German Rock の魅力

私はジャーマン・ロックが好きです。
しかし、私はジャーマンというキーワードで作品を選んで聴いてきたわけではありません。
誰しも様々な音楽を耳にするなかで、当然自分が気に入ったアーチストというものが出てくるでしょう。
私の場合、そのようにして何の先入観もなく耳にし、気に入ったアーチストの比較的多くが、メディアによって「プログレ」と呼ばれるジャンルに属しており、さらにそれらのアーチストの比較的多くが、ドイツのものであったということを後年になって結果として知るわけです。
少々脱線しますが、私が音楽に求めるキーワードは「プログレ」でも「ジャーマン」でもなく、「逸脱」だと思っています。
従って、声が逸脱している Pavlov’s Dog も大好きですし、音が逸脱している Velvet Underground も好きです。


では、ジャーマンロックの特徴は概して何でしょうか。かなり乱暴ですがブリティッシュロックと対比してみましょう。
   British : 小綺麗、表層的
   German  : 無骨、赤裸々、徹底


こう書くと、もう説明不要かも知れません。
このような対比は、わかりやすい例でいえば、クラシックの指揮者でいうヘルベルト・フォン・カラヤンとカール・ベーム(そういえばカール・ベームはドイツの指揮者だ!)の対比、あるいは、ビートルズのメンバーでいうポール・マッカートニーとジョン・レノンの対比と似ているかもしれません。


無骨。
音楽に限らず芸術全般に言えることですが、小綺麗で表層的なものは耳(目)ざわりが良いものです。
しかし、浅い部分の感動で終わってしまうこともまた事実でしょう。
それに対し、人の心をより深い部分で揺さぶるもの、そういった芸術作品は、もちろん例外はありますが第一印象は必ずしも耳(目)ざわりの良いものであるとは限りません。
いや、むしろ第一印象がとっつきにくいものほど、何度も接していると忘れられなくなり、そのうち大好きになってしまうということは日常社会でも経験することではないでしょうか。
無骨なものが良いというつもりはありません。
良いものは外見は無骨である場合が少なくないのではないかということを言いたいのです。
ジャーマンロックは確かに無骨なものが多いのです。
しかし、人をより深い部分で揺さぶる力を持っているものが多いこともまた事実だと私は感じています。


赤裸々。
Guru Guru/UFO, Amon Duul, 初期のAmon Duul II, Ash Ra Tempel などに顕著でしょう。
心情を何の飾りもなくそのままぶちまけたといった感じでしょうか。
だからこそ、聴く者の心にストレートにぶつかってくるのでしょう。


徹底。
これもまたジャーマンロックの特徴の一つだと思います。
ほどほどにしておくのではなく、徹底的に行うのですね。
上記したアーチストにもこれは言えますし、初期のCanにおいてもいろんな意味で顕著です。
毛色の変わったところでは、Kraftwerk があります。
人工的であることの徹底、素材として単調電子音を使うことの徹底、リズムの単調性の徹底。
特に、アルバム "Trans Europe Express" の同名タイトル曲と "Metal On Metal" のメドレーでは単調なリズムが徹底して継続され、その姿勢には暴力的なものすら感じます。
そして不思議なことに、聴き終わる頃には「もっと、もっと」という状態になります。
(私はこのアルバムを聴くとき、必ず上記の部分を二回は聴いてしまう)


人が芸術作品に感動するのは、誤解を恐れずにいえば、その人の「心の傷」と共振することによると私は考えています。
もちろん、どのような作品に対して感動を覚えるかは、人それぞれ違っていて当然ですが、表層的なものに飽き足らず深い感動を求めて未知の芸術に広く接しようとする人は、自分の心の傷と共振するものに出会ったとき、心から揺さぶられる感動を感じるのではないでしょうか。


このことを考えるとき、私はどうしてもここで音楽産業の功罪について述べないわけにはいきません。
商業主義市場での音楽産業は売り上げ第一ですから、外見が小綺麗でなければ取り上げられる機会が少なくなります。
その結果、深い感動を与えることなく、表面だけなぞって聞き捨てられる音楽ばかりが大衆メディアに登場することになります。
この構造による最大の被害者は、深い感動が与えられるかも知れない芸術作品が多く存在するにもかかわらず、それらの作品について情報すら与えられる機会がなく、低級な聞き捨て用作品ばかりあてがわれる一般消費者でしょう。
そして、本当に意欲のあるアーチストは芸術活動の場を大きく狭められることになります。


しかし、ちょっと待って下さい。
いきなり矛盾することを言うようですが、本当に意欲のあるアーチストがその芸術レベルを維持するには、商業的に不遇であることは幸運なことかも知れません。
このことについては「音楽社会学」の項の中で考えてみたいと思います。