木彫りの鯉



「左甚五郎」という名を聞いたことがあるだろうか。大工、または彫刻の世界で日本一の名人といえば、後にも前にもこの人にとどめを刺すだろう。
 甚五郎は、1600年後半から1600年代初頭の人。播州明石で生まれ、飛騨山脈で鑿の修行をしたといわれる。日光東照宮の工事をめぐるいさかいがあり、右腕を切り落とされ、左手一本で細工をすることからこの名がある。
 あくまで庶民と等身大の職人で、人情に弱く酒が好き。だが、いざ鑿を持てば、類稀なる才能に磨きを加えた腕一本で、金持ちや武家が舌を巻く見事な仕事をやってのけ、ずるい連もこらしめる、いわば庶民のヒーローである。
 この甚五郎が主役の演目は、江戸時代から、講談、落語、浪曲などに多数あった。その一つに「木彫りの鯉」という話がある。
 それは、京都、知恩院御影堂の建立のために召喚された甚五郎が、道中追いはぎに遭遇した事にはじまる。
 身ぐるみはがされ無一文になった甚五郎は、ある庄屋に助けられその屋敷にやっかいになることになった。そこでもう一人の左甚五郎が泊まっていることにおどろかされる。このもう一人の甚五郎、庄屋にねだっては傍若無人のふるまいで、酒がまずいだの料理が下手だの言いたい放題、し放題。このままでは「左甚五郎」の名がすたれるが、「われこそ本物」と名のっても、ふんどし一つの身では、天下の将軍のお声掛かりの甚五郎とは到底信じてもらえそうにない。
 毎日、苦汁を飲む思いで、庄屋の下働きをしていた。
 ある日、京に上がる左甚五郎が近くの庄屋に泊まっていることが遠州の殿様の耳に届き、ゆかりの寺に彫り物を寄進させようと頼みに来た。
 これを聞いた甚五郎は、「ニセ者をあばけるはこの時ぞ」と自ら彫り物を寄進する事を申し出た。殿様も、天下の名大工甚五郎と庄屋の下働き大工との彫り物勝負、これは一興と、双方の大工に鯉を彫るように命じた。
 いよいよ披露の日となった。たくさんの見物者が泉水の周りに集まった。
 紫の袱紗をかけられた二つの木彫りの鯉が、三宝に上にのって出され、片方ずつ袱紗をとられていった。
 ニセの甚五郎の彫った鯉は、本物そっくりの出来ばえで、一同そろって歓声を上げた。一方、本物の甚五郎が彫った鯉は、とても魚とは思えない。これにはみんな顔を見合わせ苦笑いした。
 しかし、ここで甚五郎が双方の鯉を泉水に入れることを申し出た。殿様も笑いながら「往生際の悪い奴。勝手にするがよい。」と言う。かくして二匹の鯉は泉水の中へ。するとニセの甚五郎の彫った鯉は、すぐに腹を見せて浮かび上がった。しかし、もう一方の不恰好な鯉は、まるで尾をピチピチ跳ねて泳ぎださんばかりに見える。一同、思わずうなり声をあげた。そこで甚五郎が一言。
 「鯉は水の中にあってこそ鯉と言えましょう…」
 この言葉で一同は全てを了解した。

 日本各地にある甚五郎作の作品は北は東北福島から、北は九州大分まで100ヶ所近く確認されている。栃木県日光市日光東照宮「眠り猫」、京都府八幡石清水八幡宮「目貫きの猿」福井県鯖江市誠照寺「駆け出しの龍」…。
 甚五郎も名人芸で命を吹き込まれたその動物たちは、とことん感性が鈍くなってしまったわたしたち現代人に、今も彼の地で何かを語り続けようとしている…。