記憶



もうすぐ、夏休みが終わる。
それは、『誰か』が俺に似ていると言った少女との、別れの時期が近づいている事を意味していた。

―――『誰か』って、誰だったっけ?……思い出せない…。
その少女に会えば、誰がそう言ったのか思い出せるだろうか…?―――

『誰か』の記憶だけぽっかりと抜け落ちてしまって…でも、どうすることも出来なくて…。
何ていうか、とても大事な存在の記憶だけがごっそり持っていかれた感じで…。


―――思い出したいのに、思い出せない………―――――。



+ + + + +



いつもの様に、橘家のチャイムを鳴らす誓唯。
そのまま待っていると玄関のドアが開いて、家庭教師として招かれる。これも、いつもの事だ。
けれど、その「いつも」はもうすぐ終わりを告げる。
今日は8月29日。31日は実際に引っ越すため、どう頑張っても30日までしか教えられないし、教えてもらえない。
今日が最後になるかも知れない、という可能性もあった。
夏の終わりにある独特の切なさと、引っ越すことによって起こる寂しさが、少女の部屋を覆っていた。

「私…向こうへ行っても誓唯さんのこと、忘れません。」

今日勉強する範囲が一通り終わったところで、一夏が小声で小さく囁いたのを誓唯は聞き落とさなかった。

「うん、俺も一夏ちゃんのこと、忘れないよ。」

微笑んで、返事をした。
海外への引っ越しに不安を募らせた一夏には、彼だからこその優しい声とその返事に少し、安心した。

「クラスの友達や繪委さんも、私のこと忘れないでいてくれると良いんですけど…」

「繪委……?」

一夏が『繪委』の名を出した瞬間、誓唯の表情が変わった。
宙を泳ぐ彼の瞳は、何も無い空間を彷徨っている。

「…誓唯…さん……?」

引越しに対するそれとは別の心配を漂わせた一夏は、必至に何かを思い出そうとしている彼に話しかけてみる。
少し、顔色を伺いながら。
名前を呼ばれて我に返った誓唯は、まだ『何か』を思い出せないことに戸惑いを感じているようだ。

「…ごめん、一夏ちゃん。『繪委』って誰……?」

「ええっ…?!」

結局誓唯は、自身の記憶を探っても『繪委』という存在を思い出せなかった。
表面上は苦笑いで済まされそうな表情で質問するような返事をしてみたが、
彼を支配していた不安は一夏にも容易に伝わってきた。

「何も…憶えてないんですか?」

一夏は舞夏のことを憶えているのに、誓唯は繪委のことを憶えていなかった。
舞夏や繪委が泡沫に消えたあの瞬間、誓唯は気絶していて、彼らの存在がどうなったか知らない。
意識が無かったために、彼が自分を本当に好いていたことにも気付かないまま時は過ぎていった訳で…。

「…『憶えて』って……。それ、俺の知ってる人?」

何故か、彼の記憶まで失くしてしまったようで…。
自身の記憶に無いことから、誓唯の中で『繪委』は『一夏ちゃんは知ってるけど、自分は知らない』存在に変わろうとしている。
変わってはいけない存在に、変わろうとしている。

「そんな…。」

あの時、同じ場所に居た一夏だから知っている。
あの日繪委が、気絶していた誓唯に、何をして、何を伝えていったのかを。
外で繪委に勉強を教えてもらっていた時、彼が誓唯に対してどんな感情を抱いていたのかを。

彼の想いは総て、記憶を失くしてしまったために誓唯に届くことは無かったのか…。
今までの、繪委の誓唯に対する感情を垣間見た瞬間や、知ってしまった時のことを思い出して、一夏は哀しくなった。
彼女も誓唯に恋愛感情を抱いていて、実質、繪委とはライバル関係でもあった。
それでも、繪委の感情だけがリフレインして、それどころでは無くなった。

―――気が付いたら、涙が零れていた。

「本当に…憶えてないんですか?
誓唯さんは、6年も一緒に居た相手の存在を忘れてしまったんですか…?」

俯きながら話すので、彼女が泣いていることに誓唯は気付かなかった。
と言うよりも、繪委が何者だったか、まだ思い出そうと必死になり過ぎていたせいで、そこまで気が回らなかった。

「……6年?」
(『繪委』は…一夏ちゃんの友達の名前じゃない…?)

「6年も一緒に居て、どうしてそんな簡単に忘れられるんですか!?」

一夏も無意識のうちに、声の調子が強くなっていく。
それが、泣いている時の話し声だとやっと気付いた誓唯は、一夏と繪委に対しての焦りの気持ちを高めた。
しかし、焦っても一向に繪委の記憶は思い出せない。

「そんなこと言われても…」

どう答えていいか分からない。
頭の中に、『繪委』という名前だけが引っ掛かって、でもその彼を思い出せなくて、一夏は何故、その彼に執着するのか分からなくて。
おろおろしていると、一夏が繪委に口止めされていたことをしゃべってしまった。

「繪委さんは、誓唯さんのことが好きだったんです…!
誓唯さんは沙耶さんの家に行ったときのこと、途中で気絶してしまったから知らないでしょうけど、
繪委さんは消える前に、誓唯さんにちゃんと『好き』って伝えたんです…よ……?」

一夏にしてはめずらしく、負の感情に任せてしゃべってしまった。
あまりにも繪委が可哀そうで、結果的にはライバルの手助けをすることになってしまっても、
彼の存在そのものを否定されたことが、彼女にとってショックだったから。
繪委の記憶を失くしてしまった直接の理由が、全て誓唯の責任じゃなかったとしても…。

(『沙耶』…?『繪委』は俺を好いてくれていた相手…?)

目の前にいる少女が何を言っているのか、分からない。
どうやら、誓唯は繪委だけの記憶を失くしたのではなく、『試し』に関わる全ての記憶を失ってしまったらしい。

「……誓唯さんは、本当に何も憶えていないんですか…?」

一体、どうして?

「ごめん。…解らないよ……一夏ちゃん…。」

本当に?

「じゃあ、誓唯さんは6年間の記憶を失ってしまったんですか…?」

そうじゃないと、つじつまが合わない。
もしくは、記憶を掏り換えられでもしたのだろうか。

「…俺が、記憶を失っているって言うの……?」

「だったら、6年前から今まで、誓唯さんはどこでどうしていたか言えますか?
…覚えていますか……?」

記憶を掏り換えたのは、誰?



+ + + + +



こんな調子でいくら一夏が問いかけても、繪委や沙耶、試しのことについて訊いても、誓唯は一向に思い出す気配を示さなかった。
ただ、時間だけが無駄に過ぎていく。
しまいには、結果的に誓唯が長居していたのを、不審に思った泉水―一夏の母―が二人のいる部屋を覗きに来たせいで、
そんな話は当然、出来なくなってしまった。
その時にはもう、一夏の涙も乾ききっていたので、娘が泣いていたことに母親の泉水は気付いていない様だった。

「一夏、勉強熱心なのは良いけれど…程々にしないと『先生』が帰れないでしょう?」

「…はい、お母さん……。」

泉水の口調や表情は穏やかで、特に娘を叱るという感じではなかった。
一夏の返事に元気がなかったのは、叱られたと勘違いしたわけではない。誓唯に問いかけることで長居させてしまった事、
誓唯が良い返事を返してくれなかった事が原因だった。

「あの…、一夏ちゃんのお母さん。
こんな時間になってしまったのは、俺が一夏ちゃんの質問にうまく答えられなかったから、俺のせいなんです。
だから、このことに関しては一夏ちゃんには怒らないであげて下さい…。」

母子の会話の意味を勘違いしたのは、誓唯だった。
そんなこと一欠片も考えていなかった橘母子は、顔を見合わせクスクス笑い始めた。
誓唯だけ、何が起こったのか分からずに、きょとんとしていた。



+ + + + +



誤解を解いてあらためて、さよならの挨拶をして…。一通り済ませると、誓唯は橘家の玄関のドアを開け、そこから出た。
涙の一夏はそこにいなかったが、後でまた今日のことについて思い出すだろう。


―――舞夏と繪委が消えた日に、誓唯の身には何が起こっていたのだろう…?

記憶を失くした青年は、少女が口にしていた『繪委』の記憶を何度も探しながら帰路についた……。





▼To Be Continued......