『須磨寺附近』山本周五郎-花四季彩
■『須磨寺附近』山本周五郎著の文学散歩的考察


1.『須磨寺附近』が書かれるまで
(参考文献:【新潮現代文学】新潮社刊・【山本周五郎の須磨】木村久邇典著・上野山福祥寺 須磨寺 ジュンク堂書店刊などを引用または参考に調整したので謝して記す)
1)1903年(M36)6月22日、馬喰や繭の仲買をしていた父清水逸太郎、母とくの長男(清水三十六<さとむ>)として、山梨県北都留郡初狩村(現在、大月市下初狩)で誕生した。随筆『昔のままの石垣』によると、小学3年生のとき、「君は小説家になれ」と担任の小野実先生(小学校2、3年の担任)からいわれて、それから作家を志したという。

 ↑ 須磨寺山本周五郎文学碑附近
2)1916年(T5)横浜市西区の西前小学校卒業。小学校時代、特に親しくしていた友人には村田汎愛、青江一郎、町野敬一郎、桃井達雄の4人がいた。このうち、桃井達雄の長姉(山本周五郎より9歳年長)木村じゅんが山本周五郎のいう、いわゆる“須磨寺夫人”であり、『須磨寺附近』の青木康子のモデルである。じゅんは山本周五郎の少年時代から憧れの的だったのだ。ちなみに“清三”は山本周五郎の本名“清水三十六”から採ったのは明白である。
『山本周五郎の須磨』に木村久邇典氏が村田汎愛へヒヤリングした結果を記している。「山本君は桃井のお姉さんのファンでしてね、ぼくはそのお姉さんの家は遊びにいったことはなかったのですが、お姉さんのご主人は船乗りで、航海に出ると留守でしょ。彼女もわれわれの小学校時代は西前町に住んでおりましてね、そこへ山本君や青江、町野といった連中があそびにいっては相撲をとるんで、ご近所からうるさいなんて苦情を申し込まれたことがあったそうです」
 また同じ『山本周五郎の須磨』によれば、「青木が清三を迎えた時点では、嫂と二人限りの寂しい生活だった、と小説では設定されているが、事実は本文にかかげた写真によっても彼女に4、5歳の男児があったことは分明である。写真中のもうひとりの少女はご主人の妹だという。
3)1916年(T5)東京木挽町6丁目2番地の山本周五郎商店(きねや質店)に徒弟奉公する。そこで洒落斎翁と自称する店主を実の父より真実の父と思う。そして奉公しながら、東京で屈指の有名校、泰明小学校の乙種商業夜学に通学させられ、店主が質屋にさせたがっていると山本周五郎は思い込んだようである。
 そのあと、正則英語学校、大原簿記学校に学ぶかたわら、劇作や創作に勤しんだ。16歳のとき、『南桑川村』が新聞懸賞の佳作になった。
4)1923年(T12)関東大震災。山本質店も罹災し、東京復興は当分の間、困難とみた店主は奉公人と合議の上、店を解散した。同じ木挽町にいた実弟潔の無事を確かめ、横浜にいた両親に報告し、その足で店の解散と東京の惨状などを神奈川県腰越で出産避暑中だった山本津多夫人に徒歩で伝えた。一旦帰京した後、中央線経由で関西に向かった。なぜいち早く東京を脱出し関西に向かったのか?
・『小説現代』(昭和40年3月号)掲載の河盛好蔵との対談『作家の素顔』によると、<「僕の親父(彼は尊敬する質店主をそう呼んでいた)は僕に質屋をさせたがって天現寺のほうの店に見習い奉公に行ってたことがあるんです。(略)僕はどうしたって質屋はいやだったんです。そこへ大地震でこれ幸いと須磨へ逃げた。そこには友人の姉さんがいまして、それが少年時代から憧れの的の女性だったのです」>
 この理由は店主の娘敬子さんの話によると、店主にはそんな意思はなかったと言う。山本周五郎の一方的な解釈で、早呑み込みだという。しかし、敬子さんは関東大震災の時は0歳だったので、あとで父か母に聞いたのだろうか? したがって、これも定かでない。
・もう一つの理由は、おそらく東京の出版社や雑誌社その他出版界が立ち直るまでには数年かかると考え、これからの出版界も大阪を中心に関西になると山本周五郎は思ったという。
5)1923年(T12)兵庫県豊岡の地方新聞社に勤めるが、契約した給与(月給150円)でないことを聞き、すぐ辞める。小学校時代の級友桃井達雄の姉、木村じゅんの婚家先、神戸市須磨区離宮前町1丁目7(←『名作をあるく』神戸新聞文化部編の説より)に下宿し、観光ガイド誌「夜の神戸」社に勤務した。その会社は神戸市栄町通にあったらしく、一階は撞球場で会社は二階にあったらしい。(←足立巻一説)色街やカフェなどの評判記、広告などを写真入りで掲載していた。木村久邇典が「夜の神戸」の発行者だった寺田新にヒヤリングした結果、山本周五郎は大正14年から1年近く「夜の神戸」社に勤務し、色街を山本周五郎のペンネームで取材していたという。したがって、筆名の由来は原稿を送った住所の宛名山本周五郎方清水三十六としたところから、編集者が間違って山本周五郎をペンネームしたという伝説はやはり誤りであるらしい。この年徴兵検査を受け、丙種合格。


6)1926年(T15)須磨寺寄宿の体験をヒントに『須磨寺附近』を文藝春秋に山本周五郎のペンネームで発表し、文壇出世作となった。
 この年の10月、山本周五郎が山本質店の長女静子が虫垂炎で逝去し、続いて同月、母とくも世を去った。

←「夜の神戸」社があったという2003年の栄町通

2.あらすじ(引用は『花杖記』新潮文庫に収録の『須磨寺附近』より)
第1章
・須磨は秋であった。東京でかなり手ひどい打撃を受けていた清三が須磨に来て小学校時代からの友人青木の嫂康子の家に止宿する。青木は嫂とふたりで、米国の支店詰めになって出張している兄の留守を預かっていた。その日、清三は月見山の家で康子の手料理の歓待を受ける。食後三人は月光の浜辺に遊ぶ。
■彩色絵はがき 須磨駅あたりの浜辺 ■現在の須磨駅あたりの浜辺

・清三は堂島に近いKという出版社で雑誌の仕事に勤務する。青木は神戸の新聞社に勤務しているが、朝遅く夜は遅い。清三は何か起こりはしないかと期待しながら、康子とふたりっきりの時間を過ごした。   ・そんなある雨の細い夕暮れどき、康子は清三を須磨寺と大池へ案内する。
■須磨寺遠望と須磨大池 ■須磨大池

<清三は大きな池のある広場に連れて来られた、ここが須磨寺だと康子は云った。池の水には白鳥が群を作って遊んでいた、雨がその上に静かに濺いでいた。池を廻って、高い石段を登ると寺があった。><朱い小さい山門まで来ると、>清三がハンケチで埃を払った台石に康子は座った。そして<「静かでしょう」>と云い、<「地の中で虫が土を掘る音まで聞こえそうだ」>とゲーテの詩を引用して、<康子はその静寂の中から何かを聞き出すもののように、しばらく眼を閉じてじっとしていたが、まもなく帰ろうと云いだした。康子は傘を広げようとしながら云った。

「あなた、生きている目的が分かりますか」
「目的ですか」
「生活の目的でなく、生きている目的よ」
 清三には康子の云う意味が分からなかった。

■絵はがき 須磨寺唐門 ■現在の唐門 ■雨の須磨寺中門

・風のない、暖かい日曜日、三人は六甲山へ晩い紅葉を出かける。六甲の頂上をめざしたが、道に迷い、戻る。青木は先に降りたので間があき、清三は緒が切れた康子の草履を直したりしながら、康子と山を降りる。ふたりとも事件を待つような理性的でない情的な気持ちで歩く。

■紅葉の六甲山


・青木が、<「君は嫂をどう思うか」>という質問を清三にしたことがあった。
<「どうも俺には嫂ばかりは分からん」>と言わしめ、<「清三はもちろん分からんと答えただけである。」>
・夕飯に3人が顔を合わせ、茶になったとき、<「龍さん、あなた私たちの結婚が、幸福か幸福でないか分かりますか」という問に「青木はびっくとしたようだ。清三も少なからず不意をうたれた。康子は静かに笑った。」>
第2章
・雑誌の仕事が多忙となり、冷たい寒い雨の日、堪えようのない頭痛に悩まされて早引きし、しきりに康子が恋しく思われる。<清三は初めて、康子の俤を恋しいという言葉で貪るように心の壁に描きつけた。>
・帰り着いても康子は夫の上役の家へ行っていていなかった。ひとり留守をしていた青木が電報を見せてくれた。“正月に帰る”と読みとれた。<清三はすぐ寝た、けれど頭の痛むのと電報>とがいつまでも気になって眠れなかった。
 ふと気配に目覚めると、鼻の先に康子の顔があった。<康子が顔を引くのとほとんど同時に、清三の手が本能的に康子の膝へ伸びていった、康子はその手をしっかりと握った。
 そして程なく「我慢しなさい」と云って階下に去った。>
<清三の心に明かに期待が生まれ始めた>
・新開地の松竹座に電話で呼び出される。またあいにく雨が降り出す。康子は夫の上司と観劇していた。<清三は、その場面に幕が下るまで、康子と同席の男の解釈に苦しんで過ごした。>次の幕が開いたら、行くから二階の食堂で待つように云われたが、康子はなかなか来ない。<いらだたしい眼が、何度か壁のクリムトの複製画に止まった。平常は大好きであるこの画家が、そのときはこの上もなく平凡に倦怠に見えた。>やがてやってきた康子を見ると、清三のいらいらした気持ちは霧散したが、<「すぐ帰る? それとも観ていらっしゃる?」>と云う康子の、大きな事件を期待していた自分の恋情に対するその思いがけない扱いに怒って帰る。
・四五日後の康子とふたりっきりの夕食のとき、彼女は清三に須磨寺の前に佳い家を見つけおいたと下宿を進める。清三は込み上げてくる感情に耐えられず二階に上がる。<悲劇的な感傷が頭の中で火のように閃き回る、叫び出すかも知れないと自ら自分の口を両手で塞いで、歩き回った、誇張した言葉が口の中へ後から後から溢れてきた。>二階へ上がってきた康子と灯りを消した暗闇で唇を合わせた。そして<「あたし来月の船で亜米利加へ行きます」>と清三は聞く。

<康子の熱い呼吸が清三の頬に近づいた。
「我慢なさい」
 そう云って康子は階下に去った。>
■須磨寺境内図(大正13年6月発行) ■同左

・<明る朝起きてみると雨だった><清三は康子の気持ちを探り当てた。>そして清三はこの恋が終焉したことを悟った。<冷たい清い空気を胸いっぱいに吸いたいような気がしたので清三は二階へ上って、北側の窓を開けた、雨の中に須磨寺や鉄枴山の峰が寒くかすんでいた。>
<「生きている目的が分かるか」清三は朱い山門の下で云った康子の言葉を想い出した。>

← 須磨寺門前町寿司屋

3.テーマ
 この小説のテーマは、
「あなた、生きている目的が分かりますか」
「目的ですか」
「生活の目的でなく、生きている目的よ」 だと思う。このことは山本周五郎研究で知られる詩人の足立巻一氏が、「周五郎が生涯をかけて探求した主題」と言っていることからも分かる。また、このテーマは山本周五郎にとって永遠のテーマであったことは後の作品群から容易に推測できる。

4.『須磨寺附近』は山本周五郎の原点
 山本周五郎が『須磨寺附近』を何故最初の全集に入れなかったのか? その事情を前述の『小説現代』(昭和40年3月号)掲載の河盛好蔵との対談『作家の素顔』の中で河盛好蔵は聞いているが、周五郎は「幼きも幼きころだ」と答えている。しかし、現在ではその繊細な資質や原風景のようなものが感ぜられ、やはりこの作家の原点を明確に示すものといえるという評価が定着している。その意味でも、須磨寺夫人、木村じゅんは彼にとって永遠の憧れであり、山本文学の底流を支えるもであり、その正体を探求してやまない源であるといえよう。なお他の作品でも『陽気な客』の大村夫人、『豹』の純子、『正体』の佐知子、『青べか物語』の須子はすべて“須磨寺夫人”がイメージされている。一般に“神戸もの”といわれるのは、『須磨寺附近』『陽気な客』『豹』の三編である。

5.雨の物語『須磨寺附近』
 『須磨寺附近』における作者の心象風景として、「須磨は秋だった。」と“秋”と作品の全体を貫く“雨”が浮かび上がってくる。特に雨は作者の気持ちを反映するように、この作品の重要部分はほとんどが雨が降っている。例を挙げよう。
・康子が清三を須磨寺へ案内するときも、<二人は家を閉めて雨の細い夕暮れの中に歩き出した。>と雨が降っている。
・頭痛で早退し、須磨に帰る清三。その日も清三の気持ちとこれから清三と康子に起こるかもしれない事件を暗示するような<天王寺の裏町の暗い汚れた、道の上に残っている薄明を十一月の寒い雨が濡らしていた。>
・康子に呼び出されて松竹座に向かう清三の前途を暗示するように<神戸の駅に到着いたのは五時に近かった、あいにく雨が降り出していたので、>とまた雨なのだ。
・康子と唇を合わせ、そして彼女がアメリカへ発つと分かり、恋が終わったことを悟ったあくる朝も雨だったのである。これは清三の言いしれぬ哀しみを含んだ心象風景を表現しているのであろうか?

6.『須磨寺附近』の山本周五郎文学碑
 山本周五郎はすべての文学賞を拒否するなど、狷介な人で第一級のつむじ曲がりだったようだ。【山本周五郎の須磨】木村久邇典著によると、文学碑建立の要請は即座に拒絶した。「もし石碑など建てたりしたら、即日、石工をつれていってぶち壊してしまいます」と言っている。
 しかし、【山本周五郎の須磨】木村久邇典著によると、彼の没後(1967年/S42)、『山彦乙女』ゆかりの本籍地の山梨県韮崎市や『樅の木は残った』の原田甲斐の館跡の宮城県柴田町船岡公園や『虚空遍歴』の主人公中藤冲也が若い生命を燃焼尽くした福井県今庄町に文学碑が建てられたという。

須磨寺にも1989年(S59)須磨寺の塔頭正覚院三浦真厳師の依頼で現代彫刻家速水史郎氏が東北の“どろかぶり”という石(表皮は鉄錆色で中は深く沈んだ黒)を使って作られた。速水史郎の『須磨寺附近のこと』というエッセイには、山本周五郎研究家で詩人の足立巻一氏がこの文学碑建立に大反対したことが記されている。裏面の碑文は、周五郎の二つあった遺書のうち、世の人への遺書である。もう一通は「わが人生の もっともよく 有難き伴侶 わが妻よ きんよ、そなたに 永遠の幸福と 平安のあるように。 周」というきん夫人あてだった。

碑文は、
<表>                      
須磨は秋であった。…        

ここが須磨寺だと康子は云った。
池の水には白鳥が群を作って遊んでいた、雨がその上に   
静かに濺いでいた。
池を廻って、高い石段を登ると寺があった。…
「あなた、生きている目的が分かりますか」
「目的ですか」
「生活の目的でなく、生きている目的よ」
                   山本周五郎


<裏>貧困と病気と絶望に沈んでゐる人たちのために         
    
 幸ひと安息の恵まれるように  周五郎 

7.須磨寺夫人の魔性
<「あなた、生きている目的が分かりますか」「目的ですか」「生活の目的でなく、生きている目的よ」「清三は何かに驚いて目を覚ました。とちょうど仰臥した彼の鼻先に康子の顔が近づいているところだった、康子の表情はやや狼狽をを見せたが、清三はそんなことを見分けている余裕がなかった、康子が顔を引くのとほとんど同時に、清三の手が本能的に康子の膝へ伸びていった、康子はその手をしっかりと握った。」……、そして程なく「我慢しなさい」と云って階下に去った。」>
 須磨寺夫人は思わせぶり迫り、最後にするっとかわす魔性の女なのだ。
 ところで、興味深いのは寝ている男に年上の女が迫るシチュエーションは山本周五郎の他の作品の中によく出てくる。これは【山本周五郎の須磨】木村久邇典著にも触れられている。『正雪記』の少年久米(のちの正雪)は同じような状況で女に犯され女性を知る。また『樅の木は残った』の青年宮本新八も年上の女おみやに女性を初体験させられる。さらに晩年の作品『へちまの木』では青年房二郎が下宿先の年上の主婦によって初めて女を知る。また『さぶ』にも似た場面がある。これらの情景は“須磨寺夫人”康子のシーンと重なる。『須磨寺附近』は木村じゅんやその夫に読まれることを意識しなければならなかった。したがって抑制されたプラトニック・ラブとして書かざるを得なかったのではないか、といわれている。しかしそのことがかえって『須磨寺附近』の体験が女性の魔性を探求しながら、事実から普遍的な真実へと、山本文学をさらに文学的に高めたように思う。
『豹』の純子も須磨寺動物園を逃げ出した“豹”がこわいと主人公に迫る“須磨寺夫人”が出てくる。山本周五郎にとって、女性とは永遠の謎だった。そしてこの女の魔性を探求することは生涯のテーマであり、女性に憧れながらもその魔性に常に焦点をあてた作品を書いた。
 なお、【山本周五郎の須磨】木村久邇典著によると、<山本さんが約三年にわたった須磨生活を切りあげるきっかけになったのは、須磨寺夫人が急に主人の許へ渡米することになったためでなく、主人に帰国命令が出たからだった>という。<「ご亭主が帰ってきてみれば、変な文学青年みたいのが、ヒモみたいにごろごろ下宿してるなんて不愉快でしょ。こんな生活をいつまでもだらだら続けていたら、自分も駄目になってしまう、そう思って、須磨を引揚げてくる気になったんですって……」これはきん夫人が山本さんから聞いたという須磨脱出の回想である。」>
 しかし、現代ではこの程度の行動を取る女性はたくさんおり、果たして“須磨寺夫人”が魔性の女か疑問である、という私は複数の現代女性から聞いた。一つの考え方として記しておきたい。

8.「我慢なさい」論
『須磨寺附近』には、肝心なところ2カ所で康子は、「我慢しなさい」という。これは「7,須磨寺夫人の魔性」で書いたように魔性の女が男を弄ぶ手練手管なのか? それともプラトニック・ラブにせざるを得なかったことによる抑制の言葉なのか? よく分からないが、この小説では、この「我慢しなさい」が康子の本性に迫っているような気がする。男の気持ちを翻弄し、狂わせる毒を含んだ甘味な言葉なのだ。男はこの言葉によってますます募る憧れと思慕と叶えられない征服心の炎に苛まれる。

9.須磨寺動物園
 大正13年謹製の須磨寺発行の『須磨寺境内全図』よると、須磨寺及び須磨大池(堂谷池or大蛇池ともいう)周辺は、桜の名所であり、池の東湖畔に動物園があった。その動物園から“豹”が逃げ出したのが『豹』である。

10.月見山の由来
 本ホームページの『須磨由来考』を参照されたい。

11.主な地名風景等
須磨 月見山 須磨の浜 淡路島の灯 大阪堂島 神戸の新聞社 須磨寺 
大きな池(堂谷池or須磨の大池or大蛇池) 須磨寺(上野山福祥寺) 義経 敦盛
唐門 朱い小さな山門 八十八カ所の地蔵堂 六甲山 十王山 天王寺 新開地
松竹座 クリムトの複製画 鉄枴山 須磨寺動物園 新吉野 花隈など