八 ヶ 尾 よ も や ま 話

人の背骨はちょうど体の中心にあって、その中では血液がつくられ、
左右に伸びた血管を通して体中に血液を送っている。
自然界でたとえるならば分水嶺から流れ出る川がそれにあたるだろう。

多紀連山は兵庫県の本州部分のちょうど中間部に位置し、
その南側斜面に落ちた雨は瀬戸内海に流れ、北側斜面に降った雨は日本海を目指す。
ところが多紀連山に属しながら東端に位置する八ヶ尾は何の因果か分水嶺になれなかった。

三岳から小金ケ岳、峠山と順調に東進してきた分水線は、筱見四十八滝の北方あたりで突然北へ向きを変え、
藤坂峠を横切り藤坂の集落北方に壁のようにそびえる府県境の大平山(おおひらやま)の稜線を東に向かう。
京都府京丹波町の西山(さいだん:丹波方言はザ・ダ行の区別がない)に突き当たると直角に南に折れて
暫く進むとまた西に進路を変え、やがてまた南方向に向きを変えるなどこのあたりでは分水線が
針金細工のように複雑に曲がりくねっているのが特徴だ。

国道173号線の板坂トンネルの上を走る府県境の小山を越え藤坂の南端に位置するミヤマ(開扇山ともいう)にたどり着く。
府県境の尾根筋をさらに南に向かって駆け上がり、雨石連山(あまいしれんざん)へと入っていく。
送電線の鉄塔が立つ府県境付近の稜線を一路東へ向かう。小倉と京丹波町小野を隔てる雨石山の
頂上を通り、宮代と京丹波町安井の境にある櫃ケ岳(ひつがたけ)を越えて奥山に達する。
そこで再度南に折れて三国岳から京都府京丹波町と園部町の町境の山を東進していく。
低いながらも日本列島の背骨部分がこの地域で見られるのである。


集落右側の低い連山が府県境および分水嶺 (岩尾峰から)




岩尾峰から見た八ヶ尾(2023.03.14)
(このラインが本来ならば日本列島の大分水界となるはずであった)

八ヶ尾に降った雨はどこに落ちても小原か藤坂の川に流れ落ち加古川へと向かう。
多紀連山全体が分水嶺であれば、小原と藤坂の地区境で雨石連山と連なり
北側に降った雨は由良川へ流れ込んでいたはずであったが、
どういうわけか分水線からそれてしまった八ヶ尾。
八ヶ尾の頂上から、ずうっと低いところで分水嶺となっている太平山を見ていると、
地球創造の頃を想像し不思議な気分になる。




八ヶ尾はその漢字表記から八つの尾(稜線)を持つ山と解釈されている。
事実ふもとの小原では古くからそのように解釈されてきた。
しかし八ヶ尾の名称はその形状に由来するとも考えられる。
ふもとの小原の里から見ても、村雲ハートピアセンター付近から見ても
頂上付近はちょうど鉢あるいはお椀を伏せたような形をしている。
まさにタコの頭のような形状である。

日本の古い地名の多くは大和言葉(日本古来の語彙)で構成され、
そこに使われる漢字の読みも訓読みするのが一般的という見方からすれば、
「はちがお」を「八つの尾」、「八の字山」、「鉢形の山」と漢字から
解釈するのはいささか表面的な印象がぬぐえない。
何故ならば漢数字の「八」は呉音、「鉢」も呉音であり、ともに日本古来の音ではないからだ。
漢字解釈のままだと「はちがお」は本来の日本語としては不自然な重箱読みになってしまう。
もし「はちがお」を八つの尾のある山というならば、日本古来の言い方に従えば
「やお」あるいは「やつがお」となるのが原則だろう。また事実そのように読む山や地域は他にある。

旧多紀郡東部のランドマークであるこの山に古代から名前がなかったとは到底考えられない。
八ヶ尾はその昔、ひょっとして「はしがお」と呼ばれていたのかもしれない。
旧多紀郡の東の端に位置する「はしのやま」という意味で、「はしがお」と呼ばれていたところに
「し」が発音しやすい「ち」に音便、また縁起のよい「はち」に合わせることで言い方が変化した
ものではないかと考えられる。


海抜678mある篠山北東部最高峰の八ヶ尾であるが、
丹波篠山市内から見える場所は残念ながらそんなに多くない。
地元の大芋(おくも)校区でもその姿が見えるところは限られている。
ふもとの小原でも国道173号線沿からはよく見えるが、
小原川の上流に入ると見えなくなる。八ヶ尾展望の一等地は向井谷橋付近である。
ところで小原の地名の語源も「小さな原っぱ」と解釈されるが、実は八ヶ尾に因む地名だと思う。
「尾(山)の前に広がる原っぱ」という意味だろう。
他の例として今田町に小野原「おのばら」という集落があるが、
これは裏にそびえる西寺山のふもとに広がる原っぱと考えられるのである。

藤坂はもう一つのふもとながら八ヶ尾の頂上が見える場所はあまりない。
国道173号線の板坂トンネルを抜けて篠山に入った瞬間にほんのわずか見える。
携帯電話用中継アンテナの立つ山の北側に広がる大谷、妙見堂付近およびその向いに伸びる谷筋、
藤坂峠に差し掛かる少し手前の県道カーブ付近から頂上を見ることができる程度である。
藤坂の語源も八ヶ尾がらみと思われる。八ヶ尾の「縁(山ろく)に続く坂」のある集落という意味である。




大芋小学校からは城山の北尾根に阻まれ頂上が少し見える程度である。
中の「えかく」から見る八ヶ尾は周囲の山を圧倒し、
天をも貫く堂々たる山容から一番海抜を感じるところである。
ふもとの小原以外で一番のお勧めポイントである。
大芋校区の南限は三熊で、集落の一番奥まったところにある民家から頂上が望める。
東限は宮代の八幡神社で小倉・宮代境の杉林越しに上半分が見える。
すぐ近くの福井からは小田中境の岩倉口から少し見えるだけで他からは全く見えない。

大芋校区以外では村雲校区の国道173号線沿いおよび旧道筋、向井からの眺めが素晴らしい。
福住校区から見えるところは小野奥、国道173号線天王峠入り口付近のみである。
日置校区では上宿、曽地口から曽地中、八上校区では国道372号線小多田交差点付近、
城南校区では城南小学校から谷山、岩崎、宇土を結ぶ市道、味間校区では住吉台西地区、
文保寺参道、味間奥の特別養護老人ホームから頂上をうかがうことができる。
残念ながら篠山城跡、市役所からは望むことはできない。

大芋小学校の校歌にも歌われ、大芋校区を代表する山ながら八ヶ尾は、
人里にはあまりその姿を見せない恥ずかしがり屋のような山なのである。





大芋小学校は平成28年3月31日をもって140年の歴史の幕を閉じ、閉校いたしました。



八ヶ尾にまつわる伝説



昔々京に都があった頃、小原の八ヶ尾に八つの頭を持つ大蛇が住んでいた。
その大蛇は時々里に下りてきては、地元の娘をさらっていった。
たまりかねた村人が何とかならぬかと思案していたところ、
たまたま源頼光という源氏のえらい武将が家来を連れて、
摂津の多田から日置を通って大江山に鬼退治に行く途中、小原の里を通りかかった。
これは天の恵みとばかりに村人は源頼光にヤマタノオロチを
退治してくれるように頼んだ。頼光は鬼退治の良い稽古と快く引き受け、
名刀鬼切丸でばっさりオロチの首を切り落とした。オロチの血しぶきを浴びた
頼光とその家来は刃や矢を受けても無傷でいられるという不思議な力を得た。
またヤマタノオロチの赤い目玉はとても珍しい赤水晶でできていたので、
それを戦利品として頼光一行は貰い受け、大江山の鬼退治の軍資金とした。



また切り落とされたそれぞれ八つの頭と尻尾は八ヶ尾の八つの尾に姿を変え、
それで八つの尾がある山ということで八ヶ尾と名づけられた。
またオロチの腹には立派な大日如来の像が入っており、
源頼光はそれをうやうやしく 取り出して里にお堂を結んでねんごろにお奉りした。
それが今の大日堂の始まりである。


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