Syd Barrett / Wolfpack 〜メディア情報は型に押し込める

 首記の歌詞の中に "... pack in_formation" という部分がある。そこで次のようなことを考えた。

 自然現象や社会現象を解釈しようとするとき、100%自分自身の力によって解釈を貫徹することは希で、むしろ他者の解釈物を見聞することでその解釈の一つ、またはその一部分を自分の解釈として取入れ、あるいはそういったフィルターを通した解釈を自分自身のものであると錯覚することは多く、とりわけ、マスコミの洪水の中に生きる「文化人」たちにとってそういった現象は日常的なものといえる。

 一個人の音楽嗜好というテーマを取り上げるとき、その嗜好の一部がロックというジャンルに抵触しているという前提のもと、たまたまロックに関するマスコミ情報に恵まれるという背景があったときに、自身の発露たる音楽嗜好をそういった媒体のフィルターを通した嗜好の枠にはめてしまい、その枠内の嗜好が自分のそれの全てである、あるいは自分のそれをことごとく代表していると錯覚、あるいは見なしてしまうという危険性がある。無論、そういったフィルターというものは、音楽という全集合の中から一定条件に沿って選び出された一部を解として与えるに過ぎず、その解が一個人を投影し得るものでは決してなく、逆に一個人の投影の一部がその解に抵触するべきものであるという位置関係であるのもかかわらず、そういった位置関係を見失う危険性がある。

 例えば、自身の音楽嗜好について「プログレが好きで、なかでもドイツのバンドが好きだ」と説明するとき、発言者はそういった「プログレ」とか「ドイツ」といったフィルター名称を援用することが簡便であるためにそのような表現をしたにすぎないことを常に留意しなければならない。これを見失うことの最大の被害は、自身がそのようなフィルター用語を用いたことによって、そういったフィルターによって篩い分けされたものが自身の嗜好をことごとく代表しているとの錯覚を回帰的に起こし、その結果、自身の嗜好をそのフィルターの枠内に閉じこめてしまうことであろう。

 さらに具体例を挙げる。「私はプログレが好きだ」と言ったとき、「私」の好きな音楽はその多くがマスコミが「プログレ」と呼ぶ範疇に属するだけであって、その範疇に属さないが好きな音楽はたくさんあるという事実にもかかわらず、前記発言によって回帰的に自分のさらなる音楽探究が「プログレ」という枠内に閉じこめられる危険性がありはしないか。

 試しに、自分の所有する音楽ソフトウェアーの中から「この1枚」というセレクションを試みるとき、その選択の過程で「プログレ」と呼ばれるアイテムが怒涛のように抜け落ちて行くのを目の当たりにして愕然とし、同時に到底「プログレ」の範疇に入らないようなアイテムが次々とピックアップされて行くのを発見するであろう。

 音楽嗜好の話は単なる一例であることはいうまでもない。社会現象等を考察するときには大いに注意すべきであろう。


(原出:1993/09/05 Nifty-Serve Flock(3), 01490 、1997/09/03 某パティオ用に一部修正、2004/05/17 全面改定)