阪神大震災の記録(3)
1月18日(水)
阪急電車が梅田、西宮北口間が開通したので、西宮北口まで1時間歩いて、会社に出勤した。社員の被災状況を聞いたところ、西宮、芦屋、神戸在住の社員は半数がまだ連絡とれないとのこと。17日京都で開催予定だった特約店会議も中止になったとのこと。全国からお客さんが集まっているので本社では開催するつもりだったが、西宮在住の会長の「震災の被害は甚大で会議など開催するのは不謹慎」とのアドバイスで中止にしたらしい。震災を体験したものとしないものの温度差を感じた。帰宅途上南方の駅前のスーパーでポリタンクを3個買ってかえる。克彦が友人と応援を得て隣のマンションで水を汲んで来てくれた。 |
1月19日(木)
西宮北口まで歩き出勤する。北口が電車の動いている一番西の駅なので、震災見舞いの前線基地になっているので、救援物資や水のポリタンクを持ち震災見舞いに行く人と、被災地を離れ知り合いに避難する人の群れでごった返していた。十三駅はいつもと変わらぬ様子で、特急で10分離れたところで震災があったとは思えない感じだった。これほどまで違いのあるのは驚きであった。遅まきながら、会社に震災対策委員会を設置し、震災した社員を訪問し安否を確かめるとともに、水と救援物資を届けることとした。社長や私が被災地在住だったにしても対応がおそすぎた。会社の危機管理体制が無かったことを痛感した。北口から同じ方向に歩いている人と話したら同じマンションの人であった。平素は全く接触の無い人と話すのも地震のおかげと変なところで感心した。 |
1月20日(金)
今日も北口まで歩く。リュックサックに洗濯物を詰め込み、会社の近所のコインランドリーで洗濯した。心斎橋の日航ホテル裏の清水湯で震災以来はじめて風呂に入る。入浴している人の会話からすれば、震災で大阪まで風呂に来ている人が結構多いようだ。熊本の妻の友人より会社に見舞いの電話があった。自宅に何度かけてもかからないので、以前勤務していた会社の熊本支店に電話し、今の会社の電話番号を教えて貰い、電話したことだった。妻の友人とのつながりの強さを痛感した。克彦は入試を控えているのに、自転車で北口までゆき、大阪へ出てショピングカートやポリタンクを買ってきた。東京地区の親戚、知り合いより、水が郵パックで届いた。宅急便の阪神地区への受付は取り止めだが、ユウパックはやっているとの事だ。 |
1月21日(土)
関学の上の浄水場で給水し始めたので、ポリタンクを自動車に載せ汲みに行く。トイレ用水はポリタンクより浴槽に移し、満タンした後、飲料用を再度汲みに行った。克彦は受験を控えているが、ボランティアに行くと言い出した。滅多に経験できないからやりたいとのことだ。 止めろと言っても聞かないとので、言う通りにさせた。久し振りに余震のない夜でゆっくりと眠れた。かなり電話が通じるようになった。阪急バスが上が原南口から西宮北口まで部分開通したた。これで月曜日から西宮北口まで歩かなくとも良くなった。一安心である。 |
1月22日(日)
大阪に住む兄が通行証を持っている知り合いの建設会社のトラックに便乗し、神戸の実家を見にいたところ、実家が全壊していたとの事。17日地震当日義母を迎えに行く途中立ち寄ったときは斜めに傾いていただけだが、度重なる余震で全壊したものと思われる。兄は両親の位牌だけ瓦礫の中より見つけ持ち帰ったとのこと。妻は大阪で風呂にはいるために、出かけたが阪急が一時不通との事で帰ってきた。 |