25号
2003年3月12日 発行
全港湾神戸支部
本四海峡バス分会
最高裁決定「上告棄却」
 3名の解雇は違法無効!
   全港湾は団体交渉の地位にある!
     近藤・古川の懲戒処分は違法無効!

                  主   文

             本件上告を棄却する。
             本件上告審として受理しない。
             上告費用及び申立費用は上告人兼申立人の負担とする。
 
 不当解雇、全港湾否認から始まった本四海峡バス闘争は、3年7ヶ月が経過した。熾烈な闘争の根因である三役3名の不当解雇事件と全港湾の団体交渉地位確認事件について、ついに最高裁第一小法廷は、会社・海員組合の上告を棄却する「決定」を下した。3名の解雇無効と、全港湾が団体交渉の地位にある事が「確定」した。さらに、近藤・古川両運転士になした、2度に及ぶ懲戒処分についても会社側の上告を棄却する「決定」を下した。これらは、提訴から最高裁確定まで3年たらずという、他に例を見ないスピード裁判であった。

本/四/バス/は/法/を/守/れ
民事訴訟法(第312号)
 上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があることを理由とするときに、することができる。

(2) 上告は、次に掲げる事由があることを理由とするときも、することができる。ただし、第4号に掲げる事由については、第34条第2項(第59号において準用する場合を含む。)の規定による追認があったときは、この限りでない。
  1. 法律に従って判決裁判所を構成しなかったこと。
  2. 法律により判決に関与することができない裁判官が判決に関与したこと。
  3. 専属管轄に関する規定に違反したこと。
  4. 法廷代理権、訴訟代理権又は代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと。
  5. 口頭弁論の公開の規定に違反したこと。
  6. 判決に理由を付せず、又は理由に食い違いがあること。
解雇無効・団交地位確認
 この裁判は、3名の解雇無効と全港湾が団体交渉の地位にあることの確認を求め、それぞれ2000年3月7日と4月28日に神戸地裁へ提訴していた事件の最高裁「決定」である。
 両訴訟が併合審理となって2001年10月1日に「解雇は違法無効」「全港湾は団体交渉の地位にある」とする明快な判決が神戸地裁で言い渡された。会社・海員組合は判決を不服として大阪高裁へ控訴、大阪高裁は、2002年7月30日に「本件控訴をいずれも棄却する」と、会社・海員組合の主張を全て斥ける判決を言い渡した。この判決も不服として、会社・海員組合が 最高裁へ「上告受理申立」をおこなっていた事件である。
 最高裁判所第一小法廷は2003年2月27日付で、「上告が許されるのは、民訴法312条1項又は2項に限られる」として「本件上告理由は、違憲及び理由の食違いをいうが、その事実は事実誤認又は単なる法令違反を主張するものであって、明らかに上記各項に該当しない」と、明断した上で「裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する」と、会社・海員組合の上告受理申立の棄却を決定した。
近藤・古川、不当懲戒処分
 闘争当初徳島営業所は、会社・海員組合の全港湾脱退強要工作の急先鋒の場として、想像を絶する執拗な恫喝にさらされ、次々と海員組合へ復帰していった。そういったなか最後まで全港湾に残っていた近藤・古川両運転士2名が、当時海員組合関西地方支部長代行であった坪根氏(現代表取締役専務)に、一旦は海員組合への復帰に同意させられていたが、「仲間を裏切ることはできない」と、2000年4月14日、海員組合への復帰を撤回し全港湾に残ることを坪根氏に表明した。その当日の勤務終了後、会社は古川運転士に対し、深夜におよぶことを承知で本社出頭命令を発し、所属組合についての事情聴取をおこなった。その直後の4月27日、坪根氏が代表取締役専務に就任、すぐに「賞罰委員会」なるものを立上げ委員長となった。賞罰委員会は5月12日付で、全港湾でいくことを表明した古川運転士に、前述の本社出頭に際し全港湾を呼んで騒乱状態を作ったとして出勤停止7日間、同じく近藤運転士にシートベルト不着用を理由に4日間の出勤停止処分を発した。さらに、出勤停止期間中に、自宅で反省もせず全港湾の抗議行動に参加したとして、両名に同月22日付で3日間の出勤停止処分を追加した。この両名への懲戒処分無効と賠償を求め2000年10月6日に神戸地裁へ提訴していた事件の最高裁「決定」である。
 この裁判も同様に2002年1月25日に「一連の不当労働行為の態様は、海員組合と一体になってかなり執拗になされて来たものである」と、指弾し「懲戒処分に名を借りて、全港湾組合員であることを理由に不利益に扱うとともに、全港湾の弱体化を図ったもの・・・・・・本件懲戒処分は不当労働行為に該当するから、違法無効」として、神戸地裁は「処分無効」と「賠償」を言い渡した。会社側は判決を不服として大阪高裁へ控訴、2002年9月25日「本件控訴を棄却する」と、会社側の控訴を斥ける判決を言い渡した。会社側は、解雇裁判と同様に控訴審判決を不服として最高裁へ「上告受理申立」をおこなっていたが、最高裁判所第一小法廷は同じ日付で、前記「主文」と寸分変わらぬ決定を下した。
闘争の道程
海員組合は、組合員からの再三の諫言を無視し現場不在の組合運営を続けるなか、交渉などで現場の意見を組合執行部(交渉権は現場にはなく海員組合執行部だけ)に強く押す現場代表者に対し、会社役員が「海員組合はお前が居ったら話しがまとまらん言うて困っとる」「お前が跳ねとるんか、いいかげんにせい」「組合もそない言うとる」等と、執行部と現場代表者しか知らない筈の内容で圧力をかけてきた。会社と組合の癒着というかたちで船員時代からの疑念が明らかになり、組合員全員が悲憤慷慨した。職場のそこかしこで「自分達の組合を創ろう!」と声が上がり、当時本四海峡バス株式会社で海員組合に所属(運転士・整備士の限定ユニオン・ショップ)していた58名全員が団結。平成11年7月30日に全員が海員組合を脱退し、全港湾神戸支部に加入した。
 しかし、同年8月9日「本四海峡バス分会結成大会」当日の朝、分会長・副分会長・書記長に対し、ユニオン・ショップ協定を理由に会社から「解雇通知」が郵送されて来た。同日会社に対し「団体交渉」の申入れに本社に行ったが、本社事務所はもぬけの殻で「締切」の張り紙がされていた。この「本社逃亡」は2ヶ月に及んだ。
 一方、海員組合は全国動因をかけ、連日各営業所に100名以上が張付き、会社と海員組合が一体となり、会社権力を駆使した「恫喝復帰オルグ」が始まった。「明日はお前も首や」「全港湾が残ったら会社を潰す」「海員組合に復帰したらええ目さしたる」「通勤出来ない所に転勤や」等と、卑劣な脅しを会社役員と海員組合オルグ団が、来る日も来る日も繰り返した。
「分会三役3名の解雇」「全港湾否認」「本社逃亡」「海員組合と会社が一体となった恫喝復帰オルグ」で、熾烈な闘争が始まった。海員組合からの会社役員派遣、飲食や甘言による懐柔、海員組合中央統制委員会が現地へ来ての個人恫喝(除名=解雇)、海員組合の筆頭株主化、派遣役員の坪根代表取締役専務による所属労組を問う個人面談、会社役員と海員組合執行部による脅しの海員組合復帰強要面談、営業所長らからの脅しや嫌がらせ、懲戒処分に名をかりた不利益取扱や不当配転、等々、これらの不当行為等は、全て会社権力を駆使し海員組合と会社が一体になって行われて来た。闘争当初、卑劣な恫喝に抗し切れず、架橋離職者以外の一般採用者を中心に、僅か1月あまりで一人また一人と14名が海員組合に復帰、その後2名が復帰した。しかし、神戸支部をはじめとする全港湾全国の仲間や地域の働く仲間の支援をうけ、数え切れない抗議行動や大集会、2度のストライキなど、卑劣な攻撃を一つ一つ跳ね返すうちに「団結」が強化されてきた。
 また、数々の法廷闘争すべてに「勝利」してきた。これは、会社と海員組合の卑劣な攻撃にさらされながらも、分会が「団結」を崩さず、多くの争いを法廷の場に持っていくことが出来たからである。闘いが3年7ヶ月を経過した今、最高裁の「上告棄却」で、「3名の解雇は違法無効」「全港湾は団交の地位にある」「近藤・古川への懲戒処分は違法無効」という確定判決を手にした。
 私達は「正義の団結」で、会社と海員組合を後のない所まで追い詰めた。そして、今まだ余韻の残る40日間におよぶ「無期限座り込み闘争」を、分会が中核としてやり抜いた。
 人として看過し得ないものがある。「団結」を守り貫いた全港湾本四海峡バス分会42名は、大きく手を振り胸を張って「勝利」に邁進している。
beacon
この最高裁決定で、「3名の解雇無効」「全港湾の団体交渉地位」「2名の懲戒処分無効」が確定した。
 海員組合の云うユ・シ協定の特殊性が、司法の場で否定された。すでに神戸地裁では「海員組合(筆頭株主)は、労組法上の『使用者』に当たる」とする判決が下されている。これは、労働組合が「使用者」と認定された初めての判決である。このまま判決が確定すると不当労働行為の当事者であることが確定する。本四海峡バスにおいては、労働組合性も問われることになろう。
 漂流を続ける巨大船「全日海」、風雨は強まるばかり。労働組合という推進器の回復が急がれる。
驕傲(たかぶり)は滅亡(ほろび)にさきだち
          誇る心は傾跌(たふれ)にさきだつ
                     旧約聖書(箴言)
WE SEEK JUSTICE
会社と海員組合は法と正義に従え!
 昨年末の12月26日に神戸地裁は、海員組合(55%所有の筆頭株主)を「会社に対する影響力や支配力を考えると労組法上の『使用者』にあたる」と、労働組合を企業の「使用者」と認定する初の判決を言い渡した。一連の不当労働行為は海員組合と会社が、その実行者として行ってきた事が法定の場で明らかになった。海員組合は、判決を不服として大阪高裁へ即日控訴している。
 また、今年初めの1月15日、会社側が「全港湾との団体交渉に誠意をもって応じなければならない」とする、労働委員会命令の取消しを求めた行政訴訟において、東京地裁は会社側の請求を「棄却」する判決を言い渡した。さらに「緊急命令」を発し、本件判決確定(最高裁判決)までの間「労働委員会命令の履行」を命じた。この「緊急命令」は、無視も引き延ばしもできない。「緊急命令」に従わない場合は、法律違反として1日最高10万円の過料(罰金)が科せられることになる。会社側は、性懲りも無く東京高裁へ控訴している。
 私達本四海峡バス分会は、1月20日に団体交渉を求め会社と海員組合へ申入れをおこなった。会社は、現状では団交に応じられない旨を明らかにし、海員組合は、申入れ書の受取り自体を拒否した。
 私達は、法律に従わない会社、それを意向とする筆頭株主(海員組合)への怒の抗議と、支部・分会の力を結集して最終局面闘争を展開し、長期闘争を闘い得る力と態勢を構築する闘いとして、第一波闘争として無期限座り込み闘争に突入した。
 全港湾神戸支部をはじめとする全港湾の仲間と、地域の働く仲間に支えられ、私達分会が40日間におよぶ座り込み闘争を中核として立派に闘うことができた。この座り込み闘争で、全港湾本四海峡バス分会を潰すことはできないという事を、分会員全員で会社と海員組合に知らしめた。それは、同時に闘う力と自信にもつながった。そして、新たな闘いに向け、第一波の無期限座り込み闘争を、2月末を以って胸を張って終わらせた。働く仲間のみなさん、座り込み闘争へのご支援、本当にありがとうございました。今後ともご支援のほどよろしくお願いします。
座ったよ203時間
 WE  SEEK  JUSTICE! 私達は正義を貫く! 私達本四海峡バス分会は、1月20日より40日間におよぶ座り込み闘争を海員ビル前において展開してきました。地域の働く仲間と全港湾の仲間の強力な支援、そして分会の団結で座り込み闘争を打ち抜きました。40日間のあいだには、色々な事がありました。当初のドシャ降りの雨をテントとカッパでしのぎ、骨まで凍った1月末の大寒波を気力で跳ね返しました。その後は、天も味方につけ座り込みの無い土・日・祝日が全て雨という奇跡を呼び起こしました。
 私を含む復職待機者3名は、毎日7時間の座り込みが29日間、実に203時間ものあいだ、神戸では知らない人が居ないというほど、チョぉ〜有名(悪名?)な海員組合の海員ビル前で過ごしたことになります。住み心地は想像より良かったように思います。働く仲間からの温かい差し入れが、何度も届けられ路上生活の贅沢が抜けるか心配です。
 「石の上にも3年」とは、よく言ったものです。2月の2週目に入った頃から、近くで働く見ず知らずの人達からコーヒーや手作りクッキーなどの差し入れが届き、道行く人達の励ましも確実に増えました。さらに、海員組合員(船員)からも「頑張ってください」と声を掛けられるようになりました。そして私は、2月末頃には季節のうつろいが肌で感じ取れるようになっていました。
 季節がうつろい、道行く人達の目が確実に変化し、私の顔も日焼けで黒く変わりすべてが変わるなか、変わらないのは、「緊急命令」も「罰金を払えば適法」と、のたまう会社と「縄付きが出てもかまわん?」と、悪事を認めた上で解決を拒む労組法上の「使用者」だけです。
会社と海員組合は法と正義に従え!
     全港湾 本四海峡バス分会  日野 隆文
無責任な経営者から職場を守ろう
 私達は、座り込みの間毎日、従業員が一生懸命働いた貴重なお金を「罰金に使うな」と緊急命令の履行(団交開催)を申し入れた。会社は「罰金がきたら考える」「株主の意向がある」「罰金を払えば違法ではない」「罰金を払うことになると従業員にも影響がでる」等と、他人事のような返答に終始した。毎日の団交申入れに対し玉城常務は、全港湾と海員組合の中央で政治解決しなければ事態は動かせない、筆頭株主(海員組合)などの強い意向があり、会社だけの判断で団交はもてない「罰金もやむなし」の会社方針を明らかにした。そして、罰金を払い続ければ経営にも影響が出ると臆面も無くのたまう。法律に従い判決や命令を遵守すれば、問題が解決するのは自明であるにもかかわらず、会社経営陣は違法行為の継続を自分達で決め、罰金をただひたすら待っている。
 無責任な経営者と、それを「組織決定」と矜持する海員組合(筆頭株主)に対し、運転士も事務職も券売所も、すべての従業員が職場を守るために、会社の正常化を目指し一致団結しなければならない時ではなかろうか。
この事故を風化させないで

<運転士>
 グッグーと腹にハンドルが食い込んだ!次の瞬間、大きな衝撃(後続車衝突)で、胴がちぎれたと感じるほどハンドルが食い込んだ。「乗客は大丈夫か?」事故の連絡をと、電話を手探りで捜したが見つからない。体は、ハンドルで椅子に押し付けられピクリともしない。苦しくて息をするのにも絶え絶えで、ハンドルを体から離そうと手で押したが動かない。わき腹からハンドルが出ているような状態だった。
 乗客が非常扉の場所を聞きに来たり、左前のフロントガラスを割っていた。非常扉の場所やバスからの脱出を、精一杯の声で指示した。同時に助けも求めたと思う。非常扉は開かなかったらしく、乗客はフロントガラスや窓から脱出した。視界に見える範囲しかわからないが、ざわついた感じがなく全員が脱出できたようであった。時間にして約3〜4分だったと思う。車内に一人になって、言い知れぬ不安と息が出来ない苦痛が1秒ごとに大きくなってきた。
 白い自社バスが止まるのが視界に入った。斉藤さんが、電話をしながらこちらに向って来るのが見えた。ものすごく安心した。
 斉藤さんがバスに乗り込んで来てくれた。苦しかったので「ハンドルをどうにかしてくれ」と頼んだ。手で動かそうとしたが動かないので、足で押した。ほんの少しハンドルが動き、圧迫が弱まり息も楽になった。座席を動かそうとしたが動かなかった。
 腹の中で、血がトロトロと流れ出しているのが分かった。「死ぬかもわからない」意識が遠のきかけたが、意識を失ったら「死ぬ」と思って頑張った。何かを思うでもないが、家族の顔がぐるぐる走馬灯のように頭の中をめぐっていた。油の匂いが充満していることに気づき、火が出ないでくれと願った。外の声だけが聞こえる永遠とも思える時間が経過した。救急隊が来たらしく斉藤さんが救助を呼びに行ってくれた。
 レスキュー隊が救助に来てくれた。最初に意識を確かめるように、名前や住所などを聞かれた。ハンドルを切断して腹の状態を見て引っ張り出してくれた。折れた足が挟まっていたので、足がちぎれたと思うくらいの激痛が全身を貫いた。
 救急車の担架に体を固定され上向きに寝ていたが、腹と足のあまりの激痛に我慢できなくなり何度か止まってもらって体の向きを変えてもらった。救助の人が住所を確認して県立淡路病院へ向う途中、家族に連絡をとっていた。痛みがひどく誰かの手を握っていた。意識が途切れ途切れで声だけが聞こえていた。救急車に乗って助かったと思ったが、意識が遠のくので「やばい」なと、半分“死”を覚悟していたような気がする。
 病院について妻の顔を見て安心した。意識もうろうの中でも顔がわかった。子供の声がしていたのも覚えている。どこかに運ばれているのはわかったが、次に気が付いたときは病室のベッドの上だった。生きていることを自覚したのもこの時だった。
<妻>
 ちょうど主人が家に帰ってくるような時間に電話が鳴り、主人だと思って電話に出ました。最初に何度も「大森さんのお宅ですね」とたずねられました。事故だと聞いて胸をドンと突かれたようなショックを受けました。瞬間的に、帰宅途中の事故だと思い慌てて場所を聞きました。仕事中に淡路自動車道での事故と聞かされ「高速・・・、スピードが出ている・・・、大事故・・・、主人は・・・、乗客は・・・」と、一瞬頭をよぎり、茫然自失で頭が真っ白になりました。電話口で相手が何度も呼んでいることに気付き、ハット我に返りました。主人の状態を聞いて「今は意識があるとしか言えません」との返事に、主人は「生きているんだ」と、逆に主人に励まされたような感じでした。電話口の相手は「事故を起こさないように、水を一杯飲んで来てください」と、落ち着くように気づかってくれました。
 病院に駆けつけたが、処置中ですぐには会わせてもらえませんでした。1時間くらいして、先生から説明があり「腹内出血があるので、危ない」と聞かされました。意識が遠のきかけ弟に支えられる格好で、先生の声だけが響いている状態でした。あとの説明はぜんぜん聞こえていませんでした。手術の前に会えるということでした。待合所で不安に押し潰されそうになる自分に「主人の顔を見て、励ましてやらなければ」と、自分自身を励ましながら長い時間待ちました。
 主人が手術室に入る時が来ました。ベッドに横になり手術に向う主人に「がんばらなあかんで」と、気丈に励ます自分がいました。しかし、手術室に消えたあと足がガクガク振るえ、立っているのもおぼつかない状態であったことを覚えています。
 重くのしかかる不安しかない時間が、ゆっくりゆっくり進んでいきました。手術が終わり「無事終わりましたよ」と言われ、胸がスーと空くと同時に涙が溢れてきました。麻酔から醒めたばかりの主人に「がんばったね」と声をかけました。主人は、まだ意識がハッキリしていないらしく「お客さんは、お客さんは」と何度も繰り返していました。「大きな怪我はなかったようよ」と言うと、うなずきながら眠りました。私は、ゆっくり目尻を拭いました。「主人は助かったんだ」
この事故を風化させないで、安全対策の確立を!
神戸淡路鳴門自動車道多重衝突事故
 2002年7月におきた兵庫県淡路町岩屋の神戸淡路鳴門自動車道での多重衝突事故は、路肩に故障停車中のトラックから噴出した大量の白煙に、視界を遮られた大型トラックやバス等の車両9台が次々に衝突した。この事故は、4人が死亡、40人以上の重軽傷者を出す大惨事となった。
 明石海峡大橋が1998年に開通して以来、淡路縦貫道での最悪の事故となってしまった。
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