私の作品U
このページは、山関連の出版物、新聞などに掲載されたエッセイやルポです。
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                           05・01・15日経夕刊「ふるさと山紀行」


 岩湧山  (897m)

頂覆うススキの銀穂

             低山だが展望抜群         

 大阪では珍しくオシドリが群れて越冬する河内

長野市の滝畑ダム湖。その湖畔から山陵に視線を

上げると、唯一、なぜか白い山頂が望めるのが岩

湧山。                             



 金剛生駒紀泉国定公園・内の雄峰。でっかい山体

と大阪湾を望める展望のよさが抜群の山である。

なかでも、秋から野焼きの三月中旬まで山頂部

を覆いつくすススキ(茅)の銀穂は目を奪う壮観、

風に揺れる穂先の波は実に美しい。     

 

 ダム湖南端のトイレ横から縦走路「ダイヤモン

ド・トレイル」を登る。はじめは杉の植林帯。丸

太や石積みの階段状の道。急な斜面を何度も九十九

折して高度をあげていくが、せせらぎの音が耳を

離れない。ダムに注ぐ光滝の清流の音がいつまで

も追いかけてくる。                     

やがて植林帯から冬枯れのクヌギやコナラの雑

木林に樹相が変わる。黄葉や褐葉した落ち葉が山

道を敷きつめて山靴の下で乾いた音を立てる。シ

ジュウガラが餌を求めて枝を渡り、ピ、ピッとさ

えずっている。陽だまりのハイキングにもってこ

いの静かな山域の風情。                 

急に視界が大きく開けて伐採地の斜面に出る。

深い千石谷を挟んで雄大な南葛城山が立ちはだか

るように迫ってくる。                   


高圧線の鉄塔下をくぐり、再び杉の植林帯。昼

なお暗い密植林を抜けると、ようやくススキの穂

が波打つ山頂直下に立つ。         

 

背丈をゆうに越すススキの群生がおわんを伏せ

たような斜面を埋めつくす。湖畔から山頂が白く

見えたわけは、このススキの穂波のせいなのだ。

この山頂部のススキの群生地(約八f)は、滝

畑地区の人々の区有地で、「キトラ」と呼び習わし

ていると山頂の案内板にある。              

平地のススキと異なり、ご当地のは、細くて、し

なやかな柔軟性に富む。文化庁からも全国有数の

良質なススキと太鼓判を押されているといわれて

おり、重文クラスの神社、建物の屋根葺きの貴重な

資源となってきた。                     

往時、さかんな需要があったときに搬送に活躍

した索道(ケーブル)跡を左手に見ながら、スス

キに囲まれた迷路のような道をたどり、西峰の山

頂の広場へ。中央に大理石台の大きな方位盤。

本来の頂上は樹林のなかの東峰だが、登山者は

展望がきく西峰の広場でくつろいでいる。よく澄

んだ晴天に恵まれたら、六甲山系や淡路島、明石

大橋も眺められる。                   

都市近郊の低山だが、昨年の暮れに降雪があり、

縦走路では氷点下になるので、冬季は軽アイゼン

と防寒着が欠かせない。                 

昨秋、中高年登山者に人気の登山家、岩崎元郎

さんが「新百名山」にリストアップした。改めて

登山者の話題を集める山になりそうだ。      

(文・写真 藤田健次郎)



                            05・01・08日経夕刊「ふるさと山紀行」

 鳥見山 (735m・奈良県)

見下ろせば朝霧の美景

     鳥居、石碑に歴史の香り    

 新春を迎えた登山愛好

者には特別な楽しみがあ

る。干支にちなんだ名の

山を捜して登る干支の山

巡りである。

 酉年の今年は、昨年の

申と違って山にこと欠か

ない。鳥海山(秋田・山

形)、燕岳(長野)、鳳凰

山(山梨)、、、各地に散在

する烏帽子岳(山)など

目白押しといってよい。

 関西では歴史と文化を

誇る奈良県南部の鳥見山

が、日帰り山行に好適。

 まずは榛原駅から旧宿

場町の家並みを数分歩き、

菟田川沿いの古代神を祭

る墨坂神社に寄る。興味

深いことに境内にある鳥

居が遥か北の鳥見山と真

正面に向き合っている。

前方の右手に大和富士

               の異名を持つ優美な額井

               岳。その稜線を左に香酔

               山、貝ケ平山を経て再び

               盛り返しているのが目指

                す鳥見山だ。

         町並みを抜け山に向か

              う。舗装された林道を嫌

          って地道をとるが、すぐ

               林道に合流、やがて中腹

                の鳥見山公園に着く。

              休憩所にある扁額によ

          ると、この山の伝承は歴

                史を一挙にさかのぼる。

                 日本書紀に伝説の天皇、

                  神武帝が当地で皇祖を祭

                   ったという記述があると

                   いう。

それにちなんで木立の

なかに「鳥見山中霊▼跡」

(とみやまなかまつりの

にわあと)と称する大き

な石碑。鯉が泳ぐ勾玉池、

そして朱塗りの鳥居は墨

坂神社の分社、鳥見社と

いった、なにやら神さび

た雰囲気。

二箇所ある展望台はじ

め南向きの斜面から大和

盆地を見下ろす眺望は圧

巻。山水画をパノラマふ

うに見るようだ。

この時期、登る途中の

地道に霜が降りていたが

冷え込んだ朝は町並みや

山谷の狭間に雲海のよう

に幻想的な白い霧が立ち

込めていたのだ。

遠く盆地をはさんで遠

望できる大和三山や金剛

葛城山系、あるいは大峰

山へと続く吉野の山並み

が、大海原に浮かぶ大小

さまざまな島のよう。居

合わせたカメラファンが

シャッターチャンスに一

喜一憂していた。この朝



霧は見逃せない。

 公園から頂上に向かう

山道の道標に万葉歌人、

山部赤人の墓所五`とか

長谷寺六`などとある。

静かな林で突然、カケス

の羽音に驚かされる。

 山頂に着いたと思った

ら、これが前山。いった

ん深く下って登り返した。

このV字型の稜線が遠目

には鳥が翼を広げたよう

に見えて、山名の由来に

なったらしい。

再度の高みに半ば埋没

した四等三角点の標石を

見つけた。山頂は杉林の

なかで視界は望めない。

 公園管理事務所の男性

は「昔は大雪が降ったが、

近年はすぐ溶けるベタ雪

ばかり。真冬でも登山は

大丈夫でしょう」と話す。

 「飛翔」の干支に思い

をこめた新春山行、朝霧

の美景がいつまでも後を

引いた。

(文・写真 藤田健次郎)

 

   田へんに寺

鳥見山の読みは 「とりみやま」と「とみやま」の二種類ある。地元では

 公園名は後者、山は前者を使っている。               

               

ガイド

大阪・上本町駅から近

鉄大阪線榛原駅まで約五

十分。墨坂神社に立ち寄

るなら駅南側商店街へ。

山に直行なら駅北側から

新興住宅地へ。町角に「

鳥見山公園」への道標が

行き届く。約一時間で公

園着。春はツツジ、秋は

紅葉の名所。山頂にはあ

と半時間登る。      

登頂後、人気があるの

は東海自然歩道を初瀬ダ

ム(まほろば湖)を経て

西国三十三ケ所観音霊場

第八番札所、長谷寺まで

歩くコース(約八キロ)。

登山情報問い合わせ 榛

原町公園課電0745・

82・2413      











15/08/03    「山と渓谷」9月号         


 一万日連続登山に挑む
毎日登山家、78才


 東浦 奈良男さん




 1925年、大阪市生まれ。戦争の空襲を逃れて父の故郷の現在地へ疎開。印刷会社に職を得て、植字や文選工を35年間。在職中から山好きで、同年の妻、かづさん、一男二女と家族ハイキングを楽しむ。そのかたわら読書と句作にも励む。山歩きのつど一句ひねるのも趣味の一つ(本文の句は東浦さんの作品)。連続登山は、趣味ではなく人生そのものであるという。

 「一日一山」を始めたのは、退職の翌日、1984年10月26日から。出勤先を近隣の山と富士山に変えたのだと話している。

 取材した7月9日現在、6831日連続登山を達成。読者がこの記事を読まれた日をプラスすれば、東浦さんが実行中の連続登山日数が特定できる。当面の目標は12月25日。7000日連続に到達する予定日。
 1996年度オペル冒険大賞チャレンジ賞を「長年にわたる継続した冒険活動」として受賞。三重県度会郡小俣町在住。




  やめられぬ本と山とは五月晴れ

 夕方五時、朝熊ケ岳登山から帰宅した東浦
さんの鉄の足を見せてもらった。かれこ
れ19年、雨の日も風の日も、大雪の朝も台風
の宵も、正月も休みなく歩いている足とはど
んなものだろう?                



 漁師のように赤銅色に日焼けした小柄な身
体。その割に大きな足は節くれて、ごつごつ
と武骨、どの指も歪み、削られたように短く
曲がっていた。獣の足のように固いタコが盛
り上がっている。まだ血がにじんでいる爪が
あった。風雪に耐えた樹根を思わす強靭さと
現代人のものとは思えぬ土くさい足であった。
 足を触わらせてもらった。意外にも見かけ
よりは柔らかい。おそらく同年輩のだれより
も柔軟で、しかも筋力がいっぱい詰まってい
る感じだった。                   

 「血が出ていますよ。痛くないですか」
 「いや、平気。いつものことです」
 東浦さんは靴下をはかない。素足でじかに
靴をはく。何かわけがあってのことかと理由
尋ねたら、あっけらかんと
 「子どものころからの習慣。サラリーマン
のころも素足でした」

 山歩きに素足はきつい。重ねて尋ねたら、思
いがけない山の歩き方を話してくれた。長年
の山行で編み出した「疲れ知らず東浦式歩法」
と言えるものかも知れない。

 靴下をはくと、第一に蒸せるから嫌だそう
だが、それ以上に「歩く感覚」が鈍るのが困
るという。爪先に体の重心をかけて力を集中
すると、歩けば歩くほど体中の血の循環がよ
くなっていくことが実感できるそうで、血の
めぐりがよくなるや、まったく疲労を感じな
くなる。指の感覚を鋭くしておくためには、
四季を問わず素足に限るというわけだ。

歩き方といえば、東浦さんは、もう一家言
を持っている。それは独特の「出せば引く」
歩きという極意である。一歩踏み出すと、脚
の付け根を少し「引く」。交互に出した脚を「
引き」つつ歩く。もちろん後退するわけでな
い。東浦さんの実地の歩きからすると、一歩
ごとに腰と脚の付け根に小さな「ひねり」を
入れている感じである。慣れぬとギクシャク
した動きになり、とても真似できるものでは
ない。                      

 「素足」と「出せば引く」歩きの相乗効果
なのか、「朝出発のときよりも帰宅した時の方
が、足が調子づいて歩きたがるから、また山
に行きたくなる」という境地となる。

 号砲の出かけ雷鳴梅雨山へ          

 東浦さんは、特別の山靴をはかず、普通の
運動靴。衣類も日常の作業衣のまま。山から
下りてきた直後でも着替えようとしない。山
と日常が表裏一体化している。       

 こんなスタイルで「一日一山」という並み
外れた目標を掲げたのは、当時、比叡山の僧
が「千日回峰」の荒行をなしとげたことを知
ったからである。実は「千日回峰」は数年間
に何回かにわけて「千日分」歩くのが普通の
やり方だが、東浦さんは「千日連続」と受け
取った。この麗しき誤解が、登山界に比類の
ない壮絶な挑戦に駆り立てたわけだ。   

 朝熊ケ岳(五五五b) 3002回      
 鼓ケ岳(三五五b)  2090回      
 国束山(四一四b)  1026回      
 富士山(三七七六b)  361回      

 右の回数は東浦さんが連続登山の対象にし
ている主だった近隣の山の登山回数(日数)
である。(富士山のは「連続登山」を始める以
前のも含む)。近隣といっても、たとえば朝熊
ケ岳へは自宅から往復約30キロ。歩いて登山
口まで約三時間、山頂まで約一時間かかる。ふ
だんはどこまでも徒歩だ。朝七時出の夕五時帰
りが日課になっている。               

霊峰へ打ち込む命夏の天            



 年平均20回のペースで登る富士山行の場合
、地元の無人駅からJR参宮線→近鉄山田線
→JR東海道線の夜行で富士駅→JR身延線
富士宮駅→タクシーまたはバスで五合目→三
、四時間かけて頂上→一,二時間かけて下山→
バスで新幹線三島駅→名古屋駅といった過密
スケジュールで往復する。なにしろ深夜に帰
りついて、翌朝、すぐ近隣の山へ出勤し
なければならないから、もう罰ゲームのよう
な過酷さを自らに課しているのと変わらない。




 このような超人的体力を維持している東浦
さんのエネルギー源だが、これはとてもユニ
ークなもので、「東浦式健康食事法」と名づけ
てもおかしくない。東浦さんは朝と夜だけの
二食主義。昼はたいがい山中だが、ぜんぜん
固形物は口にしない。「だから、山の水ほどう
まいものはない」とおっしゃる。これは富士
山でも変わらないというから、シャリバテに
泣く常人の及ぶところではない。      

 破天荒な挑戦を内助で支えてきた妻のかづ
さんが最近具合が悪い。東浦さんが手料理し
ているが、肉は食べず、好んで豆や野菜の煮
物と海藻類を食べる。ひじき、わかめ、のり
、、、海のものはなんでもよいそうだ。お茶の
代わりには黄な粉を湯に溶いて飲む。飯には
糠(ぬか)をかける。これだと、栄養価の高
い玄米と同じになる。ときには黄な粉と糠も
同時に飯にふりかける。           
 「うまいですか」                 
 「うまい?体にいいはずだから」       

という問答になる。東浦さんの自慢は、いつ
も健康保険証が真っ白なことだ。「一日一山」
ペースに入ってからは、病気は大敵。入院で
もすれば、大記録が途切れてしまうのだ。  

 ゆく山の迫り降り初し春の雨        

 三年半前のこと、山から帰宅途中、対向車
にはねられた。左膝を強打し、頭部から出血
の大ケガをした。東浦さんはとっさの判断で
病院行きを拒んだ。翌朝、膝が上がらず、頭
に包帯を巻いた東浦さんは、杖二本を自転車
に積んで隣町の的山公園(二六九b)に向か
った。膝のケガが治ったのは、五ヶ月後。膝
を曲げて座れるようになったのは、三年後だ
った。それほどの重症でも山をあきらめなか
った。                       
「的山も山は山です」。             
東浦さんの短い言葉に歯を食いしばるよう
な執念を見た。                 

 病気は禁物だが、冠婚葬祭の付きあいがあ
るときは困る。未明、自転車で登山口まで駆
けつけ,特急登山を済ませる。「家内を旅行や
温泉に連れてやれないのが、かわいそうだ」
とポツリ、気にかけているのだ。        

 東浦さんが本当に山に魅せられたのは、1
960年夏、一家五人で乗鞍岳に登ったとき、
雲海の彼方に浮かぶ白山を眺めてからだ。あ
のときの感動を求めて千日、二千日連続登山
を敢行してきたが、朝熊ケ岳で三千日を突破
したとき、「これなら一万日も行けるぞ」と自
分の脚力に確信がわいてきた。        



 日焼けした顔に深いしわ。日除け、風避け
に伸ばしている長髪は肩にまでかかる。もう
町では評判の仙人の風体。背負うリュッ
クには七つ道具を詰めてある。金づち、なた、
のこぎり、ピッケル、熊手、、、、。これらは荒
れた登山道を整備するためのものである。ボ
ランティア作業を惜しまないのは、回り回っ 
て「自分の歩くためにもなるから」という。   

 庭草は取りつくし墓草を抜く          

 近頃、山中を歩きながら思索する。前人未
踏の「一万日連続登山」を迎えるのは、87才
である。そこまで気力・体力を充実させられ
るか。その快挙を誰が喜んでくれるか。いま
、東浦さんが納得している心の内は、こうで
ある。                       

 いい思いをさせてやれなかった母から丈夫
な身体を授かった。86才で亡くなった母の年
齢を超えて「一万日」が実現するとしたら、
それは奇縁である。母に会えたら,真っ先にみ
やげ話にして喜んでもらいたい―――。    

 
 

半世紀かけて
1500座登頂の76歳


   高木  忠さん
 

1927年6月、大阪市生まれ。旧制堺中(現三国ケ丘高)から陸軍士官学校へ。世が世であれば高級軍人になっていたはずだが、人生行路は大激変。もっとも、その経歴が高木さんを山好きにさせてくれたというから世の中は面白い。

 旧制中では詩吟部。国威宣揚の詩吟を寺社に奉納したりしていたが、指導の先生が山好きで、吟行登山といって近郊の低山をよく登り、山の楽しみになじんだ。士官学校では戦局、急を告げて長野県の浅間山ろくに教室疎開。ここで初めてみる白樺の林や雪に覆われたアルプスの美しさに山への憧憬が募った。

 戦後、改めて旧制六高、京大卒、商社勤めのかたわら職場の山岳部で山歩きに熱中、上司から小言をくらったことも再三とか。

 同い年の吉子夫人との間に2男。絵を描く夫人は高木さんの山行の三割くらい同行している。著書に『山を想う』『千山漫歩』『歩いて登って50年』。大阪府高槻市在住。 
 
 

 高木さんの自宅の最寄りの駅で待ち合わせた。実
に実に勢がいいスリムなお年寄りが改札口近くにた
たずんでいて、面識がなかったのに一目で高木さ
んに違いないとわかった。              

 なぜか登山家には体躯隆々の偉丈夫という
タイプが少ない。あの偉業を果たした植村直
巳さんも山野井泰史さんも特別恵まれた体躯
の持ち主とは思えない。高木さんにも、きっ
とそうに違いないという先入観を持っていた。

それにしてもだ。いきなりお尋ねした体重
はなんと39`とおっしゃる。小学生高学年並
みか。その痩身で全国の山を駆け巡り、10
00座踏破、いや1500座完登とは信じら
れない。背丈は普通なのだが、胃下垂が持病
とあって蒲柳の質気味。いつも下痢と便秘の
繰り返し、壮年時代でも50キロそこそこだっ
たという。                    

 なにしろ気管が弱いので、風邪引きやすい
とすまして話される。山の達人ともいえるハ
ードな体験者に「みんなの役に立つ」身体鍛
錬や健康法を聞き出そうと考えていた思惑は
すっかりアテが外れた。まじまじと高木さん
を見つめたら、柔和な目が笑っていた。 
 
どうやら高木さんは天賦の条件を生かして
思う存分に登山趣味に耽溺したのではなくて、
強い精神力で目標を達成するタイプ。「継続は
力なり」を絵に描いたように実践した人のよ
うである。                     

およそ20年ほど前のこと。当時、高木さん
が勤めていた商社の定年は55才だった。50す
ぎたころから、定年後のことを考えていたから
第二の勤務先行きを会社から打診されたとき、
すぐに心が決まった。                
 「よっしゃ、これからは山歩き一本で行こ
う」                         

 54才6カ月。威勢のいい旗揚げに一歩踏み
出す大きな山行がふさわしいと考えた。大阪
北部に住む高木さんにとってミナト神戸の後
背地、六甲山系は日帰り登山の最適地。もう
隅々まで歩きつくしていたが、一つだけやり
残していたコースがあった。         

 難関の「六甲全山縦走」である。六甲山系
の西端、神戸市垂水区から東の宝塚市まで総
延長56`の尾根と谷が続く。全国の健脚登山
者あこがれのスーパー難路である。     

昭和56年10月、妻の吉子さんの「大丈夫
なの、いいトシして、、」と案じる声を背に暗
闇のなか、家を出た。それまでざっと30年の
山歩き歴があったが、職業人生の節目に六甲
全山縦走をこなして定年後の跳躍台としたい
思いに駆られたのだ。              

 定年後の山行――。高木さんは、こんな構
想を立てていた。一つは、深田久弥の『日本
百名山』をチェックしたら、すでに80座登っ
ていた。残る20座をまず完登しよう。    

 もう一つ、元日本山岳会会長、文化勲章受
賞者の今西錦司さんが80才過ぎているのに
1500座目を奈良・白鬚山(一三七八b)
で達成したニュースが報道されていた。これ
に刺激されて、約半分の800座登山を目ざ
そう。こっちの方は少年のころから登った山
を勘定したら、あと370座と判明した。

 独りでチャレンジした六甲全山縦走は、懐
中電灯で足元を照らして歩き始めて、約13時
間かかったが、歩き通せた。こうして高木さ
んの山行構想は実行されることとなった。

 なにしろ、有名無名を問わず山のガイドブ
ックを手掛かりに全国の山を登り巡るのだか
ら、交通費一つとってもべらぼうに金がかか
る。ここはケチケチ節約登山に徹した。もっ
ぱら格安の青春18切符を重宝したうえ夜行電
車で宿泊代を浮かし、乗り継ぎや夜明け待ち

は駅の待合室で明かした。衣類もめったに新
調せず、普段着の使い古し、破れた靴下は重
ねてはいた。冬山用のオーバーミトンも妻に
手づくりさせた。                   

 胃が弱いにも関わらず、食事も粗食に徹し
た。梅干一つ、飯の真ん中に沈む日の丸弁当
を愛用した。粗食に耐える体づくりと称して
パンの耳ばかりを食べたこともあり、山仲間
にも勧めたら、さすがに不評を買った。   

 家は雨漏り、妻にスカート一枚買ってやらず
、子育ても妻任せ、母親の病気のときも、正月
休みも、取りつかれたように東奔西走の山嶺行
脚―――。                     

 「そこまでしてと思うでしょうが、行きた
いと気持ちが高まると、もう止まらない性分
ですね。がむしゃらですわ」         
 高木さんは両頬を両手で覆い、視野が狭く
なったポーズをして見せて苦笑した。   

 生活費を切り詰め、暮らしの雑事に目をつ
むり、山歩きに集中した結果、平成4年9月、
ついに目標の800座に到達した。記念の8
00座目は、静岡県の大無間山(だいむけん
ざん・二三二九b)とした。名前がよく南ア
ルプルス深南部というのが気に入った。急登
の連続に難儀したが、山中の無人小屋で一泊
して達成した。                  

65才になっていた。このとき、すでに百名
山の方は利尻岳(一七一八b)を最後に踏破
ずみだった。定年後の山行構想は士官学校ふう
に言えば、「ワレ初志ノ目標ヲ貫徹セリ」とい
うことになった。                  

 意志の人、高木さんが凄いのは、これで満足
しないことだった。大無間山からの帰途、大井
川鉄道駅前の自販機から買った酒で祝杯をあ
げつつ「ここまでくれば、次は1000座だ」と
決意、新たな目標を設定した。        
       
 三年三ヶ月後の平成7年12月、1000
座目を奈良県・笠捨山(一三五二b)で吉子
さんとともに迎えた。修験の僧が修業間近に
ホッとして編笠を脱ぐといういわれの山で、

高木さんは吉子さんにこう言った。
 「これでもう笠を捨てたわけではない。こ
んどはもっと味わいある山歩きをしよう」

 ことし二月、吉子さんと長崎県の九千部岳
(一○六二b)に登った。せっせと歩き続け
た結果、とうとう1500座目になっていた
のだ。温暖なところの由緒正しい山を記念に
しようと選んだ山だ。修行僧が篭もり、法華
経九千部を読み通したという由来がいい。

 75才8カ月になっていた。社会人になって
からでも半世紀に上る、たゆまない山歩き。満
ち足りた気持ちで冬枯れの草原をくだった。
 山歴をふり返って一番に印象が強い山という
と、南アルプス白根山脈系の笊ケ岳(二六二九
b)を上げたくなる。何度も挑戦計画を立てた
が、若いころの苦い経験、二泊三日の登路の長
さ、不安な単独行と重なり、なかなか登る機会に
恵まれなかった。平成八年夏、新ルートを使っ
て一泊で標高差一八〇〇bを踏破、山頂からの
絶景に息を呑んだ会心の山行は忘れがたい。

 近年、加齢とともに体力、気力が衰えるのは
避けられないと自覚した。一昨年の四国での山
行では下山中に転倒、足を数針縫う大ケガをし
たし、倒木をまたぎ損ねて胸を強打したことも
ある。疲れから注意力が散漫に陥らないように
山中で時々、大声を発して我が身を叱咤激励し
ているそうだ。                    
 「危ないぞ、ボヤボヤしてると、危ないぞ」     

 二人の息子さんは、もう中年だが、子どもの
ころよく山歩きに連れて行った。ケチケチ登山
でジュース一本買い与えなかったのに、二人と
も山好きに育ち、兄はマッターホルンやモンブ
ランに登頂、弟もマッキンリー遠征に行ったり
した。あるとき、息子さんから、こう言われた。
 「おやじにもらった一番の財産は、山好きに
させてくれたことだな」             
この話、高木さんはちょっと照れながら実に
うれしそうに披露した。             

 こんごの山歩きについて高木さんは、反省
をこめてと謙虚に話している。       
 「山の数を目標にした私がいうのはなんで
すが、ストレスの元ですね。どうしても粗雑
な登山になりがちでした。家内といっしょに
行くと、花の名前はどうとか、面倒だからと
相手にしなかった。間違ってましたね。余生
は山の滋味を味わいつくしたいですね」





@@@19・04・03付け日経新聞夕刊{ふるさと山紀行」「金剛山」

  金剛山 (1125メートル 奈良/大阪)

 この山の頂上、実は奈良県御所市なんだが、「金剛さんはウチの山でっせ」と思いこんでいる浪速っ子がほとんど。

 大阪平野の町中からみると、東に奈良との府県境にあるのが金剛葛城山系。低いけれども、緑の起伏を連ねて存在感があり、四季さまざまに親しまれている。

 大阪側の思い込みにはわけがある。アクセスの交通機関が便利だし、山麓に大阪府では唯一の村、千早赤阪村営のロープウエーがあったり、登山コースが多く開けているからである。

 とくに大阪南部の人たちは、子どものころに学校から耐寒訓練登山と称して、寒風に震えながら登った、懐かしい思い出の山である。

 往時のスパルタ教育の名残のような耐寒登山だが、伝統はいまも引き継がれていて、毎冬、ぬくぬくのアノラックに着ぶくれた児童生徒が汗にまみれて登っている。疲れた顔に「登山、楽しいか」と声をかけてやると、 「しんどいばっかし。テレビゲームの方がよっっぽどましや」と即座に怒ったような返事。おかしくて、かわいい。近頃の子どもたちはアウトドアが苦手なのだ。

 町中から一時間足らずで樹氷や雪の世界を楽しめる。この自然の恵みは金剛山の大きな魅力だ。

 年輩の方なら『太平記』の武将、楠木正成が千早城にたてこもり、関東軍勢をキリキリ舞いさせた武勇伝をご存じだろう。戦前は「忠臣正成」の聖地。その名も「登拝者」が全国から参集したそうだ。

 史話といえば、修験道の開祖、役行者はこの山系を駆け回る荒行で呪術を体得したとされ、伝承の経塚がそここに残っている。

 歴史と信仰の山に加えて、いまでは多彩な登山コースが森林浴の場となっているが、初めて登った人が驚くのが、頂上直下にある巨大な「登山回数掲示板」。

 山頂の葛木神社の宮司が考案したもので、登山を奨励するため、日付入りのスタンプを押すカードを発行。五十回、百回と節目になると相撲の番付表のように名前を看板に掲げる仕組み。すでに千回、二千回はザラにいて、最高登山回数者はなんと一万回を突破している。

 「この人、何にして食べてはるのかな」

 まるで漫才の突っ込みみたい、あきれる登山者が少なくない。

 尾根筋のブナが芽吹くようになると、バス道やマス釣り場付近の桜並木が散り始める。入れ代わるように山頂の転法輪寺境内や国見城跡の桜が五月上旬に向けてふくらみ始める。近場にいて花見を二度楽しめる。うれしい眼福の山である。
                 (藤田健次郎)
                                       
[案内]近鉄・富田林駅か南海・河内長野駅からバス約三十分。登山口でバスを下り、しいたけセンター前のT字路を右折すれば、主要ルートの千早本道。     
頂上まで約一時間半。ほぼ一本道、迷うことはない。ここで鍛えればアルプス縦走も大丈夫というきつい丸太階段の連続。
 中間地点、のろし台に一本木茶屋。夏ならかき氷、冬場ならおでん、甘酒で憩う登山者が多い。このあたりまで植林帯で展望がきかないが、八合目の猿背から上はブナの自然林が若葉、紅葉ともに素晴らしい。日本山岳会提唱、三百名山の一。

 登山情報問合せ先 金剛山葛木神社 0721−74−0005



 














@@@山の雑誌「ヤマケイ関西版 金剛山特集」(山と渓谷別冊 18・04・03発売)


大阪・奈良・和歌山府県境にある金剛山を多角的に取り上げたムック版。「讃 金剛山」のページ特集に6項目の取材記事を掲載している。@金剛登山草分けの登山団体、「金剛剛友会」を主宰する根来春樹さんのインタビューA山ろくの千早で備前焼きの窯と格闘する澤田陶歩さんのプロフィルBしいたけセンター園主で二剛会会長、松本昌親さんのインタビューC一本木茶屋の仲谷周助さん夫婦の今昔茶店物語D金剛山を舞台に植物に親しむ会を作り、大勢の同好者と観察をする桝谷祥子さんの活動E七つの顔を持つ金剛山についての小生のエッセイーーーーを掲載しています。
全文は以下に収録しています。
@@@山の雑誌「ヤマケイ関西版 六甲山特集」(山と渓谷別冊  20・05・01発売)


六甲山を丸ごと取り上げた保存版の一冊。「毎日登山は神戸の誇り」と題して、六甲山系の九つの谷筋に栄えた毎日登山の歴史、現状、歩く群像を紹介しています。なかでも再度山に通じる大師道を中心とする「ヒヨコ登山会」七十九年の歴史をたどり、コーベに根づいたユニークな登山愛好運動を描いています。                                                              

@@@十一月発売の山の雑誌「関西ハイキング  00冬号」(山と渓谷別冊)

連載読み物ハイカーの履歴書10回目は「清掃しながら登る山」。大阪市東住吉区の北田誠宏さんたち78人の山愛好家は「 クリーンパトロール楠友クラブ」という清掃ボランティアを組織、自分たちの 登る山をいつも美しくしておきたいとの願いから、もう20数年間、ずっとゴミ拾いをしつつ登っている。 最初は一年も続けば、お役ゴメンだと楽観して始めたが、とてもとても。ヒトは山に来ると、ヒトが変わったようにゴミを捨てる。捨てるヒトと拾うヒトとの長いイタチゴッコの実状を レポートしました。

@@@十月十五日発売の山の雑誌「山と渓谷 11月号」

「遙かなる天山山脈ボゴダ峰ツイハオ・トレッキング」を掲載しています。今夏、中国ウイグル自治区の天山山脈のなかにある4000メートルの無名峰登頂と併せて行ったトレッキングの模様をいくつかの写真とともに4ページにわたってルポしています。山中5泊6日の辺境の山岳風景と山旅の異文化体験がすばらしい。荒涼たる氷河や数キロにわたって続く草原、栗毛馬にまたがっての川の渡渉、パオに住むカザフ族の暮らし、名花、雪蓮との出会いなどを書いています。

@@@八月下旬発売の山の雑誌「関西ハイキング  00秋号」(山と渓谷別冊)

連載読み物ハイカーの履歴書9回目は「花を求めて登る山」。堺市の桝谷祥子さんは、この13年間、金剛山を縦横に歩いて、野の花、樹の花を写真に撮り続けている。撮った写真は、これまで二冊のアルパムにして、山頂のログハウスに寄贈したり、昨年からホームぺージでも公開している。四季を通じて花と向き合い、それが生き甲斐にもなった桝谷さんの内面の思いは、何か。野の花がまぎれもなく、生きる力を与えてくれることが分かる。山歩きの楽しみ方の一つの典型である。花がそこにあるのは、そこの地球の歴史を物語っているという 思いをこめて、桝谷さんは山を歩いている。

@@@六月発売のムック版「たまにはふたりで山歩き 夫婦登山のすすめ」(山と渓谷別冊)

二組のご夫婦の山歩き物語を紹介しました。一組は奈良県の芳村嘉一郎・和子ご夫妻。山が縁で結ばれた夫婦が、歳月を経て、ともに六十半ば、還暦を迎える直前、ヒマラヤの5500メートル級のカラパタール峰に登り切り、若い日の夢を果たす話。もう一組は、大阪府の森田進・テルエご夫妻。進さんの定年を機会に金剛山登山を夫婦で始め、この十二年間に三千回を軽く超える熱中登山の話です。いずれも人生にとって「継続は力なり」という大切なことを教えてくれます。山を歩く、また、歩こうとしている人たちに希望と励みを与えることでしょう。                                                            

@@@五月発売の山の雑誌「関西ハイキング  00夏号」(山と渓谷別冊) 連載読み物

ハイカーの履歴書8回目は「ランニングで登る山」

 富田林の48才の女性、尾崎美苗さんは、三児をもうけてから、ランニングで山に登ることに目覚め、いらい、フルマラソンを走る一方、あちこちの山を駆け抜けた。山岳連盟に目を付けられて、国体に二度出場、最難関の富士登山競走、韓国ソラク山の国際山岳マラソンなどに歴戦、見事な成績を納めている。尾崎さんは、なぜ、走って山に登るのか。なにが楽しいのか。読んでいただきたい。

@@@三月発売の山の雑誌「関西ハイキング  00春号」(山と渓谷別冊) 連載読み物

ハイカーの履歴書7回目は「縦走して鍛える山」

 二上山と金剛山、約30キロメートルのアップタ゜ウンを歩くことを会の目的としている「二剛会」の設立発起人の一人、寺西孝さん、62才に山に強くなる話しを聞いた。このコースを歩きなれると、国内のどんな山でも、疲れ知らずに歩けるという。長丁場の効用と山歩きの楽しみについて話している。             

@@@三月発売の山の雑誌「関西ハイキング  00春号」(山と渓谷別冊) 連載読み物

ハイカーの履歴書7回目は「縦走して鍛える山」

 二上山と金剛山、約30キロメートルのアップタ゜ウンを歩くことを会の目的としている「二剛会」の設立発起人の一人、寺西孝さん、62才に山に強くなる話しを聞いた。このコースを歩きなれると、国内のどんな山でも、疲れ知らずに歩けるという。長丁場の効用と山歩きの楽しみについて話している。

@@@三月発売の山の雑誌「関西ハイキング  00春号」(山と渓谷別冊) 連載読み物

ハイカーの履歴書7回目は「縦走して鍛える山」

 二上山と金剛山、約30キロメートルのアップタ゜ウンを歩くことを会の目的としている「二剛会」の設立発起人の一人、寺西孝さん、62才に山に強くなる話しを聞いた。このコースを歩きなれると、国内のどんな山でも、疲れ知らずに歩けるという。長丁場の効用と山歩きの楽しみについて話している。

@@@十月発売の山の雑誌「関西ハイキング  99秋冬号」(山と渓谷別冊) 連載読物

ハイカーの履歴書6回目は「親子三代で登る山」

 69歳のおじいさんから五歳のお孫さんまで、河内長野市内の納城雅敏さん一家五人はそろって山登りを楽しみに続けている。おじいさんは百名山、札所巡りもやるし、金剛山では865日連続登山という快記録の持ち主。雅敏さんは、ダイエットから山歩きに目覚め、いまでは登山道情報をホームページで発信するほど山に精通。さて、八歳と五歳の息子と奥さんを含めた一家の山歩きはどんな具合だろうか。

@@@八月発売の山の雑誌「関西ハイキング  99秋号」(山と渓谷別冊) 連載読物

ハイカーの履歴書5回目は「気とめぐりあった山」

と題して還暦女性の山歩きの哀感をのせています。富田林市内のヨガのインストラクチャー、吉田孝枝さんは、「ヨガの気」と「山の気」の両方をもらって、国内どころか海外の山もばりばり歩いていたが、数年前に夫に先だたれたうえ、自身もガンと闘った。登山は会のリーダーを務めるほどだが、最近、山歩きからは、「花の気」をもらう楽しみを見つけたという。

@@@四月発売の山の雑誌「関西ハイキング 99初夏号」(山と渓谷別冊) 連載読物

ハイカーの履歴書4回目「夫婦いきつけの山」

。河内長野市内に住む村山博六十一歳、康子さん六十歳の夫妻は、金剛山にそれそ゛れ1700回、5600回以上登っている。「登らないと気持ちが落ち着かない」という康子さん。登ることが日常の暮らしのアクセントになってしまったのはなぜか。なぜ登るようになったのか。登って何を心身に得たのか。そんな話しをまとめています。

@@@二月発売の「関西ハイキング 99春号」(山と渓谷別冊)連載読物

ハイカーの履歴書3回目「心と体を癒す山」

。長年の持病である椎間板ヘルニヤに苦しんでいた亀田勲さん六十一歳は、ふとしたきっかけで金剛山に登るようになってから、あら不思議、あれほど苦痛だった病気が直ってしまった。職業病とも言うべき関節炎に悩んでいた内田正夫さん五十七才も、山登りというきつい負荷与える運動を逆療法にして、見事にこの病気をうっちゃった。二つのケースはもちろん奥さんの多大なパックアップがあってのことだが、こうして今や健康を回復して、千回以上も金剛山を登り詰めている。亀田さんは、「山は神様です」と言っていって、はばからない。

@@@十月発売の「関西ハイキング 98秋冬号」(山と渓谷別冊)連載読物

ハイカーの履歴書2回目「青春の山 熟年の山」。                                                                  

寝屋川市に住む81才の上田義量さんは、楠木正成ゆかりの飯盛山に若き日は登り、実年になってからは、金剛山に登ること1000回を超す。平成11年11月11日に登山回数を記念すべきおめでたい数字、「1111回」にするべく、今日も登っている。上田さんの登山にたいする意気込みとは、どういうものなのか。

@@@五月発売の「関西ハイキング 98春夏号」(山と渓谷別冊)連載読物

ハイカーの履歴書1回目「金剛山登山道の主」                                                                          

。藤井寺市のバス運転手、平野次男さんは、金剛山にすでに八千回を超して登っている。かつて一日に何回登ってもカウントされていたころには、一日に15回も登っている。出勤前に登り、帰宅して登る。超人的な努力で、山に打ち込んでいるが、単に登るだけではなくて、環境整備にもボランティア活動で奉仕している。人呼んで、金剛山の主という平野さんに山談義を聞いた。                                                                    


@@@労山の機関誌「登山時報」(日本勤労者登山連盟)のエッセイ欄「談」に小文をのせております。

99年3月号「雪山であわやあわや」。いいトシして雪山に登り、危うい目にあった失敗談です。

4月号「山歩きモードを楽しむ」。がむしゃらなピークハンターよりも自然の恵みを享受する山歩きが楽しい。

5月号「ホームグラウンドの山」。数多い山々を登り歩くのもいいが、一つの山を極めるのも山歩きの極意。

6月号「トレッキングで考えたこと」。登山界は頭打ち。自然・環境を生かし、もっと若い人の親しむ場にしたい。


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