2003年4月発売  ヤマケイ関西特別版「金剛山」所載

 
 金剛山一筋。山と仲間は
 私の「生涯の宝物」です


   金剛山剛友会会長、根来春樹さん


                 
        藤田 健次郎      



根来さんにとって金剛山は、何んだったのでしょうね。

 根来 生涯の半分を支えてくれた宝物ですよ。保温保冷防音工事といった関係の仕事が本業なんですが、こっちの方は、まあ、60点くらい、やっとこさの合格ラインかな。ところが金剛山の方は御縁ができてから、峰や谷を隈なく歩き回り、山行の楽しみを堪能させてもらった。それに多くの本や地図の出版、登山コースの執筆、ガイドやメディアでの解説とか、思いもかけぬ、いろいろなことに広がりができて金剛登山は本当に悔いなしですね。                                 

 ・・・・そもそも、どういうことから山好きになったのですか                            

 根来 山とのつきあいは、大学二年のとき。いまでいうアルプスの表銀座コースを連れて行ってもらった。燕山荘に泊まって翌朝凄いモルゲンロートを初めて見ました。三〇〇〇メートル高山の尾根歩きもいい経験でした。尾根の左右でまったく空模様が違うのですからね。さらには、きれいなお花畑を眺め、山はほんとうに素晴らしいなと感激したのが始まりです。    

 ・・・・金剛山とは、どういう縁ですか。           

 根来 最初は、子連れのファミリー登山。二上山に登ったりしていました、あるとき、葛城山を登れないまま、帰宅する途中の電車で乗り合わせた登山者から「金剛山もいいですよ。家族で十分登れるコースがありますよ」と勧められた。それが金剛山に気持ちが向いた始まりかな。三十代初めのころですわ。   

 ・・・・昭和でいえば、四十年当初のころになりますか。

 根来 そう、まだロープウエーもなくて(注・昭和四十一年五月営業開始)、バス道が奥まで開通する直前ごろだったかな。あのころのバスの終点は、千早大橋から谷側へ向かい千早川ぞいの郵便局前でした。そこから千早神社を経て首塚のある千早本道に合流するのが、普通のコース。戦前の登拝コースだったんでしょうな。四才の長男と家内で山頂に着きましたら、葛木神社宮司の故葛城貢さん御夫妻がとても歓待してくれました。あの歓待されたことが、うれしくてたびたび登るようになった。宮司さんには、その後いろいろと後ろ楯になって頂きました。

 ・・・・当時は、登山コースはどんな具合でしたか。

 根来 主なものは千早本道、黒栂谷道、伏見峠道(注・念仏坂コースとも)。奈良側だと、名柄から今の水越峠からの道と合流する越口コースといったところかな。今みたいに、あちこちにというわけではなかった。                      

 ・・・・あの金剛山名物の登山回数捺印制度は?

 根来 あれはすでにありました(注・昭和三十八年から実施)ので、回数を競う登山者はいました。それでも「八百回登山達成」が珍しくて新聞のニュースになるくらい、まだ普及していなかったかな。当時は一日に何回登っても、回数に計上されましたから、一日に何度も登る人がいましたね。           

根来さんが金剛山に打ち込むようになったのは?

 根来 そのころ仲間と三人で歩いていましたから、「剛友会」というグループ名はつけてはいましたが、登山仲間をふやしたいと次の山行予定のポスターを宮司さんの御協力で、今の捺印所近くに掲示板をあげてもらいました。最初は「親子で歩こう会」、ついで「みんなで歩こう会」といった調子で呼びかけたものです。これを見た人が参加してくれるようになりましたし、こちらも闘志満々で金剛山を隅から隅まで歩き通してやろう、そういう意気込みでした。現在の「金剛山剛友会」につながる旗揚げをしましたのは、四十九年八月でした。             

・・・・それで登山道がどんどん開拓されて行った?

根来 いや、開拓というのは、おこがましいことですが、ろくに踏み跡がなかった道をバリエーションルートとして開くのに夢中になりました。第一号は、確か国道三〇九号の青崩近くから入る下峠谷だった。あとは高天谷、クソマル谷、百々川、石ブテ東谷、坊領谷、、、といった具合。                   

・・・・沢歩きが多かった。                 

 根来  そう、沢は片っぱしという感じ。谷の遡行ですね。安全のためにヘルメットを着用することにしたら、金剛山ごときでヘルメットなんて、と冷ややかに言われたことがありましたが、世間に先駆けた安全装備のお陰か、事故なしでこれた。ロープやカラビナも用意して安全登山を期したものです。沢ばかりでなく、尾根もせっせと歩きました。長丁場の鞍取坂では思案していたら、ウサギが足跡をつけて先導してくれた、という楽しいこともありました。岩井谷から道なき道を清井山に繋げたこともあったし。                                 

 ・・・「剛友会」結成から十年後にガイドブック『金剛山』(注・岳洋社刊・昭和五十九年)を出版されてますね。金剛山ガイドの古典といっていい本ですね。          

 根来 当時は金剛山の全容を伝えるガイドブックがなかった。それで私を含めて仲間十四人と徹底的な登山道の踏査隊をつくり、およそ一年間かけて金剛山を五十四のコースにわけて調べあげたものです。仲間が考案した測量器「コロコロ」を転がして、距離精度99%という緻密なコース測定をやったものです。

 ・・・・ところで、「剛友会」の組織や運営について

 根来 来年、結成三十周年を迎えるまでになりましたよ。会員になる資格といえば、ウチの会主催の金剛山登山に計六回以上参加されたらいいんです。但し一年以内で。あとは何も問いません。いま会員は百十八人。スタート時は三人でしたから、大きく成長したな、と感慨無量ですよ。いまは男女半々、五十代が一番多い、そして六十代、四十代の順かな。日曜山行が原則で、月一回は金剛山。それ以外は別の山といった案配です。運営は会員選出の委員会( 十一人) が会長、副会長、書記、会計、会報や三十年史のそれぞれの発行係、企画係などと分担を決めてやっています。                   

・・・珍しいことに会費をとらないそうですね。 

 根来 そうです。会費は取らないのですが、運営費には困りません。会員がいろいろな名目で厚志を寄付してくれますので。むろん、いかなる名目かは公表していません。厚志を義務だと感じるようだと困るからです。そういうお金で会報の発行や節目の回数を記録した人の表彰や“例会参加大賞”を出したり、ワイワイやってるわけです。                    

 ・・・大世帯ですが、どんなお考えで山行してますか。

 根来 会員には独創性や探究心を磨くように常日頃言っています。初めての参加者に次回は一人ででも必ず歩けるようにという方針でコース指導をします。その人が、次は友人を連れて歩けるようにです。ともすると登山グループには先輩が後輩に対して「知らしむべからず依らしむべし」というような秘密・権威主義があるものですが、そんな偏狭な考えは一切ありません。ですから、山行の下見は必ずきちんとやります。滝の巻き方一つとっても安全第一を優先しています。  
 
 ・・・金剛登山は、根来さんが始めた頃と段違いに大勢の人で賑わっています。                    

根来 確かに登山者が増えた。増えたのは結構なことですが、なかには「お宅の山を歩かせてもらっています」という感謝の気持ちを忘れた人がいて、登山道を荒らす、植林を壊す。これは困ります。木の根がムキ出しになっているのを見ると、可哀そうな事態だなと思います。その意味からも、特定地域に集中するのもよくない。山の地権者の立場も尊重しなければなりませんね。最近のウチの山行は、つとめて奈良県や和歌山県側のあちこちから歩くように配慮しているつもりです。           
 ・・ 来年は結成三十年、金剛山剛友会を運営してきての心境はどうですか。

 根来 山は飽きませんね。“そこに山があるからだ”という有名な言葉がありますが、こうも解釈できると思っています。一つ登ってみたら、その先に見えなかった新たな山や尾根が見える。今度は、そこへ行こうと次々に探究心、好奇心を誘引してくれます。もう一つ、登るたびに、常に新しい発見があります。たとえば山座同定にしても、妙見谷から和歌山の生石高原が見えた! あるいは根古峰の先に見えていたのは、南葛城山だったと思っていたら、実は阿弥陀山だった。そういうことが分かったときは、驚きとともに楽しいものです。数年前に虫垂癌の手術を受けましたが、金剛山のことは忘れませんでした。金剛山とともに充実した生活ができたと思っていますよ。      

                                       


金剛山に登るたびに
幸せを感じています。


アメリカ人宣教師
サンデ・ポールさん
                                     藤田 健次郎

 大阪府・泉北ニュータウンにある「ベサニー・キリスト教会」のアメリカ人宣教師、サンデ・ポールさんは、金剛山をこよなく愛し、もう十年以上も登り続けている。この春先、取材でお会いしたとき、すでに登頂回数は、なんと一一六二回に達していた。なんで、またそんなに金剛山に登りまんねん?・・・・そのきっかけや楽しみをサンデさんに語ってもらった。                    

 生まれ年を尋ねると、「昭和二十六年生まれです」。それに続いて「一九五一年生まれ」。日本の年号がごく自然に口に出る気づかいの五十二才。すっかりなじんだ大阪弁を話す、やさしく明るいお人柄である。              

 耳にしたエピソードでは、金剛山でサンデさんに出会った登山の子どもが、思わず「あっ、リンカーン大統領」と叫んだとか、「ジョン・レノンじゃないか」と言った人もいたと語り伝えられている。知る人ぞ知る、金剛山の“白人仙人”である。                                             

 実際、顔中あごまでもじゃもじゃの茶色のヒゲに覆われて、なかなか目立つ風貌である。そのうえ一・八二センチメートルの長身。大きなストライドで歩く姿に、たいがいの登山者は目を見張る。                      

 サンデさんは、アメリカの森と湖の州といわれるミネソタの出身だが、小、中学生のこるに滋賀県内にもいたというから、日本滞在は通算四十年近くにもなる。豊中や梅田でも一時住んだことがあるが、泉北ニュータウン内に落ち着いてからは二十数年。愛妻、冷子さんと結ばれてからの歳月と重なっている。  
 ふだんは伝道活動に忙しい。信者さんとともに聖書を学び、導くのが仕事である。もっとも大切なのは日曜の礼拝であり、説教である。それに向けての準備に根をつめて打ちこむほかに、英会話塾を手伝ったりして冷子さんと静かな暮らしを続けている。                                  

 三十五才のとき、驚天動地の受難に見舞われた。なんの予兆もないまま、身体が震え、震えが止まらなくなって即入院した。ひどい貧血かなと思っていたら、90%くらいダメ、ほとんど死の宣告に等しい大腸ガンと診断された。即手術といっても、手術にたえる体力がないほど衰弱していた。大きな腫瘍の摘出手術を受け、二カ月の入院生活ののち生還した。クリスチャンでもない病院の医師が思わず「これは神様の奇跡です」と言ったほどの重篤だった。      
    
 この体験が、それまでの生活習慣を根本的に見直すきっかけとなった。三つの心得を自分に課した。牧師さんらしい内省といえる。             
一、食事を規則正しく三度きちんと食べること               
一、睡眠時間もきちんと取ること                       
一、体の健康を維持し、心のストレスを解消するため運動をすること

 泉北ニュータウンは、丘陵を切りひらいて開発された。近くに低山が多い。こうした立地がサンデさんの健康のための運動を山歩きに向かわすことになった。教会の休みは月曜日。そのたびに和泉葛城山系を歩き回った。とくに岩湧山、槇尾山、和泉葛城山の三山は歩きつくした。熱中タイプの性格らしく、登山ルートはもちろん歩き回り、地図にない道まで試みた。尾根歩きばかりでない。ヘルメットをかぶり、手も使ってよじ登る沢登りも好きになった。いまもお気に入りのコースに南葛城山北面の急傾斜ののサカモギ谷、滝畑ダムの先から入る上山谷を推奨しているくらいだ。(筆者注、両谷はともに未経験の一般登山者向きでない) 。                                     

 四十代の初めごろ、サンデさんは新しい谷筋を求めて、それまでは見送ってきた金剛山にやって来た。時間の制約もあって金剛山は遠い、という思いこみがあったのだ。最初に登ったのは妙見谷。「結構、いい谷があるなあ」と気に入った。いくつかの谷筋を歩き回っていたが、ある時、山頂で登山回数を捺印してくれる仕組みがあることを知り、この興味深い趣向にサンデさんはハマッてしまった。                                        

「登山回数ごとにスタンプを押してくれるシステムを知ってからは、なんとか回数を増やしたいと夢中になりましたね。金剛登山はぐんとペースアップしましたね。ほれ、これ見てくださいよ」                             

 サンデさんが持っている登山回数券の最初のスタンプは、「平成4年3月9日」。それからわずか八カ月後には「100回登山」を達成している。五、六十回目の回数を稼いでころは、ほとんど毎日のようにスタンプが押されている。モーレツに熱をあげたころだ。                                 

 月曜日の休みだけを待ちきれず、朝五時すぎから車を飛ばして登山口まで行くやり方を考えついて、どんどん回数を重ねた。冬場、凍てつく路面のスリップに強い四輪駆動車を買ったというから、思い入れの強さがわかろうというものだ。                                           

500回登山達成  平成8年5月20日  
1000回登山達成 平成13年5月10日  

 しかしながら、サンデさんは正面登山道やシルバーコースだけを早駆けする回数優先主義者ではない。確かに回数にこだわったけれども、好んで登るのはカトラ谷で、下りるのはタカハタ谷のコースである。この二つの谷筋は、大阪側の登山コースのなかでは、いかにも山中らしい雰囲気が濃いところである。

 サンデさんは、自然がありのまま色濃く残っている世界を愛している。カトラの谷筋は登山者が比較的少ないところにもってきて、雑木林もあり、緑と野の花も豊か、水流のせせらぎも心地よい。静かで起伏に富み、深山幽谷の趣がある。数年前の台風の影響のせいで山腹が少し崩れたり、倒木があったりして適度に道が荒れているのもダイナミックで野趣豊かなのだ。         

 崖っぷちで足場を選んだり、倒木を乗り越えたりする緊張感、垂れ下がるロープを握ってバランスをとりながら登るところがあるし、山頂直下の急勾配にアセを流すのも楽しい。帰途、タカハタ谷へ向かう尾根筋のブナ林は、格別に素晴らしく美しい。
 ひとり歩きが多いサンデさんは、山のなかで必ずコーヒーブレークのひとときを持つ。しーんとした静寂の森で腰を下ろし、さわやかに乾いた風、時によっては、しっとりと湿り気のある風の匂いのなかで、ゆっくりとコーヒーをすする。鳥のさえずりに耳を傾けながら、無心でいる自分に気がついて心が安らぐ。      
 このようにリラックスしながら、時には日曜の説教の内容をあれこれと頭のなかで吟味したり、時には天と地に向かい、神にお祈りを捧げる。そんな心境でいると、次のような聖句を想い起こすという。                    

 『また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない』( 新約聖書マタイ伝六章二十八節)                                          

 故郷、ミネソタはアメリカでも、よく知られた寒冷地帯。半年くらいの間、雪に覆われ、氷点下20、30度にもなることもある。雪は暮らしと密着している。牧師という仕事の関係から遠出ができない“ミネソタ人としては”金剛山で真っ白な積雪を眺められるのは、なにものにも代えがたい貴重な郷愁とつながっている。朝早く、まだ誰の足跡もついていない雪の上に、自分の山靴の跡を踏みつけて歩くことができるのは、本当にぜいたくな孤独の楽しみ、ありがたい自然の恩恵だと感謝している。                               

 長年の山歩きだから、アクシデントにも遭遇した。タカハタ谷を下山中、足を滑らして立木に激突、肋骨を一本折った。サンデさんは、ストックは上りよりも下りに必要と悟った。いまはストックを手放さない。この冬にもこんなことがあった。友人と二人で筒城谷の大きな滝の側で一服した。凍結した滝が美しかった。コーヒーを味わったあと、その場をほんの少し離れた途端、轟音とともに滝が崩れ、大きな氷塊がいくつも落ちてきた。直撃されていたら、危ういところだった。                                            

 そんな危機一髪があっても、山歩きはやはり楽しく、面白い。この喜びを教会の信者さんたちともわかち合おうと、“登山クラブ”をつくり、サンデさんがリーダーとなって毎月第二月曜にワゴン車に分乗して山に向かっている。       

 「ニッポン広しといえども、“登山クラブ”があるキリスト教会はウチだけでしょう」とサンデさんは愉快そうに笑っている。                    

 ところで、千回登山を果たしたころからサンデさんは、金剛山登山について内面的に少し変化が現れてきたと感じている。もう千五百回とか、二千回突破を目標に掲げて特別にガンバル気負いはなくなった。もちろん登るのが嫌いになったわけではない。最近の山行は、だいたい週二回くらいのペースに落ち着いてきた。なんというか、より一層自然体のまま山とつきあえるあえるような自由な気分になってきたという。                           

 金剛山とめぐりあって十二年、サンデさんにとって金剛山は、心身の健康を維持するため欠かせない生活の一部となってしまっただろう。         

 「山で会う人に悪い人はいないと思っているんですよ。山頂に行けば、たくさんの人たちから声をかけていただき、あいさつを交わしてくれます。数えきれない出会いをありました。そのつど心から幸せを感じています」          
 サンデさんはそのうち“金剛山の聖者”と呼ばれるようになるかもしれない。




   金剛の山野に咲く花を想い
   土と炎と格闘する


     備前焼作家、澤田陶歩さん

                                          藤田 健次郎

 「ここで初めてできた備前焼の展示即売には、通りかがりの金剛登山の人たちが、たくさん立ち寄って下さり、助けられましたよ」                             
 金剛山麓で備前焼の作陶にうちこむ若い女性、沢田陶歩さんは、バンダナで覆った頭をぴょこりと下げて、お辞儀するように言った。                               
 沢田さんが主宰する備前焼の工房「千早窯」は、大阪府・千早赤阪村の林道長谷線(黒栂谷道)沿いの浄水場の手前にある。標高六〇〇メートルくらいか。この道の先はセトやカトラ谷に通じるから、人が住む最奥地になるといってよい。                 
         
 ふだんは林業関係者をはじめ登山者か、水道の見回りの人くらいしか通らない。林道に沿って山側に平屋建ての建物がある。窓際の格子の向こうにいくつかの備前焼の作品が並べられているものの、建物は目立たない造作なので、うっかりすると気づかぬまま前を通りすぎてしまうかもしれない。                                   

 冬場は雪が積もることもあり、山の水は凍る。春から夏にかけて燃え立つように草木の息吹きがざわめく。秋には舞い落ちる枯れ葉の音さえ耳に届いてくる。四季を通じて、夜は、おそらく無数のもののけが行きかう漆黒の闇の中にある。                  
                   
  
 こんな寂しい閑静な場所に沢田さんが工房を開いたのには、いまどきの環境問題にからむわけがある。数年前、沢田さんは登り窯の工房を持ちたいと、信楽や丹波の焼き物の里などで適地を物色したけれど、登り窯については、いろいろな規制があってすんなりととはいかない事情があった。                                        

 登り窯といっても、さまざまだが、沢田さんがいま持っているのは縦2・5メートル、横1・5メートル、炊き口は高さ約1メートル、幅80センチくらいのものだ。本焼のときには、丸一週間、アカマツの薪を炊きつづける。当然のことながら、窯からは煙や煤が出るし、千二百度もの高温にもなる。これが大気の汚染や防災上の危険を招くということで敬遠される。たとえばの話、登り窯の煙突を1メートル移動させるにも厳しい規制を受けるのだそうだ。
        
 というわけで、いまでは都会での陶芸には、電気窯やガス窯が使われているのが一般的となっているが、沢田さんは登り窯にこだわった。登り窯には、制作者の思いをこめた土づくりが反映できる。デリケートな焼き具合の加減を形に表すことができる。独特の多彩な窯変も期待できるからだ。窯の中に薪をいっぱい詰め込んで、いわば酸欠状態にして焼く「還元型」の技法が好みだという沢田さんには登り窯がかかせなかった。

 登り窯を設ける適地を探して金剛山麓にやってきた沢田さんに、思いがけない展開が広がった。千早本道の登山口にある「しいたけセンター」の主人、松本昌親さんに何気なく、そのことを話したところ「おもしろいから、やってみたら」と勧められ、あげくに土地まで紹介してくれた。金剛山麓に登り窯という取り合わせができたいきさつである。          

 あれから五年、沢田さんはここで一日中、本場、備前市伊部から取り寄せた備前の土と格闘している。土は備前焼の命である。それだけなら単味にすぎない土をいろいろと調合して、望むところの土をつくる作業とろくろ引きは、焼き物づくりの基本である。その丹念な作業を繰り返しながら、ときには備前焼に取りつかれるようになった運命的な出会いをふり返る。                                                   

 大阪市内で立体物のデザイナーをしていた沢田さんは、観光でぶらり伊部に行った。みやげ物屋の店頭で小さな茶器(宝瓶)を見たとき、心ゆさぶられる、えも言われぬ感動を受けた。その場で店の人に制作者の名前と自宅を教えてもらい、内弟子を申し込んだという。実に破天荒というべき衝動である。                               
 
 のちの師匠となる備前焼作家、難波周作氏は、最初「女は弟子にしない」とけんもほろろだったが、沢田さんの手紙や電話での熱意が通じて、一年後にようやく内弟子入りを許してくれた。師匠宅での家事全般、仕事の手伝いなどのかたわら、焼き物の知識と技術を学ぶ五年間の修業をこなした。「陶歩」という陶名は、師匠に名づけてもらったものだ。

 沢田さんは、ときには気分転換もかねて金剛山に登る。本道から登ったこともあるし、ロープウエーで一気に行くこともある。季節の折々に咲く草花や樹木に目を奪われるという。 「いつも作陶のことを気にかけているので、金剛山の山野に咲くありのままの花の姿のような自然の造形には、つくづく感心させられます。一つのムダもスキもない、自然な美しさがあります。自然のものからは、大きなヒントをもらっています。なかにはあの花を活けるのには、どんな花器がふさわしいかと思案し、花器づくりの着想を頂いています」 自然からもらったヒントとスケッチはノートにたまっていく。                      

 そして、その節々の集大成は、年に二、三回、登り窯に向き合うことで試される。一度に千点近い作品を窯にとじこめる。壺、花器、ぐい呑み、銚子、茶器、生活雑器など、日々、こつこつと精魂うちこんで土づくり、ろくろ引きして作り上げた作品の完成を賭けるときでもある。登り窯の薪を絶やさないように、最後の二、三日は徹夜で火加減を維持する。焼き物づくりは、体力勝負の重労働なのだ。 胸さわぐ、ときめきの窯出し。沢田さんは、千点あっても、ほんとうに納得できる作品は、よくて二、三点すぎないかなと厳しい。世にでるチヤンスは全国的な公募展への挑戦である。                              

 いま、沢田さんは三十二才。大阪市立デサイン教育研究所の非常勤講師、カルチャー倶楽部の陶芸教室の講師も兼ねたりしながら、精進の大きな目標を、備前焼の酒器づくりでは第一人者である中村六郎氏の作品に一歩でも近づけるような酒器を作ることに置いている。中村氏の作品は、アートであり、ぐい呑み一個が十数万円、という高い鑑定を受けているという。                                                
               
 「中村氏のは少しも技巧的なところがない作品なのです。こう言った変ですが、特別に形を作っているように思えないし、これといって特徴もないのですが、それなのに、ずっしりとした存在感がある、心が吸い込まれそうな作品なんです」                    

 こんなふうに玄妙な表現でもって、沢田さんは心酔しているのである。「好きで好きでたまらない備前焼」を中村氏の作品のように仕上げることができたら「もう死んでもいいくらい」という。なんとも激しい心情の吐露に驚かされる。                        

 山麓の林道付近を愛犬、ムックをつれてゆっくりと散歩している沢田さんを見かけた登山者は少なくないはずだ。 「登山者の人たちが、お客さんになって下さり、その人の口伝てによって、友人知人がまた訪れて下さったりして、ありがたいことです」

 沢田さんは、登山者が往来する地の利に感謝している。 金剛山麓から第一級の備前焼の酒器が世に出るか・・。沢田さんには重圧になるかもしれないが、「土と炎の芸術」という苦難の道をライフワークに選んだ沢田さんに期待をこめて大きな声援を送りたい。 
           
 ことしは五月下旬にも窯出し、新しい作品を展示即売する予定である。             




        耐寒登山の思い出の場所
       金剛山の「お助け」茶屋

     
一本木茶屋  仲谷周助、きぬゑさん御夫婦
                                
          藤田 健次郎

 千早本道の山頂までの中間点にある「一本木茶屋」は、この道唯一の茶店。別名“お助け茶屋”と親しまれている。昔は、この道に五軒の茶屋があったんよ。老夫婦がこもごも語る登山今昔物語・・。

・B>]店開いて四十三年ですわ・

 ウチとこは、昭和三十五年四月二十九日に、現在地の雑木を開いて小屋建てましてん。あのころは、その日が天皇誕生日やったからゲンかつぎましたやんや。せやさかい四十三年になりますやろ。千早の谷向こうに住んで林業関係やったけど、登山客が多いので商売になるかもとね。夫婦同じ年やから、三十二のときですわ。いまお互い七十四ですわ。

 当時はロープウエーもないし、登山道は、この千早本道が一番のメーンルート。まだ道幅も狭くて、今の半分くらいやった。山仕事やってましたが、登山する人が多いように見かけたので、店開けたんですわ。

 道の両側の山は、みんな雑木林でしてん。せやさかい、晴れた日なんか、ここから六甲山も大阪湾の船まで見えましたんや。岩湧山や東条山も全部見えました。下を見たら、妙見谷の滝も丸見え。ゴバン石のそばでキャンプやってはる人が真っ直ぐ、ここまで上がってきて買い物してくれましたもんね。    

 茶店の隣に丸太ベンチおいてありますけど、あれは初めから狭い台地です。大昔、楠木正成が戦(いくさ)やってたころ、ここで見張り番のサムライが“のろし”をあげて合図したらしいです。で、ここは、のろし台いうてます。

 今みたいにスギ、ヒノキの植林が始まったのは、私らが店開けたころからですわ。どんどん木は伸びますやろ、登山道は昔は明るかったけど、今は展望がなくて、暗うなりました。植林の山になってしもうてからやね。

・多い時は五軒の茶店・

 ウチが店開けたら、あとから次々、茶店ができました。場所は下から言うたら、千早神社と風呂谷からの合流点脇、それからちょっと上の空き地、ウチの隣、猿背という場所にできました。ウチの隣の店は“のろし台茶屋”いうてましたな。五軒も多いと思うかもしれませんが、結構、はやったもんです。下の合流点にできた茶店は、長続きして二十年くらいやりましたかな。あとは、次第に店仕舞いしました。それは、あととから話します。

 ここは、今もって電気も水道もないんですわ。しやさかい、ウチは思いきって電気発電機据えてました。百ワットの電球五個つけられますんやけど、夜間登山の人なんかに重宝がられました。重いプロパンガスボンベ担ぎあげて、おでん煮てますのや。水でっか。水は大変です。裏の筒城谷まで降りて、昔はバケツで。あとになってポリタンクなんかで採りにいきます。おいしいいい水ですよ。この仕事は、重うて泣かされます。今は十リットルのポリタンで何度も往復してます。若いときは交代してやりましたが、いまは夫の仕事です。     

 ここに並べてある品もん(品物)は、わしらの背中か、天秤棒(注・棒を肩に担ぎ、前後に荷物を振り分ける人力運搬道具)かついで、みんなあげてましたのや。荷運び用のモノレールもないし。昔はビールもジュースもガラス瓶やったから、そりゃ重かった。前に十キロのプロバンボンベ、後ろに三十五本入りの瓶ビール二箱のせて、さあ、十貫(約四十キロ)くらいあったかな。重労働でしたわ。 

 あとになって、ビールもジュースも缶になって多少軽くなりました。食料品でもフイルムでもアイゼンでもなんでもや。長女が一才半のときから始めましたんで、家内が長女を背負い、亭主が荷担いで、ようまあ、やってきたもんですわ。 

 すごい登山ブームの到来・

 当時の登山者は、若い人ばっかり。まだ貧しかったね。学生や生徒が多かった。林間学校なんかが、盛んやった。みんな粗末な衣服でしからね。服破れたり、リュックの紐切れたり。「おばちゃん、糸ないか、針貸してん」とか「カナヅチないか」なんていうお客さんが多うて、裁縫道具やカナヅチ用意してました。カナヅチでっか、アイゼンの爪、曲がったりしたら叩いて直しましたんや。今なんか、そんな人、だれもおりません。みんないい服着て、壊れたら、すぐ買いますやろ。        

 最初の三、四年くらいは、なかなか軌道に乗らず、山仕事の給料持ち出しや。ムラの笑いもんなったらいかんと頑張ってたら、ものすごい登山ブームがわきよったんですわ。助かりましたねえ。日曜なんか一日二万人ちゅうくらいの登山者が殺到しました。まあ、言うたらネコも杓子も山へ山へ、という流行ですわ。朝早くから午前中は、登る人、午後からは下る人で、登山道は交通整理がいるくらいの大混雑、大賑わいになりました。お客さんに釣り銭渡そうと思っても、誰れが誰や、わからんくらい忙しかった。(注・昭和三十九年、東京オリンピック開催。“見るスポーツ”から“するスポーツ”へ機運高まる。昭和四十五年、植村直巳らエベレスト登頂などの影響とみられる)

 土日や旗日は夫婦でがんばり、平日は家内だけが店開きます。早いときは朝九時半くらいから。やはり、忙しいのは夏と冬です。冬場に学校の耐寒登山が盛んでしたから、大勢が寄ってくれました。今では耐寒登山も減りましたが、学校行事で続けているところは、毎年、立ち寄ってくれますから、うれしいもんです。千数百人もの生徒が来ますから、大変な騒ぎです。

・夏はかき氷。冬場はおでんと甘酒・

 売り物ですか。夏場はかき氷、冬場は甘酒とおでん。これは昔からのまんまです。冷蔵庫なんて気のきいたものはありませんので、大変でした。手回しのかき氷の機械ね、創業いらい使ってますよ。刃だけ研ぎに出してますけど、よう持つもんです。暑い日には飛ぶように売れて、あわてて氷を下まで取りに行ったこともありました。六貫(約20キロ)くらいアセだらけになって担ぎあげたもんです。おでんねえ、この大根、ウチの畑のもんですわ。樹氷や積雪のころは、暖かいもんに人気がでますね。大晦日なんか初日の出拝みも登山客がいっぱいで、夜通し店開けてましたよ。    

 いつのころからか、千早本道の登山者がへってきましたん。おそらく、思うんですけど、登山者全体は増えているんやけど、登山道の利用の仕方が分散するようになった。だんだん念仏坂の方やセトの方、カトラ谷の方とバラバラになる傾向が強まりました。それと、とにかく早く登って、早く下りる人が多くなったんかな。茶店がウチだけになったのは、そういうことと関係しているのかも知れませんね。

茶店は道案内も雨宿りも・

 ここで店開けてましたら、まあ、道案内役も兼ねています。「あとどのくらいか」と聞かれるのはしょっちゅう。子供と離れてしもうた、迷子になったとか。よう道わからんもん同士で身内を探す家族に「動き回らんで、ここにおったら」というて、人助けになったこともありますよ。ときには消防団や警察の方も人探しにきはりました。雷が鳴ったり、大雨になったりしたら、一時避難所みたいになりますし、なんでも屋ですね。

 もう四十三年も続いていますやろ。親に連れられて来た子が親になり、また子連れて上がってきますから、親子二代、三代、顔見知りという人もいます。学校の引率先生として耐寒登山のときはお世話になったもんやと八十代くらいのお年寄りが、お礼を言うてくれます。気分が悪うなった生徒、ここのコタツで休んだこともありましたからね、まあ、ありがたいことです。人助けしてたら、回り回ってこちらも助けてもらっているんやと思ってますのや。

・女性が激増、ゴミは少なくなった・

 道行く登山者を眺めてましたら、世の移り変わりも眺められます。やっぱり、若い人が減って年配の人が多うなりまして、若い人はどうしてんのかな。服装やリュックも立派になりましたなあ。それに一番の大きな変化いうたら、女の人の登山者がぎょうさん増えたことですかな。当時は女の人いうたら珍しがられた。家庭を留守にして女性が山に来るなんて、そりゃ、考えもしなかったですね。      

 店開けた当時は、世相や人の気持ちが荒れてました。泥棒によう店荒らされましたん。翌朝来てみたら、戸こじあけて品物ごっそり盗まれていたもんです。ようやられました。今は、そんなこと全然あらしません。

 それと、昔はゴミ散らかし放題でしたが、今は持ち帰り、とかいうのが、思ったよりもちゃんと守られて、登山道がきれいになりました。なんやかや言うても、世の中、落ち着いている感じですわ。しやけど、一つだけ言いたい。道の無いところまで歩いて山荒らしたり、木折ったりせんといてほしいな、山仕事は大切なんですよ。

 まさか山の中の茶店で一生暮らすとは思いもせえへんかったけど、ようやれたもんです。二年前かな、家内が山頂へのお参りの帰りに転んで足の骨折りまして、えらいみんなにご迷惑かけましたくらいです。よう子連れでやり遂げられたもんや、これも登山者のお陰やな。                     
                                         (御夫妻の談話で構成)




金剛千早の御意見番
なんでも一番が好き

千早しいたけセンター園主  松本昌親さん

                                           藤田 健次郎
  

 大阪府唯一の村、千早赤阪村の金剛登山のメーンルート、千早本道に入口にある「しいたけセンター」は、登山者たちのランドマーク(目印)。ここの園主、松本昌親さんは、登山家で「二剛会」会長、「金剛錬成会」理事でもある。ざっくばらんに山里の暮らしや登山談義をしてもらった。

 ・・・千早生まれだそうですね。谷間の地元の産業のことからうかがいましょう。

 松本 そう、生まれも育ちも千早なんです。大学での四年間と信州・伊那へ高野豆腐づくりの修業に行った以外はずっとここで暮らしています。当時はまだ地元の産業は高野豆腐。ウチもやってました。 昭和四十年代いっぱいまでは、盛んだったかな。

 ・・・高野豆腐と千早の縁は、いまふうにいえば、" ムラ起こし" ですか。

松本 歴史は古いんです。あの楠木正成の正子夫人が“銃後”の安定のために高野山から学んできたのがルーツといわれているくらい。徳川時代には狭山藩などの庇護を受けて生産が奨励されたらしく、ウチにも古い藩札が残ってますよ。       

 ・・・それがまた、どうして衰退しました?

 松本 一言でいえばでんな、戦後、機械化で大量生産工程を採用した信州との生産競争に敗れたということでしょうな。河内の事情です(苦笑)。高野豆腐づくりには大量の薪が必要なので、近隣にクヌギ、コナラの雑木林が残りました。それを生かそうと、今度はしいたけ栽培に転換したんです。一時は活況を呈し、大阪のしいたけシェアの25% を占めるほどの勢いでしたが、ご承知のような中国など外国産の安い輸入物にアッと言う間に押されてしまったわけ。      

・・・いま皆さんに、ここの「山の豆腐」が評判いいですね。

松本 お陰さまです。ウチの過去帳、調べてましたら豆腐づくりかかわったのが一七七七年とある。それで、まあ「創業、安永六年」という看板で北海道・十勝産の「とよまさり」という豆を特注して売り出しましたら、これが評判を呼びました。いまでは大阪の有名料亭さんからも注文があるんですよ。早朝登山者にも喜んでもらおうと、四時起きでがんばってますよ。

 ・・・暮らしの支えがあってこその、山歩きですね。       
 
 松本 いや、山はあまり関心なかった。きっかけは長男、公成( まさのり) が小学三年のころ、小児ゼンソクが出まして体力づくり金剛登山をやり始めた。それについて登ったのが始まりですよ。それから、こっちも四十のとき、糖が出た。お医者さんに運動が大切と話してもらっていた丁度そのとき、テレビでハワイのホノルルマラソンの番組をやってまして、「ほな、マラソンでもやるか」と思いついてランニング開始。いらい十年連続、ホノルルマラソンに参加、二回目には完走しましたね。

 ・・・それで海外の登山というのは

 松本 ハワイで真珠湾を見物に行ったら、あいにく戦争記念の式典の最中、そういえば「ニイタカヤマノボレ」が日本の真珠湾奇襲の暗号やった、という古い話になり、じゃあ、ニイタカヤマ( 新高山。現在の台湾・玉山) へ登ろうというで行ったんですわ。(笑)

 ・・・海外登山の始まりですか。


 松本 そう、なんでも「一番」が好きな性分やし、話するのにわかりもいいんで、その後、ヨーロッパのモンブラン、アフリカのキリマンジャロ、アメリカ(アラスカ、ハワイを除く)のホイットニー山、マレーシアのキナバル山といった具合に最高峰の山、登りました。玉山やキリマンジャロは二回登ってます。ことしはノルウエーのガルフォピケン山、二五〇〇メートルくらいの山に行ってきました。 

 ・・キリマンジャロって、ほぼ五九〇〇メートルもある高山ですが

 松本 キリマンジャロは、山麓までの分を含めると、三回行っているんです。なぜか肌が合う、という感じやな。あの山は三泊四日かけて登る。二日目に富士山の高さを超え、三日目に四九〇〇メートルに達します。ここらへんになると、一歩ごとに二度呼吸、クラクラします。まさに這うようになって登りますんや。山頂には氷河がありまして、これがいい。

 ・・・海外登山を重ねる一方、「二剛会」を結成された。

 松本 「二剛会」はことし二十周年です。ここに立ち寄るお客さんたちから、もっと歩きたい、金剛山だけではモノ足りないなんて声がありましたのが、結成の動機なんです。いま登録会員約八百人、常連三百人といった盛況です。

 ・・なかには恐ろしいほどの健脚者がいると聞きます。

 松本 二上神社口から二上山、岩橋山、葛城山、金剛山とつないで片道二十五キロありますが、足達者が多くて、千回以上突破したのが十数人います。女性も三人。片道だけではモノ足りないと、Uターンして一往復する人。そうなると、こんどは二往復する人も現れて。すでに三人います。一日に合計百キロの歩きですから、こりゃもう、なんですね、“アホ”ですわ。(親しみをこめての笑)
          
 ・・国内の山はどうなんですか。

 松本 金剛山には八〇〇回くらい、他はあんまりね。大峰山に10回くらいかな。あとは北海道の利尻岳、屋久島の宮ノ浦岳、日本列島の南北端やし、それに富士山。日本アルプスには行ったことがない。要するに、話してわかりやすい山を選んでいるんですかな。

 ・・金剛山といえば、登山規制が話題になっていますが。


 松本 ひどい登山者がいます。たとえば、勝手に通行の邪魔になると、ノコギリで木を切っていく。その木は樹皮をむいて風雨にさらし、床柱なんかに仕上げる丸太なんですよ。金剛山一帯に約二百五十人の山主がいます。登山者に好感をもっていない人もいるんです。山や植林を荒らされると死活問題なんですよ。三月半ばから登山コースの規制を強めたのも、現状回復のための手だてですよ。ぜひ協力してほしいものです。

 ・・これからどんな山歩きを計画していますか。

 松本 そろそろトシやからね。トレッキングにシフトしようかなと、もうニュージランドのトレッキングには三回ほど行っているですわ。七十くらいまでにとピレネー山脈、アラスカのデナリ国立公園、カナディアンロッキーなんかも候補地にあげてますけど。そうそう、「二剛会」二十周年記念山行に北方領土の国後(くなしり)島の爺々岳(ちゃちゃだけ)に登ろうか、と。でもね、ビザなし渡航という外交問題もからんでますので、うまく行けるかどうか。    
    
 ・・しんどいことも多い登山ですが、山の楽しみというと・・。

 松本 簡単にいえば、おもいきっりアセかくとね、その晩のアルコールや食事がめっちゃ旨い、ということに尽きるんやけど。まあ、一歩一歩、山頂に向かって登る。刻々と目前の風景が変化して飽きないのもいい。それとね、もう単純な世界に全身没入しているわけで、日常の雑事に全然かかわりない、無心の境地になれるのがいいですなあ。





            金剛山は“自然植物園” 
            花の観察登山にぎわう
              「金剛山の植物に親しむ会」

                               
藤田 健次郎


 「金剛山って花があるの?」
 金剛山は植林の山と思われている。事実、七、八割方が密植林。そういった山は、太陽光線が大地に届かないので、下草もろくに生えず、したがって昆虫も棲まない。味もそっけもない山だと信じられている。       
 
 ところが、意外や意外、金剛山には雑木林がまだ残っており、その谷筋や植林帯のなかにも実に多くの草木が豊かに育っているのだ。植物愛好者にとっては、それこそ自然の植物園といえる。金剛山が「陰」なら、六甲山は「陽」だとよく比較されがちだが、金剛山の方がバラエティーに富んだ植物相があると言われている。大都市近郊の山としては、四季折々の花を楽しめる絶好のロケーションといってよい。

 この素晴らしい自然をホームグラウンドにして季節の草木の花をたんねんに追っかけ、観察し、みんなで学習しているグループが「金剛山の植物に親しむ会」(代表・山崎教信さん=以下、略称、KSSK)である。

初の観察会、二十四人も参加・

「KSSK」が最初の観察会を開いた時の模様を再現してみよう・・。

 平成十三年四月二十日のこと、朝から晴れて幸先のよい門出となった。集合場所は、千早赤阪村のロープウエー駅バス停留所前の百ガ辻だ。バス道と伏見峠に通じる念仏坂コースとのT字路である。

 山崎代表はじめ「KSSK」の呼びかけスタッフたちは、「一体、花好きの人がどのくらい参加してくれるのか」と内心やきもきしながら、マイカーやバスが着くのを待った。定刻の九時半には、なんと二十四人も集まった。

 みんなリュックを背負ったハイキング姿。男女はほぼ半々だった。大阪市内から駆けつけた人もいたが、大阪南部の人々がやや多かった。おおむね中高年層か。会社勤めをリタイアされた男女も少なくなかった。

 参加したきっかけは、当然のことながら花好きの人たち。シダ類にめっぽう強い男性もいたが、このような人は例外的。どちらかといえば、花の実物をみて名前も生態も知りたいという知識欲の豊かな人たち。初回に現れた傾向は、後の平均的なタイプとなった。 口コミで伝わったらしいが、思いがけず多数が集まったことに山崎代表は感激、「植物観察会を通して参加者の交流を深め、植物の知識と自然の豊かさを大切にしよう」といった発足の趣旨を挨拶したものだ。

・タチツボスミレが初対面・

 一行は、晴れやかに百ガ辻を出発、この日の設定コース、念仏坂コースを経て、途中から細尾谷に入り、山腹の周遊路に向かった。リーディング・スタッフ、桝谷祥子さんは林道を先導、道端で最初に見つけたのがタチツボスミレであったという。参加者が初めて出会った記念すべき花であった。ミッキーマウスの耳のように開いた花弁、淡いムラサキ色のかわいい花に参加者たちは目を輝かした。さっそくメモをとる人、細いストライプをルーペで観察する人もいた。                         

 細い水流がある細尾谷を長い列となって歩いた。目ぼしい花は咲いていないかと、視線はつねにキョロキョロ、すぐに立ち止まり、しゃがみこんであれこれと観察し、ああでもない、こうでもないと花談義に夢中になるものだから、なかなか時間がかかる。それが、また楽しい。通称「シルバーコース」(現在は植林のため通行禁止中)と呼ばれる細尾谷をようやく登りきって周遊路に出た。   

 ここでは、ミヤコアオイの花を見つけた。「エッエー、これが花?」と驚く人たち。季節にやや先駆けていたが、ハルトラノオの白い花も見つかった。

「星と自然のミュージアム」で学習会・

大阪平野や奈良盆地を見下ろす展望台に向かい、そのあと「四季の谷」でのんびり、楽しい昼食会。そして自己紹介。お互いに初めての顔合わせだったが、このころになると、うちとけきた。一行はそろって当時、完成したばかりの香楠荘前にある自然観察施設「星と自然のミュージアム」に立ち寄った。

 「星と自然のミュージアム」では学習会のためのパソコンなど情報機器を活用させてもらう手はずになっており、スタッフから、この日歩きながら観察した花の名前と種類が報
告された。
 ミヤマカタバミ、ヤマトグサ、ヒトリシズカ、ハナネコノメ、ツルキンバイ、、、参加
者はそれぞれに細尾谷の沢に沿って一生懸命に観察したつもりであったのにスタッフの口
からでる花の数は、なんと二十八種類にも上った。樹木の方もコクサギ、クロモジ、ニガ
イチゴなどなどと十一種も。いまさらながらフィルドの奥深さに参加者は感心した。
 このあとも、スタッフがあらかじめ用意した資料を配り、初の学習テーマ「金剛山に見
られるキンポウゲ科の花」を学んだ。初めにキンポウゲ科、つまりフクジュソウやニリン
ソウを取り上げたのは、春を待ちわびて太陽に向かって咲く花たちにKSSKの発展のイ
メージを重ねたつもりだったというから、心にくい。
 配られた資料はA4版、キンポウゲ科の分布、葉や花冠の特徴、種類の標準和名や属名
、開花月、一口解説をまじえたかなり専門的なレベルのものだ。これと平行してスタッフ
はパソコンに取り込んだ花や葉の映像をプラズマディスプレーに写して説明、参加者たち
は金剛山で見られるキンポウゲ科の花が二十四種もあることを学んだのだ。  
・観察→学習会がパターン化・
 このような最初の例会の進め方が、その後の会のパターンとなった。炎天下も肌寒い晩
秋も植物ファンは、しっかり歩き回った。スタッフが四、五日前に下見しておいたコース
を案内しつつ歩きながら、その季節にふさわしい花の観察をしたあと、先のミュージアム
に寄り、教室での座学を通じて植物研究という形である。     
 毎回の学習テーマは、その季節に見合った草花、たとえば、「金剛山に咲くバラ科の植
物」、「ウツギ科の植物」を取り上げた。あるいは観点を変えて「金剛山の帰化植物」、
「有毒植物について」などと課題をとっかえひっかえてきた。  
 平成十四年六月の第十一回の例会の学習テーマは「植物用語とサトイモ科テンナンショ
ウ属の仲間について」。秋に毒々しい紫紅の実がなる。マムシグサとも言われる奇体な感
じがする花だが、ヤセ地では雄に、肥えた土地では雌に性転換する不思議な生態を持って
いる。金剛山に自生するマムシグサの仲間は、三種類ある。  
 この見分け方は、ミズバショウなどにも見られる丸いラッパ状の仏炎苞をめくり上げる
と、内側に白いつぶつぶの乳状突起があるのが、ムロウテンナンショウ。乳状突起がない
のが、ムロウマムシグサとコウライテンナンショウ。
 こういう見分け方が、参加者に紹介されてからしばらくは、口コミで広まったのか、登
山道ぞいのテンナンショウは、どれもこれも仏炎苞がめくり上げられていた、という愉快
なエピソードもある。
・二年間、延べ四百人超す盛況・
こんなレベルが高い例会が組織化されるようになったのは、元はといえば、リーディン
グ・スタッフ、桝谷祥子さんの努力が実ったものだ。桝谷さんは、植物について素人にす
ぎないピアノ教師だったが、金剛山の花に魅せられて十数年、コツコツと花追っかけを続
けた。
 積もり積もったたくさんの花の写真をアルバム二冊に仕立てて、ちはや園地にある金剛
山総合案内所(通称、ログハウス)に贈り、訪れる人たちの目を楽しませたこともある。
こうした観察と勉強の成果があがり、いまでは押しも押されぬ第一級の植物研究家。とく
に金剛山の植物についての造詣は右に出るものがないと言われている。
 平成十三年春開設をめどに大阪府によって自然観察施設が建てられることになった。関
係者から施設を活かすため、一般の人たちが参加できる活動の場にふさわしいものができ
ないか、との打診やら示唆やらがあって、すでに活動をしていた野鳥を観察する会の人た
ちや桝谷さんが一体となって「KSSK」が生まれることになった。
 したがって「KSSK」の山崎代表は、野鳥観察グループのメンバーであったし、スタ
ッフ数人は、その野鳥観察のインストラクター、金剛山を被写体にしているカメラマン、
登山情報や植物観察に熱心な養護学校の先生といったボランティアが支えている。
 最初の例会から丸二年、十五回を重ねて、延べ参加者は四百三十五人、毎回平均約三十
人という盛況を続けている。ときには別の山で活動している植物趣味の会から参加したいとか、れっきとした旅行会社からも参加の打診があったほどだ。最も参加者が多かったのは、平成十四年六月の四十七人であった。

 これほど人気が出てくると、参加者の列も長い帯となるため、いくつかの小グループにわけてスタッフが付き添う。山が舞台なので、万一の転倒や滑落の危険を避けるため、ひそかに珍しい花が咲いているところがあっても、危険防止の観点からアクセスしないということもある。それでも大事をとって保険料込みの参加費を二百円徴収することにした。

・絶滅危惧種や希少種も発見・

 桝谷祥子さんが、すでに同定してきた金剛山の草花は、驚くなかれ四百三十一種、樹木は二百二十四種に上っている。なかには紙面で公表がはばかれる絶滅が心配な特別の樹木が、なんと数カ所で発見したり、大学の研究者が太鼓判を押してくれた希少種も見つけており、それらは「KSSK」の財産となっている。

昨年には、金剛山を離れて特別企画観察会と銘打って和歌山県のミカン畑を湯浅の海岸まで約十六キロを歩いたり、「星と自然のミュージアム」のフロアで花、鳥、虫などを対象にした写真展を開催、ことしも五月いっぱい写真展を開いた。また、隣の岩湧山をを中心に活動している「いわわきネイチャークラブ」の人たちとも交流の輪を広げている。

・人生豊かになる山の植物観察・

 この例会に通算八回も参加している熱心な女性は、こんな感想を洩らしている。

 「桝谷さんの知識の豊富さに驚かされます。道ばたのなんでもない“雑草”のようでも瞬時に‘何科の○○’と識別されます。まるで人間・植物図鑑。たとえば、ホトトギス、ヤマホトトギス、ヤマジノホトトギスなどよく似ていて間違えやすい植物も比較するところのポイントを教えていただきました。雨の日は中止なんて言っても、結局、集まって来る参加者が多くて例会決行ということになるくらい、みんな熱心なのです」    

 こういう声に山崎代表は、「喜んでもらえてうれしい限りです。このような活動を通じて、これまでなら意識せずに通り過ぎていた花をたくさん知る事ができた。自分にとっても自然を眺める見方が変わって、人生が豊かになった」と活動の意義を考えている。

 また、桝谷祥子さんは「花の名前と形を覚えることから始まって、自然に対する好奇心や探究心が育つといい。とりわけ、参加者のなかから次の活動を引っ張っていくような人たちが育ってくれたら、なおうれしいことですね」と話している。 



      ・KSSK・ 植物に興味のある方なら、いつでも参加自由。3月−11月の
      毎月第2土曜日開催(8月休み)。参加費200円(保険料込み)。申込み
      は山崎教信さん(・0721−29−5597 Email miz-yam@viola.ocn.ne.jp)
      URL http;//www5.ocn.ne.jp/ y5597/            



  みんなの“行きつけの山”
  金剛山を彩る七つの顔

                                 藤田 健次郎
                 

 早いもので、金剛山を歩くようになって十七、八年になる。

 ある朝、“魔女の一撃”に襲われて、ひどい腰痛になった。しかたなく筋力をつけられるかも知れないと、リハビリのつもりで登ったのが、金剛山との初めての出会い。思えば、さえない山歩きのきっかけだが、いつのまにかホームグラウンドになってしまった。

 金剛山というのは、葛木岳、湧出岳、大日岳の三山の総称、金剛山という山があるわけでない。金剛山系と鳥瞰すれば、屯鶴峰から紀見峠まで、大阪・奈良・和歌山の三府県にまたがる脊梁山脈、大阪湾を挟んで六甲山系と対峙しているように見える。  
 
 金剛山がいいのは、まず地の利。都市の近郊にあって気軽に出かけられる。清々しい空気や静かな尾根や谷筋に恵まれて、心身の森林浴を楽しむことができる。

 金剛山に出会い、やがて北アルプスにもザックを運び、いくつかの海外の登山とトレッキングを重ねるようになっても、いささかも、この山が劣るとは思ったことがない。かつて眺めたヒマラヤは豪壮雄大。視点を変えれば、荒涼と索漠でもある。その点、金剛山は、低くて小さいが、緑と水にあふれた湿潤と芳醇がある。

 金剛山には、日本の低山が個々に兼ね備えた美点を、一か所に凝縮したような味わいがある。あえて「讃 金剛山七彩」としてラインアップしてみよう・・。

 一つ、「登山道の充実」。三府県から多くの登山コースが伸びている。東西の尾根と谷筋の数だけ登山道があるといってよいほどで、数えあげたら、きりがないだろう。ダイトレに沿えば南北に長距離縦走の気分も味わえる。金剛山から南尾根を歩き疲れて、紀見峠近くにある国民宿舎、紀伊見荘にたどりつき、温泉に浸るのは、いくたびか経験しても味わい深い山行である。

 二つ、「選択肢が豊富」。登山コースの難易度のバラエティーに富んでいるぶん、老若男女だれでもが、体力やその日の気分でコースを選べることだ。ロープウエーでいきなり「ちはや園地」にという手もあるし、念仏坂コースなんか、車イスの人たちや幼児をつれた若い家族にも山歩きの楽しさを提供している。健脚者は天ケ滝新道からの長い歩きや二上山や岩湧山に向けてアップダウンを楽しめばよい。 
    
 三つ、「多彩な季節感」。四季それぞれに山の様相が細かく変化して、季節の恵みを実感させてくれること。ヒノキの山のようにみえて、実に豊かな野の花、山の花が目を楽しませてくれる。ドライブウエーのような山を寸断する開発がなされていないため、自然の豊かさが残されている。若葉のころ、山頂周辺のブナ林は、淡いグリーンのカーテンに包まれたように美しい。沢に水流、苔むした樹木、日本式庭園にたたずむような和みを感じる。   
   
 毎年、初夏になると、遠く海を越えてカッコウが飛来する。明朗快活な鳴き声が五月晴れの空に、木々の樹冠に響きわたって行く様子は、なんともいえない爽快感に誘われる。カッコウが渡ってくるかぎり、金剛山の自然は、まだ見捨てられていない、生きてるのだと、この山の環境の自然さを推し計るひそかな指標にしている。

 この季節の様相と関連したことだが、あえて四つ目として特筆したいのは、「積雪と樹氷」。冬の冷たい季節風が運んでくる積雪や樹氷の光景は、大都市近郊にしてはとても珍重すべきビッグな自然のプレゼント。軽アイゼンをつけてサクサクと雪を踏しめて歩く楽しみ、スノーボートではしゃぐ子どもたち。こんな冬山体験を近場の、しかも安全なところで味わえるのは素晴らしい。児童生徒たちの耐寒登山という美風が生きているのもいいことだ。  
  
 五つ、「登山回数捺印システム」。登山するたびに回数と日付を捺印してくれるシステムを寺務所がやっている。山頂に初めて登った人たちは、いちように千回、二千回と登山回数を稼いだリピーターのずらり並んだ名前の大掲示板に見入って、その着想のユニークさと実践者の数の多さに驚いてる。金剛登山の人気を側面から支えているイベントでもある。

 六つ、「信仰の山」。多くの登山道にまるで道しるべのように、いろいろな地蔵さんが安置されている山である。山頂には金剛山の名の由来でもある山号をもつ転法輪寺はじめ、葛木神社や文殊さんなど神仏習合の宗教施設と行事があり、戦前から引き続いて信仰を集めている。頭を垂れ、手を合わせる登山者の姿が多いことが、そのことをよく物語っている。 
 
 七つ、「歴史の山」である。山岳宗教の修験道の発祥の伝承を持ち、そこここに経塚跡や故事来歴を残している。『太平記』が語り伝える武将、楠木正成がたてこもる主戦場でもあった。山麓の千早赤阪村や御所、五条両市にまたがり、史話が豊富なのは言うまでもない。

 登るきっかけは、多様であっても、金剛山は、むずかしい登攀技術や特別な山道具が必要な山ではない。みんながそれぞれの興味や体力にあわせて“いきつけ”にするのにふさわしい七彩の山だと思っている。