阪神大震災の記録(2)

1月17日(火)


5:47ドンと言う音と上下震動で目を覚まし揺れが続くので地震とわかったが、どうすることも出来ず、フトンを頭から被り身を守るしかなかった。妻 祐子にもフトンを被るように指示。揺れがおさまり周りを見渡すと、居間のピアノが50cmほど移動しており、ピアノの上においてあったものは凡て下に落ち床一面ガラスだらけであり、ダイニングのテレビも落ちていた。祐子、二男 克彦(高3)も誰も怪我はしておらず、一安心した。 娘の恭子は会社からスキー旅行に行きまだ帰っていなかったが、大阪に着いていない時間なので大丈夫だろうと考えた。停電しており電話も不通だった。 
祐子が「これだけ激しい地震だと実家の森の家は古いので義母が心配だ。一緒に見に行こう」と言うので、会社へ出勤のことも考えたが、事態は緊急を要すると思い、後片付けを克彦に頼み、6:30頃車で神戸に向け出発した。 
夙川沿いの苦楽園口付近でタタミを担架がわりにして人を運ぶ光景を目にし、地震の激しさを実感した。 
国道2号線で神戸に向かおうとしたが、停滞していたので、43号線に向かい建石交差点まで来たところ、上を通っている阪神高速道路神戸線の橋脚が落下しており、トラックが橋脚と地面との間に挟まれていた。43号線には大きな段差があり、乗用車では乗り越えられそうにないので、さらに南の臨港線で神戸に向かった。
臨港線沿いのマンションに人だかりしていたが、1階部分が押しつぶされているようであった。臨港線も割れ目と段差が多く走り難く徐行せざるを得なかった。 臨港線も通行しにくいので、43号線に戻る事にし北上し43号線まで来てみると、テレビ新聞でよく報道された阪神高速道路が横倒しになった現場であった。倒壊は北側であったので、南側の神戸行き方面は通行可能であった。ラジオは神戸方面で大地震があったと報道するだけで、詳細は不明とのことで、聴取者よりの情報提供を呼びかけていた。家内とカメラを持ってきて、写しとけばよかったね、また、携帯電話があれば情報提供ができたね、と話しながら神戸に向け走った。
妻の実家へ行く前に、私の実家を見てから行くことにし、東明交差点で右折し六甲道に向かった。
六甲道に到着するとJRの高架橋が倒壊しており、地震の激しさを実感した。六甲道の実家は斜めになってはいたが、倒れていなかった。私の実家は母が前年の11月に死亡して以来空家になっており、14日(日)に、兄弟4人が、集まり実家の整理のことで話し合いをしたばかりであった。東京の妹は一泊しただけで、帰京していたので、事なきを得ていた。
隣の吉田さんの家は完全倒壊しており、2階で寝ていた息子さんは無事だったが、吉田さん夫婦は建物の下敷きになっており、救出を待っておられた。吉田さん夫妻も心配だったが、そのまま妻の実家へと向かった。8時頃妻の実家に到着した。実家は何事も無く、義母も無事であった。いつも仏壇の前で就寝しており、仏壇の上半分が飛んで落ちていたが、幸い、寝間を外れていたので、怪我が無かった。義母を我が家に連れて帰ることにし、妻が片付けをしている間に、公衆電話から、千葉の義兄に義母の無事と、私の兄に実家の状況を伝えた。9時頃神戸を出発し西宮に向かった。帰途は2号線を帰った。本山から芦屋にかけての、2号線沿線は壊滅状態であった。
11時に西宮の我が家に帰りついた。 電気は復旧していたが、ガスは停止しており、電話は不通だった。水道はまだ出ていたが、いずれ止まると思ったので、風呂を一杯に水を貯めた。

会社に連絡をとろうと公衆電話に行ったが繋らなかった。テレビで地震情報を見て1日過ごした。

             
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