ごあいさつ

 この場を借りてごあいさつを申し上げる効果は、中原中也的律速論に基づき、樹木からの落葉に彩られた岩々とても、もはやその範疇には存在しえないと思うのです。しかしながら、世界のしいたげられた人民に代表される「超」機械的 "いしずえ" とでもいうべきものがそれらの中に少しでも見いだされる可能性があるとすれば、それは極めて貴重か、あるいは西南西方向に向かおうとするベクトルによって規定されようとする力をいやがうえにも認めざるを得ないという結論に達してしまうと思うのです。

 少々話がずれますが、簡単に言えば校則の問題に見られるような非研磨性洗剤(いわゆる「ハミガキ」)のような利便性を兼ね備えたカオス状態を想起し、それをことごとくたたえあげることは、今我々にとって何よりも不用である、とするのが私が長年唱えているいわゆる「不用論」なのですが、皆さんはどう思われますでしょうか? あるいは、私は何か勘違いをしているでしょうか?

 なお、流しの "いしずえ" は、大阪では公害病で有名になった大淀川流域でたまに発見されます。しかし、バグが相当に多いようで、最近ではPTAの指導もあり、流しの "いしずえ" 自体がしいたげられつつあるようです。これに対し、製造元では rev.2.72 発表の動きがあります。但し、旧版との相違点をよく理解しておく必要があるようで、このためには「大いなる小石」という概念について考えてみることが大変参考になります。

 これは、よく巷で議論になっているような非接続状態での緩和現象とは、その性格を異にするものととらえられています。つまり、経済的飽和効果にまで至らず、かといって包括的精神活動によって採取される以前の状態に現状をとどめようとする力を尊重するとしてもその効果を形而上学的論評に委ねるかのような態度に私は激しい憤りを全く感じないのです。

 いっそ、マウスのように無理数的なベクトルまでも許すようなツールがこの世に存在すること自体、ハードウェアによって無理やり小数点以下を切り上げて潔しとするルートにあまりにも我々は懐疑的になりすぎてはいないか。という疑問は、今我々にとってなによりも不用でありましょう。

 「やぶさかでない」という言葉を文法的に解析してみるとき、これまで述べたことは一層 "不明確" になってくるでしょう。例えば、上に述べたような有効な論議及びそれによってもたらされるであろう数学的決着自体が、 AMMON DULL II / DANS OF THE LEMMINGS にその解答を求めざるを得ないという状況を暗に醸し出しているとはいえないでしょうか?

 またもや、話が平易になりすぎたきらいがありますが、つまるところ私の言いたかったことは、世界のしいたげられた人民が社会的制約によって信号機にハミガキを塗らざるをえないという行為に発展したとき、必然的に我々の心情的拘束がややもすると電話機のプッシュ回線のように、あるいはちょうど「蓮根」のように頭をもたげてきはしないかとの心配は、やはり今我々にとってなによりも不用である。との考えもまた私の「不用論」なのです。