04年08月12日 04年08月10日
松江に行ってきた。息子が松江の学校に行って5年目になる。今年中に行かなければ 行くチャンスはもう無いかも知れない。学校、寮がどんな所か見てみたいし、 島根半島で釣もしたい。松江には30年も前に行ったのだが、落ち着いた静かな町 のイメージがある。
昭和46年5月の連休に友人3人と京都発、出雲市行きの夜行の各停に乗り 米子まで立って行った。当時はゴールデンウィーク・お盆・年末年始の民族大移動時は 大抵、夜行列車は満員だった。米子で3人は松江の駅に集合の約束をして、行きたい所に行く 事にした。私は弓ヶ浜を北上し、渡し舟で大根島に渡った。船賃は50円位だったろうか。

5月の大根島と言えば牡丹、あちらこちらに牡丹園があった。島の東から南の方にある 松江行きの船(5月の連休にのみ運行していた)に乗るため、のんびりと歩きながら 写真を撮った。右手の高台に見える学校のような建物が何処まで行っても右手に見えた、 メルヘンの世界のようだった。港には馬車があり、その前に居た60歳くらいのおじいさん が「何処から来た?写真を撮ってくれ」と言ってきたので、話しながら馬の前で写真を撮って、 後日、「島根県八束郡八束町大根島の柏木晴信」様に写真をキャビネ版に焼いて送った。 現像にちょっと失敗して軟調になりあまり出来は良くなかったが、丁寧なお礼状が来たのを 今でも覚えている。
そんな大根島・中海は現在中断しているが、干拓事業が始まって島は地続きになり、 松江行きの船はなくなってしまったようだ。島から松江までは、20分もかからずに着いた。 しかし、大学も寮も正確な場所は知らない。確か市の北の方だったと、記憶しており、 学園通りというのが有ったので、北上すると島大通りと交差し、すぐ横に大学が有った。 しかしキャンパス内に寮は無かった。守衛さんに聞いて、野球場の北のほうということで この辺りかとエイヤと曲がって寮に着いた。息子に電話を掛けても繋がらないし、メールを 送っても、ナシのつぶて。こうなれば寝ているところを襲うしかないと、日曜日の朝10時頃 に来たのだ。汚れた玄関でいかにも男子寮という雰囲気のところに、 入寮者の名前が貼り付けてあったので、部屋の番号を確かめて勝手に入っていった。

息子は汚い部屋で寝ていた。二人部屋で寝るだけの場所のようだ。いい若い者がこの暑い日中 ただ無為に寝ているだけの生活かと思った。しかし、寝ぼけたような息子とじっくりと話をする場所も無いし、とにかく この寮に確かに息子が居るのが判ったので、今夜食事しようと言ったが、松江は花火大会があり 先輩が寮に来るので、みんなで食事をする、との事だった。それでは、また帰る前に来ると言って 別れた。
釣り場に行っても早いだろうし、前に行った観光地を再訪するのも目的の一つだったので 大手前の駐車場に車を入れ、松江城の堀に添って惣門通りを歩いた・・が暑い。空には雲が無いし 12時近くで日陰が無い。観光客は堀割めぐりの船に乗って行き交い、歩いている人は居ない。
武家屋敷・小泉八雲旧居には見覚えがある。30年前の5月はDiscover Japanのキャンペーン も始まって、我々団塊の世代が若かりし頃で、私の写真の中の人たちも輝いていた。
今、その同じアングルの写真の場所には人影が無い。あまりに暑いせいかも知れないが、 寂しすぎる気がした。その後も人影の少ない城山公園に上り、松江城の天守閣を通って駐車場 に戻り、少し早いが釣り場に向かった。(この後は釣行記録)


翌日11時過ぎ、04総体で渋滞する町を寮に息子を迎えに行った。さすがに外出するので こざっぱりとしていて、何を食べるか聞いたが、学生が行くような所は大体行っているようで 旧市内は、元気が無いしと魚市場前の「磯の家」という食堂に行った。そこで聞く話は卒業研究の内容、 就職先のこと、アルバイト先、寮での生活等、初めての事ばかりだった。この町で過ごした5年で 息子が大人になったのを実感し、昨日寮で見た、情けない姿も含めて実のところ、今が一番 光り輝いているのではないかと思え安心し、帰路に着いた。