氷上の妖精
若干8才の少女の名が全国的に知られるようになった。 氷上で踊るように滑る彼女の姿はまさに妖精だったので、人々は彼女を「氷上の妖精」と褒めそやした。 しかしそれから8年経った今、その言葉を覚えている者はほとんどいない。 なぜならその妖精は全国に名が知れ渡ったと同時に、アイススケート界から姿を消したのだ。 冬になると、大人も子供もアイススケートを少なくとも一回は楽しむだろう。 麻倉葉もその一人だった。 彼女は現在街にあるスケートリンクでゆるやかに滑っていた。 滑っているのはたった3人。 それもそのはず、葉を除くあとの二人は今度どこかの大きな大会に出場する選手らしく、その日そのスケートリンクは大部分が二人の為に貸し切りになっていたのだ。 葉はホロホロと二人で区切られた小さな場所で楽しんでいた。 「うぇっへっへ。やっぱ冬と言ったらこれだよなー」 なあ?と振り向いた先ではホロホロが見事に転んでいた。 「お前スキーは上手なのになー」 そんなに難しいもんかね?とシャッとホロホロの隣にやってきて転んだホロホロを助け起こしていた。 隣ではペアの二人が見事な3回転を披露していた。 「いてて・・。そう言うお前はスキーは下手なのにこれはやけに慣れてんだな・・」 足元をフラフラさせながら柵に捕まっているホロホロ。 葉はそうかー?と笑いながら後ろ向きに滑っていたりする。 「昔ちょっと習ってたからなー」 冬にしかやらなくても体はけっこう覚えてるもんなんだなと葉はシャコシャコと滑りながら思っていた。 時に隣のペアを見ては二人がジャンプしたり回ったりする度に拍手をした。 「上手いもんだなー・・」 パチパチと葉が拍手する音がリンク内に響いている。 突然ペアである女性が葉に向かって猛スピードで向かってきた。 見事に葉の手前で止まって見せると、女性は葉を睨んでいった。 「貴様は俺達の邪魔をしているのか?」 なぜ女性なのに一人称が俺?とホロホロは突っ込みたかったのだが足がおぼつかないので言わなかった。 葉はそんな事を気にする様子もなくきょとんと女性を見つめている。 そしてふと思いついたようにポンと手を打つと、女性を指差して笑った。 「どっかで見たと思ったらお前蓮だろ?」 去年テレビで見たんよーと葉は勝手に女性と握手している。 「って事はあっちのもう一人がハオか?」 葉は区切りをまたいでシャーっともう一人の側に近づいていった。 近くでまじまじと本物を見て、「おおやっぱりそうだ」と笑っている。 蓮はついにキレた。 「貴様・・・」 「オリンピック目指してんだろ?頑張れよ」 と今度もまた勝手にハオと握手している葉は蓮の様子など微塵も気にしていない。 「どうでもいいけど・・練習の邪魔だから出て行ってくれるかな?」 ハオがどこか冷たく言った。 「おお。そう言えばこっちに入っちゃいけなかったんよな」 すまんと葉はとっとと戻ろうとした。 ところが・・・ 「うわっ!」 突然葉の行く手をイスが阻んだ。 リンク外にあった物を蓮が氷の上で葉に向けて滑らせたのだろう。 イスがぶつかると思われた時、葉は見事に避けてみせた。 葉が避けたので後ろにいたハオも避けなければならなくなった。 葉はそのまま蓮の方へと滑っていった。 謝ろうと思って近づいた葉は蓮が驚く顔を見た。 「・・・どうしたんよ?」 「貴様ただ者ではないな?さっきのを避けるとは・・」 どうやら前にやった時は上手くいったらしい。 「あ、ああ。オイラ前に習ってた事が・・」 「それより僕どっかで見た事あるんだけど」 気のせい?とハオがまじまじと葉を見る。 葉は少し慌てた。 「気のせいだろ?それより練習の邪魔してすまんかった」 といまだに柵にしがみついているホロホロの所へ戻ろうとした時、まさに悲劇が起きた。 葉が肩から下げていたポシェットの金具が蓮の服に引っかかっていたのだ。 「うおっ!?」 「うわっ!?」 二人は同時に転んだ。 「いって・・。うわああ!すまん蓮・・オイラまた」 「・・蓮?」 蓮はうずくまったまま動こうとしない。 数秒後、蓮は足を突き出して葉を睨んだ。 「貴様・・・どうしてくれるのだ?」 蓮の足は少し青くなっていた。 「貴様のせいで足を捻ってしまったではないか!!」 葉は呆然と蓮の少し青くなっている足を見た。 もうすぐ大会でそこに出場する選手に怪我をさせてしまった。 どうする!?というより、後ろの冷たい視線が痛い。 「・・・ねぇ、って事は大会出られないの?」 ビクリと葉が硬直する。 「だろうな。すまんがそういう事になる」 「ふ〜ん?で、君はどうやってその責任をとってくれるのかな?」 葉は硬直したまま動けない。 (す、すまんかったで済む問題じゃないよな・・) かと言って何もしない訳にはいかない。 (とりあえず蓮を病院に・・・) 「あら、どうしたの?蓮」 リンクの外から声がした。 「姉さん」 「やあ、潤。良い所に来てくれたね」 潤という女性は蓮の側まで来ると、足を見て顔をしかめた。 「早く病院へ行った方が良いわね・・」 「あ、あの、すまん・・・」 葉がやっとおどおどと謝罪の言葉を口にした。 「ホント、余計な事してくれたよね・・。次の大会にかけてたのに」 ハオが冷たく言った。 「仕方なかろう。むしろ俺としてはお前とのペアがこれでなくなれば言う事なしなのだがな」 「まあね。けど、お前以外に僕についてこれる奴いないんだよ」 できるだけ早く治してくれ、それだけ言うとハオはリンクから出て行こうとした。 葉は何をしていいのか分からなかった。 今度はハオではなく潤が葉をまじまじと見ている。 「・・・・ねぇ」 「あ、はい。何ですか?」 潤は葉の顔を眺めてから、もう一度ハオを見た。 しばらくその行動を繰り返した後で潤はにっこりと笑い、ハオを呼びとめた。 「ねぇ、どうしても大会に出たいならこの子とペアを組んだらどう?」 これにはハオも葉も驚いた。 そして二人は同時に言葉を発した。 「「・・・無理だって」」 あらどうして?と潤は首をかしげる。 「息もピッタリじゃないvそれにあなた、前にアイススケートやってた事あるんでしょ?」 「え、ああ・・・あるけど。ってどうしてその事知ってるんよ?」 フフと笑うと、蓮を起こしながら視線だけは葉に向けて言った。 「私は名前も知ってるわよ。ねぇ、麻倉葉ちゃん?」 「麻倉葉?」 ハオが葉を見る。 気のせいかもしれないが、少し怒っているように見える。 蓮は訳が分からんとさっさと足をかばいながらリンクの外に出てしまった。 潤は葉を立ちあがらせると、肩に手を置いて笑って言った。 「蓮の代わりに頑張ってねv」 「でもオイラもう8年ぐらいちゃんとやってないし・・って言うかその前に」 「僕なら別にかまわないよ」 「!?」 葉は驚いてハオを見る。 「大会まであと一ヶ月・・・。それまでに感覚を取り戻す事だね。でないと僕は絶対に許さない」 「あのね、葉ちゃん。ハオには夢があるのよ・・」 「夢?」 「そんな事はもうどうでもいいよ。それより、明日からここで午後6時半から練習するから」 覚悟してこいよ、と冷たい視線を葉に投げつけてハオは帰っていった。 葉は呆然としてその場に数分突っ立っていたが、やがてホロホロがまだ柵にしがみついているのに気づき、やっと地面にちゃんと立つ事ができたホロホロと共に、ぼんやりしたまま帰っていった。 まだ電気のついていない自分の部屋に入り、後ろ手にドアを閉めてハオは深く息を吐いた。 しばらく床を見つめていたが、体をドアから離して電気のスイッチを手探りで探した。 明りのついた部屋を突き進み、ハオはソファに身を沈めた。 そして、自分の部屋についてから2度目のため息をつく。 前髪を掻き揚げ、チラリと部屋の隅に置いてある本棚に置かれた写真立てに目をやる。 「・・・もうすぐ、君に近づける」 写真に向かって微笑みかける。 「君に近づくために、僕は今度の大会で必ず優勝するんだ・・」 (その為に、アイススケートを始めたんだ・・) 写真に向けていた優しい微笑は、厳しい表情に変わる。 「相手が誰だろうと知った事か・・。僕は必ず自分の夢をかなえる」 パタンと写真立てを倒して、ハオは本棚に背を向けた。 「麻倉葉・・」 葉は帰ってきてからずっと黙っていた。 茎子が葉の好きな食べ物を目の前においても反応しないし、幹久が葉の気を引こうと周りをうろちょろしても何も言わなかったし、笑わなかった。 「変ねぇ・・・。どうかしたのかしら?」 葉がぼんやりしている傍らで、幹久と茎子は顔を寄せ合ってボソボソと言った。 「体に異常はないようだけれどね・・」 「何か心当たりはないの?」 「まったく・・・」 「なあ・・」 突然葉が口を開いたので、両親は驚いて飛びあがった。 「な、何!?」 葉はぼんやりとしながら言った。 「オイラがまたアイススケート始めたー・・・って言ったらどうする?」 葉のその言葉に、幹久も茎子も顔を輝かせた。 「また始めるの!?」 茎子は葉の前に回りこんでその手を握っている。 「へ!?」 幹久は葉の肩に手をポンと手を置いた。 「・・あ、あの?」 仮面から涙が流れている。 「いつ・・またそう言い出してくれるだろうと待っていたんだよ、葉」 「始めてくれるのね?葉v 大変だわ!新しいカメラとビデオを買わなくっちゃ!!」 「えええ〜!!あ、あの・・オイラはただ・・」 天にも昇る勢いの両親に葉は事の経緯を話した。 「うん、それはやるしかないね」 両親はやはり嬉しそうに頷いた。 「・・でもオイラペアはやった事がないんよ?」 しかも相手はあの有名な麻倉ハオだし、と落ちこむ。 「あら〜、そんな事は心配いらないわv」 「そうだね」 だって・・と両親は声を揃えて言った。 「「うちの葉は天才だものv」」 にこにこと笑う二人に、もはや何を言ってもどうにもならないと思った葉はあきらめて部屋に戻っていった。 キッチンからは歓声が聞こえる。 そこでようやく思い出した。 自分がアイススケートを辞めたいと言った時の両親のがっかりした顔を。 辞めた理由は今でもしっかり覚えている。 今でも本当はその理由の為にやりたくはなかった。 しかしどう考えても非は自分にあるようだ。 「・・・昨年の大会のビデオ置いてたっけ?」 葉はごそごそと探した。 アイススケートは、辞めた今でも大好きだ。 「おお、あったあった!」 ペアでやるとなると相手の事もよく知っておかなければならない。 「麻倉ハオ・・か。昨年は確か3位ぐらいだったっけか?」 潤の言葉を思い出す。 ハオには何かは知らないが夢があるらしい。 「・・・オリンピックに行きたいってのが夢じゃないんかな?」 テープを再生し、適当に早送りをする。 ハオと蓮のペアは動きが速く技術にも優れていると言う事で昨年も優勝候補でありながら惜しくもその座を逃したのだった。 全国的に名が知れている相手と辞めてから8年の自分が組む。 「・・・すげぇよな〜この二人」 そう言えば昨年も感嘆しながら見てたっけと葉は思った。 もう一度あの冷たいリンクに立つ・・。 それも今度はあの麻倉ハオのペアで。 「ああ〜〜〜・・。どうしよう」 葉は不安でいっぱいだった。 そして、翌日から地獄が待っている事を彼女は知らない。 次の日、葉は言われた時間より少し早くやって来た。 ハオはまだ来ていなかったので取り敢えず適当に滑って体を動かしておこうと、葉はリンク上をスイッと滑った。 「・・・8年やってないけど、オイラちゃんと飛べるのかね?」 少し勢いをつけて、試しにやってみようと氷を蹴った。 シャッと小気味良い音がして、葉は飛んだ。 2回転して着氷。 「・・・以外と体が覚えてるもんだな」 そのまま後ろ向きに滑ってまた飛んで、今度は3回転で着氷する。 そしてリンクの真ん中辺りで回る。 入り口辺りに、人が立っているのを葉は見た。 笑顔の表情が固まったまま、葉は回るのをやめて止まった。 「やめてから8年も経ってるわりには上手いじゃない」 ハオが葉の側まで滑ってくる。 「以外と体って覚えてるもんなんだね」 葉は意を決して振り向き、少し固い笑顔をハオに向けた。 「きょ、今日からよろしくお願いします」 「ああよろしく」 やはりハオは冷たかった。 もしかしたら今立っている氷より冷たいんじゃないかと葉は思った。 「ところで、さっき見てた限りでは君は3回転はできるみたいだね」 「おお・・。一応できたぞ?」 ちょっと不安だったんだけどな、と葉は苦笑いをした。 「4回転は?」 「は?」 「4回転」 「よ、4回転?」 葉は今まで4回転するアイススケートの選手を見たことがない。 固まる葉を呆れたように見て、ハオはため息をついた。 「僕と蓮はね、4回転ジャンプをやってたんだ。蓮の代理でもやってもらわないと困るんだよね」 それに・・・とハオは葉をチラリと見る。 「ペアやった事ないんだよね?」 葉は激しく頷いた。 「ない・・・です」 ハオが葉の後ろに回り、腰の辺りを持って持ち上げた。 「重い・・・」 「なっ!?」 葉を降ろしてもう一度ハオは言った。 「蓮より重い」 これには葉も少しムッとした。 女性に向かって重いとは何だ、という事ではない。 もちろん体重が軽くないといけないのは葉は知っているので、体重は増やさないようにしているのはやめた今でも変わっていない。 「あのなー、蓮とオイラじゃ身長が違うだろ!」 「ああそうか・・。それじゃ、ちょっとやってみようか」 何をと言う前にハオは葉の腕を引いて滑り出すと、もう一度腰の辺りに手をそえた。 「まさか・・・」 「取り敢えず2回転ぐらいして着氷ね」 葉の返事を聞く前にハオは葉を放り投げた。 2回転したのは良い。 「う、を、わぁ!!」 その後バランスをとるのにあたふたする葉を見て、ハオは再びため息をついた。 「だからオイラペアやるのは初めてなんだって言ってるだろ?」 「大会までにさっきので4回転してもらわないといけないんだけど?それから、自分でジャンプして回転するのも4回転してもらわないと困る。ちなみに、僕が蓮と組んでいたのは彼女が4回転を軽くこなすからなんだ。それに彼女は動きも速いしね。性格はあわないけど非常にやりやすかった。それなのに・・・」 まるで洪水のようにしゃべるハオ。 葉は耳を塞ぐわけにもいかないので聞いていたが、今すぐ逃げ出したくなっていた。 「葉〜〜〜v頑張るのよ〜」 外から手を振って茎子が声援した。 葉が滑って転んだのは言うまでもない。 「誰?」 「か、母ちゃん・・・」 茎子が手に持っている今まで見たことのないデジカメを見て葉は思った。 (買ったんだな・・・) 茎子はハオを見て言った。 「うちの葉は天才だから4回転なんてすぐにできるようになるわ。ねぇ、葉?」 (いらん事を言わんでくれ〜〜〜!!) 葉はこっそり涙を拭った。 「・・・天才ねぇ。じゃあその天才さんに是非ともがんばってもらわないとね」 その日、葉は青あざを数個作って家に帰った。 これにてレッスン第一日目終了・・。 初めての日から1週間が過ぎた。 葉は大分感覚が戻ってきたらしく、ペアでもなんとかやれそうな感じになってきた。 しかしそれに反比例するように、ハオの機嫌はますます悪くなる一方だった。 本来なら喜ぶはずの所だが、ハオは何故か怒っているようだった。 ふと気づくと、出会ってからと言うもの葉はハオの笑顔をまったく見ていなかった。 「なぁ、何怒ってるんよ?」 葉が休憩時間に思いきって尋ねた。 ハオは葉に見向きもせず「別に」と一言答えるだけだ。 「んじゃあ、お前の夢って何なんよ?」 次なる質問にもまた「別に」と答えが返ってくると葉は思っていた。 ところが、ハオは動きを止めてリンクを怒ったように見ていた。 「ハオ?」 ハオはゆっくりと葉を見た。 その目が何故か先程より怒っているような気がした。 「・・・君には関係ないよ。別にオリンピックへ行きたいとかそんなのじゃない事は確かだ」 何せ、君みたいなのと組んで大会に出ようとしてるんだからねとハオはさっさとリンクへと戻っていった。 ついでに「早くするよ」と葉に声をかける事も忘れていない。 葉は徐々にハオが嫌な奴だと思い始めた。 あんなに嫌な奴なのに上手い事が葉には許せなかった。 心の奥底で「絶対大会までに蓮より上手くなって目にもの見せてやる!」と思っていた。 その日から、葉はこっそりとハオにバレないように練習を始めた。 昔とった杵柄で、知り合いの人が経営するスケートリンクを無料で借りたり、知り合いのコーチに教えてくれとせがんだりと葉は復讐に燃えていた。 その間、怪我をさせてしまった蓮のお見舞いに行く事を忘れず、毎日花やバナナなど御見舞いの品々を持って行っては「貴様はオレの部屋を花や果物で埋める気か!?」と怒鳴られた。 もちろん、ハオの愚痴を言う事もバッチリ覚えていた。 「姉さん・・。葉を何とかしてくれ・・」 疲れたように呟いた蓮の言葉に潤はクスクスと笑い、「どうして?楽しいじゃないv」と尋ねた。 「このままではその内果物が腐った臭いの中で生活する事になる・・」 なるほど、確かに蓮の周りは生物でいっぱいだった。 「そんな物は私が実家に持って返ってパンダにでもあげちゃうから良いけれど・・。それより心配なのは蓮以上に葉ちゃんとハオの相性が悪い事よね。喜ぶと思ったのに・・」 どうしたのかしら、と潤は部屋の窓から街並みを見下ろす。 「確かにそれはオレも不思議に思った。あいつの夢を思えばこそ尚更な・・」 もしかして、と二人は同じことを同時に言った。 「「悔しいのか(しら)?」」 分からん奴だ、と蓮は天井を眺めた。 そして横にある花を見て、明日は何を持ってくるつもりなんだと途方にくれた。 蓮の足が歩ける程度に治ったのは、葉が蓮の部屋を埋め尽くすよりも少しばかり早かった。 おかげで蓮は毎日来る葉の見舞い攻撃から逃れる事ができた。 お節介にも程がある!と蓮が怒鳴ったのはつい先日の事で、潤はやはり楽しそうに笑っただけだった。 そして蓮は今日、二人の最終調整のための練習を見ていた。 そう、月日が流れるのは早くて、大会はもう明日に行われる。 蓮とハオが目指していた4回転を葉は見事にやってのけている。 「ほう・・。なかなかやるではないか」 「当然といえば当然よね」 潤は笑っている。 「そう言えば姉さんはどうして葉がそうだと分かったんです?」 昔スケートをやっていたという奴なら葉でなくても他にいる。 蓮のちょうど隣で娘をビデオにおさめていた茎子が笑顔で言った。 「葉がかわいいからよv」 蓮はそれを無視した。 「ちょうどあなたと葉ちゃんは同じ年齢だから、あなたが分からなくてもしょうがない事ね・・」 潤はさげていたハンドバッグからある雑誌を取り出した。 少し古めかしい。 「これよ」 潤が差し出したソレの表紙に、蓮の眼は釘付けになっていた。 「なるほど」 「ええ」 ニッコリと潤は微笑んで葉の方に視線を向けた。 「ホント、上手いわね・・」 「じゃあ、明日遅れて来るなよ」 ハオが去り際に言った。 「おお。・・・・あのさ、ハオ」 ハオは無言で振り返った。 その顔に不機嫌だと書いてあるので、葉は手短にさっさと用件を述べる事にした。 「明日、大会が終わって、もし優勝できたらお前の夢が何なのか教えてくれんか?」 「・・・・」 ハオはじっと葉を見ていた。 もしかしたらいやだと言われるかもしれないと葉は覚悟していた。 ところが、返事は意外なものだった。 「いいよ」 「え、いいんか!?」 「別にいいよ。優勝したら、だろ?」 「・・・お前絶対オイラの事バカにしてるだろ?お前が言ってた4回転だってちゃんとやれるようになったし、最初は怖かったリフトだってちゃんと眼をあけてても大丈夫になったんだし、ちょっとぐらい誉めてくれても良いだろ?」 ハオは背を向けて「ハイハイ」と手をひらひらと振って言った。 「明日、優勝したらね」 葉は「絶対明日は失敗しないようにしないとな!」と自分に言い、燃えながら岐路についた。 そして、明日は大会当日。 大会当日、葉は出番が来る前から・・・いや、大会が開かれる建物に入る前から大ピンチというやつだった。 建物の入り口と葉との距離はおよそ5メートル。 そう、1分とかけずに到着できる距離なのである。 それなのに、電柱の影でかれこれ2時間近く入り口を伺っているのには訳がある。 「父ちゃん・・・母ちゃん・・」 幹久と茎子は葉のパンフレットなんかを作ったりして、しかもそれを配っていたりする。 「どうしよう・・。あれじゃオイラあそこに辿り着けんぞ?」 まっさきに浮かんできたのは、ハオの冷たい視線。 蓮の怒鳴り声も聞こえた。 「あああ〜〜。オイラはどうしたらいいんよ!?」 「貴様、何をしているのだ?」 「ああ!蓮!!お願いだ、助けてくれ!」 なんてナイスなタイミングに来てくれたんだと葉は感激したが、蓮の方はなんてバッドタイミングで来てしまったんだと後悔していた。 困り果てていた葉はたまたまちょうどその時にやって来た蓮に縋りついた。 「・・・それで遅れたの。こんなに」 案の定、真っ先に葉が見たのはハオの冷たい・・冷たすぎる視線だった。 それでもまだ普段の練習の時より柔らかいと思ったのは、きっと勘違いだと葉は思った。 「す、すまん・・・」 「まぁいいけどね。それじゃさっさと調整しに行こうか」 葉は慌ててカバンを近くに放りだし、靴をはくと急いでハオを追いかけた。 その時、よく前を見ていなかったために、葉はたまたま側にいたカメラマンらしき人物を倒してしまった。 「おわっ!」 「ああ!すまん!!カメラ大丈夫か!?」 「は・・。大丈夫みたいです」 起きあがったカメラマンは自分よりカメラを心配するのかと呆れたが、「ほら」と葉に照準を合わせてシャッターを切った。 「ああ、本当だ。良かった・・」 フラッシュのせいで目の前が少し見にくくなった。 「あの。とりあえずすみませんでした」 そう言うと、葉はさっさとハオを追いかけていった。 倒されたカメラマンはしばらく葉の後ろ姿を眺めていたが、突然ハッと何かに気づいて慌てて走り去った。 「編集長ーーーっ!!」 と言う叫び声が廊下に響き渡った。 「それじゃあ葉。やるよ」 「おお。優勝しなきゃなんねぇもんな!」 意気込んではいたものの、やはり押し寄せる緊張が葉の足をかたかたと震わせていた。 自分が失敗する姿ばかりが頭にちらつくのだ。 失敗したと同時にハオのあの冷たい視線が刺さる、やっぱりねという意味を込めてきっとため息をつくだろう。 葉はなんとか落ち着こうとした。 しかし落ち着こうとすればするほど緊張した。 ハオにチラリと視線をやると、落ち着いたもので、人の気などしらず一人涼しい顔で座っている。 「さて始まりました。解説の道蓮さん。よろしくお願いします」 そんな声が聞こえて、葉は顔を上げて控え室にある小さなテレビを見た。 蓮がよろしく、といつものあの顔で小さく頭を下げていた。 「れ、蓮が解説・・・?」 パチパチと瞬きをして画面を凝視した。 「出られないから解説に呼ばれたんだろ?」 ハオがぼそりと呟いた。 アナウンサーは一番の選手は云々と話し始めた。 葉はできるだけ聞かないようにしていたが、自分たちの事を話しはじめたので、意識しなくても勝手に耳が聞き始めた。 「今回の注目の選手といえば一番最後の麻倉ハオ・麻倉葉組ですねぇ」 苗字が同じなのでフルネームで言ったのだろう。 かなりおかしかったので、葉は吹き出した。 「麻倉ハオは有名な選手ですが・・、こちらの麻倉葉というのは・・・?」 アナウンサーは蓮の方にチラリと視線をやった。 蓮は口の端を上げてリンクを見ながら言った。 「まったくの無名ではないはずだ・・。実力は見ればすぐに分かるだろう」 そう言って愉快そうにクックッと笑った。 アナウンサーは腑に落ちないようで、リンク横のカメラマンがたくさんいる所に目をやった。 そこではカメラマンがざわざわと落ち着かない様子で何かを待っているようだった。 少し首を傾げてアナウンサーは始まった演技について、何やかやと言い始めた。 他の選手の演技は異様に短いように思えた。 あっという間に、自分たちの前にはあと1チームだけとなってしまった。 葉は足の震えがさらにひどくなるのを感じた。 ハオがすっと立ち上がったのを見て、移動するのだとすぐに分かったのだが、あんまりにも足が震えるので上手く立てないでいた。 「観客なんてゴミだと思えばいいよ」 「・・・普通その場合はカボチャって言わんか?」 葉は一瞬緊張も忘れてハオに意見を述べた。 ハオはそれには答えずにさっさとドアに向かって歩き出したので、葉は頑張って立ちあがり、その後を追った。 「お前緊張とかせんのか?」 ハオがあまりに飄々としているので、葉は不思議に思って聞いてみた。 「・・・・・これでも一応してるんだけどね」 そう言われても葉にはハオが緊張しているとはとてもじゃないが思えなかった。 「あと少しで出番だ。今まで練習してきた事を思い出して、失敗しないようにしてくれよ」 葉はムッとしてハオを睨んだ。 ハオの、自分はパーフェクトだというような態度が気に入らなかった。 そう思うと同時に、葉は練習時のハオの態度まで思い出した。 (こんな血も涙もないような奴にバカにされたままで終われるか!) 葉はハオに見えないように小さく拳を握った。 (絶対に目にモノ見せてくれる!!) 葉は緊張していた事をすっかりと忘れた。 成功する為にやる事その1・演技中は始終笑顔で。 そんな事は葉は知っていた。 だが、練習中にハオが笑った事など一度もない。 常に無表情だった。 だから非常に驚いた。驚くと同時に怒りが込み上げてきた。 (笑えばけっこうかっこいいなんて思ったのは気の迷いだ!!) 穏やかな曲が、少し激しい曲になった。 それまでのスピードから少し速いスピードで二人は滑り出す。 そして見せ場が近づいた。 二人で同時に4回転する所だ。 これが成功しなければ優勝が遠のく可能性がある。 「ワアアアアア!」 そんな歓声がリンク上を飛び交った。 成功したのだ。 ハオが一瞬本当に笑った気がした。 そしてまた穏やかな曲が流れ出した。 それは同時に第2の見せ場が近づいた事を示す。 あの、練習初日に最初にされた事だ。 その時と違うのは回る回数が4回だという事。 葉は神経を集中させた。 勢いに負けてこけては、さっきの4回転の成功が水の泡だ。 その時、思いがけない事が起きた。 「いくよ・・・」 練習している時は一度もそんな事は言わなかった。 葉が宙に浮き、そしてハオから離れる。 そしてまた観客の歓声が響く。 今度は気のせいではない、ハオははっきりと葉に向けて微笑んだ。 葉はそれから呆然としてしまって、終わるまでの事をよく覚えていなかった。 苦手でいつも顔が強張っていたリフトもちゃんとこなせたかどうか分からなかった。 観客の歓声が成功したんだと思わせてくれた。 葉とハオは優勝した。 後で聞いた話では、葉とハオが演技をしている間、アナウンサーは自分の役目をちゃんと果たせていなかったらしい。 それと言うのも・・・・・ 「まさか・・・あの滑らかな滑り方は・・・・そう言えばあの顔には見覚えが・・・・・」 「あれが麻倉葉ですが?」 蓮は大変おもしろそうに横でたじろいでいる声を聞きながら、二人の演技を見ていた。 「はっ!そう言えばその名も聞いたことが・・・」 「8年前、たった8才の少女が全国にその名を知れ渡した。彼女が滑る姿はまさに妖精・・」 「氷上の・・・妖精の名は・・・・・・・・」 アナウンサーは驚きに目を見開かせてその名をテレビで全国に知らせた。 「麻倉 葉・・・」 大会から数日経って、葉はハオからの突然の電話によって呼び出された。 「僕けっこう小さい時からスケートやってたんだ」 オレンジジュースを飲みながら、葉はハオの話を聞いていた。 「ただ何となくやっていただけだったから、もうやめようと思っていたんだけど、9才のときにある大会を見て気が変わったんだ。僕の気を変えたのはたった8才の少女だった」 葉は思わずオレンジジュースを吹き出しそうになったのを何とか我慢した。 「僕より小さいのに、もう全国に名を知られている少女を見て、あれだけ綺麗にすべれたらって思った。それでその時決意したんだ。もっとちゃんと練習して、その子に負けないぐらいの選手になりたいって」 葉は何も言わずに黙ってハオを見ていた。 「ところが、その子はすぐにアイススケート界から姿を消した。僕が目標としていた、憧れた人物はいとも簡単にアイススケートをやめたんだ。でも僕はやめなかった。なぜなら、別の目標ができたから」 ハオは窓の外に向けていた目を葉に向けた。 「絶対に有名になって、もう一度その子が戻りたくなるような演技をするってね」 だから、とハオはまた窓の外に目を向けた。 「あの大会で優勝する必要があった・・・。あの子が、氷上の妖精が、アイススケートやめる前に優勝していたあの大会で」 それなのに、とハオはまた葉を見た。 「僕があの大会で優勝する前に、君は戻ってきてしまった」 葉はどうしていいのか分からず、ただ「すまん」と謝った。 何故自分が謝らなければならないのか分からなかったが取り敢えず謝った。 「最初は何だか腹がたったんだけど、あの大会の出番の前に思ったんだ。『憧れた人と滑れるなんて、素晴らしい事かもしれない』って」 葉はもっと早く気付いて欲しかったと思った。 そうすれば練習があんなにきつくはなかったかもしれない。 ハオは葉に微笑んで言った。 「戻ってきてくれてありがとう」 後で思い返せば、優勝したら夢を教えてくれなんて言わない方が良かったかもしれないと葉は思った。 ハオはそれから葉に付きまとって離れようとしなかった。 両親はハオを仇だと言わんばかりに、色んな手を使ってハオを葉から離そうとしたし、ハオはハオでありとあらゆる手を使って葉を自分の側にいさせ続けた。 葉が一番最悪だと思ったのは、それまでとは180度異なるハオの態度だった。 それまでの刺々しい言葉や態度は何処へ去ってしまったのか、ハオは今や葉への愛を全開にしていた。 「葉〜v次の大会も僕と一緒に出ようねvv」 「は?何で!?蓮はもう完治しただろ!!?」 「えええ〜〜〜」 その事を蓮に話すと、蓮はこう答えた。 「ふざけるな。何故俺があんな奴ともう一度ペアを組まねばならないのだ?せっかく奴と離れられたのだ、2度ともう一度ペアなど組むか!!」 そうして蓮はフンと鼻をならした。 そういう訳で、葉は仕方なくハオとペアを組むハメになった。 両親は葉がハオと組む事には同意した様子は全くなかったが、アイススケートを続ける事には大満足なようだった。 家の中には葉の写真がますます増えた。 そして両親とハオの無言の戦争は、両者が会う度に絶え間無く繰り広げられていた。 葉はハオの態度にはうんざりした様子だが、まんざらでもなさそうだった。 両親にとってはそれがますますハオが気に入らない要因となった。 葉とハオが氷上の夫婦と呼ばれる日はそう遠くないかもしれない・・・・・? |
the end.