「何があった?」
城内への抜け道となっている地下道で、くらくらする頭を手で支えながら、ハラートはルシータに聞いた。
ルシータは眉をひそめ、
「わからないわ。突然、闇の魔物たちが湧いて出て、なぜかわたしたちを襲わずに闇の兵士を襲ったの」
『お腹減ってたんじゃないかなあ?』
暗い中、半透明のベルナデットはほとんど姿が見えない。
「そうかもね」
魔物が空腹を感じるとは思いがたいが、「食らいたい」という欲求は持つだろう。
ルシータは、生半可な返事を妖精に返した。
「おかしい……何かが、変だ」
ハラートのつぶやきにも、ルシータはあまり考えず、明るく答えた。
「いいじゃない。望み通り、城の中へ入れそうだもの」
途中から、地下道の壁に灯かりがともりだしていた。
きっと城に入ったのだろう。
果たして地下道を抜けると、そこは大きな木のうろになっていて、まるで木から生まれるようにして三人は表へ出た。
『なんだか不思議な感じ』
「この抜け道は、元々ここがブライトキングダムだった頃からあったようだ。アリーナが見つけたんだよ」
その後、勝手知ったるハラートは迷いなく城の中を進み、時々運悪く出くわす兵士は、声を上げる前に倒されていった。
城の廊下は広く、天井は高い。
白亜の城は、たしかに闇の王には似つかわしくなかった。
「綺麗な城ね」
するとハラートはやや驚いたように、
「君はブライト城に来たことはなかったのか?」
と尋ねる。
「ないわ。いくら姉さまが王妃でも、わたしたち家族はただの民人だったから。――ダーク城も、ここと同じように豪華なのよね?」
「かつては」
用心深くまわりを見まわしながら、ハラートは言った。
「ダーク城は、もちろん、"黒"が基調だ。豪華さはここと変わりなかった――フレデリカ王妃が処刑されるまでは」
「フレデリカ王妃が、処刑?」
「そうだ。フレデリカ王妃は、まだブライトキングダムとダークキングダムが交流を持っていたころ、ブライトキングダムの絵師に自分の肖像画を描かせた。そしてそれがきっかけで、二人は恋に落ちたのだ」
広い廊下を曲がると、ぐっと狭くなった廊下が続いていた。
だがそこはひっそりと、薔薇の香が漂っている。
「王妃は、王妃の地位と娘のアリーナを捨て、絵師と二人で逃亡した。そしてダーク王の追っ手に追い詰められて、自害したんだ」
「自殺を……ひどい」
「そのときから、王の狂気は始まった。ブライトキングダムの人間を憎み、ブライトキングダムそのものを疎ましく思うようになっていった。そしてそれは、ついに、幸せそうなブライト王への激しい妬みへと変わったんだ……」
ハラートはなぜかその先へ進もうとせず、足を止めたまま、奥にある部屋の扉を見つめている。
「……王の心に光が射さなくなったのは、自分自身の乱れた感情のせいだったのに、王は自分には光の妖精の加護がないからだと思い込むようになった。それで、ブライトキングダムを攻撃した」
何かの予感にあたりの空気が震えたようだった。
ハラートをうながすでもなく、ルシータも黙ってそこに立ち尽くす。
「今はダーク城は完全に打ち捨てられている。幽霊城だ。だが、かえって以前より闇の力が増しているのも間違いない――闇は際限なくどこまでも広がる。光は、遮られてしまうが」
そして言った。
「行こう。あれがアリーナの部屋だ」
素早く部屋に身を滑り込ませたとき、そこに袖の長いゆったりした玉虫色のドレスを着た後姿の女性が立っているのを見て、ルシータは一瞬固まった。
だが覚悟していたようなハラートは、静かに声をかけた。
「アリーナ」
ゆっくりと振り向いた美姫の瞳を、いろんな感情がよぎったのか、ドレスと同じ色の光がひらめく。
怒り、恨み、悲しみ、喜び――なおどうしようもない、想い。
「……おまえたちが来るのはわかっていたわ。待っていたのよ」
声の主の腹は大きく前にせりだしている。
ルシータは夢で見た少女との違和感を感じながら、何も言おうとしないハラートに代わって話し始めた。
「アリーナ王女、わたしはルシータ。光を導く使命を帯びています。わたしは光を甦らせるために来ました。ライレーン王女を目覚めさせるために――でもそのために闇を倒すという考えが、間違っていたことに気づいたのです。
戦いが避けられるならその方がいいと」
その言葉に、意外そうな顔をしたアリーナが口を利いた。
「戦いを避ける? いまさら何を言うの……おまえたちが仕掛けた戦いじゃなくて?」
ルシータは一歩前へ進み出ると、誠意を示そうとひざまずいた。
そして、
「いいえ、王女様。この戦いは十年前に始まったのです――あなたの父上、ダーク王がブライト王を殺したときに。
わたしは光の神殿で、闇に包まれても内側から輝く光を見ました。
戦いは無意味です。
光も闇も、共にあるべきです!」
「黙りなさい! おまえたちの言うことなんか信じないわ! みんな……表面だけ」
その目はハラートを睨み、冷たく燃えている。
「……わたしはおまえを許さないから、ハラート」
「わかっている。許してもらおうとは思っていない」
そう言うと、ハラートは両腕を広げた。
「だがもし君がダーク王を説得してくれたら、わたしたちの運命は変わる」
ハラートの言葉は臣下のそれではなく、アリーナ王女と対等だった。
ルシータには何となく奇妙に映ったが、二人に違和感はないようだ。
それほど二人は近かったといえる。
「どう変わるの?! おまえが裏切り者であるということは変わらないわ!」
ハラートの全身から慈しみのオーラがあふれ、それらはすべてアリーナに向かって流れていった。ルシータは、まるで岸辺に立ってなすすべなく二人を見守っているような錯覚に襲われつつあった。
「聞いてくれ、アリーナ。わたしの心は今まで二つに引き裂かれていたんだ。光と闇、どちらかを選ぶしかないと。
だがルシータが共存という道を示してくれた。
思い出してくれ、アルファード王の時代を。光と闇が、ひとつに統治されていたときを」
アリーナの真紅の薔薇の蕾を思わせる唇が薄く開かれ、動揺しているのが見て取れた。
ルシータは水に溺れる者を励ますように、小さく、だが強く声をかける。
「そう、共に生きるのよ、アリーナ王女」
「アリーナ、わたしにはたったひとつの希望の道だ。君にとっても……もし君が、わたしが君を愛していると同じように、わたしを愛してくれているなら」
「うぬぼれないで!」
王女の声は震えていた。
「うぬぼれないで……誰がおまえなど。わたしはダークキングダムの王女よ。この国のために、お父さまのために生きるの。
もうすぐ子供も生まれるわ。おまえなど……」
「ナビル将軍の子か?」
陰鬱にハラートが問う。
「違うわ」
アリーナは唇を噛むと、あっさりと否定した。
「ナビルには指一本触れられてはいない。――お腹の子は、サーグの子よ」
その答えには、ハラートもルシータも驚きを隠せなかった。
「なぜ……」
ハラートも言いよどみ、その先の言葉が出ない。
アリーナはふふ……と投げやりに笑うと、長い睫毛を伏せて自身の腹を見た。
「サーグと契約したの。ナビルは毎夜、エイベリンの亡霊を抱いているわ、わたしだと思って。……本当はサーグが死界から呼び戻した妻だとも知らずに。
サーグはわたしの体内に闇の魔物を入れたの――そう、これは魔物。人間の子なんかじゃない。
そしてこの子が生まれたとき、サーグを後見人にするという条件を、わたしは受け入れたのよ」
「な……! それは実質、サーグがこの国の実権を握るということではないか!」
するとアリーナはその黒い瞳に涙をいっぱいあふれさせた。
「どうでもよかったのよ! わたしには光も闇も、どうだっていい――ハラート、おまえがいない世界なんて!」
その瞬間、アリーナがハラートに飛びかかり、長い袖に隠れて見えなかった短剣を振り上げた。
白い指に、薔薇を彫ったルビーの指輪が光る。
だがハラートは王女の手からそれをもぎ取ると、彼女を抱き寄せ、力強く抱き締めた。
アリーナはハラートの胸に顔を埋め、泣いた。
「……ハラート、おまえが憎いわ。おまえを、殺してやろうと思ったのに」
するとハラートは、アリーナの頭に頬を寄せつつ囁く。
「アリーナ、わたしは君と共に生きたい、光と闇のある世界で」
『ううう……よかったわね、ハラート。幸せになって』
ルシータの左肩からベルナデットの声がして、ルシータは半ばあきれたように言った。
「あんた、いたの? でもまだハッピー・エンドってわけにはいかない……ダーク王を説得しなきゃ」
そのとき、部屋に風が吹き込んできたようだった。
天蓋が揺れている。
それを感じてぎくりと身をこわばらせ、アリーナは押し殺した声で言った。
「わたしから離れて、ハラート……もう遅いの。手遅れよ」
「アリーナ?」
「そうだ。王女から離れてもらおう」
いつのまにか、魔術師サーグが黒い影のように立ち、三人を見ていた。
そしていつもの狡猾そうな声で、楽しげに言った。
「ルシータ、また会ったな。今日のわたしは幻ではないぞ。さあ、かかってくるがいい」
ルシータは露骨に顔をしかめ、
「つまらない挑発にはもう乗らないわよ。それより、あんたの企みはすべて読めたわ。
本当の裏切り者が誰かということもね……。
さっき、魔物たちを使ってナビル将軍たちを殺したのも、あんたでしょう?
子供が生まれたら、彼は邪魔だものね」
「それはアリーナ王女との契約の一部でもある」
サーグは口の端を上げた。
「つまり正確には、わたしとアリーナ王女がしくんだことなのだ。そして契約によれば、ここでハラートは死ぬことになる……」
「やめて!」
アリーナが声を上げ、ハラートの前に立って両手を広げた。
「やめて、サーグ。子供は生むわ。お父さまのあと、王位を継がせればいい。だからわたしとハラートを、もう放っておいて」
「おやおや、何を言い出すかと思えば」
まるで小さな子をあやすように、サーグは白い瞳を大きく開き、優しい口調になる。
「あなたには王母としていてもらわねば。――さあ、そこをどいて」
あの不気味な魔物の声と共に、三人を取り囲む部屋の壁にまるでしみが浮き出るようにして、黒い影が広がっていった。
その影がたくさんの鋭い爪を持った手のようになってあちこちから飛び出してくる。
ハラートはとっさにアリーナを脇にやり、光の剣を抜いた。
もちろんルシータもすでに抜いている。
だが魔物たちの狙いは、ハラートひとりのようだった。
魔物はハラートを頭から飲み込もうと狙っているのだ。いや、足元からか。
「ハラート、逃げてっ!」
アリーナの悲鳴が響いた。