野バラ



「わらべは見たり、野中のバラ…」から始まるドイツ民謡≪野ばら≫は、だれもが一度は耳にした事がある曲ではないか。作詞はゲーテだが、詩のもとになっているのは、ドイツに古くからある民謡である。歌詞をつぶやくだけで、メロディが自然に涌き出てくる人も多いことだろう。
 実はこの歌詞に、シューベルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、ライヒャルトなど150人以上もの作曲家が曲をつけている事をご存じだろうか。
 その中で最も普及しているものといえば、ヴェルナーの作曲によるものであろう。揺れ動くようなリズム、感情豊な旋律は日本でもなじみ深い。
 ゲーテは、この詩が、野原では草刈や麦を束ねる女達に歌われ、飲み屋では陽気な仲間たちに歌われる、そんな歌になることを望んだという。そういう意味で、ヴェルナーの作曲はゲーテの希望にかなうものであった。
 当時、ゲーテのこの詩に曲を付けた作曲家のほとんどは、作曲することや楽器を奏でることを生業としていたプロフェッショナルの音楽家たちである。だが、ヴェルナーはそうではない。本業は、片田舎の中学校で教鞭をとる教師。趣味で作曲した曲を教材として生徒とともに歌うことを楽しむという人であり、作曲においてはいわゆるアマチュアである。
 それではなぜ、プロの大作曲家のものよりアマチュアが作曲した≪野ばら≫の方が有名になったのか。なぜ、200年近く後になっても、また、ドイツから遠く離れた日本のわたしたちにもなじみ深い曲となって残っているのだろうか。
 それは、ヴェルナーが誇りあるアマチュアであったからにはかならない。
 日本ではアマチュアというと、まず素人であって、玄人には及びもつかない未熟な腕の持ち主であり、したがって程度の低い価値の劣るもの、という意味におおむね受け取られている。
 しかし、本来の意味は「かけがえのない愛」である。要するに代償を求めず、ただひたすらにそのものを愛し、深く関わっていきたいというスタンスをいうのである。
 にもかかわらず、プロの方が常に優れ、常に程度の高いものと位置付けられ、それに対してアマチュアはその技術をまねしているにすぎない、というひどい誤解が世間一般に流布されている。
 そうはいっても、アマチュアが本来の意味以下に低く価値付けられているのを、世間一般の誤解のせいばかりにすることはできないように思う。「どうせ私はアマチュアですから」というような自分自身を卑下した発言なり、行動なりをよく見かけるからだ。
 本来の意味からは、本当にすばらしいものを生み出せるのはアマチュアであろう。
 ただひたすらにそのものを愛し、ひたむきに造り上げていく。そのひたむきさの中から、人の心をうつものが生み出されるのだ。
 アマチュアの美しさ、という点では音楽であろうとなんであろうと変わりはない。ただひたすらに何かを愛せる人たちが、すばらしくないわけがない。 
 生涯、アマチュアの音楽家であり続け、そしてアマチュアである事に誇りを持ち続けたヴェルナー。
 ヴェルナーの墓は、当時の大音楽家の墓のようなきらびやかさは無く、生前教鞭をとった中学校の裏の墓地にひっそりとたたずんでいる。そのまわりには誰が植えたか、たくさんの野ばらが風に揺れている。まるで、どこからか聞こえてくる≪野ばら≫に応えるように…。