我が町 汐見台
菅原道真と汐見塚(しおみづか)
墓地公園からの相生湾
『(13)菅原道真と汐見塚(しおみづか)』

 『むかし那波の人たちは、山の中腹に住んでいた。ところが陸は産業会館のつい近くまでが海だったが、那波のように山の中腹ではなく、殆んど平地に住んでいた。
 山の中腹の住民からみると、海岸に近い陸(りく)に住んでいる陸(くが)の人たちがうらやましかった。
 相生市相生には、相生天満神社(旧村社)があります。
 祭神は、菅原道真です。
 海老名氏の祖である家李は、陣中で、菅原道真の像を得て、これを家に伝えてきました。
 建久2年(1191)、相生町の北方山麓に一社をたてて、菅原道真の像を奉斎しました。これが相生天満神社の創建と言われています。
 若狭野野々には、若狭野天満神社(旧郷社)があります。
 祭神は、天忍穂身命(あめのおしほみのみこと)と菅原道真の二神です。
 創立年代はよく分かっていません。su
 しかし、むかし、山城国(今の京都府)にある北野天満宮から勧請して、天忍穂身命と、いっしょに菅原道真を奉斎しました。これが若狭野天満神社の創建と言われています。
 江戸時代、矢野18か村の産土神(うぶすなのかみ)として崇敬され、領主の信仰もたいへん多かったと言われています。
 毎年の7月25日には、若狭野天満神社は、字の神様として、児童の習字奉納がありました。
 そんな関係で、陸には、菅原道真に関して次のような話が残っています。
 菅原道真が陸に来て、南の方を見ると、海の水が大きくみちひきする様を見ました。
 そこで、この地を汐見塚といいます。現在の汐見台の当たりだと言われています。』
私の住む汐見台には上の山公園があり、その隅にこんな写真の碑がありました。
上記写真をクリックすると拡大します
那波山城と書かれてあるのを見つけ、調べると相生市史第4巻には次の文章がありました。
*1『「正統那波史」によると、那波浦の東にある磯上の陸村のはずれの丘の上に(「位置は今の池の内と陸との中間に在る小丘とのみで、それと覚しき跡はない」と書いている)が現在は池の内上の山、標高25メートルの丘がその城跡とされている。(日本城郭大系) 承安3年(1173)平経盛が築城した那波城があった。経盛は寿永3年(1184)源義経に攻められて、城を保ち得ず、那波浦の西口にあった雨乞山城にこもり善戦したが、この城も北口の光明山城が落城したので、城を捨てて佐方に逃れようとした。
一方義経勢もこの城が容易に抜けないので、岡部六弥太、佐々木高綱、弁慶ら諸将と軍議をした。
たまたま、佐方村から、この城に通ずる間道出入り口を密告に来た老婆があったので、義経は大いに喜び、得たりとばかり手兵を間道より攻め入らせたため、遂に雨乞城は落城し経盛は自刃んして果てたという。』*1
単に区画整理で造成されたこの地名も、古い昔のいわれが残した地名と知りさらに愛着が増しました。
さらに興味深く見つめてみると、この相生の地にも大島山城、光明山城、矢野山城、下土井城、那波岡の台城、感状山城等があったと知りました。今回のホームページのアップに当たり自分の住む街の事、少し知り得た喜びに浸っています。
『参考資料1:相生の天満宮には、次のような伝説も残っています。海老名家李は、鎌倉の将軍源頼朝から命じられ、播磨国矢野庄の下司職として赴任しました。この時、家李は、戦場で拾って大切にしていた菅原道真の木像を持って来ました。建久2年(1191)、家李の子の盛重は、菅原道真の木像を天満大自在天神として、神社を創建しました。以降、この天神を守護神として祀ったと言われています。
 陸天満宮には、次のような伝説も残っています。菅原道真は、大宰府に配流の途中、相生の沖にやって来ました。この時、急に嵐となったので、船から降り、相生湾の奥にある陸(くが)の岩山(上の山)で嵐が治まるのを待ちました。波も穏やかになったので、再び船に乗って太宰府に向いました。後に道真の死を知った陸の人々は岩山に天神を祀ったと言われています。現在も菅原町という地名が残っています。
相生市の天満宮は若狭野、相生、陸以外は緑ヶ丘、矢野地区にあります。』
引用文献 
@相生市史 第4巻(*1『〜』*1)
    発行  昭和62年3月
    発行  兵庫県相生市教育委員会
A郷土のあゆみー相生ー
    発行  昭和47年10月1日
    編集  相生市教育委員会