近年、日本では「魚離れ」が深刻化しています。水産白書によると、1人あたりの年間魚介類消費量は2001年の40.2 kgから2022年には22.0 kgにほぼ半減しました。魚にはDHA、EPAなどの重要な栄養素が多く含まれているため、この減少は健康に大きな不利益をもたらします。具体的には、子どもの脳の発育遅延、認知症高齢者の増加、心筋梗塞、脳卒中など成人病(生活習慣病)の増加が危惧されます。魚離れは個人のQOLだけでなく、社会全体の萎縮に繋がる現象といえます。
幸い、多くの統計調査により、日本人とくに幼児が魚料理を避ける理由が特定されています。最も多く挙げられる理由は「骨があるから」というものです(大日本水産会, 2001, 2008)。実際、寿司や刺身など骨のない魚料理は子供たちの好きな食べ物です。骨を除去したフィレや、骨を柔らかくしたサバ缶なども人気食品です。つまり、魚離れは全ての魚料理に共通する現象ではなく、骨のある料理に特有の問題です。
「骨が嫌い」というアンケート調査を裏付けるかのように、魚の骨が喉に刺さる事故が、特に子供で最も多く報告されており、多くの場合、医療処置が必要です(Shishido et al., 2021)。魚の小骨がのどに刺さる疾患を「魚骨異物」と言います。小骨の先端は縫い針のように鋭く尖っており、喉に刺さります。さらに、これらの小骨はほとんど透明のため、見つけにくく、消費者、特に幼い子供や目の悪い高齢者にとっては、隠れた凶器となっています。これがトラウマとなり、魚を食べられない子供もいます。高齢者施設などでは、事故のリスクを抑えるため、魚料理を控えるようになっているようです。
この問題は国際的にも認識されており、魚の消費そのものを妨げる要因にもなっています(Cartmill et al., 2022)。特に海外では、日本のように先の細くなった箸で、骨を選り分ける習慣がありません。そのため、前処理の段階で骨を完全に取り除く工程が必須となっています。
骨を取り除いたり柔らかくしたりする方法はいくつかあります。しかし、これらの方法には「小さくてほとんど透明な小骨」を取り除く手間、完全に除去する難しさ、高い処理コスト、風味の変化、栄養素の損失などの難点があります。唯一の例外が、殻のまま丸ごと食べられるソフトシェルクラブ(脱皮直後のカニ)です。これは、養殖による方法で、骨なし魚に似たところがあります。
骨なし魚プロジェクトは、骨の柔らかい魚を養殖することで、日本および世界での魚の消費を促進しようとする新たなアプローチです。その手法は、低リン飼料を使用して骨の主成分であるリン酸カルシウムの合成・沈着を抑制し、骨密度を下げる方法です。骨なし魚を養殖することで、短時間の簡単な調理で、魚を丸ごと食べることができるようになります。
骨なし魚の原理は簡単ですが、実用化は難しいのです。なぜなら、リンは殆どの飼料原料に多量に含まれているため、低リン飼料の製造が難しいからです。様々な技術を研究開発し、何とか低リン飼料を製造できるようになりましたが、未だ開発途上の段階です。今後はコストダウンを軸に、技術の進化を図る必要があります。
現在、骨なし魚としての技術が完成している魚は、ニジマス、ホンモロコ、コイ、フナ、テラピアですが、将来的には他の魚、とくに、アユ、イワナ、ドジョウ、海水魚なども視野に、骨なし魚の技術を拡大・普及したいと考えています。より柔らかい魚を、より安く食卓に届けることを目指しています。
しかし、リンの過度な制限は、骨を柔らかくするだけでなく、骨格の変形も引き起こします。これらの変形は消費者の食品に対する印象を悪くし、動物福祉の観点からも望ましくありません。したがって、骨密度をどこまで低下させてよいか、その下限を設定しておく必要があります。
ヒトの骨粗しょう症は、骨なし魚に似ているため、参考基準となるかもしれません。骨粗しょう症は無症状ですが、相対骨密度が70%未満になると骨折リスクが増加します。
ニジマスでは、飼料中のリン制限は直ちに異常を引き起こすことはありませんが、体内のリン貯蔵量が26%以上減少すると成長に影響するという報告があります(Hardy et al., 1993)。したがって、魚の場合も骨密度70%が倫理的に妥当なラインと考えます。骨密度を70%にするのに要する期間は1か月ほどです。70%を下回ると、成長率が低下するだけでなく、骨の変形度も高くなります。それでも、キンギョのように極端な変形に比べれば、ごく僅かな変形といえます。
2015年にニジマスでおこなった実験によると、リン欠乏が進行すると、相対骨密度が40%程度にまで低下します。この段階の魚は、成長が遅くなるだけでなく、細い骨が変形するため、実用化は難しいと考えます。先に述べたように、実用化に向けた相対骨密度は70%程度であり、この段階の魚は、普通の魚と健康状態に変わりはありません。
しかし、骨密度70%程度で、魚の骨は十分に柔らかくなるのでしょうか? 答えは「Yes」です。2020年、コイ稚魚を用いて行った食味試験では、相対骨密度84%でも、「普通魚よりも明らかに骨が柔らかい」という結果が得られました(Sugiura, 2023)。したがって、骨密度70%ならば相当柔らかくなります。骨の柔らかさだけでなく、におい、味、総合評価でも、「骨なし魚」は有意に優れていました。
骨なし魚は、魚全体を丸ごと食べることで、栄養価も格段に高くなります。身だけを食べる場合を1とすれば、丸ごと全部食べる場合、おおむね次のようになります。EPA・DHA 3〜5倍、ビタミンA 10倍、鉄 3倍、カルシウム
500倍。
骨なし魚はオンリーワンの技術です。世界に類似の技術・製品・発想はありません。水産分野だけでなく、他の分野においても類似性はありません。骨が柔らかく食べやすい魚を養殖すると
→ 魚の消費拡大 → DHA・EPA・カルシウム・ビタミンD・タウリンの摂取量増加 → 知能向上・認知症予防・成人病減少 → 国民の健康を底上げします。
骨なし魚は、遺伝子操作や薬剤を一切使わない技術です。実用化へのハードルが低い「安心安全な技術」です。
骨なし魚は、魚を丸ごと食べる比較的小さな魚(大きさ20cmぐらいまで)で有効な技術です。マグロ、ブリ、サーモンなどの大型魚は、3枚におろして骨を取り除くので、骨を柔らかくするメリットはありません。しかし、骨なし魚の養殖に使う「低リン飼料」は、骨密度を下げると同時に、脂の乗りを良くする効果があります。リンが不足すると、酸化的リン酸化が抑制されて、基質となる脂質が蓄積されるためです。したがって、低リン飼料を与えた魚は脂が良く乗ります。
低リン飼料にはさらに大局的な利点があります。それは、尿中のリン排泄を完全に抑制できることです。尿中リンは水溶性であり、水産養殖に伴う主要な汚染源です。日本各地で赤潮による養殖被害が頻発していますが、低リン飼料の普及によって、赤潮の発生を防止できます。内水面(淡水域)では富栄養化による生態系への悪影響を抑えます。
養殖生産量が世界的に急増する中、それに伴う環境負荷も深刻化しています。国連のFAOは、世界の水産養殖の持続可能性は環境負荷の低減技術にかかっていると強調しています。低リン飼料はこの難局を打開できる技術です。無リン洗剤が今や「世界の常識」となっているように、低リン飼料もまもなく世界の常識となるでしょう。