鵯越――坂落とし考

                            野元 正      

 来年の大河ドラマは、『平清盛』に決まったという。神戸にとって清盛は世界の海をめざして兵庫津の礎を築いた恩人だ。モダニスト詩人竹中郁は、エッセイ集『私のびっくり箱』で、神戸市民はもっと清盛に感謝しなければならない、と言っている。私もその通りだと思う。『吾妻鏡』などの歴史書や『平家物語』や『源平盛衰記』は、勝者源氏の視点で書かれているから、どうしても清盛は悪役でなければならないのだ。清盛というと、源義経の鵯越――坂落としを思い出し、鵯越は何処にあったのか? という大きな命題が浮かび上がってくる。同時代の一級資料といわれる九条兼実の『玉葉』にしても、『平家物語』にしても、肝心なところは何も書かれていない。現在の段階では、定説がなく、まったくの謎なのだ。だから、おもしろい。誰でもそれぞれの説を掲げて論争に参加できる。資料をあたるとしても、想像や推測を混じえないで真相究明は不可能に近いと言われている。
 坂落とし論争を大きく分けると、今も地名が残る鵯越がその場所だとする《鵯越説》と、『平家物語』などに書かれた須磨一の谷だという《一の谷説》とがある。岩波文庫『平家物語』三の巻九「坂落」では、<一の谷のうしろ鵯越にうちあがり>としている。一の谷の背後に鵯越はないのだから、神戸をよく知るものは、この極めて曖昧な記述を納得できない。それで一の谷とは、東から西の木戸に至る広範囲の地域の総称であり、そう解釈すれば、鵯越が一の谷の背後にあるということも矛盾がないなどという説もある。
 また、一の谷説と思われる『平家物語』では、義経が坂落しを敢行したのは越中前司平盛俊の陣ということになっている。これは鵯越説の大きな根拠の一つとしてあげられている。なぜなら、盛俊は平家の山の手軍の武将であり、現在の鵯越から苅藻川の深い谷隔てた西側にある奥大日丘の古明泉寺に陣を構えていたのだ。そして盛俊顕彰碑も苅藻川沿いにあり、戦死した場所も古明泉寺の南、現在の長田区名倉町辺りとされている。
 吉川英治の『新・平家物語』は鵯越説をとり、山の手軍の本陣は「うなごノ岡(会下山)」にあったとし、義経は鵯越の谷向こうに位置する古明泉寺に陣を敷く盛俊を惑わすための陽動作戦として鵯越から義経が指揮すると思わせた七十騎ほどの偽義経隊を鹿松峠から一の谷へと向かわせ、盛俊軍は義経を逃してなるものかと追撃した。その隙をついて義経は安徳天皇がいる御座船が停泊している思われた駒ヶ林の浜をめざして苅藻川沿いの緩やかな坂を一気に駆け下った。私も平家の武将が戦死した地が、駒ヶ林の浜へ注ぐ苅藻川沿いに点在することから、一の谷合戦と総称される源平の合戦は苅藻川沿いを中心として展開されたと思いたい。源平の合戦は、後白河法皇の平家追討の宣旨よる安徳天皇と三種の神器の奪還をめざした戦いである。奪還の最短コースである中央突破を図った義経の奇襲は山の手からだったと思う。
 しかし私は、『平家物語』の坂落としはあったという立場を取りたいと思っている。坂落としは盛俊の古明泉寺の陣にされたというのが私の考え方だ。そう考えれば、『平家物語』の記述とほとんどが一致する。鵯越からは苅藻川の深い谷が障害になって坂落としの奇襲はできない。しかし、鵯越へ至る鵯越墓園の中で苅藻川の源流を渡るのなら容易であろう。そして鵯越道の対岸の尾根を辿れば古明泉寺の背後にでる。あとは『平家物語』の記述とよく馴染む。
 これが、私の鵯越――坂落とし考だ。しかしあくまでも推論に過ぎない。諸説は厳然として存在する。《一の谷説》や、文学や伝承として『平家物語』の一の谷合戦がいささかも色褪せるものではない。



















左の写真は「古明泉寺跡」といわれる雲雀丘中学校から見た鵯越(大仏の下辺り)で白い橋はは「丸山大橋」「古明泉寺跡」と「鵯越」との間には右の写真のような深い谷がある。したがって、坂落としは不可能に近い。

                       

旬の-花四季彩
『平家物語』坂落とし考