2003〜2005年の過去の日記を整理しました。


しょーもない日記が本当に多かったのでそれは省きました。
個人に向けたメッセージ日記も省きました。
まだ、何とか読めるものをダイジェスト版のように選んでみました。


興味のあるかたは読んでみて下さい。




 2005  10/24


 たまにですが今でも
「 インドに一度行ってみたい 」という人からお便りをいただきます。
 嬉しいです。本当に。
 こんなHPの片隅に載せてるだけなのに嬉しいです。
 今思うと、あれ(旅行記)を書き始めた頃は途中で面倒くさくなって何度もやめようとか適当で済ませるかとか
 そんなことばかり考えてましたが、応援してくれた方々の激励メールで頑張りました。
 あの応援メールがないとダメでしたね僕は。本当に感謝してます。

 国語がいつも 2 だったぼくが文章なんて書けるわけないじゃないですか。
 でも今あの旅行を書き直すとまた全然違った印象の旅行記になるでしょうけど。

 気づいてる人は気づいてると思うのですが、あれは「インド旅行記」ではなくて
 ただ、当時の自分の宇宙観を好き勝手に書いてるだけです。インドのことなんかほとんど書いてません。
 どこで何を買ったとか、どんな飯屋に入って値段はいくらしたとか、何というホテルにいくらで
 泊まったとか、その日はどういう所に行って何をしてたかとか。ご飯の写真とかも何もないです。

 
 そこで、インドに一度行ってみたいな。という奇特な方の背中を押してあげようと思ってこれを書いてます。
 

 お便りくださるメールはだいたい3パターンくらいあります。

 @ インドに行ってみたいのですが。
 A 行きたいとは思いませんが興味はあります。
 B 私も行ったことあります。
 
 そうですね。ぼくはまた行きます。今度は南インドに。
 娘が大きくなって自分にも人生のゆとりが出来たら。

 インドに行って人生観を変えてみたいという意見もありました。
 ぼくはこういう真摯な意見にはものすごく応援してあげたいです。でしゃばらない程度に。
 あれこれと情報をもっていくと、旅の醍醐味が半減しかねないので僕はそっけなく対応しますが、
 心の中ではものすごく応援してます。
 いや、結構、意外とこの対応は大事なんじゃないかとぼくはにらんでるんですが。


 ここからは、質問形式で実際によくある質問に答えるカタチをとります。


 ◎ なぜインドに行ったのですか?


  海外へ出てみようと。ただそれだけでした。
  当初は、友人と「2人で行こうか」と我が家の酒の席で話が出たんですが、その友人は結局クチだけでした。
  でもぼくは「どうせなら一人で行こう」と腹をくくったので、先にひとりで格安航空券とパスポートを買いました。
  ひとりで行くほうが絶対に意味のある旅になるとその時すでにわかってました。
  なぜインドなんでしょうか。どうしても思い出せません。でもインド以外考えられませんでした。


 
◎ たんたんと行動を進めたのですか?怖くなかったのですか?

  そんなことはありません。自分の中では凄い決意でした。
  友達にも知り合いにも一人旅でインドに行った人はいませんでした。
  だから誰にも相談できず、旅行記の本などでだいたいの感じをつかんだつもりでしたが何の役にも立ちませんでした。
  言葉の問題、文化の問題、だいいち旅の仕方すら知らないんですから不安はありました。
  でも航空券など買ってしまった後は早く行きたくて仕方なかったです。


 
◎ 言葉とかどうしたんですか?

   英語です。文章はデタラメです。単語をつなげます。
   とにかく「きゃない、きゃない〜?(Can I 〜?)」ばかり言ってました。
   中学くらいの英語力で行けます。
   あとは現地でヒンドゥー語を少し覚えました。今でもしゃべれます。


 
◎ 日本人はたくさんいるんですか?

   主要都市にはたくさんいます。かたまってます。
   ゲストハウスと呼ばれる安宿にはだいたいいます。ただ、ちょっとはずれると誰もいません。
   ぼくは基本的につるんでる人とは話しません。独りの人に話かけます。
   これはインドにいても日本にいても同じです。
   

 
◎ お金はどのくらい持っていったのですか?

  当時の全財産でした。かき集めて10万くらい。ドルで持っていったので850〜860ドルくらい。
  OPENチケットではなくて45日FIXだったのでまあ何とかなるだろうと。なりませんでしたが。
  もちろん今ならその半額でも余裕ですが。


 
◎ コースとか予定とかはどうしたんですか?

   バラナシには行く。これだけが予定でした。
   あとはあるがまま。何も決めてませんでした。
   ただ、「予定がない」ということはインド人にしたら「こいつは予定がないから何とでもなる
   予定を作ってやれる、要するに金づる。」と思われます。


 
◎ 荷物は何を持っていったのですか?

   小さいナップサック と 寝袋です。
   パンツとTシャツ。タオル。洗面用具。
   文庫本2冊。オリンパスPEN。フィルム20本。マイルドセブン2カートン。
   ぼくはハッキリ言って旅してる間はめちゃめちゃ臭くて汚かったはずです。


  ◎ 仕事はどうしたんですか?


   もちろんちゃんと「インド行くので休みください」と。
   それに「 ダメなら辞めます 」とも。
   インドに一人旅って真剣に話したら意外と結構親身になってくれると思います。


  
◎ 行ってみたいんですがどうしたら勇気でますか?

    行ってしまえばいいんですよ。




 だらだらと長くなってしまいました。
 参考になりませんね。せっかくここまで書いたのだからボツにせずに載せます。

 ただ、ぼくは何人にも「インドに行ってみて。」と言ったんだけど、みんなインド以外の国に
   行ったりして、未だにこの友人しかインドに行ってません。

  ぼくにそそのかされてインドに旅立ってしまったその友人のコメントで締めます。


 「 え〜っ。そおっすかあ。はっきりいってしんどかったっす。早く帰りたいと。
  バラナシなんか怖くて3日で脱出しましたね。 自堕落な毎日でしたよ。
  バングラッシ‐(マリファナのラッシ‐)はヤバイすね。 ま、でもぼくの旅はそんなに面白いもんでもなかったですし、ただただ帰りたいと。
 人生観ですか?さあ?そりゃ多少はね。
特にってわけじゃないんですが、そうですねえ、しいて言えば、『よく行ったな。』と。

  ただ、時間が経てば経つほど     
 『あーインド行きたいなー』と思いますねえ。
 これが決してネパールじゃないんですよね。 
 
 あの 「インド」 なんですよ。  」


   

 

 2005 9/18

 その日は、起きると夜中の12時ごろだった。
 晩御飯の後、ちょっと転寝(うたたね)をしてしまったからだ。
 
 今思えばその時、
横で女房が何かを真剣に書いていたのをはっきりと覚えてるのだが、その時はあまり気にしないで風呂に入ってしまったのだった。

 いつものとおりのボクらしい大雑把な風呂の入り方ではあったが、なぜか(おそらく夢の中で聞いていたのだと思うが)ハイジのオープニングテーマか何かを風呂場で歌っていた。
 別にどーでもいいことだが、『あの雲はなっぜー?♪』の「な」の音が風呂のエコーで気持ちいいぐらいウィーン少年合唱団してた。
 
 今日の我が声の透き通った美声、ウィーン度数90 に大満足で風呂を出た時だった。

 女房がうずくまっている。
 あれ?どしたんや?
 うんこが出えへんのか?
 
 今まで見た事のない苦痛を我慢してる顔だ。
 どしてん?
 あのな・・、9時ぐらいからずっとな10分おきくらいに痛むねん・・。
 
 10分オキクライ二痛ム・・? へ?!
 
それお前ジンツウちゃうんか!お前なんで黙っとんねん!9時からてお前もう夜中の1時やないかいっ!オレお前ほったらかしにしてガーガー寝とったやんけ。しかも悠長に風呂まで入って歌まで歌っとるやんか。それにしかもお前キチョーメンに時間つけとるやないか! もう5〜7分間隔やんか!病院行こ!いますぐいこ!

 
 というわけで、2005年6月20日、夜中の2時に産婦人科に行った

  助産婦さんはいろんな機械でデータをとり、「 もう陣痛始まってます。でも朝方になるんで今はしんどいけど少しでも寝て体力を温存しててください。出産は体力が勝負ですよ。となりの部屋にいますので何かあったらすぐ呼んでください。」と教えてくれた。
 ぼくは有難う御座いますとお礼を言って、ソファに横になった。
 
 寝てて下さいと言われてもこれじゃ女房は寝られないし・・。と思いながら、
 「俺ここにちゃんとおるから。寝れるんなら寝たほうがええぞ。」と格好よく女房に言った。
 
 電気を落として、真っ暗の中でソファに寝転んでいろんなことを考えた。
 いろんなことを・・。
 いろん・・・
 
 

 
・・・ん? あれ?ここどこや? 何時や? 5時?・・・えっとー。

 
!!!あっちゃー!爆睡してしもたー!横で女房ひとりで苦しそうにうずくまってるやんかー!おれまたお前3時間もずっとひとりでほったらかしにして横でガーガー寝てしもたやないかー!!
 
すぐさまナースコールで助産婦を呼びつけて出産準備をしてもらった。

 
 それから3時間ちょっとの午前8時32分にそらは生まれた。
 

 「おれは出産立ち会ったんやぞー」
 「大変やったわ。おれおってよかったわー。」
 「長かったよほんま。陣痛が夜の9時からやったからなー。」
 「いやいや、そんなたいしたことないって。ま、おれもちょっと頑張ったけどな、がはは。」
 
 
 
 

 

 2005 8/27

 誰にでもあるのだろうか。
 こんな自分の中の、自分だけの大切な思い出の場所が。
 ぼくには死ぬまでにもう一度行ってみたい、いや、行かなければならない、そんな場所がある。
 その場所で起こったひとつのエピソードを載せてみたい。

 インドの最北端カシミール。
 パキスタンとの国境にあって、今なお戦闘が続いているところでもある。
 
 国土はインドのものとなっているが、カシミール自体は完璧なイスラム圏。
 細かい経緯までは知らないし、もちろん調べる気もない。
 とにかく領土の取り合いとして今でも戦闘行為が続いている哀しい場所である。

 カシミールを歩けばかならずどこでも銃を持った兵隊たちがウロウロしているそんな状況。
 だけど僕にとってのカシミールは、そんな歴史的な領土の取り合いといったものに惹かれたのではなく、ただ、ヒマラヤ山脈のふもとにあり山脈から流れできた綺麗な水により生まれた大きな湖があり、それを中心に人々が、町が、生活を営んでいる、そんな風景に、時間の流れに、風土に惹かれているのだ。

 そのほとんどがハウスボートと名付けられた湖の上に建てられたボートの上で生活していて、その大自然ゆえに、基本的に避暑地として存在しておりそれによって生活を立てている。
 
 ぼくがそんなカシミールを訪れたのが避暑地としては全く関係のないオフシーズンの真冬だった。
 
 カシミールは寒かった。
 大粒の雪が朝晩と降り続いていた。
 インドの首都デリーに着いた時は半袖シャツだったので突然雪が降る土地へ来たぼくの焦り具合は相当なものだった。
 
 あるイスラム人の家族の家(ハウスボート)でしばらく滞在させてもらうことになった。
 初日の夕食で、僕のほかにまだ宿泊者がいることを知った。それはジェイダーとマックスと呼ばれるオーストラリアから来た二人の女の子だった。
 ジェイダーは顔のいろんなところにピアスをしていて強気な感じの子。逆にマックスはおっとりした背の高い女の子だった。
 当然夕食といってもごっちゃまぜになってるカレーらしきものを手で取り合って食べるという類のもの。味はお世辞にもうまいとは言えない。 ただぼくは食事の味や作法などよりも、英語が出来ないために会話に入れないことが悔しかった。 みんな英語で話してたから。
 時折ぼくに話しがふられるのだけど、いちいちスローに、簡単な言葉で話しかけられるのもお互いに嫌になり、ぼくはその家族の小さな子供と遊んだりしていた。
 
 ほとんどそのジェイダーやマックスと話しすることもなく何日かが過ぎた。

 そのころには僕には他にイスラムの友達が出来て、雰囲気にも多少だけど慣れてきて町中で大音量で鳴らされているコーラン?歌の大合唱にも恐怖を感じることもなく、逆に心地よいとさえ思うようになった。

 そんな折、町から帰ってきたぼくはハウスボートの屋根の上に上がって、ヒマラヤ山脈の雪景色をバックに寝そべってこれ以上ない贅沢な環境で一人でたばこを吸っていた。 寝そべりながら見た、くわえ煙草ごしの空の風景は日本のそれと何ら変わらなかった。

 どれくらい時間が経っただろう。とにかく静かで時間がゆっくり流れる不思議な土地だった。
 そろそろ部屋にでも戻ろうかと起き上がった時、いつの間にいたのかジェイダーが少し離れたところに一人で座っていた。
 そおっと近くに行ってみると紙と鉛筆を持って何やら一生懸命描いていた。

 「 何してるの?」

 小さな声で聞いてみた。 彼女は、

 「 Drawing 」 とだけ答えた。

 そこにはこの湖を一望する風景が描かれていた。
 ぼくはその絵よりも、顔中ピアスだらけの彼女の目の真剣さに心を打たれた。
 黙って横で見ていると、彼女は絵を描きながらこちらは見ないで湖のほうを見ながら言った。

 「わたし、アーティストなの。こうして旅して絵を描いてるの。自然からパワーをもらうのよ、こうやって。」

 僕にもわかるように簡単な英語でゆっくりと話してくれた。

 「あなたは?」 と彼女は聞いてきた。

 その質問の意味がよくわからなかったけどこう答えた。

 「ぼくは旅人。それだけ。理由などないよ。
   そしてちなみに今はただのスモーカー(タバコ吸う人)さ。」

  彼女はやっとこちらを見てフンと笑った。  
 
  その一件から、なぜかお互い会話がはずむようになった。英語の発音を教えてもらったり、いろんな文化の話しをしたり、ぼくが大好きなビートルズを一緒に合唱したり、、ただあくまで英語はゆっくりで簡単なやつだった。 彼女達はしきりに一緒にジャイプールに行こうと誘ってくれたけど、ぼくは一人で行動したかったのでそう伝えた。
 ある日突然彼女らは旅立つことにしたらしく、朝からバタバタと慌しかった。そのころにはぼくはそのイスラム家族と一緒の大部屋で(あつかましくも)寝てたので、長老などにあいさつしてる彼女らを寝ぼけまなこで見ていた。
 扉をあけて出て行く彼女らにグッドラックと言って見送った。 するとジェイダーが扉を開けてまた入ってきて、僕の前に座ってしゃべりだした。 

 その早口の英語はもちろんぼくにわかるわけもなく、もちろんジェイダーもそれは承知だっただろうけど、とにかくひたすら彼女は堰を切ったかのようにしゃべりつづけた。 僕は、ただあいづちを打つだけで、僕には彼女が言っていることが全く理解できなかった。
 ぼくは早くて理解できないと伝えたが、「わかってる。いいの。」とだけ言ってまたしゃべり続けた。
 
 ただ・・彼女の真剣な目に答えようと、必死だった。

 そして話し終えたあとの彼女はいつもの表情の彼女だった。
 そして「また会えるといいね。」とだけ言って、抱きしめてくれた。
 ジェイダーの瞳は少し涙でぬれていた。


 あの時、ジェイダーは何をぼくに伝えたのだろう。

 

 2005 7/11 

 この前の日記の結果、(もうずいぶん前の話になりますが、すっぽんぽんで一日を過ごしたという日記です)
 
39度4分の熱が。
 しかも、怖くなって途中で計るのをやめたので実際はもっとあったと。
40度は超えてたと。
 
 かなり意識は朦朧としてたのです。正直ヤバイなと。
 呼吸もハアハアとしてました。かなりヤバかったと思いますよ。
 ごく自然に意識の中で 『誰か』 と会話してました。

 「 死ぬんですか?」
 『 死にたいのかい? 』
 「 え? いや・・別に・・まあ、死ぬんでしょう?」
 『 死にたいのかい? 』
 「 死にたいか・・と言われたらわからないけど、死ねと言われたら死んでもいいです。 」
 『 あなたはもう終わりでいいんだね?』
 「 ぼくもう終わりなんですか?」
 『 あなたが望むなら。 』
 「 別に望んではいないですけど、このまま生きててもって思います。」
 『 なぜ? 』
 「 なんだかうまく行かないし、パッとしないんです。」
 『 何が? 』
 「 すべてが。人生が。絵が。絵で生きていくことが。」
 『 あなたにはじゅうぶん絵を描く時間も土壌もあると思うが。』
 「 いや、ただ絵を描くことだけじゃ虚しくなるんです。描くことは楽しいですが。」
 『 どういうことかな? 』
 「 やはり自分の絵を認めさせたい、認めてもらいたい、賞賛されたい・・です。」
 『 それは無理だね。
   あなたの絵がいいとか悪いとかの問題じゃなくて。
   あなた自身の問題だ。
   なぜなら、あなた自身は心の奥ではものすごく賞賛されたがっているくせに
   あなたは賞賛されることが恥ずかしいこと、不名誉なこと、魂を売ったなどといった
   屈折した嫌悪感を持っている。
   これじゃまるで正反対だ。これじゃ宇宙はどうも出来ない。』 
 「  ・・・・・。
   たしかに・・。
   でもなぜなんでしょう。賞賛されてる人びとに嫌悪感をもつのは。
   単なる嫉妬心でしょうか。売れてる人や物に抵抗があります。」

 『 自分のことを認めてもらえたらなあ、と思う心はごくごく自然なことだよ。でも
   他人の結果に嫉妬して左右されるのは決して素直だということじゃないよ。
   あなたが目指しているものが、あなた自身が本心では望んでいないはずの賞賛方法で、
   今世では果たしきれなかった人々の生き方だったりするから。』
 「 たとえばゴッホとか・・。」
 『 たとえばゴッホとか。』
 「 モディリアーニとか・・。」
 『 モディリアーニとか。いやいや、もっともっとその他大勢の無名の人たちのように。』
 「 でもやっぱりどこか、そういった人たちのほうが真摯に生きたと思うのは・・。」
 『 いくらでも「真摯に生きた」と思えばいい。でも実際、それは関係ないことだ。』
 「 たしかに自分の中のこの屈折した矛盾をどうにかしたいと・・。」
 『 最近あなたのもとを訪れた魂がいるはずだよ。』
 「 ぼくのもとに訪れた・・。! そら だ。」
 『 その魂があなたの屈折したその矛盾を指摘してくれるだろう。』
 「 そうか、そらか。そうか。」


 『 まだ死にたいかい?』

 「 いえ。生きます。」


 気がつくと意識もしっかりしていて、熱も36度に下がっていた。





 


   2005 6/20

   

 そら が うまれた
 産まれてきてくれた。


 




 2005 5/29

 女房に連れられて産婦人科のラマーズ法教室へ。

 「はい!ひっひっふー。はい!ひっひっふー。はい!ひっひっふー。」

 『はい、ひっひっ・・』 ん。待てよ・・。 っちゅうか、えっとー
 
俺、何してるんですか。

 なんと居心地の悪い空間。まわりはみんなダルマさんばっかり。
 もう出されたジュース飲み干すもんね。って飲んでるのオレだけかい。
 その明らかに場違いな空間にいることを強いられたぼくは、たった一言だけ発言する機会があり、そのチャンスに発したセリフが

 「 ええ。そーッスねえ。血ぃコワイんスわ。 」
 
 沈没。
 助産婦もそれ以来いっさいぼくに会話振ることなく目線すら無視。
 もうひとりだけ若造のいかにもヒョロヒョロのプレパパみたいなヤツがいて、どう考えてもあいつとは友達にはならない別世界の人間であり、助産婦も「こういう時はご主人が・・・」という話題はすべてそのプレパパに話題が行き、こっち無視。
 
 あっそう。いや、でも正解。
 あのヒョロヒョロが理想だ。「がんばってね」なんて優しく応援してるだろう。
 ウチとは正反対だ。なぜなら
 「がんばるな」「無理すんな」だから。
 
 ああいう理想の人間にはなれないし、なりたくもない。
 自分なりの方法で人を愛するしか術をしらない。
 協調って人に自分を合わせることじゃないだろう?
 お互いの相互のバランスだと思うんだけどな。
 
 


 2005 5/20

 Aくんはまだティーンエイジャーだ。
 ぼくが本気で絵を描いているというのを教えたら、自分も絵を描いてみたくなったらしい。 そして彼にとっての絵に対する最初の質問はこうだった。

  「 何描いたらいいスかね。 ゴーダさん何描いてるんスか? 」
 
 哲学的な偉大な質問をサラッと放ってくれるね。

 「 何描いたらいいスかね? 」 か。

 そもそも、人類が太古からラスコーの壁画のように、または高松塚古墳の壁画のように、なんならペルーのナスカの地上絵のようにやたらと地球に『落書き』をしたがる、もしくは自分の生きてるという証を残したがるのはなぜなのか。テリトリーピッシングのようなもんだろうか。それはやはりフロイトの法則やユングの深層心理が関係しているのか、はたまた、ニーチェやカントの哲学思想が絡んでくるのか、いや、待てよ、何を描いたらいいのか?ってそもそも描く必要性などあるのか、、あかんあかん、こんなんしゃべったらまたこいつ寝るに決まっとる。

 「 自分が好きなものを好きなように描いたらええ。 決まりごとなんてないで。」
 
 Aくんはすごく空が晴れたような表情をして帰っていった。

 翌日、彼は昨晩一生懸命に絵を描いたと報告してくれた。Aくんは車が大好きなので自分が欲しい大好きな車を鉛筆で描いては消し、描いては消しを繰り返しながらひたすら描いたらしい。
 そして出来あがった絵を見て「色を塗りたくなった」らしく、白い車が好きな彼は白を探したけどなかなかみつからなかったので近くにあった黄色の蛍光ペンで塗ったらしい。
 そして上手く塗れなくて絵をぐちゃぐちゃにしてゴミ箱にポイと捨てて終了。気がつくと3時間経ってたらしい。
 「 おもしろかったか?」 「うん!」 「楽しかったか?」 「楽しかった!でも汚くなったから捨てた。」 「 それでええねん。 それでええ。 」
 

 Aくんははじめて集中して絵を描いたらしくていろいろ質問が出来たらしい。

 「 絵を描く時って、たとえば車を描くんなら、車を見ながら描くんですか?それとも、車を見てそれからイメージで紙に描くんですか? 車が白ならやっぱりその白色を塗るんですか? もしくは自分の好きな色をそこに塗るんですか? どうなんですか?」
 
 「 ぜんぶ正解や。」

 「 えっ? 」

 「 どれもぜんぶ正解や。」
 

 Aくんはものすごく空が晴れたような笑顔をした。

 2005 4/10

 そらが女の子だとわかりびっくりしているのです。

 ぼくは今まで一体誰に話しかけていたのでしょうか。
 なぜかずっと男の子だと思ってまして、疲れているときや大変な時、たまにだけどいいことがあった時など、まだどこか別の世界にいるはずの「そら」に話しかけていたのです。

 こんな大変な時代に生まれてくるなんてほんと勇気あるなあ、ましてやウチに生まれてくるなんて と思っていたのですが、女の子だと聞いてなんだかすっかりチカラがぬけてしまったのです。
 やっぱりすごい影響力ですね。まだ生まれてもないのにすっかりぼくの根本的なグロい性格などが180度変わりそうです。溶けていきそうな感じです。
 ヤツも賢いです。多分ぼくには女の子が一番いい方向へ流れるんだろうと思います。もうすでに(女の子だと聞いて)僕自身何かから解放されましたから。
 
 リアルな現実を絵に描ききりたい。

 これだけですね。今のぼくにあるすべてです。感情やソウル的なもの、魂、リアルな心情、この時代を生きねばならない葛藤やいらだち、苦悩、歓喜。すべてをとりまくインスピレーションの宝庫、女房、生まれてくる子供、感動、出会うすべての人、混沌とした中にある秩序を持った宇宙の螺旋、幻想も空想も夢も生死もすべてをひっくるめたリアルな現実、それを単純なシンプルな線で表現したい。もちろんユーモアというスパイスをこめて。

 そんな絵が描けたか?
 いや、ぜんぜんまだまだです。
 
 描けるのか?
 描けます。
 なぜかはわかりませんが描ける自信があるのです。

 

 2005 3/28

 今月は一日も休みがなく働きづめでさすがに体力的にもきついが、自分の時間(要するに作品つくりに)に時間をまったく割けないといった精神的なストレスもでかい。
 ま、それはそれで今は温存の時期なのかもしれないと思考のスイッチを変えることでなんとか平常心を保っている。
 
 つい先日、朝早くからいつものように黄色いトラックにゆられて現場に向かっていた。
 大きな河にさしかかり、その上の大きな橋を渡っていたら橋の歩道を列をなしてユニフォーム姿の野球少年達が自転車で走っていた。

 橋のむこうに広がる川と差し込む太陽の光。
 そして列をなして走る野球少年達。

 なぜかはわからないが、その光景にとても感動した。
 そして心の中で彼らに言った。「お前ら何気なく走ってるその光景や景色、一瞬一瞬がすべて美しいいい思い出になるんやぞ。今は辛いこともあるかもしれんけど、掛け替えのない貴重な瞬間を生きてるんやぞ。覚えとけよ。」 と。

 すると、すぐさま誰かがぼくの心の中に話しかけてきた。

 「 お前こそな。 」

 

 2005 3/22

  布地を買いに行った。いつもの画材屋に。
 キャンバスはたくさん家にある。なぜかキャンバスには不自由してない。
 いつもいろんな方が譲ってくれるから。本当にありがたい。
 ただ、既成のキャンバスは縦横の比率が勝手に決められているのでなかなか使えない。
 自分の波長(要するに「気分」)と合った時だけ大切に使わせていただいている。
 それで今は布地だけ買ってきて好きな大きさに切って描いている。

 布地は高い。はっきり言って高い。
 気に入った使えそうな布地のロールを店員に持って行っては値段を単価で計算してもらい、また横に切れ端の布地があればそれを持って行き安く売ってくれないか聞き、それを何度も繰り返していたら店員が半ギレ状態で「えっと、画材は?絵の具は何ですか?」と聞いてきた。
 実は正直なところこの質問が一番ウザい。
 ま、店員にしてみたら当たり前の質問だろうけど、どうせ勘違いしてるのはわかっているから。
 「・・・、まあ、油絵の具ですけど・・。」
 案の定、「油絵でしたら油絵用の布地がありましてこちらはアクリルなど水溶性に向いてるんで油絵の具は乗りが悪いというか・・。」と言ってきた。
 「乗りが悪いと油絵の具の耐久性というか、油をつけた時の発光性が・・・」

 
油なんぞつけへんて。

 「この布地ですとキャンバスを張ったときの張り具合が・・・」

 
張らへんて。
 
 
この店員もしかすると、オレが画用紙やケント紙に油絵の具で描いてたこと知ったら卒倒するんちゃうやろか。
 ま、でもあんたが正しい。あんたは間違ってないよ。常識的にも多分。
 
 
 買ってきた新しい布地での最初の作品は、そんなごちゃごちゃとした小さなことや、最近なにかと忙しいいろんなことをブッとばすくらいの大胆な大きさに切ってみた。



 
 
 
 

 

 

 2005  3/14

 女房のおなかが大きくなってきた。
 出産はすごい。
 出産は宇宙だ。
 どこぞのアホんだらたちが一生懸命宇宙旅行だとか、何十億円だとか、
 全部ベクトルが外側へ向かっているだけのいわゆる「男」の浅はかな考え方だ。

 外側に宇宙を感じるのは男だけだ。
 実は、外側にはなにもない。
 もう一度言おうか。外側には、なにもない。
 ホンモノはすべて「内側」にある。
 宇宙とは「内側」にあるのだから。
 
 もしあなたが多少でも成長を望むなら、雑踏の中にはありません。
 「ひとりの時間」を持ったほうがよい。1分でも1秒でも。
 
 出産は宇宙。抽象的な考えではなく物理的にも。そのままで。ありのままで。
 子供を産もうが産ままいが女性はもともと持ってる。しってる。
 この社会に翻弄されてる人が多いけど。
 出産とはひとつの宇宙が生まれるビッグバン。
 
 人間とはそれ自体が「宇宙」なのだから。
 これも抽象概念ではなく、そのままの意味。
 
 こどもはみんな知ってることだ。

 

 2005 1/20

 
新しい色ってもうないんでしょうか。 教えてください。
 新しい色っていうのは、今、見えてる色をごちゃちゃ混ぜて作る色のことじゃないんです。
 ぼくがいうてるのは、まったくあたらしい色で、見たこともない色。
 もう想像もでけへん「色」。
 
いや、ぜったいあるはず。
 これが限界ですか? 
さぶーっ。極寒。
 
ぼくらが見えてるのは虹の色まででしょ。あのはしっこの赤の先の赤外線とか、紫の先の紫外線とかはぼくら人間には見えない色だけど存在はしてるでしょ

 ぼくはですね。あの虹の先の色をどんなに想像しても全くダメなんですよ。もう全く。
 そう考えたら、金や銀なんてのもスゴイと思うんです。
 
 たぶんね、たったひとつの色が見えるようになっただけでも世界はガラリと一変するよ。
 それほど影響力があるんだから。
 
 でも多分、新しい色が見えるようになったら世界が変わるんじゃなくて、
 世界が(人間が)変わったから、新しい色が見えるようになる。

 たぶんそうゆうことなんだろうな。と今、書きながら思ったのです。

 

 

 

 2005 1/2

 あけましておめでとうございます。

 気がつけば2004は過ぎ去っていました。2005の元旦さえも。
12/31には、この日記で一年の締めくくりをしようと思っていたのですが、過ぎ去ってしまったものは
もういいや、。って感じです。

でも去年の出だしは「どうなるんだオレ?」って感じでした。
仕事はなくなってしまってましたし、自分の絵も煮詰まっててほったらかしでした。

ただ、何もないんだけど何かが始まる予感がありました。
次の職探しまでの臨時で始めた今の仕事(地上絵描き)が結局続くことになり
その仕事の中から今の自分の画法を見つけることになりました。
今の自分の絵のスタイルはすべて、現在の仕事からヒントを得ているのです。

やっと進みはじめたぼくに、さらに今年、大事件が起きるのです。
子供の誕生です。
いやー、なんと勇気のある子供でしょう。
ウチに生まれてくるなんて。相当な変わり者でしょうか。
その勇気だけでも誉めてやりたい。生まれたら聞いてみようっと。理由を。
ぼくには子供とか、そういったものとは関係のない、縁がないと思ってたんですが。運命的に。
よくこの家を選んだなと。

なまえは随分むかしから決まってました。
多分まだ女房とつきあっていた頃だと思います。
今でも覚えてるんですが、梅田の阪急の地下を二人で歩いていた時でした。
もちろんそんな会話してたわけじゃありません。
梅田のインディアンというカレー屋に行く途中だったで、カレーの話をしてたと思います。
突然ぼくに名前が降りてきたのです。

「合田そら」

と。

直観というんでしょうか。なんせ、「降りて」きたのです。
はじめは何のことやらわかりませんでした。なんせカレーの話してたんですから。
なぜかわかりませんが、それが子供の名前だとすぐわかったのです。
人ごみの中で突然ぼくは立ち止まり、彼女(女房)に言いました。
「 ・・・ちょっと待って!いま・・子供の名前がきた。・・『そら』や。『ごうだそら』。」

いま思うと、なんてアブナイひとでしょう。よくこんなのと結婚したもんです。
まあ、女房も変わり者ですが。

そして今回本当に子供が生まれることになりそのままつけることにしたのです。
もちろんひらがなです。ぼくはひらがながとても美しいと思うからです。
ひらがなの誕生など感動します。
くそ堅苦しい漢字なんぞふっとばしたのです。平安時代の女性たちが。
こんなすごい文化革命が他にあったでしょうか?
新しい文字を作ってここまで浸透させてしまうなんて。

それに「空」って漢字はぼくにとってskyと同意語ではありませんし、漢字そのものが好きではありません。
ましてや「宇宙」とかいて「そら」なんてのもどこぞの屁たれアーティストみたいで、かーっ!ぺっ!!

ぼくは何事も決めつけるのは好きではないんで
いろんな視点があって、それによって意味もとらえかたも変わるものだと思ってるし
深いようで浅くもあって、意味があるようでない。自由。
センスのある人ならば語感だけで素敵だとわかるだろうし。

まあ、でも名前のインスピレーションを送ってきたのは生まれてくる当の本人だと思いますが。


ちゃんとつけてやったぞ!

と言ってみたら

無言でニコッとしてた気がしたんです。


 

 

 2004 12/6

 有名画材店が恒例のバーゲンセールをやってたのでここぞとばかりに行って来ました。
 いつものとおり店内はバカ混みで大変賑わっていたんです。
 やっぱりアクリル絵の具に人気があるので一番混んでいたのですが、油絵の具もそれなりに混んでました。
 ぼくが慎重に絵の具をえらんでいたら、いかにも美大生風の女の子が(なんとなく息が荒い感じの)ぼくの横にきて絵の具を物色し始めたのです。
 せめてお前、髪くらいといてこいよ。とは思ったものの一心不乱に絵の具をかごに入れるさまに感動すら覚えたのでした。
 それにしても中身も確認せずにバッサバッサと結構でかいチューブ選ぶなんて凄いなーエライなーなんて思いました。 だってそいつのカゴ見たら、どう考えてもウン万円は軽くいっていたと思います。
 それにくらべてオレは・・・4号チューブにしようか6号チューブにしようかで悩んだり、この色はまだちょっとあったし、この色はちょと高いからアレとアレ混ぜて作れるし、、なんてちまちまと長い間考えていたのです。

 情けない・・・。 あの子はあの若さでおそらく生活費やなんかで苦労してるだろうに、でもあんなに潔くスパッと高い絵の具も選んでいるというのに、俺は絵の具なんぞに高いお金払うのがもったいなくてもったいなくてちまちまと小者だなあ、とちょっと落ち込んでいたのです。

 いやあ、今日はお勉強させていただきました。
 あなたのような方こそが真の芸術家です。
 ぼくはあなたの絵を見てみたいです。
 そういう尊敬のまなざしで、今にも彼女の後ろ姿に深く一礼をしそうなそんな気持ちでした。
 結局最後にはドバドバっとテレピン油などの油ものと、でかい大作用のチューブをこれまたドバドバッとカゴに入れておられました。いやもうあなたは神様です。神が来臨されたのです。光り輝いてます。まぶしいです。この場で床にゴザでも敷いてひれ伏してお祈りをささげてもよろしいでしょうか。

 レジに向かわれる神様をじっと見送っていました。
 神様におケガなどありませんようにと。
 すると横から神さまによく似たおばさんがあらわれました。

 「 あんたそれだけでええのんか?しゃーないなー、もー。」

 ・・・・・・!!!!





2004 7/25

また不思議な夢をみた。

女房と歩いていたら前から銀色の不思議な物体が転がって歩いてきた。
明らかに不思議な形で、板のようなものが組み合わさってパタパタと
歩いていた。

ぼくはよくUFOの夢をみたり、他の星の人に会ったりする夢をみるけど
雰囲気的にはそれと同じでワクワクする感じだった。

「アレつかまえよう!」
女房と一生懸命ビビリながらも捕まえようとした。
女房が先につかまえた。
すると異次元にとばされているのか、女房がだんだん透明になっていった。

「 どしたんや! 」
と聞いてみた。

『 なんかなあ、文字が書いてあんねん。 』


文字?
 なんじゃそら。意味わからん。
 とにかくつかまえてみることにした。
 
  パタパタと動くその板は、正直言って不気味だったけど
勇気をだしてそれに触れてみた。

すると大きな大きな文字があらわれた。
それは子供のような陽気なあかるい字だった。
日記のような文章で
「 つぎはXXXをして、XXをする。 」って。

なんじゃこれ? 
でもなぜかあたたかい知ってる字だった。
するとその内容の場面があらわれた。
その文章どおりに生きている自分がいたのだ。

ぼくは次々と自分で書いたと思われる文章を読みながら
それをそのとおり生きている自分を見ていた。

涙がでるほど嬉しかった。
ぼくのすべては、すべての現象はちゃんと自分で計画し、
そしてそのとおりにちゃんと生きていたのだ。

思い出した。
あれは僕が書いた字だ。

ぼくはものすごく感動していた。
そして計画していた無邪気な自分も、それを生きている自分も
そして、それを見つめている自分も思い出した。

そしてそれはものすごくあたたかいものだった。


突然目覚めた。
リアルな夢だった。
リアルな夢は必ずメッセージ性がある。
ぼくはちゃんと受け取った。
忘れないためにもこうして日記につけとこう。
この人生もおそらく自分で計画しているものなんだろう。
肩の力がスッとぬけた。
顔がふにゃっとなった。

何もむずかしいことはない。
めっちゃシンプルだった。
びっくりするほど。

あーよかった。


夢で教えてくれた宇宙の友達へ、ありがとう。



 

 

 2004 11/5

 ふう。 今日の線入れが終わった。
 あとは色を塗るだけ。 もう今日はこれでやめときます。
 
 この「線」を入れてる時のなんとも言えない集中力は何なんでしょう。
 なんかもの凄いエネルギーが渦巻いてる気がするんですが。
 
「 その絵で?」とか言われそうだ。 言いたいヤツは言え。
 絶対に
わかる人にはわかる
 
 まったく関係ない話だけど、この家はミステリーゾーンだ。
 ここに住んでもう何年にもなるのに
未だに方角がわからない。 
 おかしい。なぜ北が東なのだ?
 
なぜ南へ向かったのに西へ出るのだ?
 
不思議でならない。
 自分の家なのに。 自分で納得してないまま暮らしてる。
 
 まあでも、宇宙に出たら
西も東もないんですけど。
 上も下もないしね。

 これを聞いたらびっくりするだろうか。
 
昨日も明日もないんだよ。 




 2004 6/26

  
 日当たりのいい広い部屋は、本来もうそろそろこの季節になると
「仮想引越し」と称される部屋変えによって茶の間へと変身するのが我が家の常である。
 いいのだろうか。こんなに散らかしたアトリエ状態にして。
 
まさに占拠。 我が物顔で油絵の具やらパステルやら落書きの絵たちが転がっている。
 でもしょうがない。 自分らしい絵が描けだしたのだ。 この喜びはデカイ。

 何かが。何かがつかめ出した。まだボンヤリだけど確かに何かをみつけた。
 あまり誉めない女房が、最近の作品(落書き?)を誉めてくれる。
 どうも最近、自然の中に自分の好きな題材やフォルム、色の組み合わせがゴロゴロしてるのに気付いた。
 同じ景色が退屈ではなかった。移動だけが新しい発見ではなかった。
 
 違う景色をはじめて見るより、
  同じ景色をはじめて見るしあわせ。
 その目のほうが何倍もゆたかな人生になる気がする。

  この絵たちは何らかのかたちで発表される気がする。
 それにしても最近、時間があればイーゼルの前にいる。
 自分にこんな集中力があったのかと思えるほど、4時間でも5時間でも没頭している。
 「どうしたんだ!オレ!」 自問してみた。
  「別に、どうもせえへん。」 答えが返ってきやがった。
 「調子ええんちゃうの!」 
  「あっそう。」
 「なんやテンション低いなーおい!しまっていこー」
  「しんどい芸人みたいやで。」
 「ムムムっ・・。さすが自分だけに冷めとるなあ。」
  「そーでもないで。」
 「熱くは見えへんで。」
  「温度は関係ない。単なるバランスや。」
 「ぬぬぬっ・・・。」
  「それにテンション高いのが熱いというのは違う。テンションは本来自分の内側にあるもんだから、いちいち人前で誇張させて盛り上げる必要はない。それはテンションではなく単なるパフォーマンスに過ぎない。本当のテンションとは寡黙な中に多い。一見寡黙だがものすごいエネルギーで回転している人たちがいる。そこに温度はあまり関係ないがテンションが高い状態はある。」

 「・・・な、な、なるほどザわーるど。」
  「古いよそれ。」
 




 2004  6/13

 絵を描いてたらなぜか突然リャドを思い出した。

 もうかれこれ10年以上前になるが、画廊でリャドの絵に出会った。
 画廊とはいっても、あのよくあるラッセンとか笹倉鉄平とかの絵を版画で売ってるアレ、いわゆる画商である。 母親からもらった招待券で行った、というよくある話である。

 やっぱりその日も金持ち老夫婦や暇なおばはんなどが財布を片手に品定めしていた。
 とうぜん、いかにも金持ってなさそうな僕には誰一人店員は近寄ってこなかった。
 
 ラッセンやヒロヤマガタなど全く興味なかったのでサッサと帰ろうとしたとき、1枚の絵に
 
まさにクギづけになった。
 くぎづけだなんて大袈裟な、誇張がすぎるよじゅんさん、なんて思うか。
 実際にその絵の前で
5時間も突っ立っていたのだ。
 朝の11時ごらから夕方の4時ごろまで。
たった1枚の絵の前で。
 
 さすがに2時間も経ったころから、店員がなんだかんだ言ってその絵のすごさなんかをベラベラと
 僕にしゃべっていたが全く無視。 しまいには広いスペースの場所まで絵を持っていってくれて、イスまで用意されてVIP待遇。 しょうがないのでそのイスに座って絵を見ていた。

 今思うとあれは一体何だったんだろう?
 完璧に時間は止まり、アタマは真っ白。自分が何をしているのかもわからない。
 
 そして最後にはなんやら総支配人みたいなスゴイえらい人の付き人なんかが出てきて
「 総支配人が貴方様のことをすごく感動されてまして、よろしければお値段のほうを商売ぬきでお譲りしたいということですがいかがでしょう。」 といってきた。
 その値段は確かに半額以下だった。 
 もちろんローンでも買うつもりはなく「 もう帰ります。」とだけ言って帰った。

 
 今日、ひさしぶりにその絵をみたくてインターネットで調べてみた。
 J・トレンツ・リャドの「 ロルカの詩 」という作品だった。
 リャドは最近ではけっこう有名な画家らしい。もう他界しているけど。
 今見てもいい作品だ。けどあそこまで魅了されたのはなぜか。 たしかに店員が言ってたように 「 ロルカの詩」 は3部作だった。 全部かなりいい作品だ。

 ぼくが見たのは「 ロルカの詩T」。  U、Vもかなりいい。
 

  画商をあとにしてから、自分の気持ちの整理がつかず、うわついていた。
 地に足が付かないとはまさにこのことだった。
 なんだかわからないけど、とりあえず次の日に油絵セットを買いにいった。
 なんだかわからないから、、油壷は灰皿だと思っていた。
 そして今でも
 そのとき買ったペインティングナイフを使っている。


  





 2003 12/1 曇

 自分の気が狂ってるかもと思うときはとくに注意したほうがよい。
 なぜなら真実の扉をたたいているから。






2003 10/14 雨

ある大阪の小学校の先生が、子供たちに言った。
「 えー、今日同行してくれるカメラマンのかたです。よろしく。
それから先生からひとつ! みんな写真言うたら『ピース』ばっかりで、先生は
あまり好きじゃないなあ。 もっと自然な感じでカメラを見なさい。
自然な写真が一番。だから、ピース禁止!!わかったか?」

この朝の勝手なひとことで、どれだけ喜劇が展開したことか・・。

ぼくはどうも子供に好かれるらしい。
それもまとわりついてくるかのように好かれる。
ぼくが近寄るとみんな最高の笑顔でピースして寄ってくる。
それは、幼稚園だろうとなんだろうと。

そして今回も例外無く子供達は笑顔で寄ってきた。
だけど、もじもじしてて、よそよそしい。笑顔も変だ。
不自然きわまりない。

「 どしたんや? 」聞いてみた。
「だって、ピースしたらあかんのやろ?」

絶句した。
本人はピースしたいのに、その自然に出てくるポーズを禁止されて困っているのだ。
ぼくは、言った。
「 自然にピースがでるんやろ? それが自然な写真ちゃうの? 
かまへんやん。 なんぼでもピースしてええで。」

すると、こどもたちは、めっちゃ輝いた笑顔で
「かまへんの?! やったー!!」 といって元気な笑顔をみせる。自然に。

いちいち、みんなに説明してたらピースを禁止した先生が横にいた。
彼にぼくの考えが伝わっただろうか。
それとも、自分の規律をいとも簡単に無視するぼくを恨んだだろうか?

ぼくはただ、自然とはそんなもんじゃないと
彼に伝えたかっただけである。
そして子供たちにも教えてほしいと。

2003 9/30 晴

最近、絵を描いていない。
まったく描きたいと思わなくなった。もちろん時間もないのだけど。
問題なのは、時間がないという言い訳ではなくて、「描きたい」という純粋な衝動が
雲がゆっくりと消えていくように自然となくなってしまったことだ。

いい理由をつけるならば、それだけ今現在の社会にフォーカスして集中している
ということになるだろう。
悪い理由をつけるならば、それだけ今現在の社会にとらわれてしまい、本来の自分に
アクセスする大事な時間を見失ってる ということになる。

自分の内側に入っていかなければ、何も生まれはしない。
からっぽで出て行くことになる。


ぼくは芸術家だ。周りにそう評価されようがされまいが、ぼくは芸術家である。
それ以外の自分を説明する表現を知らないし、あまり意味もない。

美術家ではない。美は見ようとする意思があれば実はどこにでも見られるものなのに
かなり狭い範囲で取り扱われているような気がするから。

芸術は違う。芸術は人生や生命そのものだ。だから、生きとし生けるものすべてが
芸術を「やっている」と言えると思っている。

自分の存在を通して、まわりに影響を与え合っている。
これが芸術だと思っている。

ぼくはその自分を通じて、または、自分に降りてくるインスピレーションを「カタチ」にして
表現していくことで何らかの見えない大事なものを共有したいと本気で思っている。
たとえ誰も聞いていなくても。

ちょっと落ち込んでた僕に、最近友達がメールくれた。そこには、ぼくは本当の芸術家であること、ぼくの作品には何らかのチカラがあること、それによって何かに気づく事もあり奮い立たせられる事、などが書かれていた。 ただ、ぼく自身がこのメールをもらってどれだけ勇気づけられているかを友達は知らない。

2003  8/31 晴

 仕事でたまたま「ダウン症」の子供が弾いているピアノ演奏を撮影した。
 
今までいろんなピアノ演奏を聞いたことがあるけど、「うまい!」や「スゴイ!」と思ったことは何度もあるが、こんなに心を打たれた演奏は聞いたことがなかった。
 正直言って、感動して涙が出そうになった。 実をいうと、ハンデを背負ってると言われている人々に対してぼくは決して甘くない。 ある程度までは特別視したとしても、彼らが選んだその人生をその勇気をたたえ、それに想いをはせることはしてもそれ以上の特別扱いはしないし、したくない。
 そういう変なところに力みが入った不自然な気持ちがあるがゆえに、彼が出てきた時にも「 ふ〜ん、ちゃんと頑張って弾きや。 」くらいの対応だった。
 
 だが決して上手いとは言えない彼の演奏は、完全にぼくのこころを真っ直ぐにとらえた。
 曲はリチャードクレイダーマンの「渚のアデリーヌ」だった。ありがちだ。
だけどその演奏の一音一音、音のひとつひとつがとても繊細で、純粋で、せつなくて美しく、シーンとした客もまばらな会場の隅々まで響き渡った。 それにあのメロディが合い重なって、ものすごい感動を呼び覚まさせた。

 完全に心を奪われた。 大袈裟ではなく、
本当の芸術を見た。

 彼はこころで弾いていた。楽譜をひくのではなく。 ピアノが歌っていた。感情ゆたかだった。  それはひょっとすると彼がダウン症だから僕のいやらしい目線が特別視して感動しただけかもしれない。 だけど、理由はどうあれ とにかくめちゃくちゃ感動した。 たった二分たらずのこの瞬間に、この場所にいることが出来た自分に感謝した。どんな作り物の映画なんかよりも感動できる現実がそこにはあった。

 彼は確かにぼくに贈り物を届けた。たしかにぼくは受け取った。彼はこれからもその飄々とした感じでいろんな人に人生を使って贈り物をするのだろう。

 ぼくは、ぼくの人生で出会う人達にどんな贈り物を届けられるだろう。


 

2003  7/18 曇

 進化論かあ。よく思いついたとは思うけど、なんか嘘くさいと思うのです。なんか。よく出来てるけどアイデア自体にいろいろとコジツケて出来上がったのでは?とも思ったりします。未だにそれを証明するためのこじつけが行なわれ、ヘンテコな不確実な宇宙観が工作されてしまったような気がしないではありません。 根本的なモノを何一つ証明出来てないのも事実ですし。 恐竜が絶滅して、サルが進化して人間が出てきたなんて考えてみるとお笑いです。今いるサルも人間になるんだろうなって考えるだけでも爆笑です。 大体恐竜なんてスゴイ想像力だと思うけど、こどもの頃から直観的に「なんか変だな」って思ってました。だいたい化石ってほんとに死骸の痕(あと)なのかなあって。なんとなく。
 そういや、すごく科学に詳しい人がいて、「ゴーダさん、遠くをみれば見るほど『過去』を見てるんですよ。」と言ったのです。 ぼくはすごく感動して、「じゃあ、そこの電柱よりもあの山のほうが過去なの?」と聞きますと、「そうなんです。スゴイでしょ?光りの伝わる時間がかかりますから。あの太陽なんか10分くらい前の過去のものじゃないでしょうか。」と言ってくれた。 ぼくは興奮して、「じゃあ、夜空の星なんかはずいぶん過去を見てるんかなあ?」と聞くと、「そうですよ。すごいでしょ?」と言ってくれました。 ぼくはすごく興味をもって考えたのです。そして聞きました。「じゃあ、見ることさえ出来たらこの夜空には宇宙のはじまりが見えるんやね?」 彼は「もちろんです。実際に宇宙創生の何十万年後くらいまでは観測されてます。」と、教えてくれました。 ぼくはたいそう興奮して、大きな質問をしました。
 「 すごい! で、その(宇宙のはじまり)方向はどっちにあるの?西?東?
 彼は、「え・・・?方向?」
と戸窓ってました。 ぼくは、
「 あれ? 宇宙って点からビックバンで広がったんじゃないの?じゃあ、その点の方向はどの方向なん?その方角を今晩見るし。」ともう1度聞きました。 彼は、「・・・そーですねえ・・どっち?なんでしょう??」と言いました。 ぼくはもうひとつ疑問が浮かんだので聞いてみました。「 じゃあさー。その方角が西だったとするじゃない? そしたらその同じ距離を東側に行ったら、そこには何もないの? そこもビックバンがあるんじゃないの?ビックバンて点じゃなくてその距離分だけをどの方向にも行った円なの? 今の世界は円から内側に縮小してきたの?」
 彼はそれ以上お茶を濁して何も言いませんでした。ぼくは、僕自身に科学や物理の知識が全くないことから自分の考えはおかしいに違いないと思ってました。それから何年も経ってある宇宙物理学の本にぼくの考えと同じ意見が載ってました。やっぱり矛盾してるんだ。と。エライ人の意見が絶対ではなく、自分の直観を信じることにしました。 まだもうひとつ、自転と公転のそれぞれの惑星同士の関係においても大きな疑問をもっているんですが、またいずれゆっくり書きたいな。

2003 7/7 雨

自然と人工物。こうやって言葉をならべただけでも、なんとなく人工物のほうが「よろしくない」ような感じがするのは・・・もちろん偏見でしょう。だけど、ふたつがもつ生命力とかベクトルの方向性などは全く反対であるのです。まったく反対の方向性をもつふたつが存在してるからこそこの世界は成り立っているのだし、頭ごなしに否定するつもりはことさらないのですが、バランスが悪すぎると思うのです。それと自然に対する明確な知識や感動が少ないような気がするのです。自然は生命力であふれてて、自らの力で与え合いながら成長していきます。それに比べて人工物は風化して朽ちていくだけです。ちょうど「ラピュタ」の最後のシーンのようです。やっぱり、どんなに高度なハイテクノロジーが出たとしても、自然の完璧さには勝てないのです。もともと勝負にならないのです。勝負なんかしてませんが。
 この世は生命であふれていて「モノ」という概念もなかったのです。古代は唯一、生命だけで満ち溢れていました。 だけどそれでは星は完璧だけど進化しません。進化の要素のひとつとして人間が存在していると思うのです。人間はもう充分反対方向にゴムを引っ張った。これからはその反動を利用して、逆側に大きく飛躍する番なのです。そうやって進化は進む。もう、分岐点はとっくに過ぎているのに新聞やTVをみても、まったく触れられず、くだらない記事を載せて物事の本質を見極める視線などまったくみられません。もちろん読み手の意識の問題もあるけど。しいていえば自然の話題をエコロジー的に情緒っぽく訴えてるレベルなのです。エコロジーは情緒に訴えるようなもろいものではなく、力強い確固たる生命の完璧性、バランスで説明できるのです。
 そのバランスや完璧性の中に、人間が存在している本来の理由がみつけられるのですが、あまり誰も興味ないようです。

 

2003 7/4 曇

 先達たちが遂げたどんな偉業も
 あなたたちがこれからやり遂げることに比べたら
 そんなに大した事でもないのですよ。

 突然ぼくの心に誰かがこう呟いたのです。


2003 7/3 雨

未来の自分に電話かけてみた。 レトロな電話機は好きだけど、どうせならうんと遠い未来にかけるつもりだったので、ものすごくカッコイイ、イメージ出来る限りの最新型をイメージした。かなりの流線型でなぜか下世話にもピンクと水色っぽい光りで輝いていた。その電話機のまわりだけ次元が違うようにキラキラと輝いていた。そして、静かにシュ―っとなっているような存在感があった。ちょっとビビッた。それにしてはまだ受話器なんかがついていて(最新型のくせに)我ながら笑えた。
 電話機には「future」と書かれたボタン(なぜか英語(笑))があった。そしてそのボタンを押してみた。
 しばらく待つと、小さな電信音のようなものがチーツクツク、チーチーといって返ってきた。 こ、これは! ちょっとというかかなり戸惑った。なぜかビビってしまい、受話器に手をかけられないままで、電信音はずっと鳴ったままだった。小さい機械的な音だけどなぜかどこかあたたかい音だった。 その音が自分が想像していたものではなく、しかもそれ以上にリアルだったので、ちょっと焦った。 
 ずっと待っていてくれるように鳴りっぱなしだった。待たせるのもなんだし勇気を出して受話器を取ってみた。
 なぜか英語で「hello?」と想像してたけど、相手は日本語で すごく小さな機械的な声で(かなり遠いイメージで) 「 
モシモシ ?」 と聞いてきた。 
 
ぼくは狼狽しながらも「もしもし?」と返した。 相手はちょっとクスって笑ったような雰囲気だったけど、「 
元気ですか? 」 と聞いてきたので、「いや、どうでしょう?わかりません。」なんて長島茂雄のようなバカな返答をしていた。
 だんだん話をするうちに未来のぼくは機械的な声ではなくなっていた。話はすごくもりあがったが内容をあまり覚えていない。 ひとつだけリアルに思い出せるのが、「イメージはリアルそのものですよ。」と言われたセリフだった。要するにイメージすることは現実ですよ といったニュアンスだった。

 どうやって電話を切ったのか?会話を終えたのかすらも覚えてない(なんせ風呂場の中だったし)んだけど、そのセリフだけは今でもしっかり覚えている。
おそらく、これから先、ずっと果てし無く遠い未来にぼくは、過去にこの時代の地球に生まれていたこのぼくからのこの電話を受け取るのだろう。そしてクスッと笑いながらこう言うのだろう。

 「 
元気ですか ? 」

2003 6/27 雨

 葛藤のない人なんて僕は信じない。
 葛藤だらけだ。
 葛藤は生命を進化させるヴィタミンだと思う。
 よほど物事に盲目か、他人任せでないかぎり
 今の時代を生きるとき葛藤が生まれる。
 葛藤を悲観的にとらえたり過剰に問題視せず
 葛藤は大事なプロセスだと肯定的にとらえるなら
 そして素直に打ち明け相談し合えるなら
 葛藤は大きなエナジーに昇華して
 新しいベクトルを指し示す根源になりうるだろう。
 この輪が大きいほど進化の速度は早まる
 とぼくは思う。
     

2003 6/25  曇

 「 Enjoy? 」

この何気ないマレーシア人のセリフが未だにぼくの中で大きく生きているなんて、思いもしなかった。それゆえに何気ないセリフの重要性に注意を払うようになった。 言葉の力は大きい。 まだ相手の「本当の気持ち」を言葉なしでは汲み取れないから、こんなに隠し事やウソがまかり通る世の中になっているんだけど、本当はおそらく相手の考えてることがわかるはずだとぼくは思っている。 だから「ウソはいけない」とかいうのではなくて、自分は今こんなに悪い事考えてるんだ、とか、こんな風に考えてます、と素直に全部しゃべってしまおうと思ったし、そうしたほうがいいよと人にも伝えてる。 

 何気ない言葉が相手を勇気付けも傷つけもする。もちろん相手によってはハッキリと言ってあげるほうが良い場合も多い。ここが難しいとも思っているんだけど、ぼくはある時から、いつでも自分が思っていることを出来るだけ伝えてきた。そしたら友達は減って行った。が、ホンネで喋り合える友達ができた。  そして人と喋る時、自分の言葉のひとつでも何らかの影響を与えてるんだ、と思うようになった。し、その分もらってるんだとも思うようになった。
 
 ぼくがインドのカシミールからデリーまで26時間かけてバスに乗っていた時、途中のチャイ屋でひとりのマレーシア人が「 Enjoy? 」とぼくに聞いてきた。 それは今思うと、彼が哲学の教師だと言っていたように、彼の哲学のすべてだった。 その時ぼくは肉体、精神ともども疲れ果てていた。 そのバスは、ぼくとそのマレーシア人以外はみんなインド人だった。 バスは何度も銃を持った兵隊たちに止められて、ぼくとマレーシア人はその度、身体検査を受けた。ある時は検問所まで3時間もかけて戻らなきゃならなかった。バスのインド人も、だれひとりとしてボクを責める者はなく、むしろ「気にすんな!」と言ってくれた。こんな状態で、しかもぼくは熱をだしていてボロボロだった。 そんな時、休憩所のチャイ屋でマレーシア人に声かけられたのだ。 
そっとぼくの前に座り、
「 Enjoy? 」と。
 
ぼくは、自分の耳を疑った。
そして聞きなおした。「sorry?(もう1度言って)」と。正直「このタコ野郎は何言ってやがるんだ!楽しいわけねえだろ!」と思ったが、そいつはもう1度言った。

「Enjoy?」
 
 その真剣な眼差しにぼくはすべてを悟った。
そいつはその一言に「 君は人生を楽しんでるかい? 」とこめて聞いたのだ。ぼくはハッとさせられた。正直なところ、こんな宗教にガチガチに固められたヤツらに負けてられるかい!って思ってたからだ。 そしてガチガチに固まっていたのは自分だったと思った。 まあ、銃を持った兵隊を相手に楽しむのも難しいけど・・。 どちらにしろそのマレーシア人はぼくに2ルピーのチャイをおごりながら、
たったその一言で彼の哲学を表現したのだ。 それから話をするうちに哲学の先生であることなど知ったけど、馬鹿なぼくは、「哲学? どんな哲学?教えてよ。」なんて聞いていた。彼は言葉につまり困っていたように見えたけど、それは「君にはわからなかったんだな。」と思っていたのだと思う。 説明もなにも、「Enjoy?」にすべてがこめられてのだ。
彼は最高のタイミングで丁度いい人間を相手
自分の最高の哲学を表現したのだ。

 ぼくはあれ以来、困ったことや悲観的になるとこの「Enjoy?」を思い出す。何をえらそうなこと言ってるんだ、それよりもその状況を楽しんでるかい?と。 人の批評はどうでもいいんだよ、それよりも君自身楽しんでる海? よろこんでる貝? と、こう自分に問いかけている。そしてここでまた、この地球にちらばってる全人類友達たちに問いかけよう。

 
「 Enjoy? 」


2003  6/20 晴

空をながめるのが好きだ。ただし、少しだけこだわりがある。「こだわり」なんていうと なんやたいそうなもんかいな と思われがちだが、そんなたいそうなもんでもない。しいて言うなれば、「方向」なのである。方向なんていうと何やら、メッカの方向に向かって決まった時間にお祈りさせているアッラーの神をたたえているムスリム(イスラム教徒)のように聞こえがちだが、まったく違う。断じて違う。まあ、ボク的には、神さまがそんなこといちいち強要させるほど神経質な存在かいな?とも思うのだが、こればかりは本人次第なので何とも言えない。
 まあ、なんせ「方向」である。 だいたいみんなは空を見る時、そのまま見える空を見ると思う。方向でいうと「ななめ上」くらい。そこに広がる空をみて美しいと感じると思う。残念ながらぼくは感受性に乏しいのか、その方向の景色ではあまり「グッ」と来ない。きれいではあるが、「美しい」とは感じない。
 ぼくがグッとくる方向は、「真上」である。真上の空は美しい。すごく引き込まれる。
宇宙を感じる。空が他人ではなく、自分だと感じる。怒涛のように押し迫ってくる迫力と感動がある。

ぼくらが地面に立っているとき、どこにいても地球の中心部から自分の身体全部が垂直の線上にあることになる。その線をまっすぐに頭の方向に伸ばした場所の空が物理的にも地球の中心と自分とを真っ直ぐつないでいて、なんかひとつであることを再確認できて好きなのである。実際に真上をみたらすぐわかると思う。
 
立ったままで真上を見るのはちょっと口をあけて
アホの子に見られるが、そんなことを吹き飛ばすほどの感動がある。何事も合理的に済まして、日々の日常を淡々とこなしているだけの生活ならば、たとえ見たとしても何も感じないかもしれない。そんな人こそ見て欲しいと思う。はじめは何も感じなくても、身体は反応しているからだ。精神が追いつかなくても物理的に反応している。それだけで大きく変わる。
 真上は死角ではない。れっきとした視角である。それは誰にでも与えられている資格である。誰にでも。 こんな簡単な感動をしらずに走りまわるのはもったいない。足を止めてまわりを眺める。これはぼくのこだわりである。 ぼくが神様ならそれを伝えるなあ。真上を見てみよう と。 しかも時間なんていつでもいい。見たい時に見ればいい。そして見なくてもイイ。神様のためにする必要はない と。誰のためにでもなく自分のためにやればいい と。

2003   4/20

 僕は基本的に放浪者である。今はこの京都が好きだからココに住まわせてもらってるが、別にどこか他のところで暮らすことになっても何ら執着心はない。むしろまた新たな変化をできる自分に喜びすら感じる有り様である。ということで話は突然まったく変わるのだが、またちょっくら海外に旅に出た。さすがにこの年齢になってまで自分のすることにアレコレと言われる筋合いは全くないのだが、今回はさすがに世界情勢がこんな状態なゆえに、こんな時に海外へ出ることを大っぴらには言えず、ほとんど誰にも言わず旅に出た。自分の中では旅に出るちゃんとした理由があるのだが(小沢健二がそんな歌を歌ってた気がする)それを他人に伝えたり、ましてや理解してもらうのは不可能に近いので、なんとなく理解してもらえるような気がする何人かにだけ伝えてそっと旅に出た。旅といってもSARSが流行っているために大きく変更させられたり、短くなっちゃったりしたけどそれなりに意図は達成させられたので満足である。それにしてもアジアは時間に対して余裕をもって生きてる。時間がゆっくりと流れるのだ。本当に物理的にも。

 芸術は自分の内側へと入っていける素晴らしい手段だ。バランスを取る為に外側の世界もしっかり見つめる必要がある。だがもともと表裏一体であるこの世界に外側も内側もなく、マクロもミクロも同じ世界なのである。自分の内側は、外側にもしっかりと表現されているはずである。「世界がつまらない」というセリフは、「自分はつまらない人間である。」と表明しているに過ぎない。「きれいになりたい」という女性のセリフは「自分はきれいではない」と表現しているだけに過ぎない。ぼくは芸術で内側に入り、旅行で外側の世界の中に自分の内の世界とリンクしている世界を再確認した。世界はゆっくりと、本当にゆっくりとだけどひとつの方向にしっかりと、確実に進んでいる。楽しみだ。世界がつまらないなんて当たり前だ。だからこそ、おもしろくすればいい。常に創造的であるとき、コワイくらい面白い。