玉山=3952m.台湾 (1996/3)

玉山は、戦後台湾が日本の植民地統治が終わってから名付けられた誇り高い山の名前。戦前は、新高山と呼ばれていた。「ニイタカヤマ ノボレ」は、真珠湾攻撃の開戦を告げる有名な暗号だ。そんなこんなでガイドの台湾人が「昭和六年生まれです」と自己紹介するほど日本とのしがらみがあるところ。台北から国道一号をバスでぶっ飛ばし、嘉義という町から阿里山へ。ご当地の桜は師走のころから咲き出し、もう名残りだが、国立公園でもある阿里山は、大にぎわい。新婚旅行の行き先ナンバーワンという。

公園内の瀟洒なホテルで宿泊したあと、いよいよ玉山登山口のタタカ鞍部。(2680メートル)に行くため楠渓林道の端までバスで運んでもらう。「完備的登山装備 是登山者随身護身符 登山期間絶不脱隊獨行」「小心落石」「小心断崖」などと書いた立て札がある。表意文字というのは、意味が分かるから楽しい。一行11人。うち女性4人。一人の二十代女性を除いて全員が中高年。七十代前半氏が二人という「俄完全的中年実年熟年的男女両性混合登山隊」である。深い谷、連なる山々、シャクナゲの大樹、白く枯れた樹林。山腹のしっかりし一本道を歩きだすが、脚力に差があるため、次第に離ればなれになる。その名も妖しいモンロー崖という狭い崖っぷちや、鉄の橋などを黙々と越えていく。=玉山の頂上付近の絶壁。張任生氏の写真から

長野から来た男性が独走態勢。山のベテランなので、なんでツアーできたかと聞けば、この山は外国人の単独登山は禁止。最低四人以上のグループのうえ現地のガイトを雇うことが義務づけられているので、ツアー参加やむなし、との話。なるほど。

唯一の山小屋、「排雲山荘」は、標高3528メートルの小さな台地にある。ここまでタタカ鞍部から8.5キロメートル。難所はないが、道のりは長い。結局、昼食休憩を含んで4時間35分かかった。山荘は、石造りの平屋。二段ベット式で、詰めれば三、四十人は寝れられる広さ。奥の壁に仏様の絵が描かれていて、お経のような判読不明の文字多数。玄関正面の壁にも、「忠 孝」の額。ひと味違った雰囲気の山小屋である。管理人が一人。まかないは自炊である。

崖っぷちでも橋がちゃんとある

と言っても、そこはツアー。同行の日本人ガイドが、インスタントラーメンや「なんとかのキツネ」とかカレーを暖めて出してくれる。トイレきわめて乱雑不潔。夜半、雨になる。雨は徐々に雨音が激しく風は強くなってきた。明朝の登山環境は、困ったことになりそう。そう思って寝られぬ夜だったが、三時には全員起床。ズキズキ頭で、雨具を着、立ったまま朝食のラーメンをかきこむ。持参のチーズ、こんにゃくゼリー、ウーロン茶も流しこむ。

4時15分、みんな「完全的雨具装備態勢」でヘッドライトを照らして頂上に向かう。この山、実は山荘まで゜はトレッキングだが、ここから先は、なかなか険悪なガレ場の急坂。篠つく雨、暗がりの中の行進とあって、ハエマツ帯でワイヤを手探りに必死で崖をよじ登る一幕も。実は、現地ガイドが道に迷ったためと、あとで判明したが、なんというキツイ登りだったことか。やがてガレの中をジクザクに歩くところに出た。この辺から太い鎖が谷側に、さらに絶壁には、鉄製の柵が設けられている。侮れない危険地帯である。

風が衰えたものの、雨は依然降り続く。夜明けとともにガスがたちこめて、視界は最悪。ガレに気をつけながら、無心で歩いていたら突然、頂上に出た。なんともいえぬ大きな胸像が立っている。こんな建造物をどうやって建てたのか。この像の高さを加えると、玉山は標高4000メートルになるという。但し、真偽は不明。山頂は嘉義、南投、高雄三県の県境でもある。この地には、3000メートルクラスの山が150近くもあるそうで、日本アルプスの及ぶところではない。台湾は意外にも山国であったのだ。

無念ながら、辺土の山顛に到達したのに、視界がきかない。一行、交代に現地ガイド、日本人ガイドのご苦労をねぎらって握手を交わし、風雨の中で恒例の記念撮影。もっとも、後日の話だが、この写真は全然モノになってなかった。

おりから台中関係は、台湾初の総統選挙実施を巡って最悪状態。出発の十数日前に中国本土から台湾島の南北端にミサイルを威嚇発射、アメリカが急遽、ペルシャ湾駐留の空母二隻を台湾海峡に派遣して警戒に当たるという緊張関係があったばかり。玉山頂上からは、その緊迫の台湾海峡が遠望できるはずであったが、無情の雨に泣くことになった。無情と言えば、前年のツアー一行は、時ならぬ春の大雪で登山路が凍結。山荘から上への登山を中止したと聞く。それに比べれば、なにラッキーと思わなくては、という山行でした。