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過去の日記



2008 12/30

  

NEYYORK」でいいのですか
綴りを間違ってないですか、大丈夫ですか、わかりません。


こんなご時勢だけれど、ゴーダ家も何とか無事に年末を迎えることができたので、せっかくですから一年の総括を書いてケジメをつけたいと思います。

2008年は大きなことが3つありました。

1.女房が手術をしてリンパ腺癌と診断される(検査結果で誤診だったと判明)
2.会社が倒産というか廃業
3.絵を東京で出展

おおお。サラって書いてしまったよ、サラっと。
色々と大変な年だったのにサラッとまとめると意外とこんなもん。


☆    ☆     ☆

浄化作業は終了した。
2008よ、さんざん振り回してコケにしてくれたな。
見てろよ2009年、このやろう。





2008 12/14


個展でもやろうかな、なんてことを最近少しずつ思うようになりましたよこの変な時勢の冬空にダウンを着てフレスコに食材を買い物に行かされているあいだに特に強く。

ぜんぜん関係ないけど昔から口酸っぱくなるほど「食材にはケチるな、金がなくても国産を買いなさい」って言ってきたけれどそれでもびっくりしましたね値段の違いに。

例えばニンニクを買ってきたのですが、中国産なら3個入りで100円程度なのに国産ならば1個しか入ってないのに300円するのですよ奥さんぼくは腰が抜けそうになりました。単純に10倍ですよ、1個単価が。びっくりしませんか、しません?そうですか。


さて、本題に入りますと今から近代美術館にお出かけなのですがドローイングの展示で奈良美智さんの作品が来てるらしいので楽しみです。美術館のHPには他の人の展示の写真も見ることが出来てそれがまたかなり面白くて好きな絵もたくさんあって楽しみです。

そして今これを書きながら、果たして帰ってきたときに同じ感想をもっているのだろうか?それともこの日記ごと消してしまう破目にならないだろうかと思わないでもありません。

でも誰の絵だって画像じゃなく「生(なま)」は迫力が違いますし、自分の作品だってもちろんそうありたいと思っ

ウンチクやめて美術館行ってきます。


    

ただいま帰ってきました。はあ疲れましたよもちろん娘に。とりあえず購入品を↑。

ドローイングばかりの企画でしたがかなり良かったです。ただ、日曜日なのに正直いってガラガラでした。京都でこんなガラガラなのに東京はもっともっとガラガラだったらしいです。何で? 東京ってこんな感じのダメなのでしょうか。

ぼくは現代美術と呼ばれるものと世間の価値観との温度差みたいなものを感じて自分の心にすきま風がひゅぅっと吹いたのを覚えています。

女房が言うには、

「ドローイングやただの落書きを綺麗にパッケージングして額に入れて『はい!作品です』みたいなのがちょっとどうなん?って思ったね。」だって。

なるほど。
僕は描いてる側として単純に面白かったけれど鑑賞側として見るには確かにもうそろそろ食傷気味なのかも。しっかりした作品を見たいと思う気もする。
何なら、ドローイングの結果この作品が出来ました、みたいにドローイングと作品をふたつ並べるとかしたら一方通行ではなくて親切な展示だと思う気もするかな、、、って。ま、それじゃ企画の意図から外れるけれど。

☆    ☆    ☆

最近は他人の作品に感化され変に影響されることがなくなったのは自分の中の何かが定まってきたからなのか単に自分が鈍くなってきただけなのかはわからないけれど。

とりあえず僕は僕の絵を淡々と制作するだけだ、って本当に心からそう思いました。



2008 12/7

   

干し葡萄とは文字通り「ぶどうを干したもの」だということをおとつい知ったゴーダです。


とうとう画像が多すぎて画像アップをeonetに拒否られました。なんだよeoのケチ。といういよりこれって制限があったんだね。そりゃあみんなブログに走るはずだ。ブログに移行しようかな、でも何かブログに抵抗があるのはなぜなのですか?ないですか?そうですか。僕、ブログにめちゃ抵抗あるんです。ダメな人間です。一緒っていえば一緒なんだけれど、僕にとっては全然違うものなんです。

強いて言えば、自由感を持って出来ないのです、ブログは。
このHPなんて本当に遊びでやってて、やりたくなけりゃやらないし、好きでやってきただけだし、見てくれてる人もいればいいかな、いたらいいなって思うぐらいし、でも作品は一切手を抜いてないので自信を持ってアップして世界に発信してるので、変なところで『この絵の良さをわかってもらえないだろうな。わかってくれる人にわかればいいや』なんていう最低な自尊心の塊をちゃんと持ち合わせているのでゆっくりながらも続いているのかもしれないです。

それにしてもeoよ、せこいじゃないか。10Mって少ないよ。乗り換えるぞ。


というわけでこれからどうしよう。今回のように前の絵を消してアップするのも限界があるし。



2008 12/1

 

メリークリスマスおめでとうございます。

いやあメデタイですね。めでたいめでたい。めっちゃめでたい。

何がめでたいって誰よりも早くクリスマスを祝っていることが凄くめでたいです。電飾ぴかぴか。

こんな馬鹿でかいツリーまで買って、本当に僕は落ちぶれました。以前はこんな僕ではなかった。あんたの時代はよかったよボニー。何かに負けた気がするのはなぜですか。勝敗なんてあってたまるか、なんて言ってみたけれど正直「完敗」です。

キリストの誕生日なんて・・・・、だからと言って釈迦の誕生日(4/8)に何かをするかといえばそんなことは全くないしそもそも誰も釈迦の誕生日なんか知らないのではないだろうか。


そんなことはどーでもええんや。

そらが喜んでいるんやし。



2008 11/16

  製作中ですわ

そうか。

沢木耕太郎だったかどうかも忘れたけれど、何かの本で「人間は3才までに十分親孝行を果たしている」といったような意味の文章を読んだことがある。

なるほど、そうか。と思っていたが、実際に娘が3才になってはじめてわかることも多い。もちろん個人差といったものはあるんだろうけれど。

正直に言って3才の娘は史上最強に可愛い。
可愛いぞ。ああ可愛いさ。


「あっそう、はいはい、よかったね、聞きたくもねえし」
とそんな声が僕には聞こえる。

わかっている。悪いが僕にはわかっている、そしてここから『そんなことはわかった上で敢えて可愛いと言っているのだ。私はもともと子供なんぞに興味がなかったのである、その私が言うのである』といったこれもよくあるパターンの言葉を述べるつもりもない。といいつつ思いっきり述べてみる。

おう。ちまちまと言葉の羅列で自分を正当化して守ろうなどとケチ臭せーことはやめるぜ、って何で偉そうな言い回しなのかはわからないけれど、それほど自分が混乱しているのである、浮ついているのだ、要するにATフィールドが解かれているのである。愛してるのだ。いや、恋に近いかもしれな・・



「おつくりまんちですか?」


おつくりまんちである。何ぞや、それ。

「おつくりまんちがいいですか?オレンジとあぽー(apple)もありますよ?」


おお、これは店員さんごっこなのだ。何や、ピコピコやる機械みたいなの持ってる芸風だし。今、そう、これを書いているたった今、横で店員さんごっこが始まっているらしいのだ。それも僕はどうやら有無を言わさず『客』のようだし、どうやら「おつくりまんち」なるものを注文せねばならないらしい。



「お、おつくりまんち?って何ですか?」

「ええ!?おつくりまんちはおくすりまんちやん!」

「え?え?今おくすりまんち?って変わってたで!」

「いいのっ!!おくつりまんちなのっっ!!!いいの!!」




「・・・ん・・・と、・・んじゃあ、・・・・・・・・おつくりまんちください」


「は〜い。おくつりまんちですね〜。ちょっとまってくださ〜い。・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ああっ!ごっめんなさ〜い!はた(旗)がないわ!!ごっめんなさ〜い、おつくりまんちダメです〜」










       は







       た







       ?
















お子様ランチかよ。



2008 11/9

   

ジェッソを塗る。


さあ何だかわからないけれど、初心にもどり作品作りにとりかかろうと思いまして、今日は雨が降っててジェッソ塗るには全然向いてない天候なのだけれど『今日下地を作らなければ俺に今日を生きる資格などないのだ』とわけのわからない洗脳を自分に施し、ジェッソ塗りを強行したのです。

家族がみんな風邪なので僕一人寒い大部屋で窓をあけて換気をしながら下地塗りをした。

えええれt2

でも寒いっす。ダメだ、寒いのだけは。また今年も冬に絵を冬眠することにならないように、今年は暖かい部屋にアトリエを設置してもらったから頑張れるのではないかと思ったけれど寒いものは寒い。

基本的にジェッソだけが部屋での使用を禁止されているので(すごい臭いだから)、ジェッソだけ別の部屋で換気をして頑張ろうかな、と思っているのです。
ちなみに上のわけのわからない暗号?のようなものは娘が押しただけなので無視してください。横でうるさいんですよ。なんか押したいらしくて。しかも消したらもっとうるさいんです。




無印良品で買った壁掛けCDプレーヤーは手軽で便利。
ランダム機能とリピート機能があれば完璧なんだけどな。

MDのこういったやつないんかな?


さあ今日は絵を描きまっせ。描きます。描くのです。もうこれしかないんですから僕。
描かないと何にも前に進みません。大好きなポテチうす塩あじ食べてる場合じゃありませんよ、小川珈琲のブラックをドリップで堪能している場合じゃありませんよ、perfumeの新曲動画を穴があくほど見てる場合でもありませんよ、・・・いや、perfumeはよい。なぜなら、perfumeだから。

さあ、ジェッソも乾いてきたことだし、やろうかな。
あっ!「かもめ食堂」みてないや、こんなの休みの日しかみられないしな、んじゃあしょうがないので絵は後回しにしてDVD見るか、、

あっ!図書館で借りてきたビリーバンバンのCD聞いてないや!気になって借りてきたけれど全然聞く気がなくてほったらかしだったんだ、、これだけを聞くために時間を費やすのはもったいないなあ、ましてやこれをかけながらじゃ絵は描けないし、、、

あっ!いっぱい本も借りっぱなしで全然読んでないやー、美術手帖も借りたままで開いてもないし、どれどれ、・・・・会田誠プロデュースって?、、あぁ、この人かあ・・

俵屋宗達の画集もぜんぜん見てないし・・・




こりゃ絵は明日だね☆




2008 11/1

 
   

仕上げた絵の部分的な実物大です。(僕のパソコンでは)


寒くなってきたというのに暖房器具を出してもらえないホントに可哀想なゴーダです。

寒い。寒いっちゅうねん。もう少し頑張ったら麻生プレジデントがくれるがな、お金を。もうちょっとの辛抱や頑張れゴーダ家。

今日久しぶりにTVとかいう物体に電源入れたら、なんだか討論?みたいなのでこのお金支給に物申してる人たちがたくさんいて本当にびっくりしました。本当にびっくりしたのです。「ばらまきだ」って批判してるんですから。払ってたものをちょっとですが返してもらって何で不服なのかは僕にはとても理解できないです。

そんな大金はもっと他のことに使うべきだなんて・・マジっすか。余裕があるんですね。TVカメラのないところで黙って個人的に支給金を福祉に寄付すればいいだけだと思うのですが。

欲しくないのやったらそれゴーダ家にください。文句いうのなら。
文句はいうがお金は貰う、はダメでっせ。
僕は文句ないし。文句どころかめちゃ嬉しいよ素直に。
それよりも街中でインタビューされてるおっさんらも難しい顔で反対派づらして、いらんのやね?お金。

いらない人は文句言わず寄付してください。


37年間生きてきて国から金を取られる事はあっても、もらったことなんか一度もない。役所って取ることしか考えてなくて金を配るなんて絶対ないって思ってた。ま、役所はありえないか。今まで個人的に散々役所と喧嘩してきたし、この前までは仕事でも談合役所に深く関わっていたからよーーーく知ってます。
でも今回は国のトップが決めたんだし。ちゃんと払ってね。


☆   ☆   ☆

僕は「NOWハンバーグ」という商品で、魚のでかいソーセージハムみたいなのを醤油で焼いたのが大好物なのですが、今日それを食べてたら

「おとーちゃんおいしい?」
「え?うん。おいしい。」
「へん。」
「??・・え?」
「へん!」
「な、なに?ヘンて?」
「いっつぁへん!」
「ななな、何やて??」
「『I'ts a ham.』やて」(女房)



「おとーちゃん絵本よんでー」
「なんや?しんどいねん」
「よんで!よんで!よんで!よんで!よんで!よんで!」
「わ、わ、わかったがな。どれやねん。3つまでや」
「えっとー・・、つんつくせんせいと、かえるちゃんと、ぺくねっく」
「つんつく・・と・・かえるちゃん・・と・・何て?」
「ペクネック!」
「ぺく・・ねっく・・?」
「ペクネック!!」
「ぺくねっく、なんて本あらへんで」
「『picnic』(英語の絵本)のことやで」(女房)



「よーし!おとうちゃんと動物当てっこしよか!」
「うん!」
「じゃあ・・これはなに?」
「ねこちゃんーにゃあにゃあ。かわいいねー」
「じゃあ・・これはなに?」
「かえるちゃーん!げろげろーげろげろー」
「じゃあ・・これは?」
「ダァグ」
「は?」
「ダァグ」
「おお・・おお!dogね。おお!だあぐ・・ね。じゃあこれは?」
「ズィラァフ」
「そらちゃん、これ、きりんさんやで。首長いなあ?」
「ズィラァフやでおとうちゃん。」
「・・・・・・じゃあこれ」
「hippoptamas」

もう無視して岩絵具を混ぜている僕。



日本語を覚えてね。先に。


ps

仕上がった絵は、パソコンの画像ではわからないけれど、アクリルのラメを入れてるので所々キラキラしてて楽しい。ラメは岩絵具と感覚が似てるから好き。塗る時のザッザッっていう筆の音が似てます。



2008 10/26


 

speaking words of wisdom  let it be .
本当にこの曲は。

僕はポールマッカートニーは好きではないという立場をとっているけれど実際に家でピアノ弾きながら歌うのはポールの曲が多い。

心に響くからだ。let it beは特に。前奏から泣ける。
人生のいろんな転換期に歌ってきた。
こだわりは1/2音下げること(電子ピアノだから出来る)

こんな名曲がお蔵入りだったなんて(発売は解散した後)。

確かにtomorrow never knowsは歴史を変えただろう。strawberry fields foreverやI am the walrusは革新的だったと思う。

でも僕はシンプルなlet it beが実はかなり好きだ。

こういう半径2m以内の現実を表現している作品が好きだ。しかもシンプルであること。絵も同じで。
僕は芸術とはそういうものだと思っている。


「そらちゃんポニョがいい。ポニョ弾いてー」


芸術なんてどうでもいいじゃないかと言われる。いや確かにどうでもいいし、それは正論に間違いない。絵なんか描いて何になる?学生のうちならともかく、またはイラストやデザインならともかく全く商業ベースに基本的に乗れない芸術なんて何の意味もない。まさに正論だ。

だけれど僕は違う。
いちいち書かないが僕は全くそう思っていない。


「ぺーたぺた、ぴょーんぴょん、あしっていいな!かけっちゃおー」


僕のまわりに作品を真剣に作り続けている人はいない。いるのかも知れないが知らない、出会っていない。
みんな日々の生活が忙しくて大変でやっとの状態だ。僕だってそうだ。

ましてや芸術なんて、「げ」の字も興味ないはずだ。それでいい。それでいいのだ。誰が日々毎日疲れて帰ってきて自分の芸術とやらを完成させるためだけに絵を描くだろうか。そんな馬鹿はいない。一銭にもならないその行為に何の意味があるのか。誰がそんなことをするか。けれど、いるのである。そんな馬鹿がきっといるのだ。僕もそうだ。そこにしか大きな喜びを見出せない人間は出会ったことはないがきっといると思う。


「ぱーくぱっくちゅっぎゅっ!!ぱーくぱっくちゅっぎゅ!
 あーのーこーがーだーいーすーきー」


何を書いてるかもわからないくらい風邪と疲労で疲れているけれど、こんな時にこそ普段思っていることが文に出るんじゃないかと思ってこのままupする。ATフィールドが緩くなっていると思うし。
それに・・・。・・・・ま、いいか。



「わかったわかった、おとうちゃんポニョ弾いてやる」
「ほんとー☆?!やったーいっしょにうたおー」

『 ぽーにょぽーにょぽにょさかなのこーあおいうみからーやあってきたー  ぽーにょぽーにょぽにょふくらんだー まんまるおなかーのーおんなーのーこー 』




2008 10/18

    

ちゃんと絵を描いてまっせ的な画像をポチっと貼り付けてと。
わざとらしく。

実はかなり行き詰まっていて小声で「死ねぼけ」とか「カスが」とか言いながら、かと思えば口元がニヤッとムスカ大佐な、かなりヤバイ状況です。っていつもだけど。


☆   ☆   ☆

ああ、また旅病が出てきたゴーダです。

旅病とは、読んで字のごとく「何だか嫌なので外国に旅に出て逃避行しちゃうもんね病」でありまして、もうどうしようもない人間が定期的にかかる病気なのです。

「自分の見聞を広げる為」だとか「自分探し」とか「世界で己を見つめ、己を試す場」だとかおっしゃってる素晴らしい方々とは真逆なのです。

もうやんなっちゃった、やんぴ!で次の日に格安航空券を買いに走るダメな人のことです。僕です。

しかも欧米とかじゃなくて安くてエセ英語の通じる東南アジアばっかりで、今まではインド、ネパール、タイ、ベトナムに逃避しました。言っておきますが決してガンジャが目当てではありません。

このどうしようもない病気を止めるために僕はもの凄く賢い良法を思いついたのでして、友人にこの素晴らしい対策方法を教えてあげると『それは素晴らしい。是非実行すべきです。あなた妻子もある身なんですからね。』と言われました。

ま、パスポート更新しないっていうそれだけなんですけど。


この対策法のせいで、旅病にかかった時もパスポートが切れているので航空券を買えないことが何度も何度も何度もありました。今回もです。

とにかくパスポート再取得に日数(1ヶ月くらいか?)がかかる。面倒。効率悪すぎ。だから再取得しない。

ま、でも僕にとって、この効率の悪さや対応の遅さなどのおかげで再取得してないのだから、ある意味、役所仕事がやっと役に立ったともいえる。






ちょっと最後に教育のことをチラッと書きます。


お父ちゃん遊んでー
忙しいんじゃ。(コーヒー飲みながら描いてる絵を睨んでるだけ)
お父ちゃん一緒にあっちで絵描こうよー
何やて?!そっちで「くりかえす(perfumeのこと)見とき!」


どうなんですか、この教育。




2008 10/11

   

皮肉といったらいいのだろうか。

皮肉としか表現しようがないんだけれど、こんな内容の絵を描きあげたまさに今日、朝から玄関のチャイムを鳴らす、絵にこめた想いと真逆の来客(来客って表現も変だけれど)があり、何て言ったらいいのか・・村上春樹ではないけれどまさに『やれやれ』だった。

物凄く、全身で「わたしは善人です」というのを醸し出した女性と、その後ろに車椅子に乗ったこれまた「わたしは善人で且つお年寄りで足腰が悪いの」なおばあさんがいわゆる「本」を持って玄関前にいました。

そして昨今の世の嘆きと未来の不安を煽り、聖書に立ち返り、世の中を正そうというメッセージを残して本を渡して満足したような顔で去っていった。


僕は知っている。この車椅子のおばあさんが一週間後には(その奇跡?で)立ってここらへんを歩いているという筋書きであることを。


☆   ☆   ☆

僕は聖書のメッセージでどうも引っかかるのが、人間は原罪を持って生きることを強いられているという点であるのだけれど、不思議と誰もそれに対して異論を唱えないし、むしろ「そのとおりである」というかのように世の中は組織されていると思う。

世界的な視点で見ると、聖書がむしろスタンダードであり、聖書を無視すると歴史がほとんど空虚なものに様変わりするし、芸術などは聖書なくして語れない。

すると、基本的に原罪の基礎を作ったのはリンゴを食べたイヴであり、唆(そそのか)したのは蛇ということになる。それが比喩であれ何であれ。

それが嘘であれ物語であれ本当であれ、どうでもかまわないけれど、僕はイヴがリンゴを食べたことによりはじめて進化という未知の道を選んだ、というふうに人間を全面的に肯定したい。

だから唆された、というのは「何者かのせい」にしてるのでヤダ。蛇などいなかった。もしくは蛇はその場にいて確かにイヴをそそのかした。けれど、イヴは自ら承知でりんごを食ったのだ。

知ってて未来を進化の方向へ選択したのだと思う。あえて食った。

もちろん不安はあっただろう。
でも賭けてみたのだと思う。

へタレのアダムには、まかせてられなかったのではないだろうか。


僕は女性とはそんな存在だと思っている。



2008 10/4



今日はそらの運動会だったので、フリーカメラマンだった頃のEOS1を押入れの奥から出してきたのですが、何この臭い?。臭っさ。何かクサイ。カビ?皮?

今どき、フィルムのカメラ使ってる人いるのだろうか(誰もいなかったねお年寄りでさえも)、ちゃんと現像してもらえるのだろうか、このカメラ動くのか?(動いたけどシャッター膜が溶けてて・・オーバーホールしないとダメだね)

☆   ☆   ☆

今回ちょっとインタビュー(絵の)を受けまして、それを掲載してもらってるのですこちらで。
http://www.artaraqasia.com/

それからインタビュー内ではリャドの「ロルカの詩」のリンクが「ロルカの詩U」になってますが、僕が見たのは「ロルカの詩T」です。

これはサイト運営側のかたにも「そのままにしてください」と伝えてます、のは僕なりに理由があるので。、、ま、、Uも見て欲しいからなのですが。 
もし「T」をみたい人はこちらにURLを置いておきますので。

http://www.artcreation.co.jp/x-riyad-r1.html

ちなみに僕は、感動して5時間もその販売店のその1枚の絵(ロルカの詩T)の前で過ごしました。


友人にインタビューを読んでもらった感想は、

『 禁則事項です☆  はヤバイでしょ。
  それを使うことじたいが禁則事項だと思います』

とのあたたかいお言葉を頂きました。

ええよ別に。



2008 9/28


何が馬鹿げているって、この日記のバックの色を決めるのに30分以上ずっとあーでもないこーでもないって考えているなんてこんな馬鹿げていることはないと思います。ゴーダです。

この日記のバックの色はその日の感情を一番大切にして表現しているので、どちらかというと感情より理性を大事にする先進国と呼ばれている人々とのギャップはデカイかも知れません。

というか僕個人の見解ですが、感情ほどコミュニケーションにとって大切なものはないと僕なんかはクソ生意気に思ったりしているのですが、もっと言えば、この自然に内側から湧き上がってくれる「感情」を無視して人間たちが勝手に作り上げた理性と呼ばれる概念を通じてコミュニケーションを取ろうとするから世の中がおかしな方向に進んでいると僕なんかは思うのですが。

感情は大切な「道具」になると思いますし、感情をむき出しにするのはイタイと思いますが、感情を誠実に正直に伝えるのは一番先進的なcoolな方法だと思ってます。


☆    ☆    ☆


    

寒くなってきたので膠がゼリー状になっていまして、溶かすために湯銭していましたら(上の写真)、後ろで「おとーちゃん!おとーちゃん!」と呼ぶので振り返ってみたら右上の絵があったのです。

おとーちゃん!これみてー!
おお!じょーずやなあ。これ何描いたの?
んーとねー。そらちゃん!
へえー。そらを描いたんかー。えーっ・・と・・この真ん中の下の顔みたいなこの部分?
ちゃうっ(怒)!!ちゃうやん!ここ!
え?どこ?
ここやん(怒)!!
え?え?どこ?どこ?
ここやん!
 



2008 9/21


  

perfume


・・・
なぜperfumeなどと打ったのかといいますと、確かに僕はperfumeが好きであることに何の異論もないのですが、ちゃんと理由があって打ったのでまあ聞いてください。


今日この日記を書こうと机に座ってパソコンの前にいたんだけれど何にも思いつかない状態だったのです。いつものことですが。

我が家のアトリエ机は横1m80cmもの長さがあるのです。
左横では上の写真の状態の娘がいたのでパシャリとデジカメで撮って、上の写真をアップする作業を淡々とこなしていたら


「そらちゃん p 押したい」


と左横から突然ぬかしやがってきたんですね。

僕は常に心優しい理想のお父さんを目指していまして、そうですね、「ぱぱ〜」「何だい?はっはっは。」みたいな感じですかね、知らんけど。 
普段汚い喋り方しかしないので常に言葉遣いは気をつけるように注意を払って毎日を生きていこうとだいぶ昔に決めたのです。が、

「何やて? pなんか押していらん。邪魔せんといてくれ。 何が p や、押してどうすんねん!お前よこで俺の大事な作品を何や楽しげにめちゃくちゃにしとったんちゃうんかい!」

と僕の本性ではない、僕ではない誰かが、そう悪魔だ悪魔、悪魔が乗り移って言いやがったんだ、俺はやってない、悪魔なんだ。と言い訳していたら、左横で大泣きしはじめたんですよね。


そんで、しょうがないから p を押させてやったんですよ。上のperfumeの p 。

そして上の写真と、その下に意味不明な p のひと文字が出来たわけでして。


もうこのままで意味不明な日記も「アリ」なんじゃないだろうか?展示会も終わったことだし、と思ったのですが、どうせならメッセージを盛り込もう、せっかく作品を作って表現していこうと決めた人間なのだから何か表現しよう、と思いまして、pのあとに続く言葉を考えてみたのです。


peace


peaceって・・これどうよ?peaceって何?このご時世に今さらpeaceって。peaceを叫んでいる暇があるのならば川に流された子供を助けようじゃないか。


pain


これが次に思いついた単語。ああpain。何てピッタリくるネガティブな言葉なんだ。ジンセイってpainだよねーなんて釈迦の真似しててもしょうがないし。今までのジンセイを表現するならばpainってぴったりだし、でもこれからはそうではないように望みを希望を持ちたいよね、それがないと自殺しかないもんね。だからヤメ。


いろいろ考えたのですが、pではじまるちょうど良い言葉が思いつかなかったので、それで、perfumeと打ったのです。


peaceとかpainとかよりもいいかなって思ったのです。



ま、御託並べても、これを書いてる時にperfumeがかかっていただけなんですけどね。




2008 9/18

   

今日、出展してた絵が帰ってきてた。毎回思うのだけれど、なんていうのかな、返品されたような、「あらよっと!」という感じだろうか?『用済み』のハンコをバカンと押されたような、いっつもそんな気分になるのはおそらく自分が自意識過剰で純情愛情過剰に異常なキョン2だからなのだろう。

企画担当者の方が直筆の手紙を添えていてくれたから救われた。地球にはまだまだこんな心優しい人がいるんだ。W3(手塚治虫)の気持ちがわかってきた。そうでなければ僕は毎日バルスを唱えてなけりゃならない。

上の絵はその出展作品ではなくて出展用のボツ作品である。
全く気に入ってないのでtopページにも載せない。でも何かが気になるのでここに載せた。


神さまよ、あなたに望むことなどない、そもそも期待などしていない。
だからせめて絵を描く精神的に余裕ある時間をくれ。
というか、作れ。




2008 9/15

   

ぽにょ見に行きました。

いやあ、映画ってほんと素晴らしいですね、なんて悠長に水野晴郎ってる場合ではありませんね。
あの日、京都の同じ映画館にいたみなさんに申し訳ないです。本当に申し訳ありませんでした。よその家のお子さんも泣いていたけれど、ウチのは洒落になってなかったです。

もう穴があったら入りたい。そんな状況です。
映画の内容? そんなの全然覚えてないす。
あ、絵がきれいだった。ある意味斬新で嫉妬しましたジブリに。

それよりも、うるさいから娘を外に連れ出したらもっと迷惑なくらい泣き叫びだして。
どうせいっちゅうねん。


始まる前の宣伝がやたら長くて、東宝さん、もっと宣伝する映画の中身を考えてほしかった。いや、多分考えてくれていたのだと思う。でもひとつくらいは我を通したかったのだろう。でもそれがイケナイ。
あの時点で泣いてる子供たちも多かったぞ。
なぜハリウッドの銃でドカンバカンが入っているのか?
これは絶対東宝の都合で、ジブリの意図する方向ではないと思うけれど。

どちらにしてもその針ウッドのドタバタで子供たちは退いてしまい、
その時点で「 おうち帰るー! 」がはじまり、始終ずっと「 おうち帰るー!」。

ま、ぽにょの内容も三歳児には無理だったね。連れて行った俺が悪い。
せめて幼稚園に通うぐらいでないと。


そして内容を知りたくて上の本を買った。
なかなか面白そうじゃないか内容も。

ぽにょの主題歌に惑わされて見に行くと、小さい子は無理だと思います。

☆  ☆  ☆

百万遍のクラフト市に行ってきました。
当初、女房はあそこで僕の絵の展示、販売をすすめていた。

今日ぼくは初めて行ったんだけれど、あんなところで出来るかいな!

ヒンシュクもんやぞ、あんなところで。
あんな感じで皆が衣服や小物や光り物などを売っている場所で誰がわけのわからん絵なんぞ見たいか!お年を召された方も沢山いらっしゃられたられおられましたし。

まあ女房も久しぶりに見たらしく、「あれー?こんなんじゃなかったけどなあ」なんて言ってたけど。

多少の違和感くらいなら全然やる。むしろ逆にやってやるくらいの気持ちになる。
でもあれはダメ。絶対ダメ。やっちゃダメ。
せっかく自分の中では、やる気になってたのに。
ま、しょうがないね。



2008 9/6

  
     床の間に飾ってある10cm角の作品。


☆   ☆   ☆

あかんあかん。
折角、絵を展示してもらってHPも公開してるのに更新してないとは一体何事か。

このHPにカウンターをつけてないから見てくれてる人がいるのかどうかもわからないのが更新を怠る理由のひとつではあるけれど、今は多少なりとも宣伝しているのだから頑張れよ俺。俺がんばれ。ちゅうか頑張れマジで。


よおそ、  打ち間違えた、、よおし、自分の中で絶対やらないと決めた時事ネタでもやろうかな。ま、時事ネタやりだしたら「おしまい」だっていうのは何となくわかるけれど、たまにはいいかな? なんて。  

僕だって社会評論みたいなのも出来るんだぞぅ。ちょっとネット繋いで見ます。

ええと、どれどれ。


悠仁さま2歳に ・・・か。
あっそう。

野党「総裁選乱立は密約隠し」
「乱立」て。

露鵬と白露山 精密検査も陽性
何をいまさら。

金総書記に再び健康悪化説
もうええっっちゅうねん。


すみません。すみません。本当に見に来てくれている方、いらしたら本当に謝ります。これはダメですね、まだまだいっぱいトピックみたいなのあったんですが僕には無理っす。やっぱり時事ネタやるんじゃなかった・・もう二度としません。

★    ★    ★


音声認識ツールを使ってみました。
どこかで音声認識ツールは便利だ、という記事を見たから。
そうか。便利なのか。それならば使わない手はない。

押入れから昔のWINDOWS95の時のパソコンに付いていたマイクを取り出してこのパソコンにつけてみた。

「 あ、あ、あ、あーー、・・・あーーー!や言うてるやろ!」

無反応。


「何やこれ。壊れとるんかな」

雨が


「??何?「雨が」って?雨なんて言うてへんやん!」

俺なんていう店員や


「ぶははは! 俺なんていう店員や なんて言うてへんやん!」

民放連なんていう点に行ってみ


『そらちゃん桃いらーん』(後ろで娘が女房に言ってる)
いらんのやったら食わんといてくれ!

イラン沢庵と言ってくれ


・・・・・もーええわ。

運営は


もーええっちゅうねん!

応援中




2008 8・31

    

出けた。でけたよ。出展用の絵が。うれしい。
昨日(30日)から東京の五反田にあるAngel Fake gon's BARというところで展示してもらってます。9/12まで。企画タイトルは「Field of Angels」。天使の領域。

僕の絵がそのタイトルに値するかは別として、いいネーミングだ。


これ販売価格つけちゃったんだよね。正直売れて欲しくない。
誰も3万円なんて払わないと思うけど、自分にとって大事な絵だから。

でも安すぎた気がする。
この絵にかけた想いは金なんぞに換えられん。


今回は、ポートフォリオ(作品ファイル)を作ったのでそれも置いてもらってます。
これもかなり時間をかけて作った(エクセルで)。自分ではかなり気に入ってる。めずらしく全く手を抜いてない。僕の写真も載せてる。


☆  ☆  ☆

そろそろ少しずつまた岩絵の具に移行しようと思ってます。
今は顔彩を膠で溶いてるけれど、大きい絵には無理がある。
でもアクリルの良さも捨てられない(しかもその良さはズバ抜けている)

だんだん絵が描けるようになってきた。

時間をくれ。時間をくれないか。
週休4日で世の中はまわせられるんだ。
誰かが誰かを搾取させないかぎり。

僕の生まれる前からの設定では、この時点(2008年)で国は解体して、それに付随する企業、役所、官僚は廃止。小さなコミュニティの集落のようなもので生活は構成されているはずだったのだ。どちらかというともっと農業が主体で運営されていて今はあまりにも全然違う方向に進んでいる気がする。
農業が主体だからといっても原始的なわけではなくて機械化もハイテクノロジーでもっと進んでいるし全てがもっと環境に配慮された世の中になっていたはずだったし、当然石油なんていう化石燃料はとっくの昔に廃止されてたはずだった。

こうなってはもう戻れない。
だからせめて時間をくれ。

僕が絵を描かなければならないのはもともとの設定だから。




2008 8/24

   



地蔵盆って一体何ですか?って、フリーカメラマンの頃自分の予定表に「地蔵盆」という意味不明の言葉が書いてあったので聞いたことがある。懐かしい。
あれは神戸での撮影だったから関西圏はこの地蔵盆とやらが当たり前なのだろうか。

上のバギーが地蔵盆で当たったらしい。
大喜びで、どこへ行くにも連れて行く「かえるちゃん」を乗せて遊んでいる様子を微笑ましく眺めてみたりもする。


絵のインスピレーションを得たりもする。



2008 8/20

  


最近のデジカメは凄いなあ。
三脚なくても多少のブレだけで花火が撮れるなんて。
フィルム時代じゃ考えられないな。

必需品の三脚とレリーズを持って前年度の露光データをもとに頑張る、なんて時代はこの前だったはずなのに。

娘を抱えたまま片手でパシッって撮っただけですよ上の写真。これはカメラが凄い。

フィルムの時代はよかった、なんて言ったら若い子たちに嫌われるんだろうな。当の僕自身がそうだったし。

☆   ☆   ☆

絵の出展に際してポートフォリオ(作品ファイルのようなもの)も作るって明言しちゃった。
肝心の絵が完成してないのに。

そんなのテキトーに絵の画像をプリントアウトしたものをファイルに挟んだらいいんじゃないの?って普通は思うのでしょうか?僕は出来ない。

こういう一見どうでもいいようなことに物凄く気合を入れてしまう。
そんで気合入りすぎて相手(見てくれた人)に退かれる。
だけれど、その退かれることにこそむしろ気持ち良さを感じる。
てゆうか退くだろ普通、と思う。
そしてひとりになって泣く。
いや、泣くフリをする。
自分が原因なのになぜか突然神さまに文句をいう。
スッキリする。
でも落ち込む。
この落ち込みようは尋常じゃない、よおしコレを絵にしよう、と思う。
でもしんどいから明日にしよう。と寝る。
でも気になって夜中に起きて下絵を描く。
意外といいのが出来て自分は天才かもって思う。寝る。
朝起きて絵を見て、あれれこんなんやったっけ?とがっくり落ち込む。

こんなののくりかえし



2008 8/13

暑い。
でも実は「暑い」などと言ってこうやって扇風機で涼んでいる場合ではない。

東京での出展の詳細が決定しつつある。
こんな僕にも展示会のオープニングのメンバーに誘われたのだから驚き桃の木山椒の木である。

さあどうしようか。困りましたねゴーダくん。
え?何が困ったのですか?
困っているじゃないか、君ぃ!正直に言ったらどうだね。
え?何にも困ってないっすよ。
じゃあ、この塗り潰してしまった展示用の絵は一体なあに?
気に入らないから塗り潰しただけっすよ、そんなの全然いつものことですが。

ふふん。私にはわかるよ、君の心の本音が。聞こえるぞ。「あちゃーっ消してしまった!」と。
まさかー。話にならないな。そんな戯言。
いつもの癖で期限があるのを忘れて消してしまったことを後悔しているね。
後悔?何ですかそれは?日本語?僕聞いたことないなあ。

実は正直気に入った絵が描けてたのに己のただ一瞬の浅はかな感情に身を任せて、まるで子供が、自分が作り上げた絵を叫びながら楽しそうにハサミでジョキジョキと切ってしまうかのように、楽しくドーパミンを大量に分泌しながら折角の作品をぶち壊したね。

そうかなあ。大袈裟だなあ。

いいや、私にはわかる。なぜならあなたの本心だから。
なんすか?本心って。ちょいウザイんすけど。マジ。
そんな今の若者言葉を無理に使ってはぐらかそうとしてもダメだね。最近のクソ親父芸人たちが金髪にしてるくらい寒いよ。
あっそう。別にいいすけど寒くて。何なら俺も金髪にしようか?
ATフィールド全快のようだね。素直になりなよ。

何か勘違いしてるようだけれど、俺本当に全然何とも思ってないよ。

確かにまだ搬入までの時間はあるのだからまた描けばいいんだしね。何なら並行して作り上げた他の作品を木枠に貼り付けたっていいわけだし。

何かまた勘違いしてるようだけれど、俺妥協しないよ。絶対。それに何回も塗り潰して苦労してまっせ的な絵には絶対しないよ。苦労の滲み出ている白鳥なんて全然美しくないし。サラッと描いたかのような絵になるだろうねきっと。

ならば見た人の中には「なんだこれ、チャチな絵だな、自分にも描けそう」と思う人もいるかも。

それは褒め言葉じゃないか。小難しいものを簡単そうに見せるのって物凄く難しいし、自分の作品で相手に能動的なリズムを刻ませるのって本物の芸術しか出来ないと思う。

今からそんなものを制作できるのかい?自分でハードルあげてちゃ世話ないね。

全くだ。あなたに嵌められたね。

まさか。嵌めてなんかいないさ。嫌ならばこんな日記消してしまえばいいんだよ。昨日消した絵のように。

俺の性格をよく知ってるよね。本当に俺の本心かも知れないな。わかったよ。あなたの言うことに耳を傾けよう。 あの絵を気に入ってたんだね、あなたは。


訂正しよう。私ではなくてあなたが気に入ってたんだよ。




2008 8/8

      

       トイレに飾ってある10cm角の絵。


女房がリンパ腺癌と診断されて手術をしてからどれくらい経ったんだ?あれは皮肉にも俺の誕生日だったから4/2だったはずだ。

僕はその手術の結果を聞いて朝方3時ごろ車で家に帰る途中、何度電信柱にぶつかってやろうかと思ったことか。

あの時、確かにぼくは神さまにお願いした。というか文句を言った。
というかクソみそに貶したと思う。普段から結構言ってるけれど。まあ、結局ぼくは神さまを心からは信じていないんだろうね。そう思う。

いつも何とかなってきてるのを神さまのオカゲと思うにはあまりにも僕はひねくれてしまったのかもしれない。どんな悲惨な結果になっても神の計らいだなんて誰が信用するか。僕は出来ない。そんな調子のいい話なんて。
でも神は存在するけど。


まあ結局診断がある意味「誤診」だったわけで癌ではなくただの腫れ物だったわけだが、これは神さまが取り計らってくれたのか?それはおそらく神を信じる人は『そんなのあたりまえじゃないか、この不信人者めが』とおっしゃるだろうし、僕のような人間は『はじめっから癌などではなかったわけだし、まあよかったよかった』とクールに割り切れるものである。

まどっちにしてもあのICU治療室で死にかけていた女房をいたわる気持ちに嘘はなかったが、今こうしてほぼ全快して普段どおりに戻った女房に対して風上から何の躊躇もなく屁を放っている僕はこれどうしましょう。地獄行きですか、ああそうですか。ま、そんな地獄とかいうものはないんですが。

ま、後付けといったらそれまでなんだけれど、女房が誤診だったという安堵の連絡の日はまさに僕ら二人が出会ってからちょうど10年経過した記念日だったというのはこれは偶然というものなのでしょうか。

運命論的な考え方の好きな人なら間違いなく「意味がある」というでしょうね。たしかに。います僕の友人にそんなのが好きな人が。


☆ ☆ ☆

前回ATフィールドの話を書いた。
ATフィールドを解除したら物凄く嫌な思いや、自分がずっと防御的に張っていた無意識の対人用バリアーがないのでクールでいられなくなった。

ATフィールドって解除してはいけないのでは。

他の人はATフィールドをしっかり張っているのはわかる。それは「自分」の領域だから。
相手がATフィールド張っているのにこちらがはずすのはかなり危険である。
勉強になった。この世界はこのバリアを上手に使わないと生きてはゆけないのだ多分。

全員がバリアなしで存在する時、世界は生まれ変わっているのかもしれない。



2008 8/1


  


また東京での展示のお誘いを頂いたので早速制作に取り掛かっているのですが、いつものように何枚も同時進行で描いており、まあそれは別にいいのですが、ちょっとトイレに行ったりしてる間にこういう状態になってしまいます。

もちろん絵を手の届く範囲にかけてる僕が悪いんだから全然怒ったりしないんだけれど、やる気をなくすのは何も落書きされたからではなくて、娘が描くことによってなぜか作品が良くなっているということなのです。

いやむしろ娘の名義で展示しようかな。それはまずいな。んならコラボってことでどうだ。

・・・。

さむい。

寒すぎる。親子でTV出てるとてつもなく恥ずかしいタレントのようだ。うわぁぁ
ちょっと腕がチキン肌になってきた。部屋の中暑いのに。


☆  ☆  ☆


僕のATフィールドは半径100mくらいはかるくある。
それ以上は精神的に誰も侵入させないバリアが張ってある気がする。

肉体的にはそばにいても精神的にはこころを許してないし星間の距離ほど離れている気がする。

これではダメだ。

今月友人がケッコンするので、その婚姻届に証人として僕のハンコをついた。
僕らは久しぶりに語り合った。

この友人が相手ならATフィールドは解除されているのに。


そして僕は誓った。

おれはお前のケッコンを機に、自分がこれから出会う人に対してATフィールドを解除するよう努力してみるよ、と。




2008 7/25

  
    
      パンツマンになった娘

出会う人出会う人にきっと『ああ鬱陶しい、知らんがなそんなこと』と思われていたに違いないであろう、それほどしつこく聞いていた今までの僕の愚かな愚問は一体何だったのだろうか。

・時期がきたら自然に取れる
・冬だと大変だから夏に思い切ってやるほうがいい
・布製に変えてみたら
・トレーニングパンツは効果ない
・人間個性があるんだから急がなくてもいい
・幼稚園までに取らないと大変
・まあまあ、カーテンの色でも変えて気分転換したら
・スタバのジャバチップおいしいよ
・それより世は終末です、このご本を読ん
・俺来月ケッコンするんだ
・etc etc


どれも耳に蛸が出来るほど使い古されたオーム返しの台詞(関係ないのもあるけれど)で、僕を心から納得させてくれる気の利いたものはなかった。

強いて言えば、母親の「そんなん大人になってまだオムツしてる子おるか?おらんやろ?無理やり取らんでええ。可哀想に。もういつまでもオムツしてたらええんやでそらちゃん!」の言葉か。

このおかげで娘は絶対にオムツで(排泄)すると言って訊かない子供になった。


気持ちはわからないでもないが、そんな状態をほおっておくわけにはいかない。
だからパンツをはかせてみたら本日、自分で勝手にトイレに行き、パンツを脱いで、便座にすわり、ウンコをして「 おーい、ウンチでたよー」とトイレから一人で叫んでいた。



お前は本当に。


トイレを済ませてパンツをはかせようとしたら、手に2mmくらいの小さいゴミくずを持って「おとーちゃんこれは?」と聞いてくるので、「それゴミや、そのへんにポイしといて」と言った。

娘はしばらく黙っていたが、上目遣いで僕をしばらく見たあと「フン」と小馬鹿にするようにいいながら便座をあけてその中にちゃんとゴミを捨てた。
目はまさに「しょうがないオトコね。」と語っていた。


お前は本当に。




2008 7/23

    

とうとう見てしまった、サタジットレイの映画。
ていうか、こんな「絶対に押さえとかないといけない芸術作品」を今頃見るっていうのもどうかと思うし、しかもこれ三部作なのにまだこの第1作目を見ただけなんて。しかも図書館で借りたんかい、っていう突っ込みも入りそうな。

この映画はたしかに僕が批評するまでもなく凄い作品なんだけれど、それは黒澤明が「他の映画が見れなくなった」というのも頷ける名作で、それはこの一作目を見ただけでもわかる。ま、これは一作目だからか少しダルイ感じ(終盤以外は)はあるが。それにしても早く完結まで見たい。

ただ僕はサタジットレイが見たかったのではなくて、僕がこの世で一番尊敬するミュージシャンであり音楽家として唯一の天才だと思っているラヴィ・シャンカールが音楽担当をしているからこの映画を知り、こうやって興味を持ったのです。

ラヴィ・シャンカールは本物の天才であると僕は昔からこのHPで言い続けてきたけれど、相変らずCD屋に行っても娘のノラ・ジョーンズかナントカ・シャンカールしか置いてない。
でも海外でも日本でもラヴィ・シャンカールを尊敬してるミュージシャンはかなりいるし、僕の大好きなBEATLESのジョージハリスンだってラヴィの弟子だったし、エリッククラプトンやジェフリンなんかも崇拝している。
もう現在はお年を召されたので楽器は弾けなくて作曲だけして娘に演奏させているらしいけれど彼の存在感は尋常ではない。

それにしてもサタジットレイが無名だった時にこの音楽を担当しているなんて、なんだか「はあ・・・」とため息が出そうな不思議な巡り合わせのようなものを感じずにはいられない。

いや、これはなかなか凄い映画を見てしまった気がする。




2008 7/20

  


僕の携帯はキーが押し難いので有名なauのMEDIA SKINなんだけれど、僕はこの機種がものすごくお気に入りで、だいたい他の人が嫌いなものを好きになる、または好きになりたい、という天邪鬼な性格なので今はより一層大好きになって余程のことがない限りこれをずっと使い続けるつもりなのです。

なんて書いているけれど、飽きたり気に入らなくなったら速攻で手放しますが。僕の辞書に「未練」という文字はないですね、ていうか誰でもそうだろうけど。

この携帯にもともと入ってる音楽が大好きで、ずっと気になっていたけれど調べるでもなくほったらかしにしていた。

煮を切らすとはまさにこのことだろうが、僕は本当に煮を切らしてやっとCD屋を探しはじめたのですが、そんな音源が発売されているかどうかもわからない状態で CD屋で探すというのは無謀も無謀、雲をつかむようなもので無理がありすぎました。

第一ジャンルがわからん。ま、ジャンルなんぞクソ喰らえだが。
これはインストのヒーリング系になるのだろうか。「ヒーリング」とか「スピリチュアル」という言葉がすでに何らかの拒否反応、嫌悪感を抱いてしまうので本当に困った。

たとえば、そのようなコーナーでその音源を見つけてしまったならばおそらく僕は買っていないだろう。でもそのコーナーに飾られる可能性は高い。いや、作者自体がひょっとするとヒーリング等の目的で作ったのならばがっかりだけれどその可能性はCDを聞いた今の僕なら否定できない。

そして、当たり前のようにネットで調べたらすぐにわかった。
作曲者は同い年なのですぐ共感した。
これは一般のCD屋では市販されてないんだろうな、多分。知らんけど。

そして送ってもらったのが上の写真のCD。サインはなぜか作曲者ではなくて携帯デザインの方のもの。まあそこで買ったんだけれど。

正直なところ期待がデカすぎた。いや、でも物凄くいいセンスを持っている。と思う。もっと無駄を削ぎ落として洗練された音楽を作れる人だと思う。
それとも多少ヒーリング系に逃げたかったのだろうか。もっと自分の信じる音楽を追求したら誰も作ったことのない音楽が生まれると思う。

無機質な中にも本当の生命の息吹きを伝えられる音を作れると思う。この人なら。
常識や枠や情緒とかを飛び超えたところに本物があると思う。

そんな音楽を待っています。そうならなければ別だけれど。




2008 7/15

   
        「where do we go?」

やはりジャスコなどで駐車する時は、細心の注意を払ってどこまでも限りないパターンを計算した上で駐車をしないと今回の僕のような被害を被ることになる。

親子3人マクドで、マックフルーリーをひとつだけ買って回し飲み(食べ)してた時である。そう言えば、ちょうど友人から電話がかかってきてて、一生懸命BEATLESのdrive my carのイントロが変拍子に聞こえるのは気のせいで、アタマの第一音が4拍目の裏から入ってるんだよと世間の人にとっては本当にどーでもいいことに(僕にとってはかなり大事なこと)熱く熱弁をふるっていたのを今思い出した。

なにやら構内アナウンスが僕の車の番号を呼んでいるので急いで行ってみると、女の人が僕に「車をぶつけてしまいました、すみません、」と謝ってきたのだ。

確認しに行くと、それはもう可哀想な姿のekワゴンになっていた。

何に腹が立つって、あてたほうの車はほとんど無傷じゃないか。またでっかい車をしかもお前の靴、それパンプスやないかい!勘弁してくれよ。

ただ、このケースでちゃんと報告するのは珍しいので不幸中の幸いとでも言うべきか。僕はなんとなくまだ人間は捨てたものではないのかも知れないと少しだけ思った。まあそれでも人間を簡単に信用してはならない、と知っているが。

それでよくよく考えてみると、バンパーはもともと傷だらけだったし、タダで新品に交換してくれるのだから悪くはないな、むしろ良かったかも。なんて思っている。

最近人間に関わることがほとんどないのでこんなカタチででも無理やり引き合わされたんじゃないだろうな?なんて穿った考えも頭をよぎらないでもない。

それにしても、僕らは一体どこへ向かうのか。




2008 7/12



女房に聞く
「どうや?(絵のことね)」

「あのね、この絵のここの人物とこの人物が手抜きな感じがすっごい出ててイヤ! そしてこっちの絵は、人物の顔が全体的に絵に対して浮いてて明らかにヘン。要するにイヤ!」

お前は俺か?いや、やっぱりお前は俺やろ?このやろう。
俺が気になってるところをズバズバとぬけぬけと言いやがって。
まったく!いや、ほんとに・・ありがとう。

唯一褒められたわけじゃないけれど「まあ悪くはないね」と言ってくれたのが上の写真の絵。けれど多少また書き加えた。

☆  ☆  ☆


暑い。暑い。正直暑いけど今日は朝から絵を描いた。一日中。
これはあんまり気付かなかったけれど、物凄く途轍もなく「しあわせ」なことなんじゃないだろうか。

毎日のように神さまに不平不満や文句ばかり言っている僕だけれど、ちょっとだけ、本当にちょびっとだけだけど、そんな「しあわせ」を考えてみた。

その時、網戸から家の中に涼しい風が吹きこんだ。




2008 7/7

今日は彦星と織姫が出会う一年に一度の大切な日だというのに、出来上がっていた大きめの絵をぶち壊して塗り潰した。

一言で言うと「気に入らんから」という反論のしようもない単純かつシンプルな理由なんだけれど、実は取り返しのつかない状態まで描き潰してしまい少し反省している。フリをする。

反省などは猿にでもさせといて、反省してる暇があれば少しでもイイ状態に持って行くように進めるのが賢明な人間のあるべき姿ではないか。などと講釈をたれてみたけれど全然すっきりしない。
さあ、また塗り潰して描き直そうかと思うと、もう夜がふけて一日終了。
お父ちゃん眠いよーって上目遣いで娘に抱きつかれて無視できる人間は手を挙げてみろ。

やはりあれだ。チキュウが早く回りすぎだよきっと。
気がついたら7時間も描きっぱなしなんてオカシイ。こんなに集中できるはずがない。きっと「時間」がおかしいことになってるんじゃないか。

まあ、もともと「時間」なんてものは存在しないけど。
あるのは物と物の距離だけで。





2008 7/5

   

あんまりにも暑過ぎるのでバックを黒色にした。
少し涼しい・・気がする。

メモ帳の落書きのほうは娘の作品なんだけれど、どうやら「お父ちゃん」を描いたらしい。

嬉しいぞこのやろう。ちゅうかおまいは天才や。こんな絵は天才にしか描けへん。もしくは神や。やっぱおまいは神やったんやな。お父ちゃんの眼はフシ穴ではない。いかにパンピーのフリして毎日きっつう臭いウンコ垂れていまだにオムツも取れてなくてもお父ちゃんにはバレバレやぞ。そうかおまいは神やったんか。何たってお父ちゃんの眼はふし穴ではないのだから。

ま、さすがにおまいが神なのはわかったが、まだまだおまいの作品はテープでピラッととめただけの扱いやけど気にすんな。
神の作品がテープでピラ扱いで、ただの人間でしかないお父ちゃんの作品は額入りやけど気にすんな。

神の作品は扇風機の風でバタバタなびくけど気にすんな。
しかも暑いから強風にしたら上に裏返ったままパタパタパタてなるけど気にすんな。

そりゃお父ちゃんの作品がパタパタパタてなったらお父ちゃん発狂するよ。そうならんようにビシってテープで貼るか、こうやって額に入れるよ。だってまだ未熟な人間だもん。
あんたは神やから超越しとるんやろ。ほなええやん、テープピラで。






2008 7/5



こんなクソ暑い日に家の中でクーラーをつけて過ごすほどマヌケな家族では決してない我がゴーダ家は、なるべく涼しくて金がかからなくて、その上、子供を多少放し飼いに出来、多少休憩の出来る場所もある素敵な場所に赴く。ジャスコだ。

ていうかジャスコ。何はともあれジャスコ。いや、他にも何かあったなあ・・たしか・・えっと・・・ジャスコ・・だっけ?

一日中underworldの永久ループで絵を描いていると流石に精神に支障をもたらすので息抜きというか骨抜きというか何だ、バランス調整というか、とにかくなるべく俗な世間に完全に完璧に関わるようにしている。というかそういった普段の生活が一番大事だと思っている。作品作りにも。創造するというのはそういうことだと思っている。


上のような写真がくさるほど撮られている。
はじめは毎回毎回データを消していたんだけれど、最近なぜかこの写真がもの凄くイイ写真に見えてきたものだから、さあこれは困ったぞ。

デジカメの操作を覚えたもんだから、身近に撮れる自分の足を撮って喜んでいるみたいだけれど、これが何十枚も並べてみるとスゴイ作品になる。
だから、一切消去していない。するとマイピクチャーのフォルダが娘の足の写真でいっぱいになってしまった。

いや、ここには喜びが写っている。
これは絵を描いている僕にとって一番大事なことだと思う。



2008 7/4

最近思ったんだけれど、いや、以前からずっと僕は言い続けてきているが、絶対に『チキュウは以前より早く回転している 』と思う。

これは由々しき問題であるというのに一切報道されないのは何でや?
僕だけが遠くでさえずるツバメの雛のようにピーチクパーチクとただやっているだけならば由々しき問題でも何でもないただの遠吠えで済む話なんだけれど、どうもそんな簡単な話ではなくて、うちの女房も近所のおばはんも隣の若夫婦もそこを自転車で通る見知らぬおっさんも、みーんなセワシナイではないか。

娘だってたった今お昼ごはんを山盛り食べたところだというのにもう「おとうちゃん、おなかすいた」と言っている。

僕だって描きかけの絵を見つめる。また見つめる。
う〜む。などと独り言をつぶやきながらまた見つめる。
「うむ。しばし疲れた。ちょいと休憩しよう」と横になる。

そして起きてまた「う〜む」と見つめる。
むむむ。とちょっと考えるふりをする。また見つめる。
ちょこっと色塗る。「ふう。今日はこの辺で」

時計見たらもう夕方5時やん!何してるの俺?何してたん俺?
昼から描いたのこの風船1個だけやん。どーいうこと?

これは間違いない「チキウが早く回転してる」のだ。
これはもの凄く由々しき問題である。




2008 6/8

   

暑いな。

アクリル絵の具が乾くの早すぎる。
乾くのを遅らせるメディウムがあるらしいけれど、そんな糞めんどうなことをいちいち混ぜてられるかいな。

最近は絵を描くよりも額を作るほうに時間かかってる気がする。
でも基本的にこうやってトンテンカンテンやってるの好きやから。

娘は基本的に女房のことを「お母ちゃん」って呼ぶ。
なのに、ぼくの絵を見たときは必ず「おかあさん」と呼ぶ。「おかあさん笑ってる」と。

別に笑ってる絵を描いてるつもりも、お母さんを描いてるつもりもないけれど、娘にそう言われて悪い気はしない。むしろあたたかい気持ちになる。



2008 6/2

     
    


東京の新宿で展示のお誘いをもらったので早速作り上げました。
(6/8から新宿のラ・タンというバーで展示)

当然のことだけれど額縁も手作りです。

デカイ絵ばかり描いていたのでこのサイズに自分の普段表現しているモノや考え、思想、因果、生死観、空間論、ポジティブ、ネガティブ、道標、嫌世感、愛、その他もろもろをまとめられるかどうか、そしてそれがヘンに難しくなく単純なフォルム、線でパッと見で子供にまで伝わる絵柄で、且つ、ミクロ=マクロでこの現実が幻想でありリアルでもあるという相対的な矛盾の真理のレヴェルまで思考論理を飛躍展開できる大人までにも伝えられる絵を描けるかどうか、に戸惑いはあった。



「うんちでた。 ねえねえ、うんちでた。」



娘がとなりでうるさいが無視して自分の芸術論を展開する。

ただ、あえて作品にたいして言わせてもらうならば、絵の下の女の子はもともと白黒(線のみ)だったけれど、女房の意見を取り入れて色を塗った。

人生に現実的な色を塗るという彼女のポジティブな思想を取り入れた。

だいたい僕はネガティブというか、この世(地球)を基本的に信じてはいない。こんなシステムは百歩譲っても正当化できない。なんとかしたい。なんともならない。なんともならないのか?それが人生だなんて言われると蹴りを入れたくなる。
オカシイものはオカシイ。王様ははだかじゃないか。

王様ってはだか・・でしょ?


さあ、娘のうんこ換えてやろっと。



2007 11/4
 
      


2007 8/21
     
  
8/21

なぜ岡本太郎のコップが我が家にあるのか。それもふたつ。


我が家は古い。曾爺さん曾婆さんから我が家の娘まで4世代というのだからかなり古い。
世間一般ではやれ耐震構造だとかやれ建築規格だとか騒いでいるようだけれど、多分
みんな本当はそういう書類系のウンチクなんぞを議論するのがが大好きなんだろうね、役人になりたいんだろうね、僕は心底かんべんしてほしいけれど、でも我が家の建築状態をみると彼らは卒倒するんじゃないかな?というくらい我が家の造りは古い。

それでも阪神大震災に何とか耐えたというのだから驚きものではあるが、その時の衝撃の痕として、居間には50cmほどの亀裂が入ったままである。ていうか直せよな。

昨日、その居間ではないのだけれど裏庭に設置されていたかなりレトロな、いや、レトロという言葉ではあまりにも表現が優しいので言葉を変えよう、ボロボロに傾いて腐っていた物干し台が(というかあれは物干し台だったのだろうか)音をたててバキバキと壊れた。自然に。

地面に突き刺しただけの竹の木が2本とその間をつないでいたヒモ。
その竹の上に岡本太郎のコップがフタをする状態でのっかっていた。2本それぞれにだからふたつ。

それが曾爺ちゃんが設置したものなのか、貸家として貸していた間にこの家を使っていた家族が設置したのかは今ではもうわからない。が、とにかく岡本太郎のコップによってその竹の浸食が防がれて守られていたことだけは間違いない。

その竹も昨日、絵を描いていた時に横で音をたててバキバキと壊れていった。


僕にとって岡本太郎は人間として本当に尊敬でき、紳士で博学で魅力的で物凄くダンディな人である。
とにかくひたすらカッコいい人だ。同じ事を渋澤達彦氏も言っていた気がするがどうだっただろう、忘れてしまった。

「のちの人間が、こんな人がかつてこの地球上を生きて歩いていたというのが信じられないだろう。」と言ったのはたしか、ガンジーのことをアインシュタインがそう表現したような気がするけれど、僕にとって岡本太郎はそれに近いものがあるような気がする。。

僕が結婚してたまたまこの家にやってきて、そして今、この岡本太郎の「グラスに顔があってもいいじゃないか」のコップを手にできたということ、に、おそらく他の誰にもわからない、僕だけの、静かではあるけれどこころにグッとくる強い運命的な感動があるといこと。


そしてその岡本太郎のコップは古い竹を守ることを立派に終え、今は僕の筆洗い&水足し用コップとして、第2の人生を歩み始めた。




2007 8/19
     

  
   「 so I lit a fire 」  紙ねんど  145x60x50mm

前回の絵の立体ヴァージョンを作った。
今現在とりかかっている絵が結構デカいサイズなので精神的な疲れを癒すために合間をぬってこの前アルプラザでたまたま見つけた「紙ねんど(3才児用)」でこんなのを作って息抜きしている。

そして現在は頭に王冠などをのせてクラリス状態になっている。

★ ★ ★

我が家はたしかにTVをぜんぜん見ない家庭であるけれど、もう最近は慣れっこになったが、この話題になると必ず10人中10人が 「じゃあ何してんの?」 と聞かれるのもこれどうかとも思うわけで、そんなこと聞かれても、じゃあ君こそ何してるんだい?と誰だって思うんじゃないだろうか。

たしかにTVは見ないけれど映画は(DVD)は結構見るので、僕がお金が余ってるような人間だったらBSか何かをつないでTVで映画を見ると思う。

僕が一番好きな監督はあいかわらずチャン・イーモウだし、最近もチャン・イーモウの映画を片っ端から借りてきて見まくった(ちゅうか買えよないい加減)けれど、僕は映画評論なんて出来ないし、評論家という言葉を聞くだけでも嫌悪感丸出しのダメな人間だし、ましてやamazonに、んふんふ妄想しながらレヴューしてるような人間でもないので、何とも言えないのだけれど、それでもやはり最近のイーモウ監督の作品はいかがなものか?なんて偉そうに言える身分でもないけれど、僕は要するに、最近のハリウッドのドカンドカンな時期をさっさと経て、また新しい視点からの人間ドラマを作って混迷してる世の中の道しるべを立ててくれるのではないかと密かに応援している。

暗闇に火を灯して光をあてよ。 道しるべの基本だ。


2007 8/8
        

そうか。2007年の、もう8月8日なのか。8/8って語呂的にもひょっとしてパパの日なんだろうか?「パパ」という響きがどうしても薄ら寒く感じてしまう褪めた性格だからとてもそんな有り合わせの語呂合わせ記念日に賛成または同意、共感などは絶対に出来ない、するはずがない、してやるもんか、こんなもんバルスだバルス。

誰かこのひん曲がった性格を治してくれはしないだろうか、と神仏に、はたまたはアッラーに挙句の果てには宇宙人に願い続けてようやく僕のもとを訪れてくれた教師は実はぼくの娘なんだけれど、父と娘という関係を持ってしてもこのぼくのこじれた性格を治すことは不可能だったようで、最近やたらとぼくは娘に怒られている。しょっちゅう怒られている。何もしてないのに怒られている。

なんだか小ウルサイ女に育ちそうで今から思いやられる気もするが、『女の子は世話焼きやからねえ〜』なんてコソバ痒い年寄りばあさん達が集まって喋りそうなセリフなんぞに決して誤魔化される僕ではない。

それにしてもこのぼくの「教師」はどこで覚えたのか、誰に教わったのか知らないが、なぜか人前では豹変するくらい猫をかぶるのだ。これは決して僕の血ではない、女房だ。女の持つ潜在的なものなのだろうか、わからない。
だいたい「〜でちゅね〜」なんていう接し方の大人はだいたい嘘吐きなのだから愛想ふりまかずに相手にしなきゃいいのに。ましてや「しまじろう」の世界なんぞは有り得ない、あんなものが通用するのはこの地球上には存在しないし、例え存在していたとするならばその世界はもうすでに終わっている。
だいたい「ウフフフ〜」なんて言葉を使うか普通?そんな風に発音する人間に出会ったこともないし正直ムカムカするほど聞いてて腹が立つ。

8/8というネタでここまでひっぱってしまったけれど、最近絵ばっかり描いていたので文章を書けなくなってるだろうなと心配していたけれど、あ、嘘だ、心配はしていないけれど、ま、何とかなったようでよかった。

それに考えてみたら、8/8がパパの日ではなくとも、6月に父の日があるじゃないか。


☆  ☆  ☆

絵が久しぶりに仕上がった。
時間がかかるようになってしまったなあ最近。なんでだろ。
出来上がっていても次の日には塗りつぶしてしまう。
何週間もかけて描いていても壊すのは一瞬だからなあ。

今回ももう一度塗り潰そうかどうか迷ったけれど、これはこれで完成としようと決めた。
その境界線が何なのかと聞かれると明確な答えはない。
すかした言い方をするならば、気候や温度や現在の世情、そらの泣き声、蝉の鳴き声、
そんなまわりの雰囲気がそうさせた、という感じだろうか。

さあまた次のページをめくるために新しい作品にとりかかろうっと。
大丈夫だ。僕のページはまだまだ続いてる。
まだめくるページが残っている。




2007 6/11

   
@ ジェッソを塗ったらいつも娘に落書きされる。しょうがないので、それをもとにして落書きする。下絵などと呼ぶたいそうなものではない。
この時点では何も考えていないし、描いていくうちに何か見えてくるだろう、そのうち何とかなるさ、ならなけりゃ時間が解決してくれる。といった感じ。


   
A いつも毎回、描き始めはこういった電車かバスなどが必ず出てくる。
そして、これも必ずと言っていいほど毎回消している。とりあえず全部色を塗る。

   
B 動物以外全部消してしまう。
ここら辺から精神的に集中しだす。マスキングの位置を考えている。
ひとりごとで「死ね、ぼけ」とか言ってる。絶対やばい。
なぜか一人で勝手に生きることの無意味さに絶望したりしている。
正直、こんなバカは救いようがないと思う。

   
C また消す。
  また性懲りもなく車が出てきたりしている。
  こうやって大きく2〜3回消したら、だいたい見えてくる。
  もう「死ね」とか「死ぬ」とか言わなくなる。ただ淡々と絵を描く。


   
D  本格的に集中しだした頃。
   ここまで来ればあとは自然に絵が導いてくれる。
   あとは、普段の日常生活でアンテナをしっかり立てておけば自分が何を描けばいいのかその直感を読み取ることが出来る。
何と言っても日常生活ほど大事なモノはないと僕は思っている。

   
E  描くべき絵は見えている。
   でも技術的な面で意外とここから時間がかかる。
   ここまで約一ヶ月。




  





5/25

   

Tシャツに絵を描いて欲しい、という女房からの注文にふたつ返事で即答したところまではよかったんだけれど、僕は基本的に『ハッチング(引っ掻き)』で線を描くので、Tシャツにどうやったら引っ掻いて線を描けるかをさんざん、もう本当にさんざん考えたすえに、いつものように「つまようじ」を使う事にしたのです。

つまようじにアクリル絵の具をつけて線を引く、というかなりバカな、でも昔のシューベルトとかモーツァルトとかあのへんの髪型が真っ白のくるくるな人達が使っていそうな「羽ペン」とでもいうのかどうかも知らないけれど何だか鳥の羽らしきものにインクをつけて楽譜なんかを書いてそうな、まさにその気持ちでしたね、うん、つまようじだけど。

考えてみたらその手法でも実は「ぜんぜん引っ掻いてない」んだけれど、筆なんかでぴやーって描くよりはなんだか引っ掻いた感じがする、少なくとも僕はする、ので例え1cmしか線が引けなくても僕自身それなりに満足感を持って描く事が出来た。

そうやって苦労して何時間かかけて描いたTシャツを見せたらきっと女房が喜んでくれるに違いないと思っていたのだけれど、それはそれはもうビックリするほどの苦情とお説教タイムとなり、僕も内心落ち込んでしまい、とりあえず名誉挽回のために筆で修正した。ら、上の絵になった。

「もう(怒)。下絵だけもらったらよかった。あとは自分で描くし。」

これは喜んだらいいのか悲しんだらいいのか、女房は基本的に僕が描く線や絵は結構好きらしい。
だけれどその技術というか、まあ技術だね、その繊細な部分にまで意識を集中していないその大雑把な仕事ぶりがA型の彼女にはよっぽど気に障るらしい。もしくは芸大出の彼女が基礎の基礎として持っている最低限の技術とでも言うのだろうか。たしかに彼女の絵や仕事ぶりは繊細なところまでしっかりしている。とてもじゃないが僕にはあんな真似は出来ない、性格的にも精神的にも技術的にも。

女房が以前Tシャツなどに絵を描いていたのだけれど、あれをもらった人達はあの絵がどれほどの集中力と体力と気力と時間をかけて描いているものなのかを知っている人はひとりもいないだろう。僕を除いて。

今回やってみてあれが相当な技術と経験と感覚、判断力で作られていたことが身に沁みてわかった。
あれを2千円から3千円くらいで売っていたのだからどう考えても割りに合わない。下地を洗浄し、デッサンを作成し、描き直しの出来ない一発勝負だから失敗作はTシャツ代の赤字、そしてまた洗浄して乾燥させてから液を使ってアイロンがけなどで定着、そして梱包、郵送。

くだらない作品も多かったけれど、物凄いクオリティの高い脱帽するほどの素晴らしい作品もあった。
今回の僕の作品などはそれに比べると下の下だね。うん。絵だって正味3時間くらいだし。
でもそらが気に入ってるようだから、俺は嬉しい。かなり嬉しい。

☆  ☆  ☆

今日風呂に入っていたときに、今現在仕上げている大型の絵の(といっても正味100cm×100cm)タイトルが降りてきたので今僕はこれを書きながらとても機嫌がいい。だから日記も更新できる。

こういった何らかのインスピレーションがうまく受信出来てない日々が続くとかなりいらいらしてしまい、そんなときに間違ってTVなんかつけてしまうと出演者のダメだし大会が始まってしまい正直自分でもかなりうっとおしい。このイライラは女性の生理のイライラと似ているのだろうか、女房に聞いてみようかと思ったけれど、とてもじゃないが聞けない。

自分に原因があるのはわかっているが、周りから言われるととてつもなく腹が立つ、この怒りを一体どこに持って行けばよいのだ、こんなに生命の根本的な場所で腹が立っているのにこれを我慢しろというのか、そんなことは出来ない、人間はそんなに素晴らしい生物ではない、そもそもそんな大事なものを我慢して鬱憤を溜めることが素晴らしいことなのか、そんなこと誰が決めた、いや、誰も決めてはいない、腹が立っているのだからこれを表現することが人間の仕事ではないか、人間の生命の自然なありかたではないか、そうだ、表現しよう、誰に向かって・・、・・目の前で寝そべって屁をこいているバカ男がいるではないか、こいつだ、うん、そう思うとこいつの態度がだんだん腹が立ってきた、まず寝そべっているという態度が気に入らない、何様やちゅうねん、屁ばっかりこきやがって、そんなことしか能力ないんか、皿洗いのひとつでも手伝えよ、えええい、本気で腹が立ってきた、うきーーーーっ

男「 ??・・・え?何でいきなり怒ってんの?」


  ※ 僕のイライラと女性のイライラ(想像)をmixしてみたつもりです。





2007 5/12


     

楽器が手元にないと困る。

機嫌がいい時、何だかイライラする時、楽器を奏でると物凄く落ち着く。
アロマテラピーと言うのだろうか、知らない、今勝手に思いつく言葉を出してみただけで
本当の意味はしらない。知ったかぶりをしただけで、間違っていると思うが、構わずに文章を
続けるし、そんなことはどうでもいいから調べもしない。
とにかく癒し効果という言葉が合うのかどうかもわからないけれど、楽器を奏でると物凄く落ち着く。

本当はもっと大音量で奏でたい。しかしそんなことしたら隣接する周りの家に大迷惑この上ない。
今までも窓を開けっ放しでピアノを弾いて歌っているのだから今さら、、とも思うが、欲求不満は
溜まる。でも騒音オバサンのようなバカがいたら溜まったもんじゃない。

もうさすがに近所の方々も「戦メリ」は聞き飽きただろう。
おそらくショパンの「別れの曲」も『もうええっちゅうねん』と思っているはずだ。
弾き始めると何となくまわりの空気が読める気がする。
「おいおい、またそれか、もうええねんそれは、耳障りや」

ぼくは統合失調症になってしまうのではないか。
ぼくもやっぱり団塊Jr世代(現在30代)の危険なダメな人間像に当てはまるのだろうか。

そして、歌えばBEATLESばかり。
「Martha my dear」「Lady Madonnna」「When I sixty four」・・・

おおおっとポールばかりじゃないか。

いや、そんなことはないはずだ。僕は基本的にルーポーは嫌いだから。
ジョンの曲もある。「Imagin」「norwegien wood」「strawberry fields forever」「a day in the life」

僕の中での位置付けは、
           ルーポー (音楽家)
           ジョン  (芸術家)
           ジョージ (神)
           リンゴ  (ドラム)

ちなみにそらが好きなのは「when I sixty four」と「Black bird(ギター弾き語り)」だ。

そうか。お前はルーポー派なんだな。ちっ、女はみんなルーポーだな。
残念だな、そらよ。お前とは仲良くやっていけそうにないな。といいながら、そらに喜んで
もらいたくてルーポーを弾く俺。

でもそらよ。聞いてくれ。
お父ちゃんがお母ちゃんと出会った頃、『このコとは気が合うんじゃないか』と思った出来事がある。
よーく聞いておけ。耳をダンボにして聞いておけ。

それは、BEATLESアンソロジー2 という、(今思うとあり得ない選択だ)かなりマイナーな、オタク向けの
、まさにそう、オタクのためにだけ存在するアルバムをお母ちゃんに渡したのだ。

「これさ、聞いてみてよ。マニアックなアルバムだけど。
 例えば「yeasterday」のテイク1ヴァージョンが入ってるし、知ってる?「yesterday」。」

BEATLESなんか全く知らないお母ちゃんもイエスタデイくらいは知ってた。

「あ、yesterday〜ってやつ?」

100人に聞けばほぼ100人が同じ答えをするであろうお決まりの返答が返ってきたが、お父ちゃんは
紳士でスマートな人間でありたかったから、決して

「そのあとやん!そのあとのコード進行とメロディが世界を変えたんやん。冒頭のそのフレーズなんか
 どうでもええねん。G→F#m7→B7→Em この流れやで、oh my troubles seem so far away〜。
ここ大事。はいチェック、アンダーライン。」

なんて物凄くキモい事は言わなかった。

アルバム自体が正規ではない別テイクヴァージョンで出来ているある意味キモいアルバム(録音中にマリファナが効きすぎてキチガイのように笑っていたりする)だけれどまあ、ルーポーの甘い曲も入ってるし、どれか気に入るだろう、
と思っていた。

何日かしてCDを返してもらう時に彼女はこう言ったんだ。


「あのね、「I am the Walrus」が一番いい。飛びぬけてイイ。そればっかり聞いてた。」


☆  ☆  ☆

この言葉でお母ちゃんに対するお父ちゃんの見方はガラッとまさに180度変わった。
それまでは「可愛い子やしお友達になれたらいいや、もしくはムフフ」くらいだったのに。
こんなことお母ちゃんに今知れると張り倒されるだろうけれど、どうせこんなの読まないからいいや。

その時の僕の顔を見てみたい。死んだら見れないかな。過去を振り返ってたり出来ないんかな。

まさに世界がyesterdayに震撼させられたように、僕は女房のその言葉に震撼させられた。
直観で「このコとなら上手くやっていける」と心底思った。


こっちのもくろみが全く通じず、本質をずばりど真ん中で答えた女房。


そらが生まれる元になった出来事だ。



2007 5月5日 


   

     「  ひとりで逝く  」 アクリル  100×100


絵が完成した。
今日は子供の日ではあるけれど、だからといって特に絵と関係があるわけではない。

いや、嘘です。いきなり嘘をついてしまった。


今まで、絵の説明をすることに抵抗がある、なんて格好つけていたけれど有本利夫が本で自分の絵の説明をしているのを読んで思いっきり感化されようとしている。
有本利夫のファンだから。

自分が見た美術館で「なま」の作品を見て感動したのは二人だけで、一人はエドヴァルド・ムンク。
もう一人が有本利夫。

他にもいっぱいいるけれど自分にとってすぐに頭に思い浮かぶほど印象的なものはこの二人。

また嘘をついてしまった。
他にもたくさんたくさんいた。今これを書きながらたくさんの絵を思い出してきた。
僕はこうやっていつまで嘘を積み重ねて生きるのだろう。


☆  ☆  ☆

「最近の絵は泣いてるのが多いね」

これは女房の言葉だ。
泣いてる・・・なるほど。 ふーん、なるほどねえ。

それでも最近の絵を褒めてくれるので嬉しい。嬉しいに決まっている。嘘でもうれしい。
近所のママさんたちがウチにやってくる機会が多いのだけれど、そのママさんたちも褒めてくれているらしい、という話を聞く。

嬉しい。うれしいじゃないか。

実際は、絵が大きい(100cm×100cm)から確かに普通の家の壁にそんな大きな絵の描きかけ状態の布が掛けてあったら圧倒されるかもしれない。

それに絵の質感(肌触り)や細部(小さな落書きなど)にこだわりたい、というかかなりこだわっているので、web上では絶対伝わらないものも真っ直ぐに伝わるからかもしれない。

もしくは近所のつきあいで、とりあえず褒めているのかもしれない。

どれでも嬉しい。嬉しいに決まってる。

そしてそらが褒めてくれる、なぜか。
「じょーずねー」 って。

涙でるじゃないか。家族みんな褒めてくれているんだ。
義父、母もよく来るらしいが、古い世代の人には伝わらないかも知れない。女房をモデルに描いた写実画なんかを褒めていたらしいから。それでも十分いいけど。

ていうか、我が家の天井や壁などにって、壁貼り用のクロスをたくさん頂いたのに全く使わずに自分の絵のキャンバスに思いっきり使っていることを不快に思っているかもしれない。俺なら思う。

でもこのおかげで布地には不自由しない。思う存分大きな絵が描ける。
この気持ちがわかるだろうか。
壁には1m四方の大きなキャンバスがあって、そこには何を描いてもいいのだ。
誰にも媚びず諂わず、好きなように描いていいのだ。

本来、人生ってそういう風に生きるものだと思っていたし、今でもそう思っているけれど、ここではあえて書くのはやめよう。
それは決して「自由」という陳腐な言葉で片付けられる類のものではないから。

自分におこる何もかもを真摯に受け入れて(ここでいう何もかもとは本当に『何もかも』のことだ)それを自分の選択だと宣言して卑屈にならず恐れずに堂々と前へ進むこと。これが一番近い。


って、絵の説明全然してないね。


いや、これでもしてるんだ。




2007 4/19


--報告書--

地球滞在36年と19日目。

体調健康。精神状態やや排他的。摂取食物おもに野菜魚類。
扶養者2名。内、遺伝子伝達者1名。星の住民との接点ほぼなし。
星環境、無法状態。
星の管理生物、ヒト科、管理能力なし。

星の太陽10回転以前あたりからエーテル密度上昇。解像度数上がる。
空気中に光体発見。ベルト領域に突入した模様。
現在、管理生物の集合意識が意識のベクトルを発見設定出来ず、混乱状態。
場合によっては前回と同様の結果になり得る危機的状況。

当方、星の管理生物集合意識に汚染されつつあり。
同胞の救援希望。


☆  ☆  ☆

     
忙しいです。いや、暇です。いやいや忙しいです。いや実は暇なんです。どっちやねん。

HPのタイトルを変えてみるという行為で、ちょっと気分転換を図ってみたのです。
僕はずっと「ごうだ」という名字が嫌いで嫌いで、小学生の頃なんかは野球バットのグリップに「中西」と訳のわからない名字を書いていたのを覚えてます。

母親の旧姓が大西なので「大西のほうがカッコええ。大西にして!」と泣きついていたのも覚えてますし、とにかく僕は、意味のない事で手のかかる子供だったと思います。

それが自分の名字を気に入りだしたのはパスポートを取得する時の話までさかのぼります。
その際に、係員の方から
                
「ゴウダさんのスペルは @GOUDA AGO^DA BGOHDA CGODA のどれにしますか」

と言われて、面倒くさそうに見ていたけれど GODA には「GOD」が入っているので何かとても気に入ってしまい、それを選んだことがキッカケで今も気に入って使っているのです。
インド旅行中に知り合ったイギリス人の女性(可愛い)に僕の名前をスペルで教えると「ふ〜ん。クールね」と冷静に本当に冷静に答えられたけれど、考えてみたらイスラムでは神の使徒とされるムハンマドという名前も、どいつもこいつもムハンマドという名前だし、あいつもこいつもあのじじいもこの可愛らしい赤ちゃんもみんな「むはんまど」。

例えば、ぼくが仮に彼らからその名前を教えてもらったとしても、やっぱりものすごく冷静な表情で「 cool 」と言うと思う。


話は変わって「カラマーゾフの兄弟」を読み進めて、いや実は正直退屈でほとんど読んでなくて、というより僕はもともとキリスト教というものに興味がない、全然入り込めない、からなのでしょうが、こんな本を読んでいる時間があるならば作品のひとつでも作ろうと本気で思えるある意味すぐれた本なのですが、こういう本を読んでいると僕にとって「神さま」とはまったく自分の都合に合わせて存在するだけの概念でしかないんだな、と深く思うのです。

確かジョンレノンは「神は我々の苦痛を計る概念」だと念を押して歌ったけれど、僕にとっては、例えば女房に出会った時や、娘が生まれた時なんかはやはり確かに「ナニモノか」に感謝したし、娘が遊び疲れて風呂場で僕に寄り掛かって眠ってる時なんかは、ああ明日も元気に楽しく遊ばせてやりたいな、とやはり「ナニモノか」に祈るような気持ちになり、そんな類の対象が僕にとっての神さまという概念になるのではないだろうかと思う今日この頃。

しかし、物事がうまく進まなかったり、人生がウンコだ、なんて思ったりすると、なんだい神なんていねえじゃんやっぱり、と心底思う。はげしく思う。

神とはそんな都合のいい存在ではないんだろうな、と思う自分も確かにいるし、実際たとえそんな存在がいたとしても、いちいち僕の一挙一動をとやかくいうような口うるさい姑みたいなものでは決してないだろうし、例えば、ここで僕が神のことをぼろ糞に罵ってみたとしても正直なところ痛くも痒くもないだろうし、そもそも興味がないだろうし、腹も立たないに決まっている。

それは例えば蟻んこが僕に向かって「このクソ野郎!お前のせいで俺の人生(蟻生)がむちゃくちゃじゃねえか!お前なんか死んでしまえ」と言ったとしても僕は何にも腹も立たないし、せいぜい「 cool 」としょうがないから答えてやるのがオチだろう。

いや、まてよ。そう思ったらどうせ俺の言うことなんか何とも思わないんだろうからこの際思いっきり言わせて貰おう。
「こら、神とやら!いるならいるではっきりせんかい!だいたいエラソーじゃねえか、お前何様なんや、あ、かみさまか、いや、お前はだいたい信用ならん!どうも俺らをコケにしとる気がする。だいたいお前は性別があるのか?ないんじゃねえのか?このホモ野郎!お前なんかいてても何も世界はマシにならんじゃないか、どうせ何も手を貸すつもりもないんやろ、つーか出来ないんやろうが。もうどうしたらええか困ってるんとちがうか?俺らに任せといたらもう本当に知らんぞ、いや、俺は知ってるぞ、お前なんかいねえんだよ!!」

即、ナニモノかから答えが来た。


『 cool 』




2007 4/11

三途の川では、何人もの美女が素っ裸で「オイデ、オイデ」してると聞かされて育ったものですが、そんなものは本当にどこにも存在しませんでした。

あの世にそのような「んふんふ」な状況が待っているならば何もこんなに「死」というものを重箱の隅に追いやるような世の中で、四苦八苦しながら生きなくてももっと短絡的に「んふんふ」な世界に・・って何書いてるんですかぼく。

齢36にしてまだこんなに沢山の煩悩を抱えてるとはまさか小さい頃に想像もしなかったけれど、これでも母親からは『立派な大人に育ってくれました』と誕生祝いのメールをもらい、母親の目が「ふしあな」かどうかはこの際別にして、ここは母親が持つ子供に対する愛情を素直に受け取るのが賢明だと認識している次第です。

☆  ☆  ☆

素っ裸の美女はともかく、僕も多聞に漏れず、先日まで(といっても先週の話ですが)流行の大変重い風邪にみまわれ、39.7度の高熱にうなされながら見たものは、裸体ではなくまさにカミュの小説の様な、引いても引いても終わらない白線をひたすら引かされているというまさにこの世の地獄だけでした。

結局、インフルエンザの陽性と診断され、で、タミフルを処方され全快して現在に至るのです。
これまたタミフルがマリファナのような合法ドラッグだよ楽しいよと友人にこそっと囁かれていたので、布団の中で今か今かとわくわくしながらトリップを待っていたぼくはどれくらいおめでたいですか。

で、、


ここで絵でも進入させようと思い、いつもの様にPhotShopでてれてれと描こうとしたのですが、何だか最近風邪の状態の絵が多いような気がして、気のせいだとは思いますが、いや、気のせいなんかじゃない、僕は最近風邪をひきすぎじゃないだろうか。いつからこんなに弱っちい身体になったのか。これはあれだ、政治が悪い、政治だ政治だ、政治が悪い、と二件となりのYサン(年金暮らし、仕事は犬の散歩)がいつも口にしている言葉を引用させてもらったけれど別に意味はありません。僕は特に興味ないです。


先日、用があって久しぶりに(10年ぶりくらい)母校に行ったのですが、ほんとモラトリアムって素晴らしい。

いや、ここ大文字にしましょう 
「モラトリアムって素晴らしい。」

どこもかしこもモラトリアム。キャンパス全体が、いや、学校の存在そのものがモラトリアム。
かつてアノ中に混じってまわりと何ら変わらない同じ色を発してたと思うと切ない気持ちになります。

ぼくが必要な書類には学籍番号を記入する欄があり、『学籍番号・・?』 そんな大昔のただの記号なんぞ覚えてる訳なかろうが。
お前は何か?それならば、お前は初恋の女の子の誕生日なんかを覚えてるのか? え? お前が毎晩、相手の親に嫌われてるのにしつこく電話(黒電話)を繋いでもらった彼女の電話番号なんかも覚えてるのか? 俺なんか、ほとんどが相手の「親父」が最初に電話に出るんだぞ。ハズレ日だ。母親なら「当たり日」だ。 わかるだろ?この気持ち? あれだけ心臓が破裂するんじゃないかとドキドキ心配しながらかけた電話番号だって今じゃ数字ひとつ思い出せん。 それをおまえ、学籍番号?なんて・・

と、なかば鼻の穴が卓球ボールくらい膨らませながら興奮して訴えていた、まさに、その口が(この口)まだ次のしょうもない言葉を思いついて(僕の悪態はいつもその場限りの思いつき)次の言葉を発するその瞬間に

「ん、ちょっと待って・・・・・・B9○○○○○かも。」

と突然思い出したものだから、このまわりに展開されるモラトリアムな懐かしい空間に影響され、パブロフの犬のように時空を越えて数字がよみがえってきたのですね。

★    ★

   

絵を久しぶりに仕上げたのです。
本当に久しぶりに。絵が大きくなるにつれて、時間が必要になるのです。
時間というのは、何も「絵を描く時間」じゃなくて「その絵を描くにあたって必要な人生の時間」なんですけど

本当にこんな絵ですが僕自身ものすごい魂を込めて(当たり前だけど)描いてるので、他人に説明する時に物凄く困るんです。それに魂込めりゃいいってものではないし、本音を言うなら魂は人生に込めるものだと思う。

先日も少し賞を受賞したりする絵描きさんと話す機会があったのですが、「どんな絵を描いてるんや?」と言われてもこれ説明のしようがないじゃないですか。

でも確かなことは娘に影響されてること。
娘がいないと、ま、当たり前だけど、今の絵はない。絶対にない。もちろんこれからも、ない。
ぼくは娘が描く一筆一筆が素晴らしくて神懸かっていて見ていてドキドキするのです。

「こいつは神だ。神なんてものが存在するのならばこいつがまさにそうであり、俺は今、神の一挙一動を見守っているのだ。」

このように友人に説明すると、『ゴーダさん、マリファナでもやっちゃいました?』と笑われた。
確かにマリファナをキメた人間のセリフそのものではあるけれど。

ま、そんな冗談はどうでもよくて僕にとって大事な物語は、絵が仕上がったことにある。
これでやっと何かが一歩進んだと実感する。何はともあれ。

人間として生きることが、結局ひとりで生まれひとりで逝くまでの物語であるならば、僕にとっての物語は絵を仕上げない限り1ページも進まないことになる。

家族や友人たちとの生活やふれあいは、そのページの彩りを豊かにしてくれ、内容に深みを与え、奥行きまで立体化してくれる大切な大切な感動の1ページとなるだろう。 
けれど僕の物語ではページをめくるためには僕の絵が不可欠なものなんだ。

今はページを進める。 何はともあれ。





2007 2/20

効率だけを求めると人生は無味乾燥なものになる。

   

サボタージュ大好きな僕は、(サボタージュしない人なんているんかな)その自分の性格の結果が積もりに積もってそれがのちに自分に帰ってくる、という因果応報の当然の法則がこの世に存在するという事を今現在、身にしみて思い知らされているところなのです。

早い話が、こんな日曜日に出勤して書類整理に追われているということです。
(注 これは18日(日曜)に書いたもの)


頭の回転の速い、賢い人はもう気付いたでしょうが、日曜出勤までして
こうやって結局、サボっているのです、こんなくだらない文章を打ちながら。

こんなことしてるから仕事が全然進まないわけなのですが、今もそば(マウスの右12cmくらい横)には、あったかいロイヤルミルクティーが湯気を立ててこんなクソのような世知辛い世の中に生きてる僕に、ほんの少しばかりの幸せを提供してくれていますし。そういえばさっきからずっと常に湯気が立ちっぱなしで途絶えることがなくて、僕は結局全然仕事もせずに紅茶ばかり飲んでいるということになります。

しかも左手のななめ前には「きのこの山 たけのこの里」がなぜか設置されていますし、あ、そうそう、僕はチョコレートが好きなのですが、バレンタインディにチョコを買ってしまって、いや、それは別にいいのですが、何だかチョコレートなんていつも買ってるのにバレンタインディに買ってしまうと、知らぬ間にお世間ではどこかオカシイとされていたりしたらクソ面倒だなあ、といらいらしながら買ったのです。
 
なにせ僕は流行には疎いし興味がないものですからひょっとするとTVなんかで変なあだなを付けられて「自分にプレゼントする男」は『マイプレマン』とか『マイプレ』とか勝手に名付けられて流行してたら本当に、はた迷惑だな、と思ったものです。 いやほんとどーでもいいんですが。

ちょっと試してみようといつもの店で(といってもコンビニ)チョコを買う時に店員の女の子に言ってみました。

「あ、これ自分のやねん。えへ。自分用。マイプレ←ここ声極小 」

考えてみれば別にそんなこと言わなきゃよかったな、と今思います。
ぼくはこういうことをわざわざ言ったりするのですよ余計なことをわざと。これでいろんな大変な目に合ってきたのにもうまったく懲りてないのです。

おそらく、高校生くらいのその女の子は全然興味がないような、少し首を傾けただけで
『あっそう、だから? 』といった表情だけで対応してくれました。
インド人が「yes」の返事をする時に「アッチャ」と言いながらやる行為に似ていました。

彼女の名前が僕の中で『インド人』になったことは言うまでもありません。



☆  ☆  ☆


「え、ドストエフスキーも読んでないの? 一冊も? 『罪と罰』くらい読んでるやろ?」

あれはもう随分昔になりますが偉そうにこんなことを言われてしまい、腹が立つよりは悲しくなったのを覚えていますが、僕は当時、ドストなんとかは全く知らんがドラえもんなら全巻読んでるぞこのやろうとその禿げジジイによほど言ってやろうかと迷ったものです。

そしてあれから10年以上経った今、ぼくの手には『カラマーゾフの兄弟』上巻 がある。

やっと読む気になったぼくは持ち前の天邪鬼な性格により「罪と罰」ではなく「カラマーゾフ」を選んだのです。
ドストエフスキーが死ぬ前の晩年に書いた未完の本というのを聞いて、それだけで読む気になったのですがそれにしても分厚い。分厚すぎる。

このクソ忙しい三月末に向けて何かと慌しいというこの時期に、三月中に読もうと思っています。


紅茶なんか飲みながらサボってる場合じゃないんだけれどなあ。





2007 2/15

      

もちろん今も仕事さぼりながら、さぼりながらというのは表現が良くないですね、仕事の合間をぬって息抜きとしてこれを書いているのですが、机の前に飾ってある大きな京都新聞トマト倶楽部のカレンダーを眺めていると、2月の「2」の大きな文字の下に『如月』と小さく朱色で書いてあるのです。

『 如月淳也 』

きさらぎじゅんや。

今こう書いてみて、本当に今思うと馬鹿げ過ぎていて笑えるのですが、僕は本気でこの名前にしようとした途轍も蹉跌もなく恥ずかしい経験をしたことがあります。

結婚した時に「どうせ結婚するんならばカッコいい名前にしたい。苗字がゴーダなんてダサい。イモニィ(芋兄ちゃんのこと)丸出しやん。そやろ?お前(女房ね)なんかイニシャルが「YG」やで。読売ジャイアンツちゃうねんから。そやなあ、なんかこうパリッとしたエッジの効いたシャキッとしたクールでタイトでヒップでアップでシェイプで・・そんな名前がええなあ。
なんかええのないか? ・・・(瞑想)・・・き・・さ・らぎ。・・きさらぎ、如月!どや?」

「なにそれ。なんで2月なん?」

「そんなんどーでもええねん、意味なんかない、語感だけよ。この世の95%は意味ないねんから。」

「そんなんにしたら私「YK」になるやん。」

「え?そこか?つっこむところ。 ええやん、「YKK」みたいでチャックでもはめとこや。」

「でもなんか物凄くダサい。ここぞとばかりにダサい。途轍もなくダサい。うん。ダサい。」

「わかってないね君はやはり。このあえてダサいと感じる、何かわからんけど宝塚?みたいな
危険な微妙な位置関係が前頭葉を刺激するんや。前頭葉が何の働きするんかなんて知らんよ。
あえてこの名前をつける、2月なんて全く関係ない、まったく意味ない。その「意味ない」という
ところに意味があるんや。大きな意味があるんや。残りの5%やで。」

☆  ☆  ☆


結局、僕が住んでるこの国では苗字を勝手に変えることは出来ないと言われ、今にいたる。
よかった・・今思えば。如月淳也なんて、恥ずかしい、AV男優かホストにでもいそうな名前だった。
それにいくら屁理屈こねても全然かっこよくないし、女房が言うとおりかなりダサい。
子供だって「如月そら」なんて絶対にいじめられる。

この国の法律がはじめて僕を救った出来事です。



2007 2/14

1ヵ月に10日分の日記を書こう。
      
 

これが僕の中で密かに決めていた目標だったはずなのですが、こう三月末の決算が近づいてくるにつれクソ忙しくなってくると、そういえばそんな決めごともありましたかなあ、的なまったく僕らしい対応の仕方にほんとうに情けないやら困ったやらで言葉もありません。
ってべらべらと能弁ですが。

くそ忙しいのはわかってますが、こうやって多大なる書類を「ぶっち」してこんなくだらない日記を仕事中に書いてるなんて、いや、ほんと、これもまったくボクらしいです。僕そのもの。

本当に暇なときは、ここに布とジェッソ持ってきて下地塗りをやったこともありますし、ま、それは暇なときなので別に構わないやと何の罪悪感もありませんが、現在は正直なところめちゃめちゃ忙しい状態で、今こうやってキーボードをかたかたと言わせてるそのまさにその手を(この両手ですね、はい)ほんの少しでも書類を片付ける動作に移せば少しづつでも片付いていくものなのに、、とよく人はぼくに言うのですがそれは大きな間違いでして、何と言えば良いのでしょうか、要するに、「出来る子」と「出来ない子」がいるのですよね基本的に。

才能とか要領とかそんなちっぽけな事柄ではなくて、やれば誰だって出来るのは当たり前で、「お前はやったら出来る子や!」なんてのは嘘も嘘ですし、こんな偽善言葉で教師や親は満足しないようにしてほしいものですよね、本当に。
「出来ない」のではなくて「やらない」だけなんですから。今の僕がそう。

でも、仕事さぼってこんな意味のない日記なんぞ書いてる自分が逆にたのもしいし、大好きです。

今現在世間で行われている活動の90%以上は意味のないことだと認識している反社会的、反地球人なボクですが、あまりそういったことをまわりに言うと、とても感化される人が(意外に)多いので僕自身の考えをむやみに軽々しく口外しないほうがいいですよ、と友人アドバイスしてくれた。

「でも俺はさあ、本当のところ、生命が何らかの本質的な意味を持つ活動を行えるとするならば、それは遺伝子の伝達、種の繁栄、存続、それに対する生命の教育、育みにおけるものだと思うんだよね。」

「意味がわからないなあ。」

「簡単にいうと、主婦業くらいしか本当の意味で生命において意味のある活動はないと。」

「そらラクですわな」

「ラク?ラクちゃうで。一番大変やで。あれほど本当の意味で責任が伴って肉体労働で、知恵と知識を総動員させて行う活動はないよ。あんなんに比べたら世間でごちゃごちゃやってる物事なんか遊び以下やし、それを賢い女性は見抜いてるよ。政治や経済や金儲けなんかお遊びやって。」


☆  ☆  ☆

話は変わって、先日のことです。

あきらかに学校をさぼって行ってないような子供が大通りの横の畑でたったひとりでポツンと座っていました。
その子の服は意外とさっぱりしてて綺麗に洗濯されて折り目までついていました。
どうやら畑と道路との間に流れている小さな川をのぞいているようでした。
ぼくは声をかけようとそばによってみると、その男の子は携帯電話をながめていることに気付きました。
ちょっと興味を持ったので声をかけてみました。

「ええなあ。何を撮ってるんや?」

思いっきり無視されました。こんなガキンチョに無視されたこの俺の持って行き場のない恥ずかしさはどんな言葉に例えましょう。
そうですね、僕に手を振ってる知らない女の人がいて、戸惑いながらも僕がニコッとしながら手を振ると、僕の後ろの人が「ごめ〜ん、待ったぁ?」と言ったときの僕の振った手のもって行き場所のないかんじに似nio☆s#$v6dfo a  。

しょうがないので僕もそこに座って男の子の動作を見ていました。
その子は僕を思いっきり無視したまま携帯をかちかちといじっていました。
どうやら誰かからの連絡を待っているように思えました。

こんな小さなガキンチョに携帯持たせるなんてどんな親なんだろうか、なんて今書いてみたけれどそんなことは全く思いもしなかったです。別に好きにすればいいし。

その子どもは、あきらかに誰かからの連絡を待っているようでした。
それが母親だとしたら、少しかわいそうに思えてきました。なんとなく。

ここにいてもしょうがないから、僕ももう帰ろうとした時にその子は小さな小さなため息をつきながら僕に話しかけてきました。


「なあ、おっさん。」

「(お、おっさ・・?!)  ん?」

「神さまのメールアドレス教えてくれよ。」




2007 2/4


日記を書く前に、いま2/4と打ってキョンキョン(小泉今日子)の誕生日だったことを思い出しました。

ほんまどーでもいい。いや、どーでもいいけど気になった。
こんなことを覚えていた自分にビックリしたのです。

ぼくは芸能人のことは恥ずかしいほど何にも知らないし、ましてや誕生日なんて知ってるはずもない。友人の誕生日だってあやしいし、女房の誕生日も実はよく勘違いするし、娘の誕生日を役所に聞かれたときも、隣にたまたまいた友人に聞いたくらいだ。(この友人は誕生日を覚えるのがかなり得意、これは才能だと思います)

ボクが浪人生だったころ、同じ寮生活をしていた友達がキョンキョンのファンで、ボクの誕生日が4/2だと(本当は4/1だけど)教えたら、しきりにキョンキョンが2/4生まれだとしつこく教えてくれた。

ボクはその当時キョンキョンのファンだったので、これは大切な情報ありがとう、僕らの友情は永遠だね、と二人で堅い握手を交わしたのだけれど、今思うと、そんなこと覚えるのなら単語のひとつでも覚えろよ、とツッコミ入れたくなりますがボクはかなり嬉しかったのを覚えてます。

あのころ先は見えず、ましてや浪人で、キョンキョンのファンだった僕ら二人とも今では家族持って子供までいるなんて不思議だ。

 ☆   ☆   ☆

     

せっかくの日曜日なのに女房と娘に風邪をうつされたボクは、家の中でぐだぐだ言っててもしょうがないので気分転換に本屋に出掛けたのです。

いつか読もう読もうと思っていた「カラマーゾフの兄弟」の分厚さに、熱が38、7度くらいまで上昇しそうになったのですぐさま棚に戻して、薄っすい薄っすいすぐ読めるエッセイ本を手にとってレジに並んだのです。
ボクは仮にも風邪気味なので、かなり周りに気遣って呼吸に注意してレジに並んでいたのですが、そこにいわゆる「女という身分を捨てた生き物」の見本のようなオバサンがつかつかと割り込んできて店員に何やら質問やら、わけのわからんことを偉そうな態度で言い始めたのです。

ボクは何が嫌いって、人に偉そうな態度をとる人間が一番嫌いなのです。
その性格のせいで今までも大変な扱いを受けてきたのですが。

普段のボクなら間違いなく「こらばばあ、どけや」くらい言うのですが、なにぶん風邪気味でとてもそのちからがありませんでした。
他の人たちは上手に違うレジに並んで、そのオバハンの後ろにボクひとりという状態になってしまいました。

そのオバハンがやたらと店員に因縁つけたりぐちゃぐちゃ言うものですから、かなりの時間待たされたのですが、ボクは、実はぜんぜん気にしませんでした。

ボクは今まで風邪のために注意してた呼吸を全開にして、咳も大開放し、とりあえずこの女性にボクの風邪をプレゼントしよう、貰っていただこう、とそれに専念したのです。

なにやら店員とモメにモメてる様子だったのですが、ボクは心置きなく咳が出来ることを本当に心から嬉しく思いました。心の中では「おばさんありがとう、恩に着ます」と。
オバサンはちらちらとボクを見ますが、あまり気になってない様子でした。
長引けば長引くほどボクは嬉しい。オバサン怒る。店員アセる。

これだけボクの咳をこんな間近で受けとったら確実にアウトだな、なんておもってルンルン気分でおば様に向けて咳をしながら待っていたら、

「本当に長らくお待たせいたしましたすみません、次の方どうぞ」

という声が聞こえたのだけれど、いや、ボクはもうちょっとゆっくりやってくれたらよかったのにな、これじゃまだあのお方に風邪が移ってないよ、という顔で「 え・・・・っと・・あっ、・・・もう?」と言った。

店員は「はい、本当に待たせてすみませんでした、、、」と。

その476円の文庫本を抱えてゴホゴホと咳き込みながら、世の中ってうまくいかないものだなあ、とキャスケットを深くかぶって、子供乗せ用のママ自転車を走らせて家に帰った。






2007 1/31

30代の未婚男女が増えているらしいという記事を読んだのですが、本当かどうかは別にして確かに僕のまわりの30代は未婚や、もしくは離婚による独身者が多い。

記事や情報はいくらでも操作可能なので信用するには特に値しないんだけれど、僕のまわりに限って言えばあながち外れてもいない、というよりもど真ん中の直球で当たっているのは間違いない。

のですが、別に未婚だろうが何だろうが僕自身本当にどうでもいい、とまでは言わないにしても、いや、本当はどうでもいいと思っているのですが、例えばぼくでさえ、まわりで未婚が浸透していると感じることができるのだからおそらくそうなのだろう。

例え話で紹介するならば、ベトナムに女房と旅行に行った時に(いきなりベトナムの話ですがちゃんと話は30代未婚の話に繋がっていくので)やたら女房が「アオザイ」を欲しがるわけなのです。
優しい僕はちゃんと、アオザイと言うのは何と言えばいいのかなスレンダーな線とスタイリッシュなセンスとが合わさってるからこそその美しさを表現できるんだよ、一言でいうとそうだねえ恰幅の良い立派な体格の持ち主にはなかなかそれはむつか・・と教えたのですが全く聞く耳もたずで注文してるんですよねしかもオーダーメイドで。

まあそれは別に構わないんですが、いい加減な二人なので仕上がる予定の日に再度訪れる時に、それを受け取るのにその店じたいがどこにあったのか二人とも忘れてしまい、それはそれはとても大変な思いをしてそのアオザイを買ったものです。

ここからが大事な事なのですが、それを日本で、いやベトナムでもどこの国ででもどの場所ででも、とにかく
そのアオザイを女房が着ているのを一度として見た事がない、というのが実情でして、それは男の方なら僕がとっても怒るのも無理ない話だということはおそらく普通のかたならば理解してもらえるんじゃないかとは思うのですが、なかなか女房に言及しても何だか言いにくそうな、どこか引け目を感じてるような素振りで的を得ない答えが返ってくるのみだったのです。

そこで、いろいろ聞いてみると、どうやらそのアオザイは彼女の友達たちが結婚した時に、その結婚式に着ていくための服だったようでして、それはまだ一度としてその服に袖を通したことがないという状態であるので、今回の記事にも当てはまるんじゃないかな、と思ったのです。

そうか。あのアオザイは友達の結婚式用なのか。

結婚はともかく、出産は、もっともっと大きな何といいますか「力」が働いていますから何とも言えないんですが、へえーそーなんですか、30代がねえ、へえーっ、そうかなあ?


2007 1/23

僕の独身生活はたったの6日で終わった。

    
           「  充電  」    アクリル画

たったの6日だ。

僕は決して「独りぼっちが好きだからあっちへ行ってくれ」というような孤独をひたすら愛し、孤独こそが人間の生きる道であり真理である、などと言った偏執狂な人間ではまったくないのだけれど、人間にとって「一人の時間を持つことの大切さ」をどちらかというと良くわかってるほうだと自分では思うので、今回女房が子供を連れて実家に帰ると言われた時、言い方は悪いがこれは非常に、稀有な、まさに嬉しいチャンスだ、と思ったのです。

結局その独りで生活した6日間は、まともな時間に家に帰ってきたことはなく、まともな食事もせず、寝食をかなり乱雑に済ませたせいか、せっかく結婚してからずっと正確なタイムスケジュールで過ごしていた健康的な生活も一気にむちゃくちゃになった。
しかしだからといって、そのまま退廃した生活をしていたのではもちろんなく、ほとんどの時間を絵を描く時間に当てていただけなのだ。

その分睡眠時間がむちゃくちゃになった。
集中して描いて、また消して、描いて、寝て、すぐ起きて、コーヒーを作って、描いて、寝て、、。

たまにはTVでも見てやろうか、とTVをつけたりしたけれど出演してる芸能人と呼ばれる人達のヘロインをキメたような異様にうるさいテンションについていけず、TVを消音にしてみたけれどそれでも画面の映像から「シンドイ」感じが伝わってくるのでやはりいつものように電源を抜いた。

結局その6日間、その電源が入れられることは二度となかった。


そんな状況下で、レイモンドカーヴァーの「頼むから静かにしてくれ」が読みかけだったのを思い出したりもしたけれどTVから受けた「シンドイ」オーラが思ったよりも強力で、とても本を読む気にもなれず、しばらくしーんとした部屋でじっと休んでいた。

ぼくが一番好きな時間の過ごし方は、夜中に真っ暗な部屋で電気もまったくつけずに棺桶スタイルで仰向けでただひたすらぼおーっとすることなのですが、これを定期的にやらないと精神にやや異常をきたすのです。

これは、自分の中でのひとつの充電方法だと思っているのです。
身体の充電ではなく、精神的な充電なのです。
身体が眠るのは、身体が疲れたのではなくその行動にともなう精神的なものが疲れたのだと勝手に思っているだけなのですが。

これを心理学者か医者か何かを熱心に志望している学生にたまたま言ったところ、何だかわけのわからない難しい漢字だらけの専門用語の病名らしきもので説明されて、突然病人扱いとなったことがあります。
ぼくは別に他人から(それが医者であれ)、「あなたは病気です、狂ってます」と言われても落ち込まない人間ですが、その学生らしき人はやたらと一生懸命ぼくが病人であると説明してくれるのです。難しい言葉で。

結局その医者志望の学生がやったことは、ぼくに不安感を与えることだけでした。
その助言?で何ら回復されたわけでも僕に何らかのやる気がでたわけでもないく、ただ僕が正常ではないということを延々と思い知らされただけなのでした。
彼は本当に人を癒す事の出来る医者か学者になるつもりなのだろうか。

彼が、医者なり心理学者なりになって人びとを不安に陥れないことを祈ります。


☆ ☆ ☆


6日経った日、晩飯を外食ですましてぶらぶらと家に帰ってきたら、玄関に女房と娘が待っていてくれた。
娘は上着のポケットに両手をつっこんだ格好で少しだけ照れくさそうに僕を迎えてくれた。

ぼくは知っている。
こんな光景がずっとずっと昔、(それは遥か昔、大昔だ)ぼくらの間で実際にあったことを。
ぼくは彼女のいろんな表情やいろんな仕草に見覚えがある。

まだちゃんとした言葉もしゃべれない娘が、いろんな場面で僕に何か言いながらプンプン怒る。
でもぼくはそれを聞いた他の人達のように笑っては過ごせない。なぜなら彼女は昔も同じように僕にプンスカプンスカと怒っていたのだ。いろんな理由で。

僕は女房に「お疲れさん」といい、娘を抱き上げた。

あのころと変わらない、同じいい匂いがした。




2007 1・19

女房と娘が一週間ほど実家に帰っているので最近は独身生活を楽しんでいる。

             
             「 ダンスダンスダンス 」   アクリル画

村上春樹の「ダンスダンスダンス」を読んでいるところでコーヒーを飲むために火にかけていたやかんポットが3軒先まで聞こえそうな音で甲高い音を鳴らし始めたので急いで火を止めに行く。

女房と娘が一週間ほど実家に帰っているので最近は独身生活を楽しんでいる。
楽しんでいるとはいっても、本当に「ひとりきり」で「ひとりきり」を純粋に楽しんでいるだけなのだ。一人の時間はぼく自身にぼくを見つけさせてくれる。
真っ直ぐに家に帰らないので、ぶらぶらして飯も食って帰ると夜の11時前になる。

本当はまだ、そのあとにコーヒー屋でも入ってゆっくりコーヒーを飲みながら本でも読もうと思っていたんだけれど考えてみたら家にスターバックスのクリスマスブレンドとヴェロナがまだあったので、家に帰って自分で作ったほうがいいや、と思い、コーヒー屋のレジの綺麗なお姉さんに「あ、やっぱりいいです。財布忘れたんで。」といって注文せずに店を出た。
どう考えても、家でひとりで飲むよりもあの綺麗なお姉さんのいるコーヒー屋で飲んだほうが絶対いいに決まってるのに馬鹿だなあと我ながら思う。

☆ ☆ ☆

やかんポットの甲高い音は3軒どころか、通りの端まで聞こえるような大きい音だった。
ガスの火を止めて、沸騰したてのお湯を少しだけ冷ましている間(ほんの少しだけ冷めたぐらいがおいしい)にぼくは「ダンスダンスダンス」のことを考えた。

「踊るしかないんだ。みんなが感心するくらい上手く。」

ぼくは天井を眺めながら自分は踊れているのだろうか、ちゃんと上手にステップを踏んでいるのだろうか、とそのことを真剣に考えた。大事なことだ。非常にとても大事なことだ。
下手だろうが不恰好だろうが不器用だろうが、とにかく踊るしかない。踊らされるのではなく自分から踊るのだ。それも楽しく明るく。

そんなことを考えながら作ったコーヒーは、ぼくにしては悪くはない出来だったが、一口飲んでふっと一息ついたら

『女房の作ったコーヒーが飲みたいなあ』と思った。



2007 1/15

AM 0:48 就寝

          
             「テラにて」  アクリル画

∇ ∇ ∇
僕はセル(発音的には『すぃぇる』が一番近い)という惑星の「教師」という立場に属していて、それは地球でいうならば教師というよりもカウンセラーに近い、いやそんな大それたモノではなくて、いわば年寄りが相手の言いぶんを聞いてふんふんと頷いてあげているような、そんな身分(職業)の人間だった。

そんな僕は今地球の現在の生活とは想像もできないくらい程遠い、緩い、いや、生ぬるい環境の中で、自分の息子夫婦のひ孫の子供が生まれたという知らせを聞いて喜んでいる最中に村長(とはいっても地球のそれとは違い、もっと統括されているセンターであり、アメリカの大統領みたいな身分、といったところか)から緊急の用事で呼ばれてセンターに出向く事になったのだ。

センターに呼ばれることは滅多になく、以前呼ばれたのは確か150歳くらいの時(それでも若い年代)であり、その時にその『教師』の仕事を推薦されたのだった。

若い者ならともかく老齢の人間がセンターに呼ばれることは正直あまり嬉しい知らせではないことは村の友人の間でも知れ渡っている一種の常識でさえあった。
ロクなことではないというのは、ある種の人間にとってはロクなことどころか地球でいうと自衛隊のような自分の使命をまっとうする機会を与えられた物凄く名誉な事であり、背筋もぴんと伸びて頬もピンクに染まり瞳もきらきらと輝く知らせであるのだろうが、僕はそういう感情になるにはあまりに年をとっていたしもともとそういう事で喜ぶほど素直な人間ではないし単純ではない。

要するに「ひねくれて」いるのだ。


というわけで、自分にとって「ロクなことではない」のは行く前からわかっていた。


センターに着くと、村長はどちらかというと申し訳ない仕草でこう言った。

「・・実は、言いづらいんですが、、太陽系って知ってます?」
「知らん。(ホントは知ってる)」

村長とは言っても孫ぐらいの年齢だ。
年齢は若いが魂レベルでは僕よりずっと遥かに上らしい。そんなこと会えばわかるが。

「そこの・・第三惑星のテラ(地球)という星に出向いて欲しいんだけれど。もちろん無理強いはしないです。」
「・・テラ・・。(げげっ、第三惑星ってまだ未開文明地じゃないか。)」

「そこが周期を迎えるんだ、例のアノ。
 ・・率直にいうとあなたものんびりしたい年齢だろうし、っていうかのんびりしてるけど、そのままのんびりと生きられたほうが・・。あなたのような年寄りにはちょっと・・・。
それに、この使命があなたに向いているかどうかというのがぼくにはまだわからないんです。あなたの気性にもというか・・」

「・・・いい加減やな。ほな俺帰るわ。アホくさい。」

「・・・ただね、あなたの愛孫のサラちゃんがね、、、推薦してるんですよね、、。」

「その第三惑星行きます。今すぐ。」


  ☆  ☆  ☆


普通、他惑星に出向く時にはたくさんの使命遂行条項があるものだ。
けれど、第三惑星テラ行きの使命にはたったひとつの使命遂行条項しかなかった。


   生きること


アホくさい。何が「生きること」だ。未開文明とは言っても周期の終りまで発達してるんだから、まさか人間同士で食べ殺し合いしてるわけじゃあるまいし。とは思ったものの、条件がひとつだけという事柄がより一層リアルな恐怖感を与えていることには違いなかった。

折角、長い間教師という身分でやってきたことを活かすことすら出来ないじゃないか、などと思ってみたものの、考えてみたら何も教師に値するほどの仕事はやっておらず、(というか他人に教える事など僕には何もない)37.5℃くらいのぬるま湯につかっていたような生活だったので、しょうがないか。じゃあ、とにかくその惑星で生きればいいんだな。生きることが使命を達成することにな・・・


携帯電話のアラーム音「星に願いを」により、AM6:33起床  



2007  1/5〜1/14

HPを再開します。

長い間、文章も書かずに絵ばかり描いていたら脳みそがつるんつるんになってしまいました。ゴーダです。

今、少しでも自慰ではなく他人様に読んで頂けるような文章を書こうと思ったのですがレッドチェダーチーズをぽりりと食べながら考えてると、何かそんなことは別にどうだってよくて、男前豆腐だって馬鹿高いなりに美味かったことも含めて、以前と同様に自分のことしか書きません。書けません。

☆  ☆  ☆

どこか閉塞感の漂うこの社会の歪みがいたるところで噴出しているようですが、これも次なる世界への膿み出し、いわば序章、と、そんな一銭にもなりはしない宇宙観を深く黙考しながらお尻からはメガトン級の大爆発を放屁して『ビックバンや。新宇宙創生の序章や。』と女房に説明しているゴーダです。
こんなギャグでも出会った頃はウケてくれてたんですがね。今じゃ返事すらありません。無視です。
無視されても何かしらコメントをつける僕って偉くないですか?

放屁で思い出しましたが、僕には(知人の間では)有名な伝説がいくつかありまして、そのうちのひとつを新年の2007年のHP再開の冒頭に持ってこようと、今、思いました。

  ◇  ◇  ◇

それは僕がまだ20代半ばくらいでしょうか。京都に再び戻ってきた頃ですね。無一文で、家もなしで。
今思うとあの状態からよくここまで生活できましたね。ってどうでもいいですが。

そんなころ友人から「J字屋の友達から虎舞龍というバンドのチケットをただで2枚もらったんで行く?」という誘いを受けたのです。
「トラブリュー?」
僕はあまり知らなかったのですが、何でも『一曲で大量生産の方法を思いついた素晴らしいバンド』だと聞きまして、どんな音楽を発表してるバンドなのか、友人にちょっと歌ってもらい(ギターで)それを聞いて即行「じゃあっ!」と笑顔でその場を去ろうとしたのですが「まあまあまあ、勉強勉強。」と諭されましてその虎舞龍というバンドのコンサートへ連れて行かされたのです。

後日、J字屋の友人曰く
「えっ?じゅんさん連れて行ったんスか?じゅんさん一番嫌いなタイプやで。」


コンサート会場はまあまあ大きな会館だったのですが僕ら二人は真ん中のちょい上くらい座り、客はガラガラでした。
前の方にファン?らしき女性の方々が固まって集合しててあとはバラバラで。

そして僕は音なんかはPAが作ってるんだろうし、せめて機材や楽器を見てみたいなあ、なんて思っていたのですが、コンサートはなかなか始まらずに訳のわからないスクリーンが出てきて突然映画が始まったのです。

突然始まった映画はどうもヒット曲の「ロード」という曲の内容を映画化したものらしくて、そこではトラブリューのヴォーカルの人が白熱の演技を展開してました。
自分の愛する女とのいろんな苦労や生活を細かく表現して映像化されていました。
1時間くらい放映してた映画は、最後にトラブリューのヴォーカルの人(んもうめんどくせーからトラブリューのTとする)が、その心から愛する女が死ぬ場面を迎えました。

必死で女の名前を叫ぶT。
Tに抱きかかえられながら死んでゆく女。
会場のお客さんたちも映画に引き込まれているようでした。
主人公Tも涙まみれになっていました。
会場からもすすり泣きが聞こえていました。
死んでしまう愛する女(仮にマユミとする)と、女の名前を叫び続ける主人公の二人のアップ。
『 マユミーーーっ!!』

Tの叫び声がこだまする中、画面は真っ暗になりました。
会場もシーンとなりました。
すべてが静寂でつつまれました。


  ぷ〜〜〜ぅ


その音はシーンとなった会場全体に響き渡りました。
ボクのお尻がビッグバン。
誰もが『ま、ま、まさか!?』といった表情を背中で語っていました。

そして真っ暗になったいたスクリーンに、厳かに文字があらわれました。


  『 ・・・そして、ロードが生まれた 』



そこでスクリーンが上がり、後ろで待ち構えていたバンドのメンバーが現れてコンサートが始まりました。

笑いを一層助長させるかのようなテロップにぼくは正直困りましたが、ぼくの正直な感想が、スクリーンの後ろで待ち構えていたプロの音楽家に対して「音」で絶妙なタイミングで返答できた事は何よりです。

友人はボクのことを天才だと言いました。


ぼくの感想がスクリーンの裏で待っていたバンドのメンバーに届いただろうか。