海への熱い思い

 「相楽園」について書くには、その創始者小寺泰次郎が三田藩(九鬼家)藩士であったので、まず三田藩九鬼家の略歴から始めなければならない。それは小寺泰次郎がなぜこの地に「相楽園」の前身である小寺邸を営んだかということと大きな関わりがあるからだ。九鬼家はもともと紀州鳥羽の海賊出身で海の戦を得意とする家柄だ。しかし九鬼水軍は村上水軍ほど有名ではないかもしれない。天正5(1577)年ごろ、織田信長が石山本願寺(現在の大阪城あたり)を攻めあぐんでいた。NPO法人ドラマ九鬼奔流で町おこしをする会が発行する『水軍九鬼氏と三田藩の歴史』によると、同族との抗争などから志摩を追われた紀州鳥羽の九鬼隆義(九鬼家藩祖)は信長に臣従を誓い、毛利方の村上水軍が海路を運んでくる糧食を絶つため、火矢、投げ炮烙、火桶攻めに耐える鉄張りの大安宅船(いわゆる鉄甲船)の建造を提案した。<信長は「おもしろい。造れ、即座に造れ。費用は惜しまぬ」と、即座に応じた。> 天正6(1578)年三艘の巨大な鉄張りの船が建造され、ついに九鬼水軍は毛利の村上水軍を破り、名実ともに織田水軍といわれるようになった。

 慶長5(1600)年関ヶ原の戦いが起った。九鬼家は戦国の習いとして家の存亡を賭けて、隆義は西軍の豊臣方に、息子守隆は東軍の徳川方に味方し、父子別れて戦う。関ヶ原に破れた隆義は、息子守隆の命乞いにもかかわらず許されなかった。隆義は九鬼家への影響を思い自刃した。家康は隆義が行った海上からの石山本願寺攻めなどの豊かな経験を恐れたという。その後、鳥羽城主(5万6千石)守隆の四男久隆と三男隆季との間に家督争いが起きた。かねてから九鬼水軍の巨大化を恐れていた幕府は久隆の家督相続を認めたが、この機に乗じて摂津三田(3万6千石)へ転封するとともに、新たに隆季を丹波綾部2万石に封じた。これは九鬼水軍を分割し、かつ海のない領地に配して「陸に上がった河童」にした幕府政策の勝利だった。

 「陸に上がった河童」三田藩は海への憧れを捨てずに、事あれば対応できるように館周辺に志摩半島の地形になぞった池堀を掘り水練の場に、三田川畔に舟小屋を作り、川を堰き止めて操船の訓練に励み、水軍の備えを怠らなかった。しかし現実を見つめた政策として世の中の情勢を見極めるための実学的学問を推奨し、藩士の教育に力を注いだ。その結果、川本公民など幾多の有能な人材を輩出した。中でも最後の藩主九鬼隆義は疲弊した藩財政を立て直すため、藩儒学者白州退蔵や足軽小寺泰次郎などを家老格に抜擢し、有能な人材の登用を計った。二人の改革は門地を重んじる旧勢力や領民から「二たい」と呼ばれて嫌われるほど強力に進められた。先見性豊かで旧式を排し、欧化政策を推進するとともに完全な西欧式兵制を採用し、例えば鎧甲は全藩士に藩への拠出を命じ、火縄銃や古い大砲など旧式装備も含めてまだ目覚めていない他藩へ売却し、借財を返還して藩財政を二年で立て直した。

「これからの藩政の指針をお聞かせ願いたい」 隆義は川本幸民を通じて知り合った福沢諭吉に問うた。   「民間の手による商業に力を入れられたらいかがでしょう。これからは民の力です。官営は先が見えています」 隆義は、アメリカ的自由主義に心酔する福沢諭吉の提言を入れて近代資本主義的考え方に立つ帰農帰商策を三田藩の指針として藩士に示した。                                           「これからは海のある神戸だと思う。わが藩の長年の願いが叶うときぞ。海は世界に通じる。世界へ眼を向けようぞ」                                                                隆義は諭吉の助言により発展の予測される開港間もない神戸に率先して移住し、花隈城址の東側に住んだ。そして隆義始め白州退蔵、小寺泰次郎以下藩士15人が役員の「志摩三商会」という西洋薬品が中心、食料品、雑貨などを扱う神戸初の輸入商社を設立した。志摩三とは、九鬼家出身地志摩と三田を意味する。この会社、実際は陸奥宗光と関係が深い豪商加納宗七が実施した生田川付け替え工事で生まれた埋立地の売買で得た資金で金融業を興し、経営基盤を固め、花隈周辺から海にかけての土地を安価で買い占めていった。

 なお、隆義はこの他にも海運業、牧畜業、三田青磁の復興などに取り組んだが、事業拡大を急ぎすぎたため多くは失敗したが、その先進的な視野の広い考えは明治維新の中で世の中の発展に大きく寄与したことは特筆に値すると思う。しかし、隆義は明治2(1869)年百姓一揆に見舞われる。藩外へ急速な事業拡大を図って領民を顧みなかった、というのがその理由で、現在でも地元の人に評判が悪いそうだ。

 しかし、三田藩の海へ熱い思いが相楽園エリアとその直下の開港間もない元町の港を中心に神戸の発展にも大きく影響したことは間違いないであろう。また相楽園周辺は海を通じて世界へ眼を向けていた人々の先進的な心を養う場所だったかもしれない。

2.小寺泰次郎と相楽園

 小寺泰次郎は三田藩の足軽の子として足軽町に生まれた。特に理財の才があり、「そろばん侍」といわれ、隆義の人材登用により代官として辣腕を振るった。前述したように隆義の命により白州退蔵と一緒に藩政改革を断行し、わずかの間に藩債務を完済した。そして改革は門地、家柄、慣習などに囚われない自由な発想で断行されたことはすばらしい。鎧甲の話は一見すべてをかなぐり捨て、財政的視点からだけのように見えるが、彼らはその文化財的価値を知っていたからこそ藩財政立て直しの貴重な財源として計算できたのではないかと思われる。そして、抵抗勢力の強力な反対運動と抵抗も予想される中、すべての藩士から鎧甲を供出させた、妥協しない改革の断行はすごい。この目標に立ち向かう姿勢は当時としては極めて斬新だったといえよう。一方、現代ではただ闇雲にすべてを財政的見地からのみ見ているきらいがあり、財政がすべてに優先するような考え方が横行しすぎているように思えるのは悲しい。彼は投機師の活眼と時勢を洞察する卓越した才能を持ち合わせていた。前述の志摩三商会の事業に精を出したのも小寺泰次郎だ。藩侯の屋敷がある花隈に近い「相楽園」の地も隆義と他一名の所有だった。彼は藩侯の仕事をしながら、その土地を分けてもらい、小寺邸及び庭園の造営を始めたのは明治19(1886)年から20(1887)年にかけてのことだった。

 陸に上がった三田藩が生き残りをかけて情熱を注いだ子弟の教育は、彼のなかにも生き続けていた。ずっと理想の学校建設に情熱を燃やして私学三田学園の基礎を確立し、息子の小寺謙吉が引き継いで建学された。小寺泰次郎は明治38(1905)年に亡くなれたが、謙吉の時代の大正2年(1913)の地租番付によると、西の横綱小寺、東は九鬼。金持ち華族九鬼は白州、小寺両氏のお陰と世間ではいわれていたらしい。しかし小寺泰次郎はただの金持ちでなく、神戸100年の大計を考えていたという。例えば、道路幅員などは「もっと広くとれ」が持論だったが、「あれはな、自分の土地を売りたいからや」と人々が言うのを聞くと、道路に計画されている土地を元の地主に買値で買い戻させて意地を貫いたりした。また全国で災害が起きると、いつも皇室下賜金の1/200にあたる災害寄付をし続けた。

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戦前の相楽園(神戸市蔵) 現在の相楽園

 6.戦前の旧小寺邸庭園ついて

 現在、相楽園は神戸の誇る本格的な日本庭園と3つの国指定重要文化財(旧ハッサム住宅、旧小寺家厩舎、船屋形)と神戸市の行事と外国からの賓客をお迎えする迎賓館がある施設だ。「相楽園」は昭和16(1941)年、続く不況と貿易商社「小寺洋行」の経営不振などで小寺謙吉から神戸市へ売却され、その代金の半分は市へ寄付されたという。神戸市は中国の『易経』の一節「各得其願和悦相楽」(オノオノソノ願イヲ得テ和シテ悦ビ相楽シム)から、「相楽園」と名付けて昭和16(1941)年11月、市民に公開することとした。初めは春秋の花の季節のみ開園されていた。

 旧小寺邸当時の園内を概説すると、現在もほとんど当時と変わらないのは築地塀、正門、正門横門衛詰め所、東門、西門、蘇鉄園、池泉回遊式庭園の瓢箪池、池周辺を回遊する園路、明治時代作庭の特徴である洋風な芝生広場、荒木村重ゆかりの花隈城鬼門の樟、旧小寺厩舎などだ。戦災で焼失したのは、今の相楽園会館とほぼ同位置にあった本邸で、桃山風の破風屋根の車寄せをもつ「樟風館」、現在の旧ハッサム邸の女中部屋あたりにあった奉公人棟、戦後復元され茶室として使われているが、池に張り出した藤棚を持つ離れだった「浣心亭」、現在休憩所と滝と流れ手水がある庭園の西南角にあったという茶室「又新亭」(ゆうしんてい)、瓢箪池の上部の小広場にあった茅葺きの四阿、今は現代風の休憩所が建っている園内一番の高みにあった藁葺きの四阿などである。

 なお「樟風館」付属の漆喰塗倉二棟は戦災を免れ、公園管理事務所等に使われていたが、相楽園会館建設時に取り壊された。さらに特筆すべきは旧小寺厩舎前が畑だったようだ。また旧小寺厩舎は相楽園の鬼門に位置し、厩舎として建てられたものの生類を嫌い厩舎として一度も使われなかったらしい。ただし、当時ようやく利用され出した自動車のガレージとしてつかわれた。進入ルートついて考察すると、正門は古い写真から木製柵が前面にあり、人だけのようで北門は当時なかったので、厩舎に極めて近い東門からだと推定される。門と本邸と庭園の関係から通常、「樟風館」への通用門は西門だったことは容易にわかる。

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戦前の池と浣心亭の灯籠類(神戸市蔵) 旧小寺厩舎と畑と薔薇(神戸市蔵)

 
 
なお、船屋形は戦前にはなかった。船屋形は江戸時代、姫路藩主が河川での遊覧用に使っていた「川御座船」の屋形部分だけが陸揚げされたものだ。飾り金具の裏に榊原家の家紋でなく本多家の家紋が刻印されていることから、建造年代は1682〜1704年の間と推定されている。昭和28(1953)年国の重要文化財に指定された。牛尾吉朗氏より神戸市に寄贈され、明石海峡大橋着地点に近い牛尾邸の池畔(現・苔谷公園の一部)から解体補修の上、昭和55(1980)年相楽園の西池畔を埋め立て設置した。前面の船泊風護岸は桂離宮の船泊を参考にして設計された。木造2階建、切妻造桧皮葺で内部 は1階2階とも3室に分かれていて、前方より「床几の間」「上段の間」「次の間」となっているが、中でも2階中央の「上段の間」は小さな床の間付で最も重要な殿様の御座だ。しかし「床几の間」の方が操船する船頭の座だけあって、景色も展望もよい。二階の木部は内外とも全てを春慶塗と黒漆塗 に塗分け、長押や垂木の先には金箔を施した飾り金具を打つなど華麗で繊細な造りである。日本に現存する唯一の川御座船だ。

7.庭園修復計画

 「正門から相楽園会館に至る主園路が小砂利敷きで歩きにくいうえ、車椅子の通行は出来ないので園路の舗装をしてほしい」という長年の市民要望にそって、平成10(1996)年京都造形芸術大学尼崎博正教授の指導のもと、黒玉砂利洗い出し舗装が施工された。その折り、尼崎教授から既存樹の手入れや庭園ディテール復元など多くの改善点の指摘を受けた。この指摘をもとに造営当時に復元するため、平成12年度に株式会社 中根庭園研究所に庭園の現況調査・分析評価業務を委託した。その結果、ひらどツツジ等樹木の剪定手入れ、芝生の消失、広葉樹繁茂による灌木・地被類の生育不良、五つの流れ施設の荒廃などが指摘された。ついで平成17年度までの改修5カ年計画が策定され、(財)神戸市公園緑化協会に委託して、剪定・伐採・実生樹の除去判定・流失土の補充、流れの復元整備・芝生の復元・根締め等補植・サイン等の整備・斜路の増設を含むユニバーサルデザインの実施などおおむね良好に実施され、見違えるようになった。今後もこの庭園にとって重要な苔等の地被類の復元などが重要課題であるとともに、地下に埋没している旧「又新亭」周辺の発掘、復元とその固有の伝統的意匠の保全に努めていく必要があろう。

8.指定管理者とこれからの相楽園管理

 平成18年度から相楽園の管理は、庭園部分は指定管理者「神戸市造園共同企業体」が、相楽園会館は神戸市行財政局が、重要文化財は神戸市教育委員会が、それぞれ管理することになった。まだ慣れないせいか少し軋んだ意見を仄聞する。元園長でもあった私の意見は、「相楽園は神戸の誇る本格的な日本庭園と3つの国指定重要文化財(旧ハッサム住宅、旧小寺家厩舎、船屋形)と神戸市の行事と外国からの賓客をお迎えする迎賓館がある施設で、三位一体的に管理すべきだと考えている」ということだ。もちろん世の流れとして、民間のできることは民間に委ねることは大切だと思うが、昨今の規制緩和が何をもたらしたか? と営利と距離を置いた視点での各施設の位置づけを考え直すことも重要なことだと思う。