私とPTA

木村真治



プロフィール:
 関西学院大学法学部・独立大学院言語コミュニケーション文化研究科助教授
 2001年度 大阪府豊能郡豊能町立吉川中学校PTA会長
 同年 豊能町PTA連絡協議会会長
 同年 豊能地区PTA連絡協議会会長
 同年 大阪府PTA協議会副会長

最近のPTA活動:
 2003年7月 大阪府豊中市PTA母親委員会第一回研修会でワークショップ開催
 2003年8月 全国高等学校PTA全国大会パネル・ディスカッション・パネラー
 2003年10月 福井県鯖江高等学校PTA研修会で講演
 2004年3月 大阪府豊中市PTA青少年対策事業研修会でワークショップ開催
 2004年5月 大阪府立箕面高等学校PTA総会で講演
 2004年7月 豊中市立第一中学校で講演
 2004年7月 東豊中高校でワークショップ開催


まえがき
 2001年度、私は大阪府豊能郡豊能町立吉川中学校のPTA会長になりました。そして、同時に、豊能町PTA連絡協議会会長、豊能地区PTA連絡協議会会長、大阪府PTA協議会副会長の仕事もしました。以下の文章は、この頃のことを思い出して、書き綴ったものです。当時の資料はクリアブックで10冊になります。
 ホームページにせよ、出版にせよ、私は読み手にとって価値のない情報は発信する必要はないと思っています。ですから、家族のことを詳しく書いたホームページなどは個人的には好きではありません。そのような情報は、書き手が伝えたいだけで、読み手が知りたいものではないと思うからです。以下の文章は、私が言いたいことで、かつ、読み手にも価値のあるものであって欲しいと願いながら書きます。毎年毎年、日本全国でPTA役員・委員が選ばれ、自分がどのようなことをするのか分からない、良いものにしたいが反対される、など迷っておられる方もおられるかもしれません。その方々にとっては、少しでも参考、気休めになればと願っています。また、人との出会いがいかに人生を素晴らしいものにするかを知ってもらうために、まだ小学校5年生の息子にも、お父さんが見た世界を文章に残しておきたいと思います。

豊能 静山庵において
(単に自宅をそう呼んでみたかっただけ)


目次:
 まえがき
 PTA会長になってしもた・・・・2月〜3月
 大丈夫かいな・・・・・4月
 芋づる式の役職・・・・・5月
 総会の季節・・・・・6月
 附属池田小学校での事件・・・・・6月
 子どもの安全のために・・・・・7月
 学校の可能性と夏祭り・・・・・8月
 鬼の目にも涙 ・・・・・9月
 伏魔殿 大阪府PTA会・・・・・10月
 値上げします、すみません・・・・・11月
 僕、目立ちすぎてます?・・・・・12月
 退任への秒読み・・・・・1月
 総合保障制度解決への長い道のり ・・・・・2月
 最後の大仕事・・・・・2月
 PTAは変わらなくて良いのか・・・・・3月
 退任とその後・・・・・3月〜



PTA会長になってしもた・・・・・2月〜3月

 PTAの役員や委員って、なかなか、なり手が少ないんですよね。同じ人が繰り返し繰り返し役員や委員をしている。「幼稚園の委員をして、小学校の役員をして、中学校でも役員をして」っていうふうにです。近年の少子化現象もあって、園児・児童・生徒の親御さんの数も少なくなっているけれども、PTAを運営するためには、やはりある程度の数の役員・委員は選ばなければいけない。また、お母さん方の中には、お年寄りの介護をしなければならない方がおられたり、お仕事をされている方も増えてきて、それぞれの事情も分かるんですが、いつもいつもPTAの仕事をしている人にも「なんで私ばっかりが、せなあかんの」という不満があるわけです。

 まあ、PTAで頑張っている人は、他の人の分も仕事をしていると思ってますから、一言、「ありがとう」って言ってもらえれば、それでずいぶん救われるんだけれど、中には「PTAの役員や委員って、あなたが好きだからやっているんでしょ」と言われたりすると、頭にカチンときて、「そんなこと言われるんやったら、いつでもやめたるわ! あんたも仕事なんかやめてPTAをし〜や」と言いたくなるわけです。ものの言い方ですが、「何も喧嘩ごしに言うこともないのにな」と思いながら、私自身が「好きだからやっているんでしょ」を言われた時に顔色を変えることがないよう、実は返事を用意してるんです。その返事とは・・

 
「そうです。好きでやってますねん。PTAにもええことが一杯ありまっせ。いっぺんしてみやはったらどうですか・・」

 このエッセイは、私自身がPTA役員をしていた頃のことを思い出しながら、書くことにします。今では懐かしいことばっかりなんですが、当時は「なんでやねん!」と思うこともありました。今でも、日本全国、毎年、沢山の人がPTAの役員や委員になり、私と同じようなことを感じておられるように思います。その人たちには「私だけや、なかったんや」とか、「こんな考え方もあるんや」と感じてもらえるかもしれません。当時、一緒に仕事をした方々には、「そうやった、そうやった」と思っていただけるかもしれません。なにせ、思い出しながらのことになるんで、もしかすると忘れていることもあるかもしれませんが、まちがいがあったら、すみません。先にお詫びしておきます。それから、この文章を書く理由として、私の子どもたちに「おとうちゃんの仕事」を文章にして残しておきたいと思いました。子どもらもいつかPTAや地域の仕事をするようになるかもしれません。ですから、私が見たPTAの良いところだけでなく、悪いところも書いておきたいと思います。そうでなければ、子どもの参考にもならないでしょうしね。もちろん悪いことについては実名は使いません。そして
私が自分の子どもに一番伝えたいことは、いろんな人との出会いが、いかに人生を幸せなものにしてくれるか、ということです。

 PTA役員から退いた今も、なぜかPTAに関係した活動を続けているのが不思議なんですが、そもそも私はPTAには全く興味はありませんでした。ずっと大学やその他の仕事で忙しくしていて、住んでいる大阪府の豊能町にしても、寝に帰る場所のようなものでした。ところがたまたま2001年度の1年間は大学での役職が谷間になりそうな様子になり、ちょっとは大学と関係ないこともしてみようかと思っていたところ、長女がお世話になっていた豊能町立吉川中学校PTAから、「役員候補に名前が挙がったので、役員互選会に来て欲しい」という連絡を受けました。

 吉川中学校PTA(以後吉中PTA)では、毎年2月頃に、次年度の役員候補者に学校に集まってもらい、役員を決めます。これが役員互選会です。その席に呼ばれたことを嫁さんに話すと、「いっぺん役員を引き受けてくれたら、私も半永久的にPTAの役員や委員は免除になるので嬉しいんやけど・・。それに会長さんは、もうどなたかに内定しているみたいやで」と言われました。この先も吉川中学校(以後吉中)には次女や長男がお世話になるわけで、「まあ、それやったら、なんらかの仕事は引き受けよかな」と言って互選会に出かけました。

 互選会には15〜6名ぐらいの人が来られていて、まず自己紹介をすることになりました。この時点で、もうすでに「ちょっと事情があって、役員は引き受けられません」と言われる方もおられました。あまりしゃべると目立つと思われているのか、下を向いて小さい声で話す人もおられました。自己紹介が一回りする間に、「ああ、この人が会長さんに内定している人やな」と思う人がおられました。PTA役員も以前に経験されているようで、ユーモアたっぷりに上手なお話をされる方でした。私は、何かの役職は引き受けるつもりでしたので、会長が決まれば、その後で他の役職に立候補しようと考えていました。ですから、役員になっても良いと捉えられるようなことを自己紹介で言ってしまったわけです。

 互選会が私の予想外の方向に動き出したのは、この会長本命候補が「役員を引き受けられない」と言われた時からでした。理由は「これまでにもPTA役員などを引き受けていて、目立ちすぎてしまい、子どもが気にしているようだから」と言う事でした。そのようなこともあるのだろうなと思いましたが、要の会長が決まらないことになり、この後、互選会は一気に重苦しい雰囲気になりました。
 なかなか話が進まない様子を見て、教頭先生が「ちょっと休憩しましょう」と言われました。そして休憩の間に、その年のPTA会長と教頭先生が私のところに来られ、「ちょっと校長室に来てもらえませんか」と言われました。自己紹介の時の発言で「ちょっと危ないな」とは思っていたのですが、この瞬間に「ますます危ないな」と思いました。校長室に行き、お茶をいただいたのですが、その場で、「PTA会長になってもらえませんか」と頼まれました。実は後に述べるように、この年の吉中PTAの会長は、普段以上に仕事があると聞いていたので、すぐに返事はできなかったのですが、なにしろ校長室に呼ばれるというのは、昔、学校で悪さをして怒られた時以来のことで、断れる雰囲気でもなく、結局はお引き受けすることにしました。

 休憩時間が終わり、互選会の場所に戻って、会が再開され、私が会長を引き受けたことが発表されると、皆さん、ちょっとはホッとされたような様子でしたが、その後は、他の役員さんを決めなければなりません。私にとっては、一緒にPTA活動をしていただく方々を決めるわけですから、休憩以後は、私自身がお願いする立場になってしまい、さっそく仕事が始まったわけです。
 結局夕方までには、男性の副会長、女性の副会長、女性の書記、女性の会計、女性の生活指導委員長の5名が決まり、2001年度PTA体制が発足したわけですが、この時の役員さんには、本当に良い方々になっていただき、その後の1年間、大変なお世話になることになりました。

 家に帰って嫁さんにいきさつを話すと、ニコニコ笑っていました。

 役員としての仕事は、4月からと思っていましたが、最初の仕事は3月の決算総会に出席し、次年度役員として総会の承認を得た後、新会長として挨拶することでした。そして、この日、「今日からは、PTA会長として周りから見られるんや」と思いました。
 今では、私の前任のPTA会長に、「あの時、校長室に呼んだのは、あんたの陰謀や」と言って笑います。でも本当は、私にガセ・ネタを吹き込んだ嫁さんの陰謀だったのかもしれません。



大丈夫かいな・・・・・4月

 実際にPTA会長になったのは4月1日なんですが、まず最初の仕事は入学式での挨拶だと思っていました。「ちょっとは立派な話でも、せんといかんなぁ」、「どのスーツとネクタイがええかなぁ」と考えました。私の子どもたちが通った光風台小学校でも、入学式でPTA会長が挨拶すると聞いていましたし、確か、私自身が通った小学校や中学校でも、PTA会長がそんな挨拶をしていたように思ったからです。しかし、吉中の入学式では、PTA会長の挨拶はないということでした。正直なところ、ちょっと拍子抜けでした。

 入学式では、来賓席が数列設けてあり、PTA役員は一番うしろの列のなかでも末席に座るように言われました。前のほうには町の教育委員や町会議員、自治会長などが座りました。これも正直に言うと、ちょっとムッとしました。これは決してPTA会長になったことで、自分が偉くなったと勘違いしていたからではなく、儀礼的に出席して、誰のためのものか分からないような挨拶をする議員(皆がそうではないのでしょうが)が、なぜ前に座り、これから吉中に一番深くかかわるであろう私たちPTA役員が、なぜ後に座らされるのかと思ったからです。どうも私は、昔から議員とか、お上というのは好きになれません。

 4月には、豊能町の町PTA会の仕事もありました。町PTA会というのは、豊能町に10ある幼稚園・小学校・中学校のPTA会長10名が中心になっている組織です。先に、「この年の吉中PTAの会長は、普段以上に仕事がある」と書きましたよね。実は、この年の吉中のPTA会長は、この町PTA会の会長を兼務することになっていました(・・つまり私)。さらに豊能町PTA会は、隣接する箕面市、豊中市、池田市、能勢町のPTA会と一緒に豊能地区PTA会を作っており、この年は、豊能町PTA会長が豊能地区PTA会の会長も兼ねることになっていました(・・実は私)。あげくのはてに、豊能地区PTA会長は大阪府PTA会の副会長も兼ねることになっていました(・・結局、私)。

 4月のあたまに、町PTAの最初の会合が公民館会議室で開かれました。町にある他の幼稚園・小学校・中学校のPTA会長さんらと初めて会う日です。気持ちは、ちょっと緊張していたのですが、私は普段の仕事でも、めったにスーツを着ない人間で、その日もラフな格好で、それも黄色いリュックサックを背負って出かけました。ところが、他の会長さんらは皆さん、スーツ姿でした。一人だけ浮いたような状態で、そんな中で「町PTA会の会長になりました木村です」と挨拶しながら、「あかんなぁ。最初から失敗やったかなぁ」と思いました。

 今思い返すと、その時にお目にかかった会長さんらは、本当に素晴らしい方々ばかりで、1年間に渡ってずいぶん助けてもらったのですが、最初は、白い目で見られているような気もしたんです。1回目の失敗に懲りて、2回目の町PTA会の会合にはスーツで出かけたんですが、この時は他の皆さんがラフな格好をされていて、「このメンバーとは、やっていかれへんのとちがうかなぁ」と思いました。
 以下は私が吉中のPTAだよりに書いた文章です。

 私の娘二人が中学3年生と1年生になりました。久しぶりに昔のアルバムを見ると、あの小さくて、「マンマ!」と言っていた女の子らはどこに行ったのだろうと思います。同時に、健康であれば良いと願っていた自分もどこに行ったのだろうと思います。
 PTAという組織は、物理的には、たまたまこの地域に住んでいて、たまたま子どもが同じ学校に行く人、その子どもに教える人の集まりでしかないのかもしれません。しかし、私たちはみんな子どもの幸せを願い、同じ学校に通う子どもを通して、さまざまな問題を、私たち共通の問題として考えることができるのだと思います。

 閑話休題、4月末には、吉中で委員選出会・委員長互選会がありました。4月の間、PTAの役員はみんな、委員候補者名簿の作成、印刷物や会場の準備などで忙しくしていました。吉中では、委員選出会と委員長互選会に沢山の保護者が参加いただけるよう、同じ日に授業参観が行われます。

 委員選出会は、先に述べた役員互選会をクラス単位でしているようなもので、各クラスで、学級委員、広報委員、教養保健委員を選出します。役員ではないにしろ、ここでも委員になる人が少なく、なかなか決まらないと聞いていました。もっとも私はこの様子は具体的には知りません。委員選出会が行われている間、PTA室の白板の前にじっと座って、各クラスからの報告が来るのを待っていました。

 ちょっとモメたクラスもあったと聞きましたが、無事に委員選出会が終わると、次は、その委員の方々に図書室に集まっていただき、委員長互選会になりました。「委員にはなってしもたけど・・委員長は絶対に嫌や!」と言う抵抗もあり、ここでも、なかなか話が前に進まないと聞いていましたが、この年の委員長互選会は、私が思っていたよりもスムーズだったように思います。それも5名の方々が、1年生学級委員長、2年生学級委員長、3年生学級委員長、広報委員長、教養保健委員長を、快く引き受けてくださったからでした。これでようやく2001年度PTAの役員・委員長・委員がすべて決まり、体制が整ったわけです。

 私は、あるところまでは十分な準備をするのですが、「人間だれも100%の仕事はできないわけで、できるだけのことをしておけば、後は何とかなる」と考えます。真剣にはなるのですが、深刻には絶対ならないんですね。実は、この年、大変なことが次々と起こるのですが、それでも、結局は何とかなって、PTA会長の仕事を終えることができたわけです。

 大事なことは、
何とかなるためには、自分一人ではダメで、人の助けを借りなければなりません。そのためには、他の人と、良いコミュニケーションを取っておく必要があります。

 PTAの役員になって良いことって何だと思います。名前を売って将来市会議員になること? 現職の市会議員や町会議員でPTA会長をしている人がいて、あからさまには言わないけれど、都合よく顔が売れて選挙に有利とか、考えている人もいます。現職議員は原則的にPTA役員にはなれないと決めている市町村もあると聞きました。それぞれの事情があるとは思いますが、私はそのような判断ができる町は正常だと思っています。

 私にとって、PTAの役員になって一番良かったことは、いろいろな方と一緒に仕事をし、その中で、沢山の人間関係を作ることができたことです。また、普段は大学生を相手に話をしますが、PTA会長という立場で、沢山の方々とお話をする機会を得て、様々な人柄、年齢、職業の方々と、コミュニケーションを取ることができたことも、今までにない貴重な経験でした。



芋づる式の役職・・・・・5月

 吉中PTAの会長を引き受けることで、町PTA会の会長、地区PTA会の会長、府PTA会の副会長を引き受けることは前もって分かっていたのですが、実はこれらを引き受けると、そこからまた、芋づる式に仕事が増えるのだということが、5月ごろから分かって来ました。実はこの種芋、結構元気で、いろんなところに芋(仕事)を作ってくれました。さらにこの芋は地中にできるので、どんな芋なのかは掘ってみるまでわからない。どんどん掘ってみると、出てくるわ出てくるわ、あまりの収穫の多さにびっくりです。

 まず、町PTA会の会長は、形式上、豊能町に住む子どもたちの保護者を代表する立場になるわけで、妙見山岳マラソン実行委員会、町青少年問題協議会、社会福祉協議会、豊能郡進路保障協議会、社会を明るくする会、教科書採択協議会、町教育懇談会、部落差別問題町民共闘会議、自治会との懇談会、などに出席しました。また、町PTA会の会長ということで、「こんな会にも出席してもらいたい」、「こんな活動にも協力して欲しい」と言った連絡が沢山ありました。

 もっとも、この時期の会合は、どこに行っても新しい話が出てくるわけでなく、前年度活動報告、前年度決算、新年度活動方針案、新年度予算案を、ただ聞いているだけで良いといったものでした。行事としては会合は絶対に必要なのでしょうが、新米の町PTA会の会長が、それまで聞いたことがない会の活動を短時間で把握して、適切な質問をするのは、どだい無理な話で、会合の進行役もそのところは、わきまえている様子でした。「一生懸命聞かなければ」と思うと、あまり理解できない話だし、「いい加減に聞いていても良いんだ」と開き直ると、そもそも会合に来なくても良かったんだとも思え、正直なことを言えば内容的には充実感はありませんでした。

 もっとも、そのような会合への呼び出しはひっきりなしで、体力的にはとても充実した??時期だったと言えます。この時期、ほとんど3〜4日に一度は、何かの会合がありました。

 いろいろ参加した会合の中で、一番楽しみにしていたのは教科書採択協議会でした。たまたまこの年は、中学校・小学校でどの教科書を使うのかを決める年になっており、私は中学校の採択委員に選ばれ、能勢町と豊能町との共同作業で、仕事をしました。この仕事を楽しみにしていた理由は、

1) 自分も英語の教科書を書いたりするので、教科書がどのように採択されるのか、興味があった、 全く知識のない仕事ではないので、自分の意見も言えると思った、

2) 検定を受けた歴史教科書の中に、世間を騒がせているものがあり、その成り行きを知りたかったからです。

 採択協議会は7月までに数回の会合を持つことになりました。
 採択協議会は、どの教科書を採択するかを決定する場所ではなく、「採択するべき教科書がこれです」と、教育委員会に答申するのが仕事です。そして採択協議会もまた、自分たちで教科書を一から選ぶのではなく、調査員、調査研究員会から上がってきた答申に基づいて話し合いをするわけです。

 一番もとで答申を作っているのは委嘱を受けた現場の先生です、これは当然のことで、いろいろな出版社から出ている教科書を比較して、専門的な意見を述べる仕事をするのは、やはり現場の先生が一番でしょう。実に細かいところまで比較されていて、例えば地図帳であれば、「どこどこ出版のものは県境が見づらい」などのコメントが書かれてあります。

 私は仕事で英語教育にかかわっていますので、特にどの英語教科書が採択されるか興味を持っていたんですが、候補にあがっている教科書数点を見ると、編著者のリストに知り合いの名前がいっぱい載っていました。それらの教科書は結局採択されなかったのですが、その後、その知人の一人に会ったときに、「あんたの作った教科書やけどな、あっちの教科書と比べたら、このへんが、あかんで」と言っておきました。

 歴史の教科書ですが、世の中を騒がせた教科書については、案外意見は出ませんでした。一通り、マスコミで問題が指摘されていたからかもしれませんし、あれほど騒がれた教科書を採択した場合、その説明に追われることになったでしょう。

 もとになる答申を作るのが教育現場の専門家であり、かつ一旦決まれば自分たちがその教科書を使うことになる先生ですから、できるだけ意見を尊重するわけです。実際には、調査員、調査研究員会の答申を覆すほどの強い理由を、採択協議会が見つけることはないでしょう。

 協議会では、短い時間に詳しく教科書を比較することはできませんでしたが、本当のことを言えば、私は、採択の第一候補とされた歴史教科書は一箇所好きではないところがありました。それは原爆投下について、「日本も悪かった」と捉えられる記述があったからです。太平洋戦争を引き起こしたことについては、日本は大いに責任があります。それが原爆投下につながったと言うことも可能です。しかし、原爆投下は、単に戦争の終結を目的としたものではなく、私は、どのような言い訳をしても許されないアメリカの暴挙だと考えています。

 私の意見が答申の結果を変えないことは十分承知した上で、このことは採択協議会で述べました。
 「それも勉強」と思っていろいろな会合に参加していましたが、同時に、十分に理解していなくても資料を追認するために参加する会合、意見を言っても結局は結論が変わらないことを参加者全員が予感している会合に、3〜4日に一度参加していると、気分的に非常に疲れてきます。

 PTA会長になったはずなのに、大人の形式に振り回されてばかりで、まったく子どものことを考える時間がない自分に気がつくからです。

 このような思いでいた私を、元気付けてくれた数少ない会合の一つは、「町PTA会の会長に来てもらいたい」という誘いを受けて出席した
北摂こども文化協会の会合でした。池田であった会合に出かけて行ったのですが、「ひと山まるごとプレイパーク」というのをされていて、能勢の山をひとつ使って、子どもも大人も一緒に自然にふれあいながら、山小屋や山道を作るプログラムだと聞きました。

 実は、同じようなことを私は徳島県阿南市のYMCA海洋センターで話したことがあります。学生キャンプでお世話になった時、センターの所長さんと夜中まで話し込んだのですが、センターが持っている無人島の利用方法が話題になったとき、
「子どもも大人も一緒に無人島を自由に計画して、島づくりをするのはどうですか? ここに田んぼを作って、ここに畑を作ってとか・・ ただし一度島づくりのプロジェクトが終われば、田んぼも畑もつぶして、もう一度もとに戻すことです。そしてもう一度1から始めることです」と言いました。

 「ひと山まるごとプレイパーク」では、一度作った山小屋をどのようにされているのか知りません。でも、
私は一旦作ったものをつぶすことが大事だと思っています。なぜなら、島を作ることがプロジェクトの目的ではなく、あくまで島づくりを通してを人をつくることが目的だからです。

 ねんど細工ってありますよね。私はねんど細工って教育にはとても大事だと考えています。ねんど細工は、うまくできなければ、もう一度やり直すことができるからです。人が育つには失敗することはとても大事で、教育というのは、子どもが失敗することを織り込んでおかなければならない。ところが、最近は子どもも大人も、失敗が許されないような社会に住んでいるようですし、失敗を許さない学校もあるように思います。私はこのような学校こそ三流学校だと思います。

 ねんどはともかく、島づくりの計画をみんなで議論するなんて、私の大学生でも十分楽しめるし、勉強にもなります。

 海洋センターの話は、その後ストップしているけど、真剣に考えててくれへんかな。昔はYMCAっていったら、有名な予備校なんかいろいろな活動をしていたけど、最近は他にも同じようなことをする団体がいっぱいあって、YMCAって何をしているのか、今何のためにあるのか私も良く知らんし、島を使って人を育てるなんて、そもそもYMCAの事業にぴったりやのになぁ・・。やる気なら私の学生も動員して手伝うのになぁ・・・。



総会の季節・・・・・6月

 6月というのはPTAにとって総会の季節です。吉中のPTA会長としては、4月からの2ヶ月間に、年度の活動方針案と、その活動についての予算案を作り、これを承認してもらわなければなりません。

 吉中PTAの予算案については、予算の枠を見直しました。どこの学校も似たような状況でしょうが、生徒数の減少に伴ってPTA会費収入が毎年減少している状況です。通常は予算カットを考えるわけでしょうが、私は、例えば会議費は前年度予算額をそのままにしただけでなく、委員一人あたり数百円をお茶代として、予算を確実に消化するように他の役員さんにお願いしました。これは、ボランティアで行っているPTA活動ですから、せめて1年間に一度でも、委員の方々にお茶とケーキでも食べていただこうと思ったからです。私個人としては別にケーキはいらないんだけれど、「組織として委員にその程度の気配りがなければ、あかん」と思います。結局、2001年度の会議費は、前年度より多く支出しました。

 その代わり、印刷費などはカットしました。吉中では「PTAハンドブック」という小冊子を毎年印刷しているのですが、それまで段組まで一括して印刷業者に任せていたものを、ワープロで打ち直して完全原稿にし、これを業者に印刷だけを依頼するようにしました。ワープロのファイルにしておくことで、それ以後の年度の「PTAハンドブック」も、必要な訂正を加えれば、同じような経費で済むようしました。

 活動方針案については、短期的には見直しをしながら前年度の活動を引き継ぎ、中長期的な方向性を検討することにしました。PTAの役員の任期は多くの場合1年間で、慣れない仕事をただ続けることだけでも精一杯で、多くのPTAが「無駄なことがあっても、ずっと継続されてしまいやすい」という問題を抱えます。「活動を見直すということは、前年度の活動を批判していることだ」といった、的の外れた議論をしだす人もいます。

 PTAに限らず、良い仕事をするというのは、無造作に例年の行事を続けることではないわけで、常により良いものを考えていかなければダメです。もし、私たち自身が、目の前のPTA活動すら良いものに変えていけないのであれば、どうして、私たちは子どもたちを、「より良い社会を築きなさい」と励ますことができるんでしょう。

 私がPTAの役員として活動をしていた1年間、ずっと考えていたことは、「子どもに対して恥ずかしくない仕事がしたい」と言うことでした。PTAの役員の任期は多くの場合1年間で、活動の見直しは大変なことですが、大人が子どもに例を示し、勇気を見せなければならない。同じ人間がPTA役員を繰り返し繰り返ししていると書きましたが、長期に渡ってPTA役員をしているにもかかわらず、その役員が、より良いPTAのあり方を考えない、変更・改革を実行しないとすれば、それは私に言わせれば職務怠慢行為で、少なくてもそのPTA役員は、子どもについてや、子どもに対して、ものを言える人ではありません。

 さて、吉中PTAの予算案と活動方針案は無事承認されました。他のPTA会員の人にとっては、この予算総会もまた、案を追認するだけの面白くない会であったかもしれません。

 吉中の予算総会は6月2日にありましたが、同じ日の午後には町PTA会の総会があり、総会の内容のことは忘れましたが、その後は楽しい親睦会になりました。学校ごとにテーブルに分かれて座り、少しビールの用意もして、各テーブルに置いたんですが、懇親会後半になると吉中のテーブルにビールが集まりだしたように覚えています。吉中の副会長さんは、この懇親会のために徹夜で準備をされました。
 吉中総会・町PTA会総会の1週間前には地区PTA会の総会があり、2週間後には府PTA会の総会がありました。総会が終わると、承認された予算と活動案に基づいて動き出しますから、吉中PTAの行事については委員さん方にお任せすることになりますし、私は中長期の見直しをしながら、「そろそろ退任の時の挨拶でも考えておこうかな」と思い始めていました。その後、大変な事件が起こるとは、まったく考えていませんでした。

 以下はこの時期、私が吉中のPTA広報誌「やまびこ」に書いた文章です。


 PTA会長になろう!

 PTA会長の仕事引き受けて二ヶ月、この間、会長の職を辞めたいと思ったことはない。

 なりたくてなった会長ではないが、この仕事の面白いことは、同じ地域に住む沢山の人と知り合えることだ。大学での教え子には「英語ができると、世界のいろいろな人と知り合える」と言ってきたが、実は身近にも沢山知らない人がいるのだ。PTA役員になると自由な時間がなくなると言う人がいるが、どうせ自由な時間があれば、誰かと会っているのだから気にならない。会長になって損なことは、いつも誰かに見られているように思い、閉店間際のスーパーに行っても、半額になった刺身を買うのを躊躇する。それだけだ。さあ、みなさん。いつかPTA会長になろう。



附属池田小学校での事件・・・・・6月

 6月8日、私はいつものようにバイクに乗って箕面に住む母親のうちに向かっていました。毎週金曜日午後には守口市にある女子大学で授業を受け持っており、金曜日は途中実家に寄って、母親と一緒にお昼ご飯を食べることにしていたのです。池田から箕面に向かう中央線がいつもより混雑しており、パトカーも見かけたので、何か事故でもあったのだろうと思って通り過ぎたのですが、母親のうちでお昼を食べている途中、テレビニュースで大変なことが起こったことを知ったのです。

 男が大阪教育大学附属池田小学校に入り込み、ナイフで次々と児童を刺し、8人の児童の命を奪ったのです。男はその場で逮捕されましたが、子どもらは戻らぬ、悲惨な事件になりました。

 正直な気持ちを述べれば、たぶん自分が池田と目と鼻の先である豊能町に住んでいなかったとしたら、自分がPTA会長でなかったとしたら、それも豊能地区PTA会の会長でなかったとしたら、小学生や中学生の息子・娘を持っていなかったとしたら、「大変な事件やね」と言いながら箸を止めずにお昼ごはんを食べ続けていたかもしれません。逮捕された宅間容疑者に対しての怒り、子供さんや子どもさんをなくされた親御さんへの気持ち、うちの子どもは大丈夫かという気持ち、これからPTAは大変なことになるという予感、いろいろな想いが一度に心を一杯にしたのを覚えています。

 退任の挨拶を考えようと思っていた私は頭を後ろからバシッと叩かれた気分で、この後、豊能地区は蜂の巣をつついたような状態になります。

 大阪教育大学附属池田小学校は国立ですから、豊能地区PTA会には属していません。まず、どのような様子なのかを知りたいとは思いながら、すでにマスコミに騒がれている状況では、私たちに対応することも附属池田小学校にとっては大きな負担になるだろうと思い、状況は豊能地域教育振興センターを通して伺うことにしました。また、まずはお花をお届けすることにしました。

 テレビで連日事件について報道されている間に、池田市をはじめ、豊能地区の学校や保護者は、自分たちの学校の安全確認を始めます。吉中では登下校時、生活指導委員の方々に立ち番をお願いしているのですが、急遽、この立ち番の回数、人数を増やすことになりました。幼稚園や小学校では保護者がついて集団登下校になり、はやくもガードマンを手配する学校もあり、授業中は校門を閉鎖することにもなりました。私のところにも、「どこどこの小学校では校門が開いているが、どうなっているのだ」といったお叱りの電話がありました。

 豊能地区PTA会の会長であるがため、私も忙しくなると思っていましたが、事件発生直後は、豊能地区PTA会の会長としての仕事はあまりなかったように思います。地区も町もそれぞれの学校も、これまでにない非常事態に、自分の持ち場を固めることに忙しくしていたのです。

 事件でもっとも大変だったのは、お膝元の池田市PTA会の会長で、朝から夜まで大変な想いでおられたと思います。私はそんな池田市PTA会長を見守るだけで、相談があれば動くことにしました。このような時に、不謹慎にも、ここぞとばかりに張り切る人がよくいます。地区PTA会長であることを理由に、はしゃぎ回るような行為は慎まなければなりません。

 事件から2週間ぐらいしたころに、事件直後の慌しさは一応の落ち着きを見せだします。吉中でも、増やしていた登下校時の立ち番をもとに戻しました。地域にはまだ安心感があったわけではないのですが、立ち番を延々と続けることは、生活指導委員の方々にとって大きな負担になります。

 事件が起こると、事件をまねた事件が起こるを恐れて、蜂の巣をつついたようになるわけですが、これが一般に人のとる傾向です。ところが犯罪の直後に起こるのは、事件をまねたいたずらで、事件をまねた事件は、忘れた頃に発生する傾向があります。本当に子どもの安全を考えるのであれば、息の長い安全対策を考えなければなりません。

 行政は行政で妙な行動をとります。事件をうけて、文部大臣の緊急アピールというビデオが作成されましたが、私がこれを見たのは、豊能地区に住む人が一応の落ち着きを見せた頃で、PTAの反応は「大臣に言われなくてもやることはやっているし、言われているようなことはもうやった」といったものだったと思います。しかたがないこととは言え、現場と中央の時差を感じました。

 また、例えば豊能町では、学校の校門を閉め、通用門にインターフォンを設置して、監視カメラを置くことになり、監視カメラ代金も予算化されました。しかし、私にはあわてて予算化を決めたように思えてなりません。とにかく学校の安全性について住民の信頼を取り戻したいと考えたのであったとしても、本来、学校の安全性は一時的なカメラの設置ですむ問題ではありません。今、どこの学校の校門に鍵がかけられ、誰がカメラで監視しているのでしょうか。もし、今不幸にして同様の事件が起こったとしても、行政は「監視カメラまで設置していたのですが・・残念です」と言い訳するのでしょう。

 亡くなった子どもさんの命を無駄にしないためにも、私たちはもっと深く事件のことを受け止めなければならない。

 私は監視カメラが一概に無駄と言っているのではありません。監視カメラですべてが済むと考えているところに油断ができてしまう。監視カメラを設置したことで行政の責任は終わったように考えているところに油断がある。監視カメラだけでなく、私たちが、より良い地域コミュニティーを作るという、気の遠くなるような努力を続けることで、より安全な社会を築くことを考えなければならないと言うことです。

 以下は、事件発生直後に、吉中の保護者にあてた文章です。


 池田で悲惨な事件があった。小学生の子どもさんが犠牲になったが、実は私にも小学校2年生の子どもがいる。今、この文章を書いている間も、寝息を立てているわが子を見ると、「包丁で刺されて痛かっただろうな」、「もっともっと遊びたかっただろうな」、「もっともっと生きたかっただろうな」と、亡くなられた子どもさんのことが思えて無念でならない。お子さんをなくされた保護者の方々にも、おかけする言葉すらない。

 学校の安全性を再点検する、この事件をまねた犯罪の再発に注意する、緊急連絡方法や応急処置について再確認するなど、当面PTAとしてできることは何かを学校と一緒に考えたい。そしてこのような事件が起こりえる社会にあって、PTAとして私たちができること、なすべきことを冷静に考えたい。

 私たち一人一人に与えられた課題は、このような地域の全体的な安全性を、気長にかつ地道に高めていくことなのだと思う。そしてそのためには、同じ地域に住む私たち同士のコミュニケーションのあり方を見直すことから始めなければならないのかもしれない。犯罪に対する防衛は、回り道のように見えても、結局はそのような地道な活動が近道であるように思える。亡くなった尊い命に応える意味でも、皆様のご協力とご支援を心よりお願い申し上げたい。

 
私は、せめて豊能地区にある学校では、毎年6月8日に朝礼を行い、この事件について児童・生徒に語るべきだと思っています。PTAでも、PTA通信などを保護者の方々に配り、事件のことに触れるべきだと思います。二度と再び、このような事件は起こさない、そのような気持ちを豊能の人は失ってはいけないのだと思います。



子どもの安全のために・・・・・7月

 事件から一ヶ月もたつと、同じ豊能地区でありながらも、人の対応は徐々に変わっていきます。事件が発生した池田市ではまだまだ事件後の騒動はおさまっておらず、次に豊中市や箕面市でも学校の安全についての懸念が残っていました。豊中市では11月に入って北条小学校に不審者が入り込むという事件があり、新聞記事は「池田のことが教訓として活かされていない」とも読めるものでしたから、豊中市は神経質であったように思います。この3市に共通しているのは、市内に賃貸マンションが多数あり、同じ市民であっても顔見知りとは限らない上、店なども多いため、市外から多くの人が入り込むことです。これに対し、豊能町や能勢町には賃貸マンションが少ないため、ほぼ住民が固定されていること、また昼間に町外から入ってくる人が少ないことです。

 池田や箕面、豊中で「授業中は校門を閉め、監視カメラを設置するべきだ」とか、「地域で子どもを守ろう」という話が進んでいるときに、能勢町では、そもそも校門がない学校もあり、地域で子どもを守ろうというのは昔からやっていることでした。

 これは能勢町が子どもの安全について熱心でなかったという意味では決してありません。能勢町は、「通学距離が遠く、一人で登下校する子どもが多い」、「事件があっても、場所によっては誰も見ていない可能性がある」など、異なる問題を抱えているのです。能勢町とよく似た環境の町で、帰宅途中の子どもがひき逃げ誘拐される事件も起こっていましたから、能勢町の人は、校門を閉めることよりも、このようなことについて関心が高かったのではと思います。

 事件についての反応は、市町によって異なっていただけでなく、幼稚園・小学校・中学校によっても異なっていました。附属池田小学校の事件では、小さい児童が犠牲になりましたが、幼稚園児や小学校低学年の児童は、逃げることもできないし、抵抗することもできないでしょから、自然と幼稚園や小学校は、事件後長く安全性に敏感であったと思います。

 町内の幼稚園では、通園路の途中に造成地で草が生えたままになっている場所があり、見通しが悪いので草刈を行うなどの対応もされました。たなばた祭りも中止になりました。

 7月になると、光風台小学校のPTA会長さんが自宅においでになり、「夏休みの間には、公園で遊ぶ子どももいるわけで、学校だけが安全な場所というだけではダメだ」と言われました。とても心の熱い会長さんで、私が「どうしましょう?」と伺ったところ、「新聞チラシで、地域の人に呼びかけるのはどうですか」とおっしゃいました。即座に「やりましょう」と言いました。


 
私には、ひらめきも、人に誇れる才能もありません。唯一なにかあるとすれば、すると決めたことはどんなことがあってもする粘り強さだけがとりえです。さっそく、この会長さんに原案を書いていただき、校正し、町PTA会の予算をつけて、町PTA会の会長全員の連名で新聞の折込チラシを配布することにしました。また同時に、同じものを自治会に回覧をお願いしました。

 町の教育委員会から、「子ども110番の旗を新しくして配りたい」との要望がありましたので、子ども110番をお願いしている家の具体的な位置・通学路との関係を確認してくださいとお願いし、これも町PTA会の予算で執行しました。

 幼稚園児は子ども110番の旗の意味も知らないということが分かったので、旗を幼稚園に送り、先生から園児に説明をしてもらうようお願いしました。まったく子どもの目線でものを考えることを忘れていました。

 折込チラシについては、休み前に配布するために、急いで原稿を作成し、他の会長さんの了解を取る必要があったので、ご自宅までバイクで伺いました。これまで希望が丘や高山、田尻など、行ったこともなかったのですが、豊能の広さを実感しました。また豊能町での動きを池田、豊中、箕面、能勢の会長さんにもお知らせしようと思い、こちらにもバイクで配達に伺いました。

 能勢町PTA会の会長さんは私たちの考えに賛成してくださり、能勢町PTA会で取り上げていただいて、結局、折込チラシは豊能町、能勢町にある幼稚園・学校のPTA会長全員の連名で配布することになりました。仕事が一段落したある日、会長さんが私の自宅までおいでになり、ご自分で作られた無農薬有機栽培のトマトを持ってきてくださいました。

 能勢をバイクで走っていたときに感じたことなんですが、窓も締め切った車と違い、ヘルメットをかぶるバイクでは空気の香り、緑の香りがします。高山は箕面にも近く、箕面の北半分は国定公園です。豊能地区の財産は、豊かな自然だなぁと、しみじみ感じました。そしてもう一つ、忘れてはならない豊能地区の財産は、そこに住む人です。この自然と人を豊能の教育に取り入れることができればなぁと思いました。

 このような忙しい中でも、採択協議会の会合、吉中の地域一斉パトロールや、豊能地区子どもの進路を保障する会の代表として、府知事や府議会議長への陳情をするなど、芋づる式にでてくる恒例行事の仕事は続きました。

 以下は私が吉中のPTAだよりに書いた文章です。

 池田の事件以来、地域で子どもを守ろうという意識が高まっている。例えば、吉中の腕章をつけた生活指導委員さんに、小学生が助けを求めることがあっても良いわけで、みんなで協力して子どもを守りたい。このような関係が発展すれば、いたずらをする者がいても、町の人が「そんなことをしてはいけないよ」と注意できるかもしれない。守るだけでなく地域で子どもを育てるということである。

 私たちがそのような社会を理想だと考えるのであれば、することは一つ。大人同士の信頼関係を作ること。大人同士に信頼関係がない状況では、自分の子どもが叱られた場合、子どもの側に立って、叱った大人の悪口を言うことになる。PTAの仕事をして始めて良かったことは、私のまわりに信頼できる人が沢山いることがわかったことである。


学校の可能性と夏祭り・・・・・8月

 8月はもちろん夏休み、PTAも一休み・・・と言いたいわけですが、私は依然として附属池田小学校事件後の連絡などで忙しくしていました。またこの他、PTA行事としては、「吉中の補修作業」と、「夏祭りの見回り」がありました。

 吉中の補修作業というのは、夏休み中に保護者や先生が集まって、学校の中の壁のペンキ塗りなどをします。なにせ何百人もの生徒が朝8時半から4時ごろまで過ごす校舎ですから、壁の汚れなどもひどく、PTA会員や地域の人が集まっての大作業になりました。

 もっともこのような共同作業をする意味ですが、教頭先生によれば、汚れなどの補修すること以上に、地域の人に学校に関心を持ってもらう、学校に来てもらうことだそうです。学校の安全に地域もかかわろうという風潮が高まっていましたから、理にかなった行事になりました。

 補修作業中に気がついたことなのですが、生徒数の減少にともなって空き教室が沢山ありました。これはどこの学校でも起こっていることだと思います。もし、これらの教室が有効利用され、多くの人が学校に参加すれば、学校はきっと地域コミュニティーの中心になれるに違いありません。学校は物理的にも社会的にも地域に大きな役割を果たす可能性を持っています。

 例えば、最近、町には古本屋さんを見かけるようになりました。私の家にも読まなくなった本があり、置き場所にも困るのですが、これらの本を学校の一室に持ち寄って、整理しておき、町の人に好きに読んでもらう、欲しければ持って帰ってもらう、といったこともできます。生徒さんで図書委員を決めたり、図書部など作ることもできます。司書の資格を持った方に本の整理を教えていただく、手伝っていただくこともできます。

 吉中でPTAが会議に使う部屋には、美術の先生が描かれた絵が飾ってありましたが、「いっそうのこと美術室の壁一面に絵を描いてもらったらええやないですか」と言いました。学校をきれいで、楽しい場所にするためには、いろいろなことが考えられます。
 学
校の空き教室の有効利用については、私以外にも、沢山の人が面白いアイデアを持っておられると思います。大事なことは、企画をテーブルの上にのせる段階と、その実施可能性を検討する段階をはっきりとわけること。企画の下手な人は、案が出てくるたびに、「それはダメ」「これもダメ」と言います。それをすれば、結局最後には案は何もないということになりかねません。一見無理に見える案でも、何かと何かをつなぎ合わせれば、可能になることもあります。

 地域の人が学校に参加することについては、実は学校も大きな期待を寄せています。この背景には、

・ 総合学習の時間をどのように使うのか、学校が考えなければならない

・ 2002年4月から学校完全週休2日制が始まることになっていた

・ クラブ活動の指導など、教員だけで行うことが難しくなっている

・ 地域で子どもを育てようという動きがある

・ 地域社会に、さまざまな特技、才能を持った人がいる

・ いろいろなことを教える人がいれば、学校は子どもたちにとって魅力のある場所になると思われる

・ 学校にも行政にも、このための予算がない

 などの状況があります。

 俳句や絵画、外国語、さまざまな才能、特技を持った人に学校に来てもらおう、豊能の財産である地域住民に学校教育に参加してもらおう、という試みは高く評価できます。地域にも、社会的貢献をしたいと考えておられる人は沢山おられるように思います。
 しかし、地域で子どもを育てるという号令のもとに、地域の人が教壇に立つことについては、大きな落とし穴もあります。私が特に気になるのは、現場の先生方から、このことについて明確な意見が聞こえてこないことです。もしかすると、現場の先生の間にも、大きな反対はないのかもしれません。もしそうだとすれば、みんなが、もの分かりが良すぎるにではないかと心配します。

 多くの人に教育にかかわってもらうことは、私も良いことだと思います。基本的には、このような動きに賛成なのです。でも、現場の先生の中に、
「教員免許状を持たない人は、絶対にティーム・ティーチングでなければ承知しない、一緒に教えるというのでなければ、素人には教壇に立たせない」といった意見はないのでしょうか。現場の先生には、そのぐらいのプロ意識を見せてもらいたい。挑戦的な言い方になってしまいますが、もしそうでなければ、「教員免許と言うけど、ようするに今まで、あんたは誰にでもできる仕事、免許状を持っていない人でもできる仕事をしてきたわけですか。そう認めはるんですか」と聞いてみたいと思うんです。ちょっと先生にはきついコメントかな。

 一方、夏祭りについても問題があります。夏祭りは、豊能町という小さな町で、お年寄りから子どもまでが楽しめる夏祭りは大事な行事でしょう。多くの人が楽しみにしていることも分かります。でも、光風台。新光風台、ときわ台と、本当に小さな町で、自治会ごとに3回、毎週お祭りをする必要があるんでしょうか。お祭りのたびに、PTAの役員・委員が腕章をつけて見回っていることを、皆さんはご存知なのでしょうか。

 PTAには会員も沢山いますが、ワンマンの会社のように社長が社員をあごで使えるような団体ではありません。結局、会合への参加も、お祭りの見回りも、同じ人が何度も何度もすることになります。この年は、会合への動員に疲れ、附属池田小学校事件の立ち番に疲れ、役員も委員もへとへとでした。人に頼むのも申し訳ないと思い、役員・委員で手分けをしましたが、私自身も、光風台、新光風台、ときわ台の三つのお祭りの見回りに行くことにしました。

 ときわ台のお祭りでは、副会長と一緒に、子どもたちが立ち寄る可能性が高いローソンの前で立ち番をしました。お祭りも終わり、9時半までいて、今日も無事だったと思って帰宅しましたが、私たちが立ち退いた直後に、吉中生と卒業生がもめごとを起こしたと、翌日報告を受けました。どっと疲れがでました。

この時の経験だけが理由ではないんですが、私は、自治会も夏祭りなどの行事のあり方を見直すべきだと思います。自治会にそれができない理由は、多くのPTAが活動を見直さない理由とほぼ同じです。

 ・役員の任期が1年であるために、深い考えもなく例年の行事が続けられること、

 ・それに自治会が何のためにあるのか、自治会に何が期待されているのか、深く考えないからです。

 夏祭りで楽しかった事といえば、小学校のPTA役員さんらも動員をかけられていて、お祭りが終わってから、大人の時間だといって、みんなでベンチに座って話し込んた事です。光風台の自治会長さんが差し入れですとおっしゃって、缶ビールを持ってきてくださいました。それがなくなったら、嫁さんに電話をして、缶ビールを届けてもらいました。お祭りを楽しんだ子どもらには、「早よう帰りや」と言ったのですが、公園でビールを飲んでいるおっちゃんともめごとを起こす勇気はなかったのか、早々と家に帰って行きました。結局、私たちは午前2時ごろまで話して笑って、大人の不良です。まあ、これぐらいの息抜きは許してもらってもいいですよね。



鬼の目にも涙 ・・・・・9月

 池田事件への対応は、夏休み中に大きな運動になりました。池田事件で子どもさんを亡くされた親御さん - 8人の天使の遺族 - が中心になって、被疑者・宅間守をぜひとも起訴し、厳罰に処してほしいという内容の嘆願書が出されることになったのです。嘆願書への署名運動は池田駅前や梅田駅でも行われ、その様子がテレビで放映されました。新聞にもその内容が報道されました。

 署名については、池田市PTA会はすでに8月中に協力の要請を受けておられました。池田市PTA会の会長はご遺族に会われましたが、その席にご遺族は遺影をお持ちになったそうです。ご遺族のお気持ち、そして池田市PTA会の会長のお気持ちを考えると、言葉が出ません。そして男気のある池田市PTA会の会長は、この要請を基本的に受け入れることを決められました。

 起訴・厳罰嘆願書の文言は「厳罰」となっていましたが、その意味が「死刑」であることは、誰の目にも明らかでした。

 池田市PTA会の会長からは、ことの経緯について報告していただいており、豊能町PTA会の皆さんのご意見も伺って、私なりにこの署名運動について考えていました。その矢先に、附属池田小学校PTAから、直接私に会ってお願いしたいと連絡がありました。

 はたして地区PTA会としてどのように対応するべきか、人情としては署名に応じたい。地区PTA会で協力するとしても、卑劣な宅間被疑者に制裁を望む声は多く、反対される親御さんは少ないであろうと思いました。特にPTA会員は、自分たちも学校に通う子どもを抱えているわけで、「8人の天使のご遺族のお気持ちは当然、なぜ即座に協力を申し入れないのか」という意見もありました。

 しかし、小学生のランドセルの中に「厳罰嘆願書=死刑嘆願書」を入れて帰宅させ、親御さんの署名をもらってくることが適当とは思えませんでした。また、起訴や死刑は検察や裁判所の専門家によって判断されるべきものです。精神鑑定も医師という専門家によって判断されるべきものです。今回のように冤罪の可能性がない状況であっても、死刑制度への反対論はあります。「人の命を奪うことができるのは神だけで、人が人の命を奪ってはいけない」という考え方があります。私は、法律の教員ではありませんが、職場が大学の法学部であり、冷静で正しい判断をすることの大切さを普段から学生に話しています。私自身が、感情に走るわけにいきません。PTAの役割をあらためて考えました。

 9月8日の午後、附属池田小学校PTAの方々とお目にかかりました。そして、その場で、あらためて署名運動への協力を依頼されました。

 結局、私はこの依頼をお断りしました。

 お断りする理由を説明している間、私の目には涙がたまりました。

 附属池田小学校PTAの方々には、私の立場も気持ちも理解できると言っていただきました。

 無抵抗な児童8名の命を奪い、他の児童も傷つけた宅間守被疑者が、もし精神鑑定で責任能力があったとされれば、これまでの犯罪と量刑を考えても、判決は死刑以外にはないでしょう。責任能力が全くなかったという判断がされる可能性もないでしょう。もし死刑以外の判決があり得るとすれば、責任能力を理由に、死刑が減刑されることです。

 死刑でなければ無期懲役かもしれない。もし無期懲役であれば、10年後に仮釈放の可能性がある。もし10年後に宅間守が私たちの子どもの前にまた姿を現すとすれば・・。私は、署名運動への協力はお断りしましたが、もし宅間守が死刑にならずに、将来仮釈放の話が出ることになれば、その時こそ、PTAを挙げて、仮釈放の反対著名運動をしなければならないと思いました。

 附属池田小学校からの要請は、地区PTA会としてはお断りしましたが、結局、地区PTA会としての最終決定は、「各市町PTA会の判断に任せる」としました。このようにしなければ、池田市PTA会が、地区PTAの決定と異なった対応を取ったことになるからです。豊中・箕面・能勢・豊能のPTA会は、PTAとしては協力しないと判断しました。

 昨年、勤務先の大学で指定校推薦入試の面接をしました。法学部を志望する高校3年生に、「なぜ法学部を志望するのか」と聞くと、「死刑制度について勉強したい」と言います。「あなたは死刑制度に賛成ですか反対ですか」とたずねると、「反対です」との意見でした。

 高校生だけではなく、法学部で法律を勉強している学生でさえも、何の感情もなく死刑制度の議論をしているように思います。しかたがないこととは言え、子どもさんを亡くした親御さんの気持ち、犯人が生きていることを絶対に許したくないという正直な気持ち、私の立場と決定の影響など、を考え、私は私なりに悩んだことを思い出すと、「死刑制度を簡単に議論して、それでええんか!」と言いたくなります。



伏魔殿 大阪府PTA会・・・・・10月

 PTA会長であった1年間、私はこれまで会ったこともなかった人と、一緒に有意義な仕事ができて、沢山の楽しい思いをしました。しかし、大阪府PTA会だけは、単純に愉快だったとは言えない思い出があります。吉中PTAでも、町PTA会でも、地区PTA会でも、多くの素晴らしい人に囲まれて仕事をしていたわけで、大阪府PTA会でも同じように皆さんと協力して仕事ができると思っていましたが・・・、正直なところ期待通りではありませんでした。

 月一度の会合には一応の議題はあるのですが、何について話しているときでも、本当にしていることは、役員間の人間関係・力関係を誇示することばかりでした。会合の後、カラオケに行くこともありましたが、作られた「にこやかさ」で、和やかな雰囲気はありませんでした。

 大阪府PTA会に集まった人すべてが、問題であったわけではありません。恥ずかしいことなので、ここに書くべきかどうか考えましたが、私から見た事実と断って、文章にすることにします。

 大阪府PTA会のなかみは、一部の人がおよそPTAという団体の理念からはほど遠い考え方をする人であったこと、そして周りにいた人も、地区を代表している身として、そのような人たちともあえて口論をしたくないと考えていたのだと思います。

 期待を持って出かけた大阪府PTA会の実態がわかったのは10月ごろになってからのように思います。このことについては、他の役員さんから「木村さんは分かるのが遅い、私なんかもっと早くから気がついていた」と言われました。

 私は豊能地区PTA会の会長でしたが、大阪府内には全部で七つの地区があり、それぞれの地区から、地区PTA会会長、地区PTA会母親代表の二人が代表として大阪府PTA会に出席します。合計14人全員が大阪府PTA会の副会長になります。それに大阪府PTA会会長をあわせた合計15人が中心になって、大阪府PTA会の役員会を構成しています。

 これに大阪府教育委員会から先生が一人参加する他、7地区の地域教育振興センターから一人ずつ、地区PTA会事務局代表としてアドバイザーとして出席します。この地域教育振興センターから来られる方は、府教育委員会におられる先生方です。この先生方は、アドバイザーとしての参加で、役員会での議決権は持っておられませんでした。このことから、保護者の代表である15人が決めることを、先生方は遠慮がちに見守っておられることが多かったように思います。

 また、大阪府PTA会の雰囲気に慣れていなかった頃、会合で勇敢に意見を述べられた先生がおられましたが、役員がこの発言を軽くあしらうことがありました。意見もまともに取り上げない様子は、私にはとても異様なものでした。そもそも大阪府PTAの弱点は、このような先生方の意見を大事にしなかった、このような先生方に遠慮をさせる雰囲気があったことだと思います。

 吉中PTA会員である親御さんも、実は吉中PTA会費の一部を、豊能町PTA会、豊能地区PTA会を通して大阪府PTA会に会費を納入しています。一人一人の負担額はそれほど大きくはないのですが、大阪府内の幼稚園・小学校・中学校PTAから集められるお金は、毎年1,500万円近く、ばかにならない高額です。このお金の支出と管理が、月に一度集まる15人の役員と、三人の事務員の手に委ねられているのです。できるだけ沢山の人が、同じような立場で、するべき行事を決め、皆さんから預かった予算の有効利用を考え、適正に執行されているかどうか、監視していたほうが良いに決まっています。

 先生方が遠慮されていた理由の一つには、PTAについて先生が持っている一般的な認識もあると思います。PTAが、Parents(親御さん)とTeachers(先生方)のAssociation(会)の頭文字をとったものであるのにもかかわらず、「PTAとは保護者の団体」と考えている先生は少なくないように思います。

 役員会に出席されていた先生方がどのように考えておられたかは別として、経験豊かな先生方がその場におられながら、求められた時にのみ発言しても良いような雰囲気があったことは、大阪府PTA会にとっては不幸の始まりであったと思います。

大阪府PTA会で、なぜ役員の一部がパワープレー(権力闘争というよりは、もっと幼稚な力関係の遊び)を始めるのかですが、一般的な状況から察すれば、まずその原因の一つには、府レベルでの役員になって自分が偉くなったと勘違いしていたのではないかと思います。

 PTA会員の大多数にとって、大阪府PTA会の役員であることは何の意味もありません。親御さんは誰が大阪府PTA会の役員であるかもご存じないでしょうし、興味もないでしょう。大阪府PTA会の役員がお願いしても、親御さんはそれに従う義務も義理もありません。大阪府PTA会の役員というのは、下から見ると、実質的には何の足場も持たない、形式だけの、もろい砂の城のようなものです。

 ところが、上から見ると、その形式はやはり城の形をしており、実質的な意味を持っているように見えるわけです。役所なども、大阪府PTA会の役員を、大阪府の保護者の代表として持ち上げ、様々な肩書き、名誉職、感謝状、表彰状を与えることになります。人は肩書きを欲しがり、一旦役職をてに入れると離したがらなくなります。人は誰かに認めてもらえないと生きてはいけない動物なのです。

 さらに、これが続くと、その職は自分でなければならないと考えるようになります。

 吉中PTAや、豊能町PTA、豊能地区PTAで会長をし、その仕事ぶりが認められて、「やっぱり木村さんやったからできたんや」と言われると、正直、嬉しくなります。でも、豊能町に10人いるPTA会長のどなたが町PTA会の会長をされていたとしても、どの市町PTA会の会長が豊能地区PTA会の会長をされていたとしても、私は立派に仕事をされたと思います。そう思えるからこそ、豊能の財産は人だと迷わずに言えます。

 そもそも総理大臣であっても代わりはいくらでもいるわけで、大阪府PTA会の役員程度の仕事であれば、時間を少しやりくりすれば誰にでもできます。自分でなければならないと思うのは、大変な思い上がりです。

 私がしたことは、そのように思いながら、せめて自分がこの仕事をしている間は、良心に従って自分らしい仕事をしたいと考えていただけです。

 またパワープレーの別の原因は、たまたまその場にいた個人の権力欲の強さや、打算、やっかみがあるでしょう。こちらが全く勝負をしているつもりがないのに、こちらをめの敵のように捉えて、発言してくる人もいるように思います。この人を立てておいたほうが、後々、自分にも有利だとかの打算もあるように思います。パワープレーにのっかって漁夫の利を得ようとする人もいるように思います。あの人に味方をすれば、いじめられると怖がる人もいるように思います。

 さらに周りを納得させるだけの理念の欠如、
リーダーの不在、誠実さの無さが、パワープレーを許し、グループの混乱を生みます。リーダーとは、他の人に命令をする「偉い」人ではない。偉さを誇示する人ではない。人々が困った時に、正しい方向に導いていける人です。そして、人を正しい方向に導いていくためには、正しいものを見極める力、人を従わせる誠実さ、人を納得させる「ぶれない信念」が必要なのです。

 このようなパワープレーに疲れている間にも、いろいろな問題発言が、大阪府PTA会の役員会でありました。
「それを言ったら、脱税がばれてしまう!」という発言があったときには、さすがに椅子から落ちそうになるほど驚きました。このような発言が出る会が、子どもの健全な育成を考えることが、そもそもおかしい。この発言での脱税というのは、後日、問題になる総合保障制度プール金とは全く異なるものです。

 このようなことを書くと、「役員だったわけだから信用してたのに」、「大阪府PTAを裏切った」、「自分たちの恥を暴露して」という非難が今にも聞こえてきそうです。雪印食品の輸入牛肉偽装詰め替え作業を告発した「西宮冷蔵」も、結局その後、大変な目に会ったし、こんな話をしても私には得はないんですけれどね。でも私は大阪府PTA会の誤った運営を手伝うつもりはないし、豊能地区を代表して来ている限り、豊能地区のPTA会員の期待に応えることが私の仕事だ、一旦大阪府PTA会の副会長になったのだから、府内のPTA会員全員に対しても責任がある、と考えます。

 また、
自分の思った方向に物事が進まないと、何かにつけて、「そういうことであれば私は辞めさせていただく」と言う人がいました。結局は絶対辞めないわけですけどね・・・。

 昔、私の勤務する大学の学長が、あることの責任を取って辞任されました。周りが慰留をしたわけですが、その学長は「辞任するということは、慰留されることを期待して言い出すことではない」と言われ、きっぱりと身を引かれました。その引き際の良さに私は感銘を受けましたし、生きていく基本とはこのようなことを指して言うのだと思います。大阪府PTAでは「処世術」という言葉を聞きましたが、まさに自分の影響力を延命させるための術策のみを考えているようでした。

 このような変な行動を取る役員の人も、良い言い方をすれば、ある意味で「義理堅い人たち」なんだろうと思います。「あの人には世話になったから、支えたらなあかん」、「あの人は私を励ましてくれはったから、反対はでけへん」というような義理というか、しがらみがあって、それが態度に大きな影響を与えているのではないかと思います。

 もちろん、「お世話になった人だから、何とか支えてあげたい」と思うのは悪いことではなく、それだけを捉えれば、むしろ人の生き方として大事なことでしょう。しかし、もしお世話になった人が二人いて、この人らの考えが違ってモメたときは、どうしますか。一方の義理を大事にすれば、他方への義理が立たなくなる。

 義理だけでは人をまとめていくことはできない。人をまとめることができるのは誠実さです。子どもを育てることを考えるPTAという組織では、特にそうでなければならないと思います。

 このようなことがあって、決して愉快な会合ではありませんでしたが、「まあこんなもんや」と思えば、それでも何とかやっていけたし、私はこんな時は「ただで吉本を見ている」と思うようにしているので、妙なことを言い出す人の行動も何とも面白くて、本当は笑いをこらえるのが辛かったのです。

 会合中にそのおかしな人たちの似顔絵を描いていたのですが、あるとき「あの人には我慢できない!」と怒っておられた役員がおられたので、その似顔絵を「お守りです。会議中にキレないように」と言って渡しました。お守りは効いたみたいで「それを見ると可笑しくて、会合はのり切れました」と感謝されました。

 何よりも、この一部の人のおかげで、考えの合う人は、かえって団結して仕事ができたこともあり、一緒に嵐を乗り切ったという強い連帯感と充実感が生まれたことで、大阪府PTAが、忘れられない良い思い出の場所になったのは皮肉なことなんですけどね。



値上げします、すみません・・・・・11月

 さて大阪府PTA会で四苦八苦している間も、吉中では2学期が始まっており、夏休みの校内補修作業の礼状の印刷・発送から始まり、

9月末には文化祭と教養保健委員会による体力測定、

10月は体育祭、教養保健委員会によるパソコン教室、制服リサイクル、

11月には生活指導委員会によるヤング・フェスティバルのパトロールと講演会、教養保健委員会による陶芸教室、中学2年生による職場体験(私の職場である大学でも図書館で引き受けた)があり、12月にはマラソン大会、PTAだよりと広報誌「やまびこ」の発行と、行事が目白押しでした。これらの仕事は、吉中PTAの役員さん、委員さんが手分けして進めてくださいました。

 こういう言い方は失礼になるかもしれないのですが、私は町PTA会、地区PTA会、大阪府PTA会と忙しく、単身赴任状態でしたが、特に吉中PTAの副会長さんには大変お世話になって、自宅である吉中をしっかり守っていただいたと思っています。

 このような予定された沢山の行事の合間を縫って、11月中旬に臨時総会を開催しました。議題はPTA会費の値上げです。

 PTA会費の値上げは、前任のPTA会長から引き継いだ懸案事項です。少子化現象はPTA会費収入を圧迫していますが、世の中は決して景気の良い状況ではなく、PTA会費の値上げにしても、とにかく状況を皆さんに理解してもらい、十分に意見を伺った上で決める必要がありました。

 4月の予算総会の時点で、会費値上げは今年中に決着しなければならないと考えていましたが、本格的に準備を始めたのは夏休みが過ぎてからです。まず、吉中の校区にある三つの小学校の生徒数を調べ、これを合算すれば、この先6年間の入学者概数が分かります。これをもとにこの先6年間の吉中の予想生徒数を求め、これに一人あたまのPTA会費を掛け合わせれば、今後6年間のPTA予想収入が分かります。そして現在の財政状況から毎年同じ額を支出していけば、いつの段階で繰越金がなくなるかを予想しました。会費を据え置いた場合、この計算では2年後に、繰越金が底をつくことが分かりました。意外と早く財政破綻するのです。

 会費値上げは会員が少なくなってからでは手遅れになります。200円のPTA会費を300円にしても2007年には破綻します。350円にした場合は、6年後でも繰越金が十分にあり、少なくても今後10年は大丈夫そうです。そこで急いで、PTAの会員さんに、値上げについての意見を伺う書類を作成しました。

 用意した書類では、

 ・ 実際にPTA活動にどの程度の費用が必要なのか、

 ・ 今の活動を値上げしないでいつまで続けることができるのか、

 ・ 支出を節約する努力はしているのか、

 ・ PTAはどんな活動をしているのか、

 ・ いくらに値上げするのか、またいつから値上げするのか、

 ・ なぜ350円に値上げするのか、

 ・ 値上げについて、今後どのような手順で進めるのか

を、予想入学者数などの資料をつけて、説明しました。

 当時、私と一緒にお仕事をしていただいた人は、私がいつも膨大な量の資料や書類を用意して配布していたこと覚えておられると思います。本当に紙の無駄使いと言われてもしかたがないほど、「こんなものまでいらない」と言われるほど用意しました。周りの人がそのように感じられたとすれば、それは私が願っていた通りでした。

 PTA会長という職に限らず、みんなのまとめ役として仕事をするときは、「あの人は大事なことを話してくれへん」、「知らせてくれへん」と思われないように注意しないといけません。疑心暗鬼は必ず人間関係をつぶし始めます。「こんなものまで知らせてくれはらんでも、会長の判断でやってください」と言われているときのほうが、人間関係は安心できる状態にあります。隠し事がないことを理解してもらわないといけません。もちろん、私も立場上知りえたことをすべて皆さんに話したわけではありません。ここにも書けない内容を知ることがありました。それでも、大事な情報を隠し持って、一部の人にだけ伝えるなどをしていては、人の心は離れて行きます。

 会費値上げについては、前もってPTA会員のみなさんには意見を伺うことにし、数名の方からいただいた意見を総会の席で紹介し、さらに説明して皆さんに納得いただきました。特にこの年は池田で不幸な事件があり、PTAの役員・委員の方々には立ち番などを一生懸命していただいたことで、PTAの役割・仕事について理解や支援が深まり、会費値上げ案は無事承認されました。今、その時に作成した資料を読み返すと、2001年度末に38万円だった繰越金は、来年2005年末には141万円になっているはずです。無駄使いしていないかな? 今でも吉中の教頭先生に会うと、「あのときに骨を折ってもらったから・・・」とお礼を言われます。

 お礼はいいんですが、ちょっと骨の折りすぎで、骨折だらけ、休みたいなっと考えたこともありました。

 ところで、最近特に強く感じていることなのですが、学校って言うのはやはり成績の良い子が誉められる制度を中心に回っていますよね。本当は子どもたちはもっといろいろな良いところがあるのですけどね・・。成績というのは中学レベルでは「ちょっとしたやる気」と「記憶力」に大きな影響を受けます。だいたい歴史の成績の良い生徒は英語の成績も良いという関係が存在する前提には、両方の科目に記憶力などの共通の能力が影響していることを表しているのです。これでは誉められる生徒は決まった者だけになってしまう。せっかく地域の人も巻き込んでいろいろなことをする雰囲気があるのなら、
PTAの予算を使ってでも、もっと生徒たちを誉めてあげるシステムを創れないのでしょうか。例えば、字の上手な子や、花壇を一生懸命世話した子に、PTA予算で図書券などをあげるシステムを創ることです。私も講演などに呼ばれてつまらない話をするのですが、私なんかに講演料を払うのであれば、そっちのほうがよほど意味があることのように思えるます。私が在任中には実現しなかったのですが、これからのPTAは、卒業式の紅白饅頭を購入するための費用などを考える前に、お金の使い方についても、もっといろいろな可能性を考えるべきではないでしょうか。

 これからも学歴を重んじる雰囲気は続くでしょうが、良い大学を出ても幸せになれる保証は昔ほどありませんし、これからはもっと不確かになっていくと思います。親が子どもに「成績が良ければいいんだ」という考え方を押しつけると、いつか大変なことになるかもしれません。

 実は私の娘二人は吉中を卒業したのですが、成績は中位ぐらいでした。ほんの一握りの上位群の生徒を除いて、子どもは「君の成績ならここ」と、ひな壇にのせられるような進路指導を受けるわけで、先生は一生懸命なんでしょうが、このような学校の役割には私は全く満足していません。

 私は大学で英語を教えていますが、中学に入学してから3年間で学んだ英語で、「君の成績は北野高校、君の成績は○○高校」というのが、どれほど意味があることだと思いますか。オーストラリアに長く住んでいた人間が言うわけですが、だいたい、実際には何の役にも立たないという意味においては、北野の英語も○○高校の英語も同じなわけです。

 別に文句を言うつもりもないのですけれど、私は今の学校が大半の子どもにしていることに(していないことに)あまり期待していません。これはPTA役員をしたら成績で配慮してくれるなどという変な期待という意味ではなく(この意味でPTA役員を引き受けると100%期待を裏切られますよ)、生徒の大半は誉められない、いろいろな能力を試せない、いろいろな経験をすることができないという意味においてです。私は高校生になった長女をオーストラリアに1年間留学させました。これまでどちらかというと何もしなかった私が、子どもを海外に送り出したのは、
「子どもにいろいろな能力を身に付けさせること、いろいろな経験をさることについては、学校には全く期待できない。だから自分でするしかない」と考えたからです。

 このあたり、PTA会長をしていたころは、いろいろな人間関係があって正直には話せなかったように思うのですが、一度学校と真剣に話し合ってみたいですね。たまたま私には海外に友人も沢山いて、娘を留学させることができましたが、多くの親御さんにとっては、なかなか難しいことのように思います。

 臨時総会が終わった午後は、吉中の新しいテニスコート開きがあり、テニスをしてはぜんざいもよばれました。それにしてもこの年の吉中PTA役員さんのテニスの上手なこと。大学時代にちょっとテニスを触ったことがあったので、ええ格好ができるかなと思って張り切って出かけたんですが、帰ってくるボールは早いわ強いは、まったくお手上げでした。PTA対抗で試合をすれば大阪府1番は堅いですよ。

 以下はこの時期に発行した吉中のPTAだよりに、私が書いた文章です。


 最近はPTAの仕事で職員室に出入りするが、大学教員になる前の10年間、オーストラリアの学校で日本語を教えていた私にとって、職員室は懐かしい。

 学期末には何日も徹夜をして、通知簿を書いたものだ。オーストラリアの通知簿は日本のように数字の羅列ではなく、生徒一人一人について科目ごとに文章で報告する。担任のレポートもある。当時は嫌でしかたがなかったが、おかげで英作文能力と、生徒を見る目が鍛えられた。

 能力評価という現在の研究テーマも、その頃から始まったと言える。



僕、目立ちすぎてます?・・・・・12月

 吉中PTAで忙しくしている間、町PTA会でも行事がありました。町PTA会の役員会はほぼ毎月開催しました。ただし、これも大変だったと言うのはちょっと気が引けるぐらい楽しい会でした。このころには町PTA会は前半の真面目な会議と、後半の真面目な??懇親会があって、はじめて町PTA会として一体感があるような和気藹々とした雰囲気でした。9月には秋の交通安全キャンペーン、学校週5日制についての懇談会などがあり、10月中旬には近畿PTA大会への動員、11月には第二回教育懇談会、とよの学びすとのつどい、学校週5日制についての懇談会、年末年始特別警戒隊発足式など、12月にはスポーツ大会がありました。

 和気藹々と言いましたが、この時期、私が町PTA会で注意しなければならないと考えていたことがありました。これは、どなたにも申し上げませんでしたが・・・。

 町の行事では、何かといえば私が挨拶や話をすることになっており、他の会長さんらは列席するだけや、聞き役に回ってばかりだったことです。子育てや学校については、それぞれの会長さんも、考えや情熱を持っておられましたが、これを皆さんに話す機会がないように思いました。このようなことを、一切気にされない会長もおられたとは思いますが、私は、「自分ばっかりが目立ってるんとちゃうやろか」、「このことについて他の会長さんらは正直なとこ、どう思ってはんねんやろ」と心配していました。

 そこでこの時期から特に、他の会長さんにも手分けして仕事をお願いすることにしました。11月の第二回教育懇談会では、町教育委員会から出された原案では私が話をすることになっていましたが、吉川小学校PTAの会長さんと、光風台小学校PTAの副会長さんに、パネル・ディスカッションのパネラーをお願いし、司会もパネラーにお願いして私は聞き手に回ることにしました。学校週5日制についての懇談会や近畿PTA大会には、他の会長さんに参加をお願いしました。スポーツ大会では、開会の挨拶、宣誓や賞品授与を他の会長さんらにお願いしました。

 私がこんなことを考えていたこと、皆さん、ご存知でしたか。こんな心配、いらなかったんでしょうか。



退任への秒読み・・・・・1月

 さて新しい年が明けました。ここまで来ると、さすがに「任期も、あともうちょっとや」という気分になってきます。吉中PTAでも、予定していた行事の大半は終わり、1月には次年度役員候補名簿の作成、立候補・推薦書の作成などの仕事に入りました。

 町PTA会でも、1月中旬の教育フォーラムが予定されてる最後の行事です。場所は豊能町のユーベル・ホールを利用し、講演は、シンクロ・スイミングのコーチとして有名な井村雅代さんにお願いしました。井村さんは大変忙しい方なのですが、町の教育次長が何度も講演依頼の「ラブレター」を送って、その根気に負けて引き受けていただいたとのことでした。

 オリンピックで優勝するために、どのような心構えをもって練習をしているか、勝つための厳しさ、勝つための厳しい練習のお話でした。井村さんが講演されている間、私は舞台の袖でお話を伺っていました。

 実は井村さんの講演が終わった後で、私がお礼の挨拶を述べることになっていたのですが、町PTA会最後の行事でしたから、私にとっても皆さんにお話する最後の機会になると思い、井村さんのお話に補足して、挨拶の概要をまとめました。

 私がその時にお話した内容ですが、以下のようなことです。

オリンピックという世界の舞台で勝つために、厳しい練習をされてることを伺ったのは、大変参考になりました。豊能の子どもたちにも、勝つために頑張れる子どもになってもらいたいと思います。世の中には嫌でも競争というのがあって、人に負けないよう頑張らなければいけないこともあります。でも、他人に勝つこと以上に、自分に勝つことは簡単なことではありません。どんな人にでも、怠け心やあきらめはすぐに出てくるのです。

 豊能の子どもらには、人にも自分にも負けないように、頑張れる子どもになってもらいたい。いつか豊能という町だけでなく、世界でも活躍できる人になってもらいたい。困った人を正しい方向に導いていけるリーダーになり、エリートになってもらいたい。

 でも、勝つこと以上に、もっと大切なことは、心がエリートでなければなりません。エリートとは、身分や財産ではない。心がエリートとは、自分にも他人にも負けないように努力できる人間でありながら、勝っても負けても、絶対に卑怯なまねはしない人です。「勝っても負けても、絶対に卑怯なまねはしない」、この1点だけでも、親として教師として子どもたちに残していけるとすれば、豊能の子どもたちは、いつか世界で活躍できる人になれると確信しています。

 退任まで秒読み段階に入り、私が子育てについて伝えたいことをまとめると、結局このことに行き着きました。教育フォーラムが終わった後、ある会長さんが私のところにお見えになり、「今日の話は良かった」とおっしゃっていただきました。

 井村さんが「勝つことの大切さ、勝つために努力する大切さ」を言われて、私は「勝つだけではダメだ、勝ち方にこだわってこそ王者」といった話だったので、聞き方によっては、井村さんの考えに批判的なコメントをつけたようになったのですが、井村さんとは、楽しいお話をして笑ってお見送りをしました。講演を聞いていても、自分なりの意見をはっきり言うというのは、私の職業病のようなもので、失礼があったら許してくださいね。他人の研究発表を単に絶賛しているようでは、研究者としては生きていけないのです。

 実は、ある講演会で、大阪で有名なお好み焼きチェーンをされている方のお話があったのですが、講演を終えられて控え室に戻って来られたその方が、どうだ!って顔をされながら、感想を聞かれたので、「ごっつい大きいお好み焼きを食べた後の、もうええわって言う気分ですわ」と言ってしまいました。最初は私のコメントに意外な顔をされたのですが、その後は大笑いでした。

 私自身、大学の教員という仕事がら、人前で話すというのは苦手ではありません。しかし、この1年間は、私にとって新しい経験の場でした。普段は大学生を相手に話をしていて、どのように話せばどのように反応してくれると、ある程度は予測がついたのですが(これも今考えると、私の思い上がりだったと反省しています)、PTAでは、まったく異なる人に、まったく異なる立場で、まったく異なる内容を話すわけですから、戸惑いの連続でした。

 話をして、その場では拍手をもらっても、帰り道で、「今日の会長の話、もうひとつやったね」とか噂されているのじゃないかな、と思いました。

 私自身、講演を沢山聞き、話をさせてもらって、今、信じている「講演の基本」を下に挙げてみます。これからPTAの会長さんになられるかた、何かの参考になりますかね。

1) 沢山のことを話さない。つまり、言いたいことが沢山あっても、必ず絶対に言いたいことはこれ一つ、と決めておくこと。人はそんな沢山のことを聞いても、印象に残りません。

2) 考えをストレートに話する。つまり、あれも良い、これも良いなど、中立的な立場や考えを紹介するのではなくて、自分が良いと考えたことだけをストレートに話しすること。

3) 聞き手が何を聞きたいと思っているのか知ること。つまり、聞き手には「ああ、私は正しかったんや」とか、「今日の話ではこれが役に立つな」と思ってもらうこと。

4) 同じことを聞いている人でも、受け取り方はそれぞれだということを知っておくこと。だからと言って話す内容を変える必要はないのですが、一般的には講演者は話が終わるとそれでおしまいで、自分の話がどのように捉えられたか知ろうともしません。

5) 講演中もちょっと話題を変えたり、アプローチを変えたりすること。つまり、人間の集中力はそれほど持たない。私は講演中にワークショップを入れたり、私の学生を連れていって話をさせたりします。

6) 講演は最初の3分で人の気持ちをつかむこと。これには、緊張をほぐすような笑い話などがいいです。

 ある時、大学の先生を招いたPTA講演会に参加しました。この人はPTA関係では結構有名な人で、最近の少年犯罪の傾向について話されました。その先生は、「そうなんですよ。最近の少年犯罪、ご存知ですか? 第一の傾向は、少年犯罪の加害者の多くは男の子なんですね・・。第二に最近の傾向は、普通のおとなしい子が犯罪をしてしまうんですね・・・。ここまで言うと、私の子ども、大丈夫やろかと思っているお母さん、ここにも、おられるんじゃないですか?」と言うわけです。お母さん方は「ひやー。ほんまや、うちの子ども大丈夫やろか」と思われて、会場が盛り上がってくるわけです。

 まあ、講演の方法としては、この人なりのアプローチなんでしょうけれども、私はこれは漫才だと思って笑っていました。だいたい少年犯罪の加害者に男の子が多いというのは、別に不思議なことでもなんでもない。男の子は昔から喧嘩もするし、少年に限らず犯罪加害者は男性が多いわけです。おとなしい子どもも犯罪に走るというのは、新聞などでよく報道されていることで、実は何も驚くことではない。つまり、この論法はインチキ占い師が、「うーん・・・あなたの家には・・うーん・・壁がありますね」と言っているのと同じなんです。「あたりまえじゃ」。

 これに付け加えて「私の子ども、大丈夫やろかと思っているお母さん、おられるんじゃないですか?」というのは、詐欺商法の論法と同じです。だから、「うーん・・・あなたの家には・・うーん・・壁がありますね」と言われて、「ひやー。ほんまや」と思ってはいけません。

 少年犯罪の傾向を自分なりに調べてみたんですが、未成年者による犯罪の総数は実は昭和41年以後平成6年まで減少し、ここ7年程度は横ばい状態なんです。犯罪の大半は窃盗などですが、他人に直接危害を加える犯罪としては、傷害罪が昭和44年以後8,000〜11,000件で横ばい、暴行罪が平成3年以後1,000件程度で横ばい、殺人罪も多少の変動がありながら昭和48年以後100件までで、昭和63年以後は60件程度で横ばいです。

 ところが、傷害致死罪は昭和38年以後ずっと二桁、昭和47年からの10年間は、38件、45件、40件、44件、37件、21件、32件、23件、20件、23件だったのが、平成5年からの7年間は、157件、94件、102件、165件、102件、190件、110件なんです。

 殺人罪と傷害致死罪の違いですが、殺人罪とは「人を殺すという殺意があったもの」で、傷害致死罪とは「殺すつもりはなかった」というものです。これは罪状から見た統計で、間単に解釈を結論づけてしまうのは良くないのですが、この数字から、今の少年犯罪の傾向と状況、原因、解決方法をみんなで考えてみるのも、いいんじゃないでしょうか。

 私は法律の教員ではありませんが、同業者として、この漫才師に、「大学の教員やったら、せめてこれぐらいのデータは用意して話をせ〜よ」と言いたくなります。もっとも大学では、私自身の授業が「漫才みたい」と学生に言われ、「オバQに出てくるラーメンばっかり食べてる小池さんにそっくり」と言われ、地方から来ている学生には「先生の授業は英語よりも大阪弁の勉強になる」と言われてるんですが。



総合保障制度解決への長い道のり ・・・・・2月

 総合保障制度とは、大阪府PTA会が実施している保険のことです。PTA会員の人には、毎年4月に保険加入の案内があるので、ご存知の方もおられるかもしれません。また加入されているかもしれません。大阪府PTA会の会員数はかなりの数になりますし、加入者が多ければ保険の掛け金の割引がありますから、他の保険に加入するのであれば、大阪府PTA会の実施している総合保障制度に加入するメリットはあります。

 保険会社にとっても、さほどの企業努力がなくても利益が得られる、都合の良い保険です。

 また、大阪府PTA会にとっても、便利な保険です。実は、大阪府PTA会は、保険会社から、加入者数に応じてお金を保険会社から受け取っており、またこれとは別に保険会社から賛助金を受け取っているのです。このことは、実は私が大阪府PTA会の役員になる以前から問題になっており、2001年には、まったく収拾のつかない状態になっていました。お金の使用について明確なルールも決めないまま、既に受け取っていました。また、お金は受け取るべきではないという意見があったにもかかわらず、お金を受け取っただけでなく、そのお金のうちの200万円は記念事業の費用として既に使っていました。プールしてあるお金も2001年度末には1,700万円を越える勢いなっていました。このお金については、一応、不適切な使用ができないようにするために、災害時等基金という名でプールされていたのですが、規定では、役員会の判断で災害時の見舞金など以外にも使用することが可能になっていました。

 保険会社から100万円の賛助金は、明らかに総合保障制度という仕事をしている出入り業者だから、もらえたものなのに、このお金は災害時等基金に入れられることもなく、大阪府PTAの行事のために利用されました。

 大阪府PTA会の役員会の中には委員会がいくつかあって、そのうち大きなものとしては、総合保障制度委員会と、ホームステイ委員会があると聞いていました。私はこれまでにも、学校などで制度や規則を検討した経験があり、またホームステイ先であるオーストラリア・メルボルンには10年間住んでいましたので、どちらの委員会でも良いと思いましたが、豊能地区代表として出席するもう一人の副会長と相談して、最終的には総合保障制度委員会に入ることにしました。総合保障制度委員会の委員長には三島地区選出の副会長がなられ、私は委員になりました。

 委員会に入って、総合保障制度の問題を検討し始めた段階では、この問題の解決について、府内のPTAの意見はばらばらでした。あるPTA会は、このお金は受け取るべきではないと考え、会員に総合保障制度にも加入しないように呼びかけていましたし、あるPTA会は、このプール金は各PTA会に還元されるべきであると考えていました。「保険の幹事会社がなぜT社なのか、平等でない」との意見もありました。「金額を考えれば公認会計士による会計監査を受けるべきではないかとの意見」もありました。「災害時基金ではなくて、ユニセフなどに寄付するべきだ」との意見もありました。

 さらに、大阪府PTA会は、保険会社から加入者数に応じたお金をを受け取っていることを、保険金を払っているPTA会員には一切知らせていませんでした。これは道義的に大きな問題であったと思います。

 総合保障制度の委員にはなりましたが、夏休みに頃までは、私は附属池田小学校事件の後始末で忙しく、「それどころやない」と思っていました。総合保障制度の改革を実際に始めたのは7月末、保険会社が、大阪府PTA会に支払っていたキャッシュ・バックの額を減らしたいと申し入れてきた頃だったと思います。

 まず、委員会では、総合保障制度の問題を把握することから始めました。過去のこの問題についての議事録、保険会社と交わした契約書、弁護士の意見書を読み直しました。過去の記録を読むと、総合保障制度に対して、府内のPTAは、大きく分けて七つの不満・意見・心配があることが分かりました。それらは、

・ 大阪府PTA会が、お金儲けのためにこの事業をしているという不満、非営利という会則に反しているという意見

・ 各PTAが財政難の状況の時に、大阪府PTA会が苦労なく多額の収入を得ているという不満

・ 保険会社との取り決めや、保険会社の決定経緯について、十分に説明されていないとの不満

・ 負担金を支払わされているにもかかわらず、大阪府PTA会は何の存在意味もないという不満(大阪府PTA会は単に任意の団体ですから、いつでも会員の意思で脱退は可能ですが・・・)

・ プール金が膨張していることへの心配。制度の運営について大阪府PTA会に計画性がないとの不満

・ 制度そのものが違法ではないかとの意見

・ 公正な会計・会計監査がなされていないという不信感

です。

 そこで、これらの不満・問題について、11月に府内にあるすべての市町村PTA会に質問紙を送り、具体的にどのような意見なのか、どのような解決策が可能なのか、どのような合意であればできるのかを聞いてみました。そして、それに基づいて、解決のための案を考えたわけです。

 総合保障制度の改革案は、公平性、透明性、ルール作りを最重点内容と考え、次の六つの柱を立てました。

1) 保険会社と、それぞれの会社の引受け割合を決める公平なルールを作り、これに従う

2) 保険会社と、それぞれの会社の引き受け割合は、3年ごとに見直す

3) 会計監査を強化するため、各地区から1名の総合保障制度会計監査役を選ぶ

4)2001年度のキャッシュ・バックについては、加入者数に応じて地区PTAに全額配分する

5)2000年度までに積み立てた災害時等基金は、使用目的をさらに限定し、厳正に管理する

6)2002年度以後のキャッシュ・バックについては、7割を市町村PTA会に配分、3割を大阪府PTA会に残す。このように配分することを保険加入者に知らせる

という内容です。

 上の案を考えたとは言いましたが、実はこれに至るまでには、何度も何度も書き換え作業があったわけで、総合保障制度委員会でも長時間話し合い、帰宅後は電話でもあれこれと相談して、このような形になっていったのです。このころの電話代はすごかったなぁ。

 各保険会社の適正な引受け割合を考えるために、保険会社3社の話を聞く会を持ちました。公認会計士にも会って相談をしました。キャッシュ・バックの配分金を受け取らないと決めていたPTAのことを考え、ユニセフ・ユネスコ・日本赤十字・足なが育英会などへの寄付の可能性を考えました。私は、本当は高額の災害時等基金を残しておくよりも、ユニセフなどの団体へ寄付するのが良いと考えていたのですが、ある役員の意見に配慮して災害時等基金を残すことにしました。そのかわり、どのような規則を作ればこの基金の不当な流用を防げることができるか考えました。みんなで、地区PTA会と大阪府PTA会の適正な配分比率を考えました。保険加入者に保険金の一部をこのように使うことを承諾してもらうため、パンフレットの文面を考えました。

 「府内のPTAの合意を得られないであろう」という意見がでると、別の案を考えましたが、これ以外にも思わぬ理由で案の練り直しをしなければならない時もありました。例えば、保険会社の引受け割合を決めたとたん、アメリカの同時多発テロ事件が原因で、T保険会社が倒産するという事件があり、引受け割合を見直しすることになりました。

 素案は、皆さんの意見を伺った上で、主に私がワープロ書きしたので、「総合保障制度の問題は木村がしている」と見えたかもしれません。しかし、この問題は、私一人で解決できた問題ではありません。特に、総合保障制度委員会の委員長は自分の責任を強く感じられていて、この問題に真剣に取り組んでおられました。私は本当は難しい性格の人間で、気に入った人でなければ、その人のためには真剣に仕事をしないというところがあります。一度、素案を委員長に見せたところ、「こんな案はダメです」と即座に言われたことがあります。それでも、委員長の態度が一貫していたので、信頼できると思い、お手伝いすることにしました。
 三島地区選出のもう一人の副会長は、この委員長の働きぶりをご存知で、問題解決の輪にすぐに加わっていただきました。また私と同じ豊能地区選出のもう一人の副会長も、この輪にすぐに参加していただきました。南河内地区選出の副会長は、私にとっては兄のような方になりましたが、協力しようと輪に参加していただきました。また、もう一人の南河内地区選出の副会長もすぐに力を貸していただきました。この後も、総合保障制度の問題を解決するために、一人、また一人と、委員でない方の協力もいただきました。

 ところが、役員会の中でそのような動きが大きくなっていくにつれ、なぜか、そのような動きを疎んじる役員も出始めます。作業が思っていた以上に早く進むことが怖い、解決案が通ってしまうと自分の考えているようにはならなくなる、と言った、総合保障制度の解決案そのものに反対する考え以外にも、自分が改革の中心にいないこと、自分の気に入らない人間が中心になっていること、などを理由にした反発もあったようです。

 「本当は、いま考えておられる解決方法が一番良いと思うんですが、あちらにも気を遣わないといけないので、大きな声では賛成とは言い辛いんです」と言われる役員もおられました。「なんで反対みたいな態度、取りはるんですかね」と伺ったら、「それは、やっぱり、
やっかみやと思います。自分に注目が集まらないと思われるのでしょうね。自分以外の人が活躍していて、ライバルのように見えるんでしょうね」と言われました。

 年が明けた1月3日、埼玉県PTA会が会員を保険に加入させ、保険会社からリベートを受けているとの新聞記事がでました。この記事を読んだある役員さんからすぐに電話がありましたが、いずれは大阪にも飛び火してくるだろうなと思いました。そして予想していた通り(本当は予想していたよりも早く)、それから1週間後に、大阪府PTA会でも保険リベートという記事が新聞に載りました。

 記事を読んで大変なことになったと思った人もいるでしょうが、私は、これは大阪府PTA会にとって、またとない機会だと思いました。このことに注目が集まれば、大阪府PTA会の総合保障制度は絶対改革しなければならなくなる、それに私たちは、新聞の報道を見てあわてて問題を解決しようとしているんじゃないからです。前年の11月には、総合保障制度についての意見を府内の各市町村PTA会に伺っていましたから、そのことはあらためて説明する必要はなかったのです。

 ところが、この報道がきっかけになって、これまであまり改革に積極的でなかった人には、「今この時期に、この問題に触れるべきではない」という変な理由を与えてしまったのです。一部の役員が騒ぎ出したことで、役員会の意見はまた割れることになります。

 新聞記事が出た翌日、大阪府PTA会の役員会が開かれました。私は所用で欠席したのですが、この席で、考えもしなかったことが起こります。ある役員が、「臨時総会は開かないほうが良いと思う。今日は欠席しているが、木村副会長も、臨時総会を開催しないということで了解している」と言われたのです。

 
これは悪意に満ちた、まったくの嘘です。

 私が了解しているという発言に驚いた改革推進派の役員が、その会合の最中に私の携帯に電話をされてきました。私は「そんな事は絶対言っていない」と言い、「皆さんにも聞こえるように、電話口で、今から言うことを大きな声で復唱してください」とお願いして、「臨時総会は開催しなければならないと考えている」と言いました。

 また一緒に地区PTA会の仕事もしてきた豊能地域教育振興センターの先生が、「そんなはずはない。木村副会長がいたら、絶対総会を開催するべきと言うはずだ」と発言してくれました。役員会での発言をできるだけ控えておられたアドバイザーのこの勇気で、嘘までついて臨時総会の開催をつぶそうという、もくろみは、あきらめられました。

 5日後、臨時の役員会がありました。この場でも、私は、臨時総会を開催して、総合保障制度の問題にケリをつけるべきだと話しましたが、また話は中断してしまいます。それは、ある役員の方が、私に電話で大事なことを言ったのに、それが案に活かされていないという内容でした。そもそも、案はこれまでにも何度も何度も役員会で資料を配って見せ、説明しているのに、その場になって、自分の意見が反映されていないと言われたのです。私には、そのような意見を聞いた覚えがありませんでしたので、「木村副会長に言いましたよね」と言われたとき、「聞いていません」とはっきり言いました。

 2日後、臨時総会を開催するかどうかを最終的に決める役員会がありました。前回の役員会は、気まずい思いで解散しています。ここで、またその議論が続くと、大事なことを話し合う時間がなくなり、臨時総会は時間切れで開催できないことになるかもしれないと思いました。それでは、これまでの苦労が水の泡になるだけでなく、総合保障制度は問題を抱えたまま放置されることになります。また、今年これだけの時間をかけて解決できないとすれば、この問題は永遠に解決できないかもしれない、と思いました。

 そこで、役員会の冒頭、「先回の会議では伺っていないとはっきり申し上げました。しかし、私が伺ったことを忘れていたり、聞き逃したのかもしれません。いすれにせよ、断言したことで不愉快な思いをされたと思います。申し訳ありませんでした」と、皆さんの前で頭を下げて謝りました。この後、会議は、臨時総会に向けての具体的な話に入り、総会の開催が決まりました。

 私が本当に大事なことを聞き忘れたのか、二人の記憶は異なります。こんな思いをするのであれば、これからは電話を録音しようと思いました。

 会合の休憩時間に、教育振興センターの先生方が次々に来られて、「先回の会合で何があったのですか」、「びっくりしました」と言われました。

 私は、総合保障制度の問題に取り組んでいる間、これは絶対に解決する、絶対にまとめてみせる、絶対にやり遂げると思っていましたし、臨時総会でこの案が否決されるとは、みじんも考えていませんでした。私は、この問題を解決する山場は実は臨時総会ではなく、1月の大阪府PTA会の役員会であると思っていました。ですから、臨時総会をどうしても開くという流れに持っていきたかったのです。

 私は、自分が頭を下げたぐらいで、物事が前に進むのであれば良いと考えていました。委員長は「木村さんは偉いなぁ。私にはできません」と言われました。言葉ではほめてもらったのですが、本当は、頭を下げた私に「納得できない」、「そこまですべきでない」と考えておられるのだろうと感じました。結果を重視したとは言え、たぶん、私のご先祖様も、情けないと、このことについては怒っておられるだろうなと思います。

 臨時総会は無事開催され、総合保障制度の取り扱いについての案を、委員が手分けして説明しました。質疑応答では厳しい意見もありましたが、これ以外に解決案はないと考えていましたので、自信を持って説明しました。質疑応答も終わり、採決に入り、案は無事承認されました。

 総会の結果に確信は持っていましたが、案が承認されたときは、さすがに「やっとここまでできた」という思いが心に広がりました。これまでに積み重ねてきた努力と、総会に集まっていただいた皆さんのおかげでした。

 案が承認された後、「皆さんにお礼を」ということで、おかしな役員が、私にマイクを回してくれました。「私の努力もちょっとは認めてくれたのかな」と好意的に思ったのですが、「お礼を述べるのは委員長のお仕事でしょう」と言うと、この役員は、「委員長、あの人は、もうええねん」と言いました。すでに私の手にはマイクが渡されていましたので、私は大阪府PTA会の役員会に参加いただいていた教育委員会・地域教育振興センターの先生方へのお礼だけを述べて、委員長にマイクを渡し、会場に来られた方々へのお礼をお任せしました。

 総会の終了が告げられると、総合保障制度の委員はみんな、やり遂げたという思いで笑顔一杯でした。会場には、委員長の様子を心配された三島地区の会長さんらや、豊能地区の会長さんらも沢山お見えでしたが、次々に「よかったですね」との言葉をいただきました。吹田市PTA会の会長さんとは握手をしました。三島地区教育振興センターの先生からは、「委員長にマイクを回してお礼の挨拶をさせていただいて、ありがとうございました」とお礼を言われました。

 残念ですが、集まって喜んでいる役員に、声もかけない役員もいました。問題を解決したのが自分でないことが面白くない様子で、苦々しく思っている様子でした。また、この人たちに気を遣って、一緒に喜ぶこともできず、私たちに声もかけられない様子の方もおられました。

 私たちが提示した総合保障制度の解決案を、その場にいた皆さんが、本当に心から一番良い方法だと考えておられたかどうかは分かりません。それでも、その案を認めていただけたのは、この問題を解決するために、委員や役員が、誠実に、隠し事なく、真剣に解決方法を考えていた、その態度や姿勢に、皆さんが納得されたのだと思います。

 
私は、総合保障制度の本当の問題は、今でもお金のことではないと考えています。総合保障制度の本当の問題は、大阪府PTA会そのものが、みんなの意見を聞く努力、納得するまで話し合う努力、隠し事をしない努力、真剣に解決したいという気持ちを理解してもらう努力、誠実さ、礼儀正しさがなく、府内のPTAの信頼を失っていたことだと思います。総合保障制度のついて資料で、私が豊能地区で引き継いだもの中には、はっきりと 「問題の根底には大阪府PTA会への不信感」書かれていました。
 ここまでの文章を読み返してみると、壮大な自己賛辞を書いてしまったと思います。私に一部の役員と書かれた人にすれば(当然、自分では心当たりがあると思うのだけれど??)、鼻持ちならないやつだとの批判を受けそうです。ただ、この1年と決めていたせか、本当に一生懸命だったという思いは自分なりにあります。できなかったこともありますが、なぜこれほど一生懸命になれたかと考えると、結局のところ自己満足でしょう。今も心の中に残っている充実感、これだけが欲しくて頑張れたのだと思います。

 私はより高いPTA関係の肩書きなど欲しいとは思いません。退任した年から自治会の会長をしてほしいと頼まれたんですが、これも断りました。知名度を利用して議員になりたいとも思わない。私は、そもそもの自分の仕事である教育と研究をしているときが一番幸せで、これに付け加えて家族旅行をし、バイクに乗って、温泉に入って、魚が食べれて、阪神タイガースを応援できれば、もう何も言うことはないんです。たまたま時間があったこの年に、ちょっと仕事を引き受けただけのことなので、忙しい仕事はもう勘弁してほしいと思っています。

 また、別に私のしたことをほめてほしいとも思いません。表彰状がほしいとも思いません。そもそも表彰とは身分の高い者が身分の低い者を「ほめてつかわす」制度で、それが証拠に、大阪府PTA会役員が総理大臣に表彰されることがあるとしても、その逆に、大阪府PTA会役員が総理大臣を表彰することはあり得ません。大阪には、お上とは無縁で、自由な生き方を美徳とするところがあるわけで、だから、大阪府PTA会そのものが、見栄を張っては大きな予算を使って大会を開催し、府内の学校のPTAを慇懃無礼に表彰する制度など、正直に言えば、バカバカしいと思っています。自分の町である豊能町にしても、平等になるように、表彰される学校のPTAは、特別に何もしなくても、輪番に回ってくるようになっています。表彰され、表彰する行為は、自分の価値や身分を、みずから序列ピラミッドに組み込んでいるように思います。

 大阪府PTA会の役員を退任する総会の席で、私たち役員が、大阪府知事から何かもらうと教育委員会に人に聞きました。感謝状か表彰状ということでしたが、感謝状であれば「ありがとう」だから受け取る。表彰状だったら「ほめてつかわす」だから受け取らないと言いました。大阪府知事程度に、ほめてつかわされて喜んでいるようでは、親父さんやお袋さんに顔向けができない。結局感謝状だったので、一応は受け取りましたが、総会の後の飲み屋で一緒に仕事をした改革推進派の役員と、お互いの感謝状を交換しました。だから、私の手元には、「木村真治殿」と入った感謝状はありません。

 その当時に、お世話になった人とは、今でも、付き合いがあります。飲み屋から急に電話がかかってきて、もうかなりお酒が入っているようなのに、「木村さ〜ん、元気ぃ〜」と電話口から聞こえてきます。なんと、私抜きで盛り上がっているんです。なんで誘ってくれへんの? それでも、声を聞くだけで「あの頃は楽しかったなあ」と懐かしい気分になります。「今でも大阪府PTA会は変わっていない」と聞くと、心から残念に思います。でも、いまさら伏魔殿に戻るつもりもない。まあ、今年4月に小学校5年生になる長男のPTA会費について、大阪府PTA会の会費分の支払いを拒否することもできますが、そんなことを考えているヒマがあれば、本でも読んで勉強しているほうが良いし、大学には、私の周りに木村組・木村軍団と言われる優秀で、誠実で、礼儀正しい学生が沢山いて、こっちの面倒をみているほうが楽しいわけです。
 齢46歳。最近では表彰も「勝手に向こうがくれるって言ってるんだから、もらえるものは、もらっておいてもいいんじゃない」と思えるようになってきました。こう言う私は衰えたのか、それとも人間が丸くなったのか。そのうちに、80歳ぐらいまで生きて、勲28等ぐらいをもらって、嬉しそうにしている私の写真をどこかで見かけられたら、その時は「あぁ、木村も、もうあかんわ」と笑ってください。



最後の大仕事・・・・・2月

  私がPTA会長になった4月は新入生、新学年の生徒を対象に、健康診断が行われる時期です。実は、この時期、あるところから「健康診断で医者がセクハラ発言をした」ということを聞きました。
豊能町内の学校で健康診断をお願いしている先生方の名誉のために、まずはっきりさせておきますが、このセクハラ発言は豊能町で起こったことではありません。

 またPTA会長という立場で知らされたことではありません。ただし大阪府内で起こったことです。セクハラ発言の内容は、中学生女子生徒に対し、「君は胸がないのに、なんでブラジャーをしているんや」と言ったことです。女子生徒は、この発言の後、この医者に上半身裸になって健康診断を受けました。

この通りの発言があったとすれば、これはどのような言い訳をしても、セクハラ発言になります。

 実はこの話を聞いたのは、私がPTA会長になって間もない頃でした。本当はすぐにでもなんとかしたかったのですが、どうして良いのかわからない。「とにかく、任期中にはなんとかしよう」と思いながら、しばらくはこの問題に触れないことにしました。特に、健康診断はもう終わった後で、次回は次の年の4月だったので、それまでに解決できればと思いました。

 娘に聞いてみると、確かに吉中でも「女生徒は健康診断を上半身裸で受ける」ということでした。健康診断を受ける生徒の多くは、自分の体に問題があると思って診断を受けるわけではありません。ところが、体調が悪くて町の病院に行くと、最近では女性患者に配慮して、上半身は裸にならなくても良いという医者もいます。体が調子が悪いと思っているときは服を脱がなくても良く、逆に体の調子が悪いと思っていないときは服を脱がなければならない。これはどのように解釈すればよいのかと思いました。

 私は大学教員ですが、最近はどこの大学にもセクハラ問題検討委員会などができていて、どのような行為がセクハラになるのかなどを書いたパンフレットを用意し、先生に配っています。このような全学的、全国的動きに対して、「私を信用できないのか!」と不愉快な思いを持つ先生もいるのですが、信用する・しないという問題というよりも、セクハラについて正しい知識をもって、気をつけることは、自分を守るためにも大事でしょう。

 確かに、セクハラだ、セクハラだと騒ぎたてる側の言い分ばかりを聞くのも不公平です。このことは、私もよく分かります。大学ではセクハラの他にもアカハラ(アカデミック・ハラスメント)というのがあって困るときがあります。

 ある先生から聞いたのですが、英語で書かれた大学院の修士論文に、複数形のsや、三単現のsがボコボコ抜けていたので、「複数形のsや、三単現のsは、中学生英語の間違いではないですか」と注意したところ、「傷つけられた。アカハラだ」と言い出した大学院生がいたそうです。

 ですから、セクハラと言われる側の立場もよく分かるのです。

 それにしても、すべての大学教員がセクハラをしないとは断言できません。どこどこの大学の先生が、セクハラ行為を行ったという内容の記事は、時々新聞で見かけます。同じように、大半の医者が善意であったとしても、すべての医者がセクハラをしないとは誰にも断言できません。

 PTA会長としての任期も終わりに近づき、また次年度の健康診断の時期が近づいてきた頃、この問題について、何らかの行動を起こそうと思いました。もっとも、この話を大阪府PTA会や地区PTA会でしても、これまでに書いたように総合保障制度の問題や、附属池田小学校事件で忙しく、なかなか広がりをみせません。そこで、セクハラ発言があった町ではなかったのですが、豊能町PTA会として、この問題を何とかできないかと考えました。

 そこでまず、町PTA会の会長さんらや吉中PTAの役員の方々に連絡して、「女子生徒の健康診断について、より配慮をしてもらえないだろうか」という内容の要望書を町に出したい、と相談しました。要望書の中ではセクハラ発言などのことには触れず、できるだけ一般論として、思春期に入る女子生徒により配慮を、という内容にしました。

 しかし、一般論だけでは何を要望しているのか明確でないため、「女子生徒に上半身裸で健康診断をうけさせることのについて、注意してもらいたい」と書きました。

 反応はさまざまでした。「良いことだからしましょう」という意見もあれば、「昔から健康診断は裸で受けるものと思っていたので特に問題だとは思っていなかった」という意見もありました。PTA会長というと、医者がなることもあるのですが、この年の町内のPTA会長には医者は一人もおられませんでした。もしおられたとしたら、このような要望書はどのようになったのでしょうか。
 豊能町の教育委員会には、このような要望書を提出したいと前もって伝えてありました。かなり困ったようです。要望書が出る前に、校医や保健の先生に集まっていただいて話をされたそうですが、上半身裸で健康診断という方針は変わらないとの話だったそうです。これまでに、豊能町では芋づる式に出てきた仕事をとにかく引き受けてきたからかもしれません。教育委員会には、私の意向をくんで、できるだけの努力をしてもらったと思います。

 これは要望書の中でも書きましたが、服を脱がせるかどうかは医者として判断されれば良いと思います。女の子が恥ずかしいと思う気持ち以上に、病気を早期に発見することが大事です。ですから、服を脱がしてはいけないとは一切言っていません。
 私が言いたかったことは、服を脱がせるのであれば、医者としての信念に基づいて脱がせなければならない。そして、脱がされる側の気持ちも、少しは考えてもらいたい。このことだけでした。ですから、結論が、「上半身裸で健康診断という方針は変わらない」というのであれば、それで良かったわけです。

 それでも要望書を提出すると言いました。

 ところが、教育委員会は要望書提出前に、医者や保健の先生に聞き、方針が変わらないと決まったので、もうこの話は終わったと考えたようです。教育委員会から、なぜ要望書を出すのか、出すのをやめてもらえないかといった内容の電話があました。私が要望書提出はやめないと言ったことには、不満があるようでした。教育委員会と校医の力関係は、校医のほうが強く、教育委員会は強くはお願いできない立場なんでしょう。

 最終的には、この要望書を町にある小学校・中学校のPTA会長の連名で、町長、教育委員会、校長、校医あてに出しました。予想したとおり、教育委員会から「方針に変更はない」という手紙が来ました。

 もしこれで町が安心していたとすれば、すべてが片付いたと思ってたら、大変な誤解です。私たちの要望書は町長・町に対してのものでもあります。もしそれでも適切な対応をせずにいて問題が発生したとすれば、
町長と町の責任を問うことになります。このときは私は原告側を助けますよ。私は法学部の教員で教え子には弁護士もいっぱいいますよ。大変な額の損害賠償請求になりますよ。町で損害賠償するということになった場合、職務怠慢をした行政担当者には、町に損害をかけたとして個人の責任を問いますよ。私には町民としての権利があります。行政には緊張感を持ってもらわないといけません

 この年の吉中の健康診断は女子生徒は服を脱がなくても良かったそうです。今はどのようになっているのか知りません。服を脱ぐか脱がないかは医者が決めれば良いこと、私が良いとか悪いとか言う問題ではないと思っています。私がしたかったことは、このような要望書が注意を喚起することになって、問題が起こらないようにすることです。

 
中学生の子どもらへ。それにしても、正しいことをしようとしても、いろいろなしがらみがあって、なかなか世の中を良くするのも、簡単ではないんだよ。



PTAは変わらなくて良いのか・・・・・3月

 2002年3月末で大阪府内にある七つの地域教育振興センターが閉鎖されました。これまで地域教育振興センターが行ってきた業務は、大阪府庁近くのビルで集約して行うとのことです。新しい事務所で仕事は継続されますが、出先機関がなくなれば地域に密着しているとは言えないし、人数も少なくなるとのことですから、基本的に行政のスリム化ということになります。

 特に2001年度、豊能地域境域振興センターが果たした役割は大きいものでした。附属池田小学校事件後の対応、大阪府PTA会の総合保障制度問題を解決するためにいただいたアドバイス、はかりしれません。

 また地域教育振興センターは、地区PTA会にとっては事務局の役割を果たしていましたので、少なくても地区PTA会はこれまで通りの業務を続けることはできません。豊能地区PTA会では、今後のPTA活動のあり方を考えなければなりませんでした。

 他の会長さんや教育振興センターの先生方と相談し、結局、これまで地区PTA会として行っていた行事は大幅に縮小、会計も清算し、予算を持たない連絡会組織になりました。このようになってどのような弊害が出てくるのか、分かりません。

 自治体はどこも財政的に苦しく、住民が必要とするサービスも必要なものを残して、これからどんどんスリム化の対象になるでしょう。
 一方学校を見ると、こっちも2002年4月から完全週休2日制が始まりました。ゆとり教育とは言うけれど、まる投げされた子どもらは週末をどう過ごすのか。結局、塾や子ども会、地域、家庭にその役割が回ってくることになります。先生は忙しく、クラブ活動の顧問を指導する熱血先生も、昔のように比べるとずいぶん少なくなったと聞きます。熱血指導が一線を越えてしまって社会問題になってくると、先生もリスクを負ってまで熱血指導はしなくなるでしょう。子どもは学校で運動や文化活動をしなくなり、地域の野球クラブや剣道場、サッカー・サークルに通いだします。

 子どもを取り巻く環境を地域、学校、行政、PTAと考えると、確実に学校は変わっており、行政も変わっています。地域はすでに受け皿を用意し始めており、運動であれば、野球クラブや剣道場、サッカー・サークル、勉強であれば塾、家庭教師などが学校の受け皿を持っています。

 このような中で、
一番動きがないのがPTAのように思います。活動内容を見直すこともなく、毎年同じ行事を繰り返している。もちろん変える必要のないものもあります。いいものは残せばいい。改革改革と騒ぎ立てるのもどうかと思います。でもPTAは本当に変わる必要がないんでしょうか? 

 PTA会長の任期も終わりに近づいたころ、私はいぜんとして、バイクで町内を走っていました。今回の訪問先は町内の学童保育施設。そこで子どもの面倒を見ておられる方々とお話をしました。学童保育がどのようにあるべきかも考えました。本当に子どもの面倒を見れない状況で、子どもを預けるのは仕方がないという人もいれば、どうもそうではなさそうな人もいると伺いました。町役場も、子どもの面倒を見ておられる方も、本当に困った状況にある人を助けることは自分たちの仕事と考えているようですが、そういう状況でもないのに、安い費用で子どもを預け、働きたいと考える親御さんに対しては、あまり良い感情は持っていないようです。

 私は、女性が仕事を持つ事は良いことだと思いますが、PTA会長としての私は、女性の自由な生き方を支援することを考えて、学童保育に出かけていたわけではありません。女性の社会進出をそのような形で支援する社会が良いというのであれば、現在の学童保育の役割を根底から変える必要があります。私は、あくまで子どもの様子を知りたいと思ったからです。

 学童保育に行くと、なぜかみんな人なつっこい。見知らぬおっちゃんの私に、寄ってきては話しかけてくれるんでね。豊能町にも、いろいろな子どもがいるんだと、まあ任期も終わりかけになってやっと気がついた次第です。



退任とその後・・・・・3月〜

 3月末、吉中の決算総会がありました。1年前、私が新会長として挨拶をした会です。この場で新役員が承認され、私の吉中PTA会長としての仕事は終わりました。心の中は、何事でも同じだと思いますが、ほっとした気持ちと、終わってしまったという寂しい気持ちでした。役員さん、委員長さん、委員さん、先生方、皆さん、感謝です。やはり会長の仕事を引受けて良かったと思います。

 地区PTA会も3月の決算総会で私の仕事が終わりました。何度も何度も出かけた地域教育振興センターは、立ち退きの準備を始められ、寂しい想いがありました。地区PTA会では新旧役員が集まって引き継ぎ会をしました。ここでも盛り上がったな。大変な事件があった1年を、一緒に乗り切った皆さんに感謝です。

 町PTA会では、6月の総会で新しい会長さんにバトンタッチをし、私の仕事は終わりました。町PTA会の打ち上げ会は、大変な盛り上がりで、最後はみんなで肩を組んで円陣を組んで歌いだしました。ご苦労様でした。皆さんと知り合えたことは、私の財産です。
 大阪府PTA会も、6月に総会があり、私の仕事も終わりました。ここでも大変な1年を振り返りながら打ち上げをしました。皆さん、ありがとうございました。私の仕事を信頼してくださった皆さんに心より感謝です。

 地区振興センターがなくなったことで、2002年度からは、大阪府PTA会役員会には、7名のアドバイザーの先生方は参加されなくなります。ますます運営が不安定な状況になります。私の後任の方々に伺ったところ、その後2003年になっても、大阪府PTA会役員会の体質はまったく変わっていないと聞いています。

 大阪府PTA会の役員を退任して2ヶ月ほどしたころ、大阪府PTA会の事務局の方からお電話をもらいました。「一部役員が無茶苦茶で、私を辞めさせようとしている」という内容でした。話を伺いましたが、とにかく既に私は役員を退いていますので、何かができる立場ではありません。ところが、今度は大阪府PTA会から連絡があって、「その事務局員が不謹慎で、自宅謹慎処分にした。ついてはその事情を説明したい。緊急の会議を開くので旧役員にも集まって欲しい」ということでした。

 私は実際にどのようなもめごとがあったのか、役員と事務局の方のどちらに大きな責任があったのかは、詳しくは知りません。事務局の方は、自分が出席して弁解できない会議で、あることないことを言われることを大変心配しておられました。私の知る限り、この事務局の方はお仕事をきちっとされていましたが、2時間近い電話を受けながら、どちらが良い悪いという問題ではなく、大阪府PTA会が継続して活動していくために、もし、どちらかが辞めなければいけないほどに事態が深刻であれば、私は、事務局の方のほうが身を引くしかないと考えました。  緊急の会議の前日、事務局の方に長い電話をして再度考えを伺った上、最後に「選択肢は三つ、とことん争うか、謝るか、辞めるしかない。もし謝罪文や辞表を書かれるのであれば預かりたい」と言いました。会議の日の朝、喫茶店で事務局の方に会いました。一晩考えられ、辞表を書かれていました。私はその辞表を預かり、「会議では絶対誹謗中傷の発言はさせない。名誉は必ず守る」と約束しました。会議では、辞表を預かっていることを告げ、一部役員が準備してきた、つまらない発言を全て抑えました。

 人間にはみんな弱いところがあって、本当は子どものことを礼儀正しく、誠実に、真剣に考えなければいけないPTAという場所を、時には自分の勢力争いの場に変えてしまう弱さを持っています。これはどんな社会にでもあることで大阪府PTA会だけの問題ではありません。出世欲や権力欲は時には人間を目標に駆り立てる重要なものです。しかし、みだりに欲に振り回されるような人はダメです。
子どもたちよ。人間は年齢がいけば、自然と賢くなるわけではない。大人になれば賢くなるわけではない。どれだけ自分の生き方を真剣に考えたかという時間に比例して賢くなるんだよ。

 私の結婚式で、私の高校時代の友達が、次のように言ってくれたのを思い出します。

 世の中には「が」の人生と「で」の人生がある。「これがいい」と考えて生きる人、「これでいい」と考えて生きる人。木村はいつもがの人生や。

 カッコよく聞こえますが、考えてみれば、これがいいと、わがままを通した1年でした。迷惑をかけた人、困らせた人、すみません。木村はこんな人間とあきらめて許してください。

 1年間も会長をしていたのに、子どものことを考える時間が少なかったと思います。これが一番の反省点やな。そして、その少ない時間のなかでも、人の子どもさんのことを考えているときのほうが多く、自分の子どもの面倒を見ていなかったように思います。こんなおとうちゃんを許してくれる3人の子どもにもありがとう。そして、ガセ・ネタで引っ掛けられたけど、会長引き受けて、私が家にいなくなった分、かえって子どもの面倒など忙しくなったのに、文句一つ言わない嫁さんに、心からありがとう。これからちょっとは家族サービスするわ。

 以下は、卒業する吉中生に向けて、吉中の広報誌「やまびこ」に書いた文章です。

 「先生のゼミ(クラス)に入りたい」と言ってくる大学生に、「なぜ?」って聞くと、「先生のゼミは楽しいと聞きました」と言う者がいる。確かに私のゼミは楽しいが、それは私が何かをするからではなく、学生一人一人がゼミを盛り上げてくれるからだ。

 自分のまわりを見渡して、「楽しくない」、「盛り上がらない」と不満を言うものがいるが、ほとんどの場合、楽しくない理由が自分自身にあることに気がついていない。楽しくなければ、自分で楽しくすれば良い。人が楽しくしてくれるのを待っている者に、不満を言う資格はない。

 四月になれば一緒に勉強した友達とも離れて、みんな新しい世界に飛び込んでいく。それぞれが、新しい世界を自分の力で楽しい場所にしてもらいたい。



御礼

私と関係のあった方々に心より感謝いたします。役職は当時のものです。お世話になったすべての方々にお礼を申し上げていないかもしれません。失礼をお許しください。前もってお詫びいたします。

吉中PTA副会長の蓑島さん。ありがとうございました。蓑島さんのユーモアにはずいぶん助けられました。司会などをお願いしましたが、蓑島さんがおられると会の雰囲気がとても和やかになりました。

吉中PTA副会長の山崎さん。ありがとうございました。実質的に吉中PTAの中心として行事の切り盛りしていただきました。今でも役員をされていたお母さん方が定期的に昼食会をされていると伺って、人のつながりに嬉しく思っています。昼食会へのお誘いありがとうございます。

吉中PTA書記の徳丸さん。ありがとうございました。配布書類の原稿整理、印刷の他、学校との連絡など、大変でしたでしょう。一生懸命に仕事をされている姿が印象的でした。お世話になりました。

吉中PTA会計の西岡さん。ありがとうございました。私の苦手な会計は西岡さんに任せておけば大丈夫と思っていました。その期待以上のお仕事をしていただきました。

吉中PTA生活指導委員長の竹田さん。ありがとうございました。附属池田小学校で悲惨な事件があり、竹田さんには大変なお仕事になってしまいました。副委員長の大西さん、渡部さんも、ありがとうございました。

吉中PTA広報委員長の阿世知さん。ありがとうございました。従来、印刷業者に頼んでいた広報誌を、自作でカラー印刷にされるなど、新しい試みができたのも、阿世知さんのおかげです。副委員長の佐々木さんも、ありがとうございました。

吉中PTA教養保健委員長の上嶋さん。ありがとうございました。明るい上嶋さんに、大いに励まされました。誘っていただいたバスケットボール、いまだに始めていません。すみません。副委員長の村上さんも、ありがとうございました。

吉中PTA1年生生学級委員長の桜井さん。ありがとうございました。同じゴールデンリトリバーを飼っている、次女の友達のお母さんとは存じてましたが、テニスが上手だったんですね。副委員長の伊藤さんも、ありがとうございました。

吉中PTA2年生学級委員長の井上さん。ありがとうございました。確か役員互選会にもおいででしたよね。PTA活動など慣れておられるご様子でした。副委員長の村上さんも、ありがとうございました。

吉中PTA3年生学級委員長の柏木さん。ありがとうございました。卒業式の準備など、最終年度の学級委員さんとして、いろいろお忙しかったように思います。副委員長の藤井さんも、ありがとうございました。

吉中PTAの委員の皆さん。ありがとうございました。皆さんのお手伝いがなければ、私はとても仕事をすることができませんでした。

吉中PTA前会長の吉川さん。ありがとうございました。少しの勇気を出してお引き受けした仕事でしたが、本当に良い機会をいただいたと思っています。

吉中PTA前役員の米田さん、山代谷さん、北村さん、佐田さんにもいろいろお世話になりました。ありがとうございました。

吉中の保護者の方々。ありがとうございました。皆さんから温かいご支援をいただきました。

吉中の大西校長先生。ありがとうございました。私たちが普段直接はお話しない教育委員会の方々や職員室の先生方への橋渡しで、大変お世話になりました。

吉中の粟井教頭先生。ありがとうございました。いつもPTA活動に積極的に参加いただきました。また、いろいろ相談にのっていただきました。また機会があれば、温泉に行きませんか。

吉中の先生方。ありがとうございました。特にPTA担当の富永先生にお世話になりました。またPTA役員との食事会にも参加いただいた先生方、楽しい思い出になりました。本当は先生方ともっとお話がしたかったです。

豊能町教育委員会の下林課長。ありがとうございました。いろいろお話できたこと、町PTA会のお世話をいただいたこと、忘れません。ざっくばらんに話ができた方でした。

豊能町教育委員会の西田さん。ありがとうございました。PTA担当の西田さんには、こまごましたことでも、いろいろお世話になりました。

豊能町の佐久教育次長。ありがとうございました。役所にお勤めの方にしては本音を話されると、町PTA会のメンバーの評価も高かったですよ。

高山小学校PTAの下浦会長。ありがとうございました。町PTA会の運営がまだよく分からないころ、私の会合の進行方法をほめていただきました。あの時のお言葉、大変嬉しく思いました。

光風台小学校PTAの徳山会長。ありがとうございました。町PTA会一番の熱血会長でした。夏の夜に自宅に来ていただいたときには、玄関先でビールを飲みながら夜中まで話しましたよね。それに夏祭りの見回りのときは、祭りが終わってから夜中2時まで、ビールを飲んで話し込みました。

吉川小学校PTAの山脇会長。ありがとうございました。町PTA会では会計をお願いしました。PTAのあり方については、一家言お持ちの会長さんで、お話をするのがとても楽しみでした。また趣味も私と同じバイクでしたよね。

光風台幼稚園PTAの村岡会長。ありがとうございました。町PTA会では、村岡さんの笑顔と行動力が頼りでした。若いお母さん方と一緒に劇をされたり、私にはとてもできないことをされる勇気に感心していました。

東ときわ台小学校PTAの米津会長。ありがとうございました。落ちついた方で、お話しもユーモアに富み、大変頼りにさせていただきました。ガレージにおかれていた大型バイクには驚きました。

東能勢小学校PTAの友岡会長。ありがとうございました。町PTA会では副会長をお願いしました。私はいつも「友岡さんには怒られているのかな」と思っていたのですが、ご自宅に伺ったときに、笑顔で出てこられ、それ以後、安心して仕事ができたように思います。

東能勢中学校PTAの井上会長。ありがとうございました。PTAだけでなく、自治会などでも活躍されていると伺ってました。豊能町の東地区で会合をしたときは、おすし屋を手配していただいて楽しかったことを思い出します。

東能勢幼稚園の山田会長。園児の安全確保のために、雑草の刈り取りなどを積極的にされた、熱心でハンサムな会長さんでした。

吉川幼稚園の岸本会長。ありがとうございました。私たちの会長任期が終わった後も、「おやじの会」の世話役になっていただきました。附属池田小学校での事件の後、特に幼稚園は大変だったと思います。

町PTA会母親委員会委員長の井角さん。ありがとうございました。井角さんとは町PTA会だけでなく、地区PTA会、大阪府PTA会でも大変お世話になりました。いつも冷静に正しい判断をされる方だったと覚えています。ご主人にも大変お世話になりました。

町PTA会母親委員会副委員長の加登さん。ありがとうございました。おとなしいお母さんタイプの方だな、と思いましたが、町PTA会の会合にも熱心に参加いただき、お人柄がよく分かりました。

町PTA会前会長の松田さん。光風台小学校PTA副会長の星川さん、東能勢中学校PTA副会長の谷さんありがとうございました。

豊能町にある幼稚園・小学校・中学校の園長先生・校長先生。ありがとうございました。大変お世話になりました。

北摂こども文化協会の立石さん。ありがとうございました。子どもや地域のことを真剣に考えておられること、またリーダとしての資質を立石さんに感じました。

豊能地域教育振興センターの藤原所長。ありがとうございました。地区PTAの行事では、地域振興センター大変お世話になりました。パネラーとして出席されたときの赤いドレスがとてもお似合いでした。

豊能地域教育振興センターの吉岡先生。ありがとうございました。吉岡先生とはずいぶんお話したなぁと思い出します。豊能地区や大阪府の状況について詳しい吉岡先生がおられて、無事大役を果たせたと思っています。

豊能地域教育振興センターの亀谷先生。ありがとうございました。亀谷先生には、言葉では言いつくせないほどお世話になりました。所用で大阪府PTA会の会合を欠席したとき、亀谷先生が頑張って誤った方向に行かないように尽力されたと伺いました。感謝しています。

豊能地域教育振興センターの樋口先生。ありがとうございました。先生には豊能地区PTA会の会長就任当時だけのお付き合いになりましたが、親切にご説明いただきました。

池田市PTA会の芹川会長。ありがとうございました。悲惨な事件が起こってしまった池田市の会長さんとして、大変な一年になりましたね。男気のある芹川会長とご一緒にお仕事できたことを嬉しく思います。

池田市PTA会母親代表の川原さん。ありがとうございました。芹川会長と一緒に、池田事件の後は大変なお仕事をされたと思います。

池田市教育委員会の谷口さん、坂本さん。ありがとうございました。池田事件の対応でお忙しくされていただけでなく、私の後は池田市から地区PTA会長を出すことになっていましたから、そのことでもご心配があったかもしれません。

豊中市PTA会の辻会長。ありがとうございました。大きな豊中市をまとめるのは、豊能町以上に難しいことだったと思います。豊中市が団結して事にあたられたのも、心優しい辻会長がおられたからだと思います。

豊中市PTA会母親代表の吉田さん。ありがとうございました。ご苦労様でした。同じ時期、ご一緒にお仕事ができて、嬉しく思いました。

豊中市教育委員会の岩崎さん、伊藤さん。ありがとうございました。豊中で始まった銀行によるPTA会費の振込み手数料問題など、いろいろな情報を知らせていただきましたね。おかげで他の市町もあわてずに問題に対応できました。

箕面市PTA会の團原会長。ありがとうございました。いつもユーモアを忘れない團原会長は、私にとっては、どんな会合にも参加して支えていただいた律儀な会長さんでした。

箕面市PTA会母親代表の中田さん。ありがとうございました。井角さんから、今でもその時の母親代表の方々が仲良くされていると伺っています。

箕面市教育委員会の中野さん、前田さん。ありがとうございました。箕面市でも附属池田小学校事件の余波で大変だったと團原会長から伺っています。本当にご苦労様でした。

能勢町PTA会の原田会長。ありがとうございました。原田会長は、ものごとをザクッザクッと判断され、それでいて間違われない会長さんでした。いただいたトマト、見栄えよりも、作り方と味にこだわる原田会長の味がしました。

能勢町PTA会母親代表の永井さん。ありがとうございました。豊能町と能勢町は環境も良く似ており、今後もご一緒に地域のことを考えたいと思います。

能勢町教育委員会の中島さん、平田さん、上西さん。ありがとうございました。安全対策の予算化や、能勢町からの地区PTA会長選出について、いろいろな問題があることを伺いました。この1年は能勢町にもずいぶん助けていただきました。お互い助け合いながら、やっていきましょう。加登さん。ありがとうございました。

豊能地区PTA会の前会長の上西さん。ありがとうございました。上西さんから引き継いだお仕事ですが、できたこと、できなかったこと、半々ぐらいだったでしょうか。

豊能地区PTA会の前母親委員長の倉脇さん。ありがとうございました。熱心にご説明いただいき、とにかく道を外れずに1年間を終えることができました。

豊能郡教職員組合の舟木先生。ありがとうございました。豊能地区子どもの進路を保障する会では、先生に大変お世話になりました。

泉南地区選出の大阪府PTA会副会長の北野さん。ありがとうございました。あまりお話しすることはありませんでしたが、1年間ご苦労様でした。総合保障制度については、泉南は距離をおきたいとお考えのようでしたから、お話しする機会も少なかったのでしょうか。

泉南地区選出の大阪府PTA会副会長の杉野さん。ありがとうございました。じっとなりゆきを見守っておられましたよね。豊能と泉南、大阪の北と南ですが、泉南は、豊能にはない財産である「海」をお持ちです。これを教育に活かすお話がしたかったです。

泉南地域教育振興センターの田中先生。落ちいた態度で、良識を持たれた方として、私は先生のことを非常に頼りにしておりました。ありがとうございました。

南河内地区選出の大阪府PTA会副会長の井関さん。ありがとうございました。井関さんにはずいぶん助けていただきました。「木村さんは直球、自分はスローカーブと」おっしゃられましたよね。球種も2種類なければ勝てなかったかもしれません。年齢は私より少し上で、兄のように思っていました。ありがとうございました。

南河内地区選出の大阪府PTA会副会長の坂上さん。ありがとうございました。私は気楽な副会長でしたが、坂上さんは五役会でのメンバーでもあり、一番辛い場所におられたように思います。坂上さんの頑張り・勇気・根気に頭が下がります。

南河内地域教育振興センターの石橋先生。ありがとうございました。ユーモアたっぷりの先生で、井関さんや坂上さんから先生のお人柄のことを伺っていました。大阪府PTAの役員会で、ある方が私個人を非難されたとき、私はそれほど妙な顔をしたのでしょうか。後で役員の方から伺ったのですが、対面形式のテーブルで私の向こう側に座られていた先生が、「木村さんのあんな顔は見たことがない」と言われたとのことでした。つまらない感情が顔に出たのであれば、私もまだまだです。

北河内地区選出の大阪府PTA会副会長の手島さん。ありがとうございました。手島さんの温厚な性格で、ずいぶん助けていただきました。その後、市会議員になられたと伺いました。私は議員は嫌いですが、手島さんは別です。

北河内地区選出の大阪府PTA会副会長の野呂さん。ありがとうございました。ざっくばらんなご性格で、お話ししやすい方と思いました。府大会がご近所で開催されて、大変ではなかったですか。ご苦労様でした。

北河内地域教育振興センターの小川先生。ありがとうございました。先生と直接お話しする機会はあまりありませんでしたが、大阪府PTA会の内情には、がっかりされていたのではないでしょうか。本当に子どものことを考える会にしたかったと思います。

中河内地区選出の大阪府PTA会副会長の真野さん。ありがとうございました。会長代行という立場で、大変気を遣われたことと思います。何の議題だったか忘れましたが、会議が前に進まなくなったときに、真野さんに支持していただいて動き出したことがありました。

中河内地区選出の大阪府PTA会副会長の比企さん。ありがとうございました。五役会のメンバーでもあり、司会進行などご苦労様でした。大阪府PTA大会で比企さんがまだ話されているのに、井関さんが幕を下げられたのを思い出します。

中河内地域教育振興センターの蒲生先生。ありがとうございました。総合保障制度の意見の取りまとめなど、お手伝いをいただきました。大阪府PTA会を、本当の意味で、子どもの将来を考えれる会にするには、私の力も時間も足りませんでした。すみません。

三島地区選出の大阪府PTA会副会長の杉尾さん。ありがとうございました。総合保障制度の改革は、杉尾さんの頑張りがなければできなかったことです。杉尾さんの考え方がしっかりしていたから、私もお手伝いすることができました。

三島地区選出の大阪府PTA会副会長の阪野さん。ありがとうございました。お仕事先の見学もさせていただきました。教育と言っても、本当にいろいろな問題があるのですね。その最前線におられる阪野さんのお人柄と教育への情熱を強く感じました。

三島地域教育振興センターの前田先生。ありがとうございました。三島の前田先生というと、怖い先生と伺っていたのですよ。実はそうではなかったのですね。三島にはいろいろ教えていただきました。

三島地域教育振興センターの堀川先生。ありがとうございました。先生には大変お世話になりました。正論で通される先生のものの考え方が好きでした。三島は良識があると思いました。現場に戻られても、先生の正論、きっと変わらないのでしょうね。

吹田市PTA会の大原会長。ありがとうございました。大原会長はいろいろな意味で、三島PTAの中心だったように思います。落合に似て貫禄もあり、PTA運営も「おれ流で」されていたのでしょうか。初めてお目にかかった居酒屋、総会の後の居酒屋、楽しい思い出です。

泉北地区選出の大阪府PTA会副会長の清水さん。ありがとうございました。大変勉強になりました。ホームステイのお仕事、ご苦労様でした。

泉北地区選出の大阪府PTA会副会長の川村さん。ありがとうございました。まわりに気を遣い過ぎられたのではないですか。川村さんからは優しいコメント、手厳しいコメントの両方をいただきました。別の形でお目にかかっていたら、きっとご一緒にもっと大きいお仕事ができたように思います。

泉北地域教育振興センターの富田先生。ありがとうございました。堺市の教育委員会の方をご紹介いただくなど、総合保障問題でも大変お世話になりました。大変、難しい立場でお仕事をされていたこと、お察しいたします。

大阪府教育委員会の有本先生。ありがとうございました。近くで大阪府PTA会をご覧になられていながら、どのようにかかわるのが良いか、非常に難しいお立場であったと思います。ご苦労様でした。

大阪府PTA会事務局長の堀口さん。ありがとうございました。体調も崩されたし、大阪府PTA会での議論には大変お疲れになったと思います。事務局長をお辞めになられますが、今度お目にかかる時は、まったく別のお話をしたいですね。

大阪府PTA会事務局の木本さん。ありがとうございました。木本さんとはずいぶん長くお話しましたよね。長年、大阪府PTA会を支えていただいたこと、感謝いたします。結局、私が木元さんの辞表をお預かりすることになりました。木本さんの思いを、大阪府PTA会に残せなかったように思い、申し訳なく思っています。

大阪府PTA会事務局の大野さん。ありがとうございました。もの静かに、確実にお仕事をされていたのが印象的でした。ご苦労様でした。

大阪府PTA会会長の川西さん。ありがとうございました。後の舵取りに、よろしくお願いいたします。ご苦労様でした。

幼稚園代表の大岡先生、小学校代表の雑賀先生、中学校代表の浅尾先生。お話しする機会は、あまりありませんでしたが、1年間、ありがとうございました。

オーストラリア研修の引率でお世話になった先生方、前年度役員の方々、おりがとうございました。

シンクロ・スイミングのコーチ、井村さん。ありがとうございました。遠くまでおいでいただきました。とても良いお話を伺いました。

吉中PTA会長の石原さん。後をよろしくお願いいたします。結局、PTAのお仕事からはぬけられませんね。私は石原さんの代わりとして貴重な経験をさせていただきました。

吉中PTA副会長の加地さん。副会長の伊藤さん。書記の黒田さん。新しい委員長さん、委員さん、後をよろしくお願いいたします。

池田市PTA会新会長の森さん。地区PTA会新会長、大阪府PTA会新副会長として。後をよろしくお願いいたします。

池田市PTA会新母親代表の普川さん。地区PTA会新母親代表、大阪府PTA会新副会長として。後をよろしくお願いいたします。お食事にお誘いいただき、ありがとうございました。

豊中市PTA会新会長の山田さん。後をよろしくお願いいたします。本当に歌が上手なのでびっくりしました。新母親代表の朝生さん。よろしくお願いいたします。

箕面市PTA会新会長の馬場さん。後をよろしくお願いいたします。新旧食事会では、退任した後で一度に肩の荷がおり、本当にくつろげました。新母親代表の中井さん。よろしくお願いいたします。

能勢町PTA会新会長の小林さん。後をよろしくお願いいたします。カラオケ、熱唱でしたね。山田さんと良いコンビでした。新母親代表の森田さん。よろしくお願いいたします。

豊能町PTA会新会長の田原さん。後をよろしくお願いいたします。町のほうもよろしくお願いしますね。新母親代表の松原さん。よろしくお願いいたします。

豊能町教育委員会の土倉さん、下芝さん、能勢町教育委員会の永棟さん、豊中市教育委員会の有井さん。後をよろしくお願いいたします。

大阪府PTA会会長代行の西条さん。大変でしょうが、後をよろしくお願いいたします。

大阪府PTA会事務局長の??さん。木本さんがお辞めになられた理由をよくお考えいただき、後をよろしくお願いいたします。