八ヶ尾周辺の山々


毘沙門山と雨石連山

毘沙門山(びしゃもんやま)
毘沙門山は八ヶ尾とともに小原の代表的な山である。ピーク真南にあるハマグリの形をした部分(A峰)の中腹に毘沙門洞がある。
この洞窟は奥行き
10m以上、高さ5m以上もある兵庫県下有数、もちろん篠山一の自然窟である。
中には毘沙門天の石像が祀られており、毎年
1月最初の寅の日に「初寅」参り(参拝自由、少し体力と気力が必要)が行われる。
ちょうどこの時期、昇る朝日が洞窟の最奥部に差し込み、祀られている毘沙門天が陽光で光り輝き神々しい雰囲気を醸し出す。

人智が及ばぬ自然の営みに感嘆あるのみ, 毘沙門洞の向きと黄道の絶妙なる一致が生み出す不思議な世界である。

さて肝心の毘沙門山であるが、山岳関係の図書や篠山市ホームページでも、下の画像が示すC峰をもって毘沙門山を指している。
国土地理院発行の地図でいう
630m峰である。



国道173号線から見た雨石連山(2020.12.18更新)

地元小原ではこのC峰を毘沙門山という人は誰もいないし、また今までにも聞いたこともない。
毘沙門洞があるから毘沙門山というわけで、尾根続きとはいえかなり離れたところに位置する山を毘沙門山と呼ぶには
あまりにも違和感がある。
毘沙門山というのはAB峰の総体であって、決してC峰ではないことを知っていただきたいのである。

なぜこのC峰が「毘沙門山」と世間一般で言われるようになったのか、
その根拠は明治
1710月に当時の多紀郡役所に提出された「小原村誌」の記述にあると思われる。
同「村誌」の13頁目に「山岳」の項として「毘沙門山:備之也毛牟 村ノ北方ニアリ嶺上ヨリ両分し西北ハ藤坂村ニ属し
東南ハ本村に属ス藤坂村ニテハ之ヲ開扇山ト云フサ三十八丈周囲壹里山脈東方岩尾峰ニ北方ハ大平山ニ連ル・・・」
(漢字・カタカナ・ひらがな交じり)とある。
この記述から「毘沙門山」は藤坂の「開扇山」(現在はミヤマと通称)と背中合わせになっていることが分かる。
藤坂で開扇山(ミヤマ)と呼ばれている部分は国道173号線板坂峠の兵庫県側の上方に広がる扇のような形の山である。
この山の北端は2つある送電線の鉄塔のうち北側の鉄塔が立つ尾根である。藤坂地区はここまでで決して630m峰まで
つながっているわけではない。小原で「毘沙門山」と呼ばれている部分(画像
AB峰)の北端も同様この鉄塔である。
小原の梅田神社や大日堂付近から見て毘沙門洞付近の一番高い峰はこの
C峰でこれが良く目立つことから、
この村誌を読んだ後世の人が
C峰を「毘沙門山」と記述したのが誤りの始まりと思われる。
地元としては地域が存在する限りこれらの山と付き合っていかねばならず、違和感を覚える不適切な名称では困るのである。
この誤った表記をまず丹波篠山市のホームページから訂正していただきたいと思う。
《篠山市のホームページ『篠山市のマップあれこれ』でいえば毘沙門山の「毘」の字の左下約2cmにある円錐形の山が
毘沙門山(ミヤマ)である。毘沙門洞はピーク下方の影になった部分にある》

では多くの登山家が戸惑っている
630m峰はなんと呼ばれているのかという問題だが、この630m(C)峰は丹波の山奥にある
取るに足らない岩山と片付けるわけにはいかない事情がある。
当サイトの「八ヶ尾よもやま話」でも記述しているが、
この630m峰は日本列島の分水嶺となっている山である。それだけに明確な名称の確定が必要だと考えるのである。

小原や藤坂ではこの峰を「雨石山」と呼ぶ人が多い。ところが国土地理院が認定した雨石山のピークは
小原や藤坂には位置していないので、雨石山と呼ぶにはこれまた問題がある。この問題を解く鍵が「小原村誌」を
はじめとする大芋校区の各村誌に見ることができる。「小原村誌」の中にも毘沙門山・開扇山の東側は
岩尾峰」に連なっていると記述されている。この「岩尾峰」こそ行政が認める630m峰の正式名称なのである。
ただしこの岩尾峰という名称は小原でもまた南東部分が属する小倉でも一切使われていない。
小倉にお住まいの地元の山に大変詳しい方の話でも、このような名称は聞いたことも使ったこともないという。
また京都府京丹波町の八田(はった)や小野(この)でも岩尾峰とは呼ばれていない。
岩場の少ない八田や小野では
この名称にはいささか違和感があるだろう。なお桧山村(旧瑞穂町)では板坂山と言われていたと小原村誌や小倉村誌に
記述されているが、これも伝わっていない。しかし府県境の峠は板坂峠であり、その上方にある峰だから「板坂山」は
実に的確な表記だと言える。

岩尾峰」という名称はうがった見方をすれば明治17年当時、村誌作成のために急遽命名された山名かもしれない。
それで人口に膾炙することがなく、今日に至っている可能性も考えられる。一般化しなかった山名だが、
この名称は実に630m峰の状況を言いえて妙である。四方に伸びる尾根はいずれも大小の露岩が屹立する岩場である。
特に小原・小倉境の尾根は
頂上付近から500m付近まで背骨のようにごつごつした岩が続くすごい岩場である。
小原、小倉、藤坂村誌に記述されているとおり「岩尾峰」を復活させ、そう呼ぶことを提唱したい。

 


岩尾峰の由来となっている岩場

                                             
雨石山(あまいしやま)
雨石山はひょっとすると八ヶ尾以上に有名かもしれない。インターネットで検索しても八ヶ尾よりも記載数が多い。
特別美形というわけでもないが、府県境をなす分水嶺ということもあり、人気があるのだろう。
大変奇妙な話であるが、この雨石山はふもとの小倉では従来「雨石山」とは呼ばれていなかった。地元の人はこの山を「だんよ」と呼んでいる。
その理由は判然としないが、一つには隣の宮代にある櫃ヶ岳(羊ヶ岳)がやさしい女性的な山容なのに比べ、雨石山は岩が多く、
ライオンのように荒々しくみえることから、ライオンがなまって「だんよ」と呼ばれるようになったという説がある。それで別名「ライオン山」とも言われている。
この山が雨石山と呼ばれるようになったのは戦後のことのようである。小原でも同様で年配の人は子供のころ雨石山とは知らなかった
という人が多い。これは明らかに地図の影響である。
だんよ」の語源であるが、大変珍しい響きの名称であるから外来系のように思えるが、純然たる大和言葉だと思われる。
すなわち「だん」というのは「たに」のなまりで、「よ」は山を表す「お」=「尾」が前の「たに」と組み合わされて「たにのお」だったのが、
音の同化作用を受けて「だんよ」に変化したものと推定される。

この雨石連山の丹波篠山市側はおびただしい岩場を持つ大変魅力的な山であるが、登山者泣かせの山でもある。
というのは上でも少し述べたように、そのピークの位置が定まっていないのである。(国道173号線から見た画像のDが地図上のピーク)
国土地理院の発行する2万5千分の1、5万分の1の地図では小倉の真北にある611m峰がそれとして表記されているが、
ところによって雨石山の位置は異なる。地元の小倉でも611mという人がいれば、その右にある595mがそれだという人がある。
もう一方の地元京丹波町の八田や小野では京都府側から見て左に位置する595mが雨石山だという人ばかりである。
またAの右横にある岩場をピークとみなしている登山者もいる。


Aは630m峰(岩尾峰)、Bが国土地理院認定のピーク、Cは京丹波町の住民が主張する595m峰 (2010.1.19更新)

両方のふもとの話で共通するのは、昔は雨乞いをする山で、頂上にはいつも水がたまっている岩があり、
そこで雨乞いの祈祷をしていたという点である。
それで早速雨乞いをしていた場所を求めて雨石連山の頂上(2箇所)を調べてみたが、どちらも水がたまっているようなところはなく、
八ヶ尾周辺の山としては珍しい頂上が平らで、あの荒々しい山容からは想像もできないほどよく肥えた広場になっていた。
特に京丹波町で雨石山と呼ばれているピークはびっくりするほど広い平らで、京丹波町側は桧、篠山側は雑木林になっており、
樹木以外に岩など何も見当たらなかった。雨乞いの焚き火をしたのかもしれないが、儀式が行われたような雰囲気には乏しかった。


八田・小野で雨石山と呼ばれている595m峰(左側)


もう一方のピークである611m峰も頂上付近は595mと同様、平坦な広場になっている。登山者が登頂記念プレートを掲げているが、
頂上には岩はない。ところが611m峰と595m峰の間、あるいは630m峰への稜線に大きな岩があり、なんとなく雨乞いの祈祷所らしき
雰囲気のする箇所がいくつか見られた。今では木が生い茂りふもとから見えるどころか、稜線を歩いていても近くまで行かないと
見えないほどである。大正年間に最後の雨乞いが行われたという話であるからかれこれ80年以上も前のことであり、
その間の環境変化は著しい。



雨乞い祈祷所跡?


特に611m峰の頂上から少し595m峰へ歩いたところに箱型の岩が点在しているところがある。今では木が生い茂っているが
水がたまりそうな岩があり、また雨乞いの祈祷に使う供え物を置くのに都合の良い岩もある。一番祈祷所跡であろうと思われるところであった。
京丹波町側からは雨乞いの岩がふもとから見えたという話もあるらしいからひょっとして630m峰へ続く稜線にある大きな岩がそれかもしれない。
ピークは国土地理院の地図が示すとおり、雨乞い祈祷が行われていたと思われる611mがもっとも相応しい気がする。
しかし雨石山は大局的に言えば一つのピークを指すのではなく、630m峰から595m峰までの山を指すと考えた方がいいような気もする。
つまり連山と考えるべきなのである。小原・小倉境の630m峰は雨石連山の岩尾峰ということになる。
このページに「雨石連山」とした理由がここにある。



櫃ヶ嶽

櫃ヶ嶽は丹波篠山市宮代の北東に位置し、西方より連なる雨石山とともに東多紀アルプスを形成している山である。
八ヶ尾や雨石山とともに篠山北東部を代表する山であるが、その頂上は兵庫県と京都府の府県境となっているために
純然たる丹波篠山市の山ではない。
南斜面が篠山市宮代に属し、北斜面と西斜面が京都府船井郡京丹波町に属する。東に延びる尾根筋は府県境を形成しており、
これは同時に日本列島の背骨である大分水嶺の一部になっている。途中に丹波篠山市、旧瑞穂町と旧丹波町の市町境となる三角地点がある。


福井大橋から見た櫃ヶ嶽 (2020.12.31)


櫃ヶ嶽の海抜は582mだが周囲の山々と比較しても大差ない。山頂は北側(三峠山方面)と西側(多紀連山方面)、
そして頂上より南へ続く登山道を少し下ったところの東側(園部町方面)に一部開けたところはあるものの
赤松などの針葉樹、クヌギ、シデ、アセビ、ツツジなどの広葉樹が隙間なく生い茂り、視界をさえぎっているため
ほとんど展望がきかず、一番の地元である宮代地区すら伺えない。
20~30年前には今ほど樹木も大きくなく
見事な展望が楽しめたそうだが、その後放置され今日に至っているらしい。山頂は府県境の境界杭を中心に
半径
2-3mの広場になっている。いたるところに掘り返された跡があるが、おそらくイノシシがミミズなどを
捕食するために掘ったものと思われる。登山者が捨てた有機物が肥料となって頂上の土が肥えてミミズも生息できるほどなのだろう。
また山頂には数多くの登頂記念の立て札や看板が見られる。多くの登山者を集めているという証拠だ。
宮代地区の住人の中にも毎年元旦に櫃ヶ嶽へ登頂される方があるらしいが、展望がきかないというのはなんとも残念である。
ちなみに当サイトの「八ヶ尾ギャラリー」に掲載している櫃ヶ嶽から見た八ヶ尾・多紀連山の画像は山頂にあるクヌギの大木に
よじ登って撮影したものである。
宮代地区からの登山口は公民館「櫃ヶ嶽会館」から東に真っ直ぐ続く俚道を集落最後の家屋脇で左折してそのまま進むコースと、
その俚道をさらに
400mほど進むと山道が大きく右に折れるところがあるが、そのカーブの外側が少し広場になっており、そこから
まっすぐ上るコースと二つある。この東側コースが一般的な登山口である。
そこには水源かん養保安林(字カラコ)の看板が見られる。その看板横の渓流を上流に向かって真っ直ぐ登ると、京丹波町南谷との
境をなす鞍部にでる。
その鞍部から左に折れる道筋があり、兵庫県側は杉、京都府側は雑木林になっており府県境の登山道を北に向かって
ひたすら登ると、尾根に到達する。その尾根をまた左にコースを取ってしばらく歩くと櫃ヶ嶽の頂上だ。登山口から1時間とかからない比較的楽な
道のりである


 山頂には二等三角点が設置されており、測量業務の上でも重要な山であることがわかる。八ヶ尾の三角点が
三等であるのに対して、この山の三角点は二等と一段階上であるが、これは決して海抜に関係しているのではないらしい。
おそらく京都府側の意向が強く働いたのではないかと想像される。京都府側から見て府県境の山で遠くから見通しがきく
高い山となるとこの櫃ヶ嶽をおいて他にないからである。三角点の位置は府県境ではなく、
2mほど北の京丹波町に入り込んでいる。
一般論で言えば山頂にある境界線は頂点になるはずだが、宮代地区が遠慮したのか、京都府側が強引に境界線をずらしたのか
わからないが、櫃ヶ嶽では一番高いところに立つ三角点(すなわち分水嶺)が府県境ではないのである。
ひょっとすると明治
20数年ごろまで行われていた遺体の持ち越しの代償かもしれない。

持ち越し」:福井の櫛石窓神社の神域(同神社より上流にある大芋川の全水系)に死者を葬ることを禁じ、
分水嶺を越えた山向こうに埋葬するために死者を峠越しで運ぶこと。(小原では明治22年に集落共同墓地が整備された)
京都市北区雲畑地区でも行われていたそうで、同地には持越峠という地名がある。


櫃ヶ嶽はどこから見ても円錐形の実に端正な山で、一目でそれとわかる。周囲の山とあまり高さはかわらないが、
その絶妙な位置から結構遠くからも望むことができる。篠山市内で一番遠くから見ることができる場所は
雲部小学校西に位置する三池である。京都府京丹波町の国道
27号線の富田地区付近からも大地から突き出た丸い櫃ヶ嶽が見える。
また櫃ヶ嶽からは京都府園部町の旧市街地が望める。南丹市園部町栄町の京都伝統工芸専門学校のあたりから園部・丹波町境の
峰々の上に少し頭をのぞかせる櫃ヶ嶽をうかがうことができる。また亀岡市の出雲神社付近からも八ヶ尾、雨石山と並ぶ
櫃ヶ嶽を望むことができる。櫃ヶ嶽は八ヶ尾の真東に位置しよく見える。八ヶ尾に登頂した登山者は誰でも櫃ヶ嶽の美しい
円錐形の山容に惹かれ、登ってみたい衝動にかられるだろう。 ちなみに
2004年春先に発生した鳥インフルエンザ事件で
全国に知れ渡った浅田農産丹波農場は櫃ヶ嶽の京丹波町側山麓にある。
(右上の画像参照)

櫃ヶ嶽は羊ヶ嶽とも書く場合がある。どうやらこの表記の方が本来的なものを表しているように思われる。
雨石山のコーナーで紹介したように、西隣の雨石連山は至る所に岩場が見られる男性的な山であるの対し、
櫃ヶ嶽は珍しく岩場がない土の山なのである。そのような優しい山容がこの表記につながったと言われているが、
羊とは何の関わりもない。櫃ヶ嶽は福井の櫛石窓神社の真正面に位置する山で、同神社の神奈備山であることは間違いないだろう。
「ひつじ」とはすなわち太陽を意味する「ひ」と天辺あるいは頂上を意味する「つじ」が合わさってできた山名である。
ちょうど夏至のころに登る朝日が櫃ヶ嶽の山頂から顔を出す絶妙な取り合わせを古代の人が神々しいものとしてあがめて
その場に社を造営したと考えられる。すなわち櫛石窓神社から見れば「日いづる山」ということになる。
地名の解釈に漢字は重要ではなく、むしろ本来の意味を曇らせる場合がある。羊ヶ嶽の「羊」の字は当て字、佳字といえる。
そのような語源論とは別に羊の字をもつ山は全国的に見ても珍しいらしく、干支にちなみ未の歳には全国各地から登山者が殺到した。
宮代地区の畦道が登山者の車で一杯になったり、観光バスで乗り付けた登山グループもいたらしい。静かな山村が時ならぬ
登山ラッシュにおよそ半年もの間沸いたそうである。平成
15年(2003年)のことである。頂上にはそのときの記念プレートだと
思われる標識が三角点に立っている。


登頂記念プレート

珍しい羊の字を持つ山名で知名度も全国レベルの櫃ヶ岳、丹波篠山東部の名山としてこれからも大切に見守っていきたい。