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小学生でもわかる囲碁の歴史シリーズ

本因坊戦の歴史
─明治から昭和編─

 1867年に大政奉還がなされ、明治時代が始まります。明治政府は廃藩置県などの改革を行っていきますが、その改革の流れの中、1871年に囲碁の家元の保護もなくなってしまいます。それまでは江戸幕府によって保護されていた家元四家ですが、これからは自分たちでなんとかしていかなくてはならなくなったのです。
 明治時代は、本因坊家をはじめとするいろいろなグループがいろいろな団体を設立し、お互いに切磋琢磨していった時代でした。また、新聞に碁が掲載されはじめ、たいへん人気があったのもこのころです。ある囲碁の大会(院社対抗戦)を掲載した読売新聞の発行部数が、一挙に3倍になったなどという話も残っています。
 そして時代は昭和へと入ります。その時代に囲碁界の発展に貢献したのが、最後の本因坊といわれる、本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい)です。彼は、1914年に名人にもなっていることからも、とても強い棋士だったことがわかります(なお、このころ、名人戦はまだタイトル戦ではありませんでした)。
 ところで、なぜ秀哉は「最後の」本因坊といわれているのでしょうか。本因坊というタイトルはいまでもあるし、おかしいんじゃないか…。実は、彼は最後の「世襲制」の本因坊なのです。彼の時代までは、本因坊家というグループ(家)があり、その代表者が本因坊を名のっていました。しかし秀哉は「もう、家とか格式とかにこだわっている時代は終わった。これからは一番強い人が本因坊を名のればよい」と考え、日本棋院に本因坊という名前をゆずり渡します。これが1936年のことで、ここに算砂から始まった本因坊家は、その歴史に幕をおろします。
 その2年後の1938年、秀哉は木谷実(きたにみのる)と名人引退碁を打ちます。このときの様子は川端康成の小説「名人」に詳しく書かれています。ちなみに、川端康成はこの引退碁の観戦記者としてこの碁を取材し、詳細な記事を書いていたのです。それをもとにして小説「名人」が生まれたのですね。
 ここで、こぼれ話を一つ。秀哉が名人を引退したのは、将棋の影響もあったからだといわれています。将棋の13世名人であった関根金次郎という人が1935年に名人を引退し、将棋の世界では、囲碁よりも一足先に、1937年から実力制名人戦が行われていたのです。
 囲碁の世界では、1941年に第1期本因坊戦が毎日新聞の主催で行われます。記念すべき第1回のチャンピオンは関山利一六段でした。ここに、世襲制ではない、実力制のタイトル戦が始まったのです。その4年後の1945年、戦時中にもかかわらず第3期本因坊戦が行われました。東京の日本棋院が空襲で焼けてしまったため、その大会は広島で行われることとなりました。なんと、その大会の2試合目の日に、広島に原爆が投下されたのです。両対局者は無事だったそうですが、ふすまが破れたり、ガラスが割れたりしたそうです。しかし、そのあと部屋を片づけ、対局が行われました。
 戦時中にもかかわらずタイトル戦が行われていたということは、囲碁が文化として認められていたということを示しているのではないでしょうか。また、囲碁という文化を絶やしてはならないという関係者の思いもたいへん強かったのではないかと感じます。それ以来、現在まで本因坊戦は続いており、2004年の大会が第59期にあたり、張栩選手がみごと防衛しました。
 さて、本因坊戦についてはわかったけど、本因坊秀哉のあと、名人はいったいどうなっていたのでしょうか。

名人はどうなっていたのか!? 続きは
小学生でもわかる名人戦の歴史 ─ 明治から昭和編 ─
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