2004年5月24日

 今日、私は会社を休んで総合病院へ肺の検査をしに行った。会社の集団検診での胸部エックス線撮影の結果、(1)肺ガンである、(2)進行性結核である。(3)どちらでもない、のいずれかであることが明らかとなり、精密検査が必要との宣告を受けたからである。さて、私は冒頭に「会社を休んで総合病院へ...行った」と書いた。このような記載から読者が通常理解するであろうことは、「会社を休む」という事象をAとし、「病院へ行く」という事象をBとしたとき、事象Aは事象Bを実現するための環境を創出するための行為である、あるいは、若干平易な表現を選択するならば、「病院へ行く『ために』会社を休んだ」との合目的的な解釈を冒頭の記述表現が導くであろう事は平常である。しかしながら、ここで注釈しておかなければならないことには、事象A及び事象Bに関してそれぞれの行為を計画した段階においては、それぞれの事象は独立していたのである。即ち、
事象Aの行為を立案した時刻を tとし、事象Bの行為を立案した時刻を t としたとき、事実として、時間軸上において t は t よりも過去に位置したのであり、即ち「会社を休む」という事象Aを立案した時刻tにおいてはそれによって生み出される環境を事象Bの実現のために費やす考えはいささかもなかったのである。即ち、時刻 においては、事象Bの原因となる精密検査の結果は未だ私には届いていなかったのだから。しかし、経緯はどうであれ、このようにして私は、事象Aによる行為を実行した結果生み出された環境を事象Bの行為の実行を実現するために利用したのである。さて、ここで賢明な読者の頭には、次のような疑問が浮上するであろう。即ち、そもそも「会社を休む」という事象Aの実行を計画した背景には、仮想事象Cの実行計画が存在すると考えるのが普通であって、その事象Cの実行についてはどのようにしてその目的を解消したのか、と。即ち、仮想事象Cの行為を立案した時刻を t とすると、式『t <t <t』(但し、ここで記号 ”<” は、時間軸上における位置関係を表し、記号 ”<” の左辺は記号 “<” の右辺よりも過去であることを表すものとする)が成り立たなければならないのであって、事象Aの実行の結果生み出された環境を事象Bの行為の実行のために利用したというのであれば、仮想事象Cは、(a)その実行を取りやめる、(b)その実行時期を遅延させる、(c)事象Cは事象Bと並列に実現しうるものであったか又は事象Aは事象Bと事象Cの直列実現の為に充分な環境を与える性質のものである、のいずれかでなければならないと考えるのが自然であろう。この疑問を解消するための示唆について、即ち仮想事象Cの存在の有無をも含めたその内容について表明することについては、私はここで親切に提示する煩に耐えないので明言を避けるが、引き続く記述によって前記疑問が自然解消される可能性は無くはない。

 さて、病院での待ち時間の間、私は一度帰宅して、つい先週、hikaru さんの勧めで購入した「柔らかい月」(イタロ・カルヴィーノ著、脇功訳、河出書房新社刊、ISBN4-309-46232-4)を持参し、「第三部 ティ・ゼロ」の冒頭である「ティ・ゼロ」(p131-p151)及びその余を読破するという行為を貫徹したのである。ここで若干注釈を加えなければならない。わずか21ページを読み通すのに「読破」という表現は必ずしも適当でないのではないかとの疑問が読者の頭に浮上することの予測は容易だからである。なるほど私はその指摘を受けることを潔しとしなければならない。上記で述べようとした事は、病院の待ち時間は幸いにもちょうどそれだけのページ数を読むのに長すぎることもなく短すぎることもなかったという事実である。上記書物の記載は、非常にわかりやすくすんなりと頭に入ってくるものであり、一般の小説の冒頭でよく感じる掴み所のない鬱陶しさはいささかも無かったことが、病院の待ち時間における一般人が通常享受するであろう退屈を解消するにはうってつけであった。その内容は、「私Qに向かって襲いかかってくるライオンLに向かって矢Fを放つ。今、時刻tにおいて矢Fはその射程の三分の一のところにあり、ライオンLもやはり三分の一ばかり突進してきている。ここで時刻tにおいてL及びFは点Xで一致するか否か」について考察したものである。ここで、私が待ち時間に読んだ書名を詳細に述べたのには理由がある。いま私が書いているこの文章はここで読んだ前記書物の内容の論調に強い影響を受けていることを指摘される前に白状しておこうと思ったからである。

 さて、検査の結果であるが、前記(1)肺ガンである、(2)進行性結核である。(3)どちらでもない、のうち、(3)であるとの結論が出た。この結論に至った根拠は非常にわかりやすいものであったので、ここで述べておく。集団検診では、肺の上部に見られた陰影(ネガなので白いのだが)は、肩から続く骨(医学用語を知らないのでこのような表現しかできないが)と重なって映っていたので、病院では腕の位置を変えてその骨をどかすような姿勢で撮影した結果、該当する肺の部分には陰影は映らなかった、という理由である。

 病院のために午前10時から午後1時までの3時間を費やした私は、帰宅後、私が何をなすべきかについて考えた。まず私が行ったことは、Faust のファーストアルバムのCDを聞くことであった。 しかし、これはあらかじめ予定されていた行動ではない。たまたまCDを並べている棚に目をやったところ目に飛び込んできたのがそれであったというだけの理由である。ここ で、私は注意深く注釈を加えたいと思う。Faust のファーストアルバム
は、病院で見た自分の胸部のエックス線写真が記憶に残っていてそれとの連想で選択したのでは決してなく、選択した後でジャケットを見て、そういえばそういう連想も可能であることに気付いたのである。尤も、私は過去にそのジャケットを目にしているのであって、私の無意識が背表紙だけをこちらに向けているそのタイトルに手を伸ばすに至らしめたのではないかとの仮説も可能ではあるかも知れず、これを考察することは研究テーマとして価値があることかもしれない。しかしながら、私はこのテーマについて掘り下げたいとは思わないのでこの可能性については封印することとしたい。さて、Faust のファーストアルバムを聴き始めてすぐ、私はFaust / So Far をしばらくぶりに聴いてみたいとの思いに駆られ、ファーストアルバム(34分19秒)を聞き終わった後それを実行した。そして、So Far を聴き始めてまもなく、私は今読者が読まれているこの文章の作成に着手した。




 しかしながら、前記So Far のLPのA面が終わってカートリッジが針を上げた瞬間、私は自分の行為の誤りに気付くこととなった。そうなのだ。So Far のA面が奏でる音が私の耳に入った後、私の脳は前記音を鑑賞に値する情報として処理する作業を全く行っていなかったのだ。思えば、このような教訓は今初めて与えられたものではない。うっかりしていた。キーボードで日本語を打つ、という行為は、決して右脳作業である音楽鑑賞とは(少なくとも私の脳は)両立することができないのだ。そこで、私はこの文章を打つ作業を中断し、本来の目的である音楽鑑賞に専念すべく、もう一度So Far のA面から聴き返したのであった。