(宗教法人) 真宗大谷派 誓行寺(セイギョウジ)

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山号 宝珠山  ホウシュザン
郵便番号・住所 520-1812 滋賀県高島市マキノ町西浜6
交通 JRマキノ駅より徒歩10分 車でR161 マキノ駅より2分
電話番号・FAX番号 0740-28-0406
Eメール hosyuzan@yahoo.co.jp
宗派 真宗大谷派 (本山:東本願寺)
寺歴 もと天台宗。寛正5年(1464)祖了改宗

※迷惑メール防止のためアドレスは全角になっています。

・厳冬期、豪雪での屋根雪にもびくともしない雨樋が完成しました。(H25年度2013)

・1700年初期、元禄時代に村の大火により消失後、再建されました。
・門は修復される旧門です。今は屋根が修復されより立派になりました。
・この地番から西側が西浜、東側が海津となります。
(江戸時代は西浜を海津西浜、海津を海津東浜と言っていました)
・歴史的上この地域は経済的に要所とされていました。そのため様々な人々が出入りしており、田舎では珍しく多くの姓があります。
・特に海津浜の石垣は有名で見事な物です。当時の琵琶湖の風水害から家々を護るため築かれました。
・4月の海津大崎の桜並木は見事で、多くの観光客が訪れます


・山門前の浜に掲げてある「海津浜の石積」の説明板


・山門の修復中 H21年度2009


・山門 修復の完成 H21年度2009


・本堂裏 飛沫板の修復中 H27年度2015


長年厳冬期の風雪雨に耐えてきた飛沫板が張り替えられました。

・H28 親鸞聖人七百五十回御遠忌法要関係↓2016

・ドレスアップした当日の山門
・法話:真城義麿師

・御遠忌法要当日の朝、前後の日々は雨が多く、大変心配したの
ですが奇跡的に晴れました。暑かったぐらいです!


・当地域から出ておられる方々も参集して、賑やかにおちござんもドレスアップです!
ありがとうございました。


・御法中との記念写真!

・H29 側溝の工事〜西浜海津を真新しい側溝が工事されています。
誓行寺の前も通過中!排水と路肩がすっきりしました。

・台風21号被害↓2018.9.4

・江戸末期から誓行寺の山門を守りつづけた松の大木が、台風21号の
凄まじい勢いから逃れることができませんでした。力尽き根元から折れ
市道に倒れました。老木でしたが「お疲れ様」!


山門に命中すること無く、やや左に逸れて倒れたお陰で、山門が守られました。


・本当にしっかり貼り付けてある本堂東側飛沫板もこのとおり、剥がされました。


・市の昼夜兼行の倒木撤去作業でした。他にも被害が多数出ており、本当に
大変な作業を熟して頂きました。関係者の皆様、本当に有り難うございました。


・この写真は季節が冬に撮ってありあす。H30大晦日にて

手摺り完成
2020年2月 念願の手摺りが完成しました。
頑丈にできています。安心してつかまりながら上り下りしてください。



2020年1月から
新型コロナウィルス感染症の感染拡大で世界中が恐怖にさら
されました。寺行事等も中止を余儀なくされました。兎に角皆
様方が安全に暮らしていただける事が最優先です。


2020.12.31久々の年末寒波襲来
地球温暖化の影響を痛切に感じる近年でしたが、このような
久々の寒波の襲来にはそのことを忘れさせてくれます。
観測機器の向上やAIを使った分析、情報伝達の速度もあり、
一週間前にはこの状況が予告されていたので助かります!





2021.12.26〜2022.1.2
年末年始超大寒波襲来

昨年に引き続きまたの大寒波!見た目の白い銀世界と雪がもたら
す生活苦!何ともこれが自然というものでしょうか(笑)


2022.2月の状態がこれ!笑いますよねぇ。

山門の右隅瓦修理2022.8
右隅出っ張り部分が折れてしまったので、速攻で修理していた
だきました。

十一年ごとにやってくる「三浦講」
本寺が昨年お勤めをして、今年は今津町西福寺様に引継を
させていただきました。2022.9.3
凄い歴史があるのですよ!下記に概略を列記しました。
お読みください。


三浦講とは、高島市今津町とマキノ町の真宗寺院十一カ寺(創立当初は二十一カ寺)が会所を交替して引き受けながら、毎年、本願寺十世の証如上人(顕如上人の父、教如上人の祖父)の御命日である旧暦の八月十三日(新暦では十月)に一昼夜にわたって勤める法要です。法要では、証如上人の寿像を安置し、本願寺十二世の教如上人よりいただいた石山合戦当時の御書を拝読して、この合戦で本願寺を織田信長から護った方々の労苦を忍ぶとともに、住職、門徒の伝統ある聞法の場としています。
三浦とは、今津、海津、大浦をさしますが、文書として「三浦」が出てくるのは天文十四年(一五四五)のもので、そこには「今津、海津、大浦惣中」とあります。また、元亀元年(一五七〇)の矢文には志賀、高島、三浦衆中とあることから一六世紀中頃までには「三浦衆」として「組」を結成していたといえます。これが石山合戦後に、「組」は消滅し信仰を中心とした「講」になったと考えられます。
石山合戦とは、織田信長が全国統一を目指して中国地方の毛利氏を攻撃しようとしたとき、大阪の石山本願寺の要地(現在の大阪城の場所)に着目して、この地の明け渡しを要求したところ、本願寺十一世の顕如上人がこれを拒んだので信長は激怒し、本願寺を攻めたことにより始まった前後十一年にわたる戦いをいいます。顕如上人は、信長と戦わなければ親鷺聖人以来の法燈が護れないと決心して、全国の門徒に教書を出し「身命を省みず法敵信長と戦うので、護法のため一緒に戦うよう」檄を飛ばしました。この戦いに参加した三浦衆中はめざましい活躍をし、のちに顕如上人から褒賞をいただいています。
その後、信長は簡単には石山を陥落させることができないと知ったので天皇による講和を請い、顕如上人がこれに応じて開戦以来十一年目に石山の地を退きました。
しかし、顕如上人の嫡子教如上人は石山に留まり、これに応じませんでした。その事情を語る御書が三浦講法要で拝読している「急度染筆を進め候。・・・・」であり、教如上人が石山に留まって信長と戦う必死の覚悟がうかがわれます。教如上人が父顕如上人の意に従わず石山に留まったのは、信長が長島一揆の時のように偽って和を講じ、出城したところを攻撃するのではないかと疑い、要塞である石山の方が戦いやすいと考えたからです。しかし、七カ月後に信長は、教如上人に誓詞を与えて石山退城を請い、教如上人はついに退城を決意されました。
石山合戦の終結後、本願寺では大阪退出の顕如上人側と石山籠城の教如上入側とに門徒衆が分裂し、教如上人は父より勘当され、教如上人の末弟准如上人が本願寺十二世を相続することになりました。二年後、信長が本能寺の変で明智光秀に殺されると、それを契機に顕如上人と教如上人は和解しましたが、顕如上人が亡くなると、そのころ豊臣秀吉によって京都堀川に移転していた本願寺を准如上人が継ぐことになり、教如上人は退隠を命ぜられました。
徳川家康は、関ヶ原の戦後天下を手中に収めると、教如上人に同情し京都七条烏丸に本願寺を別立させました。このとき石山合戦で教如上人に味方した門徒衆が多くこれに属しました。三浦衆が教如上人側に味方していたことは、教如上人の御書の内容や、西本願寺側についた三カ寺が三浦講から脱退し、残りの十八カ寺が東本願寺の末寺になったことからも明らかです。なお、三浦講からはその後も脱退する寺院があり、現在では、十一カ寺で勤めています。
(河原喜久男師の「三浦講と石山合戦について」から抜粋)

本堂正面サッシの補修なる(2023.9.8)
本寺がサッシを新調(高木義雄氏寄贈)して40年以上の歳月が経ちます。ついに長年の風雨や紫外線により、東側サッシ下部分のコンパネが破損しました。よって今回はこの機会にアルミ板で10枚の扉を修繕しました。色合いといい本当に上手く調和した引き戸になりました。










  阿弥陀如来
住職 藤原こうみょう  フジワラコウミョウ

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