第5回目

第5回 サイクロン支援活動 2008年 8月10日〜13日
 
800世帯、4000人を想定しました。
準備した支援物資は13品目、およそ7トン。 
米、食用油、食塩、ひよき豆、ジャガイモ、玉ねぎ、インスタントラーメン、スプーン、皿、バケツ、石鹸、毛布、防水シート。
 
私達の目指す村は、<サイクロン最激甚地区ラプタ>の、そのまた奥の水路でしかたどり着けない村々です。 
私達はまず、予約していた物資を保管してくれていたヤンゴンの各店に行き、支払いを済ませ、物資をトラックに積み、ヤンゴン港に向かいました。 ヤンゴン港からラプタ港まで船で物資を運び、ラプタ港から、別の船に物資を積みかえ、さらに奥地に向かう計画です。 物資は船で、私達人員は車で向かいます。 船には物資が盗まれないよう現地ボランティアスタッフの2名を見張りのため乗船させます。




午前5時にヤンゴンの宿を車で出発し、ラプタに着いたのは、午後8時でした。 大変な悪路で、15時間かかりました。 




くたくたになってラプタに着いたその夜は、町の宿に泊まりました。
朝5時に起きました。 いよいよこれからが本番です。 悪路で疲れたなどとは言ってられません。 この日のために来たのです。
ヤンゴン港から船に載せた物資は28時間かかってラプタ港に着きました。 ここで、この大型船から支援先に向かう別の船に物資を積みかえます。これがまた大変な作業です。 
米袋は一つ50kgあります。 じゃが芋も一袋50kg、玉ねぎは袋は45kg、塩は一袋30kg・・・・全部で7トンあります。 積み間違い、積み忘れがないよう、ボランティアスタッフが、一つ一つ入念にチェックを繰り返します。 
一つの積み残しもなく、すべてを我が船に載せ換え、私達は目指す村々に向けて出港しました。 雨が降ってきました。










ラプタ港を出て2時間。 予定していた最初の村ンガ・コーン村に到着しました。
“小屋”から子ども達が顔を出して私達に手を振っています。
それが、再建された「小学校」でした。
 
200人以上いたここの村人は、サイクロンにより73人となってしまいました




「もしかしたら、私の子かもしれない、・・・そう思って、行ってみました」

あの日、そのとき、猛烈な風で家が壊れ、そこに海側から高波が・・・。 
家族4人は外に投げ出され、家ごと流されました。 父、母、娘、息子の家族4人は散り散りに吹き飛ばされ、流され、濁流にのみ込まれていったのです。
 
「最初に妻を見つけました。 死んでいました。 少し離れて娘も・・・」
男性の言葉が途切れました。
「しかし、どうしても、この子だけが見つからないんです」
そう言って、男性はその少年の頭をやさしく触りました。
「あきらめたんです。 まわりの多くの家族も今回のことで私達家族のように家族の誰かを亡くしていましたし、家族全員が亡くなったところもありましたから。 行方不明の村人もたくさんいましたし・・・私だけではなかったんです、肉親を亡くし、見失ったのは・・・。だから、あきらめていました」
 
で、この子が、あなたのその息子さんなんでしょ?と私が尋ねると、男性はうなずきました。
で、どこにいたの? と、私がその少年に尋ねると、まわりで私達の会話を聞いていた村人達が一斉に笑うのです。 
その中の一人の村人が、「あっちあっち」とジャンプして川向こうの地平線の方を指さしてみせるのです。
ん?
父が説明します。
「見えますか? あの向こーーの、椰子の林が」
見えません。 手前にある川岸の葦の葉っぱが先の視界を遮って向こうが見えません。 
思いっきりジャンプしてみると、一瞬ですがそれがちょっと見えたような気もします。
さっきの村人がまた口をはさみました。
「この子はね、あの椰子の木のてっぺんにひっかかってたんだよー(^^)」
まわりの村人が大笑いです。
 
父が説明を続けます。
サイクロンが過ぎて、数日後、ここから遠く離れた村に、どこの村の子どもかわからない男の子が一人いる、という噂がこの村に伝わってきたと言います。
サイクロンが過ぎて、水も引いた頃、一人の小さな男の子がその村の椰子の木から下りて来たのだと。
その噂を聞いて、父、
「もしかしたら、私の子かもしれない、・・・そう思って、行ってみました。 しかし、まわりにも私のように行方不明の我が子を探している家族は他にもたくさんありました。そこで、心当たりのある村人が集まって、その村まで行ってみたのです。そうしたら、、、」
我が子だったのです。
 
私はあとで舟の屋根の上に登って、その椰子林のある村の方を見てみましたが、ここからゆうに7,8km、いやそれ以上あるかも知れません(写真はズームで撮っているので近く見えます)。 
 
海岸に近いデルタ地帯での死者・行方不明者は、その多くが水死だったと言われています。 そんな中で、こんな小さな子が、猛烈な濁流に巻き込まれながら7,8kmも流され、果ては、椰子の木のてっぺんにひっかかって命が助かるとは・・・。
父は息子の顔を覗きながら言いました。
「実は、この子、ぜんぜん、泳げないんです」
え”・・、、、泳げ、、、ない?
息子は照れ笑いを浮かべます。
 
あの惨劇が、今こうして、和気の中で語り合えるほど時間は経ったとも言えるるかもしれませんが、私には、こうして心に一区切りつけなければ前に進めなかった、つらく厳しい状況であったのだろうと思えました。
父と二人にはなりましたが、お互いしっかりと支え合って進んで行ってくれることでしょう。 
心から応援です。 がんばって!(^^)
いざ、次なる村へ!!!
 
 *ミャンマーデルタ地帯の村では、村のまわりに椰子の木が生えています。 椰子の木の高さは平均20mは超えます。 それから察するに、この少年がひっかかった椰子の木のある村では、サイクロン発生時、高潮による水位が少なくとも15mくらいには急上昇していたようにも考えられます。 
デルタ地帯の家屋の多くは竹と椰子の葉で作られていて、まわりは一面水田です。 水に浮きそうな材木で建てられたものと言えば、僧院くらいなものです。 高潮によって流されたとき、椰子の木以外にしがみつくものがなかったのは、そのせいです。 
この少年のように、どうにか椰子の木にひっかかった(つかまれた)者だけがなんとか命が救われたというケースが今回かなりあったのではないでしょうか。 
 










ほとんどの家屋が、まだ修復段階まできておらず、とりあえず防水を優先して、
届けられたシートを使って、雨をしのいでいるようです。
このようなシートでの家では、雨は防げても、雨季明けにやってくる40度を超える猛暑がしのげません。
やはり、元の、雨もしのげ、それなりに通風も良い、竹と椰子の葉の家が一番でしょう。 
毎日がどしゃぶりのこの雨季では家の修復もままなりません。 雨季が終わる11月を待って、家屋の復旧も急がれます。
 
河口、海岸近くの村々には、井戸があまりないといいます。 あっても、今回のサイクロンの塩害で、飲める状態ではないとも聞きます。
飲料水は、雨水に頼るしかありません。 トタン板やシートをうまく利用して水を確保しています。 
どの家の前にもそのための大きな瓶(かめ)があります。 







わかりきったことであるとわかってはいましたが、念のためと思い、近くにいた男性に尋ねてみました。

大人と子どもでは、どちらに犠牲者が多かったですか? 
男性は、しばらく考えてから(考えるんだぁ・・)、もそもそと小声で答えました。
「・・・同じくらい」
え?
泳げない小さな子ども達と、泳げる大人とを比べたら、当然子どもの犠牲者の方が多いと思っていたのですが、意外な返答でした。 私はそのことを男性に尋ね返してみました。 すると、
「あの日生き残るか、死ぬかは、泳げる、泳げないで決まらなかった」
どうにも腑に落ちません。
じゃ、生死の分かれ目になったのは何?
「 運、だ 」
 
「ワシは漁師もしている。もちろん、泳げる。そのワシでも死ぬほどの波だった」
男性は顔をしかめます。
「あそこの木が見えるか?」
私は男の指さす方を見ました。 はい、何本か川岸に近いあたりに見えます。
「あの木がなければワシは死んでいた」
「その木にひっかかっている折れ曲がった竹が見えるか?」
はい、あれですね、わかります。
「ワシはあの竹をつかんだまま流されていた。竹を持っていてもしようがないが、なぜかつかんでいた」
男性の言葉からは、当時の状況が緊迫感をもって伝わってきます。
「その竹が、うまい具合に、あの木にひっかかった。 ワシはものすごい流れの中、ずっと、あの木にひっかかってくれた竹をつかんでいた。 ワシはあの竹とあの木のおかげで生き残った」
 
前の村で出会った、椰子の木にひっかかって命拾いをした少年のことを思い出しました。
 
− “運” −
 
「あの日、何が起こったか忘れないよう、あの竹をそのままにしている」







配給作業は村人の協力も得て行います。 
予定している七つの村々をまわるにはそれなりに迅速な行動が必要です。 陽が落ちる前までに港に帰り着かなければなりません。
かといって、ある国の、ある団体のように、急いでドカドカと“置いて”いくだけの作業では、私達はここまでして来た甲斐がありません。“モノ”を届けにいくわけではありません。そこに込められた思いをいかに届けるか、私達がずっ心がけてきたことです。 
義援金をお寄せいただきました皆様のお気持ちを届けるには、なにがなんでも、一人一人に手渡しです。
 
二つの目の村から猛烈な雨になってきました。 どしゃぶりの中での作業です。
それでも、「チーズティンバレ!(ありがとうございます!)」と村の人々に言われれば、踏ん張れもします。 どの村でも、たいへん喜んでいただけました。 義援金をお寄せいただいた日本の皆様の幸せも祈ってくれました。 
 
最後の七つ目の村を終えたのは、午後8時を過ぎていましたか。 外は真っ暗です。 雨は止みません。
800世帯・4000人分の配給作業はこれにて終了しました。 まるまる一日かかりました。















五番目に訪問した村だったでしょうか。
ハンモックの中の赤ちゃんを撮ろうとカメラごとのぞき込みました。
 
口唇裂の赤ちゃんでした。よく見ると口蓋も割れています。鼻も大きく変形しています。
 
アジア、アフリカを旅していると、たびたびこういった口唇・口蓋裂の人に出会うことがあります。 赤ちゃんから老人まで。
南アジアでは、口唇・口蓋裂で生まれてくる赤ちゃんの割合は、300人に1人、200人に1人とも言われています。 日本でも、500人に1人とか。 そう聞くと日本でもかなりな確率でこういった赤ちゃんが産まれて来ていることになりますが、日本では赤ちゃん時で縫合手術が可能です。 現代においては、こういった障害をもって産まれた赤ちゃんはすべて、乳幼児期に手術をし、その手術痕もほとんど残らないようです。
  しかし、いわゆる途上国においては、その医療設備、費用などの問題もあり、そして地域によっては、なによりも医者がいないその現実に、こういった赤ちゃんがそのままにされるケースがかなりあるようです。
ミャンマーでは、こういった障害を持って生まれた人たちは、前世において、窃盗、傷害、あるいは、人を殺めたこともあるとされ、その罰として、現世でその障害を負わされているという迷信が信じられている地域が多く、大きな差別・偏見を生み出しているとも聞きます。 その人たち、そして家族の精神的苦痛はいかばかりでしょう。 
  この村からラプタまでは、彼らの手漕ぎ舟では二日はかかるでしょう。 しかし、着いたところで、ラプタにはその手術設備のある病院などありません。
日本で15分で終わる手術ができず、一生差別されつづける人々がここにはいます。
“世界”の現実です。








みなさま、終わりました。  ありがとうございました。  
みなさまからの義援金がなければ、私達はこのような支援活動に向かうことが出来ませんでした。 5月から5回。 私達「懐」メンバーは、何物にも代え難い貴重な経験をさせていただきました。 ミャンマー人スタッフにとりましては、大きな功徳を積む機会ともなり、義援金をお寄せいただきました日本のみなさまに大変感謝しております。 “功徳を積む”という感覚は、日本人の私達には理解可能なものだと思いますが、彼らのそれは、私達のその理解よりもより深いもののようにも感じます。 
しかし、功徳とはいいながら、これで、こちらが「どうも、ありがとう」だけでは、あまりにも私が心苦しく、彼らにいくらか心付けをとも思ってミャンマー人スタッフに相談したのですが、それでは功徳のためではなく、お金のためとなってしまう、と頑なに拒みました。 
困っている人のために手をさしのべるその行為は、ひいては自分自身のためにもなるというミャンマー人のこの献身的な投身には、どこか私達日本人が忘れていた何かを想い出させてくれるようにも感じました。 あらためて、この国の政治と国民一人一人の人間性とはまったく別物だと感じました。
 
この活動の様子は、TV放送にもなりました。 大きな反響がありました。 
番組は、非常に冷静で公正な視点で作られていました。 意外と復興しつつある部分や、逆にまだまだ厳しい状況なども伝えていました。
例えば、いまだに学校再建がままならない地域が多い中で、ラプタの水路奥地で仮設ながら学校が再開されているなど、一体誰が想像できたでしょう。 一方で、米が実らず、漁船や漁網もサイクロンで失われたままの現況では、定期的、継続的な支援が必要にもかかわらず、それが行われていない実状には、“自立”への道はまだまだ遠いようにも感じました。 
支援・復興の難しさを、政治のせいばかりにしてきたこれまでのメディアとは異なり、支援が届きにくい複雑な地形の問題などもからめて番組を作り上げたI氏の視点は、私がこれまで実際に現地で実感してきたものです。 
 
あらためて、皆様にお礼を申し上げます。  本当にありがとうございました。 
支援物資を届ける活動はこれにて終了いたします。
 
ミャンマーサイクロン支援活動は、最終プロジェクトに移行いたします。
僧侶と力を合わせて、全壊した僧院小学校を再建します!              




地図を添付しました。私達のこれまでの活動地点を記してあります。 黒線が通った陸路です。 赤線が舟で進んだ部分です。