卒論の心得

 

杉浦省三

 

 

 大学生は3回生になると、卒論(卒業研究)をするための研究室を選ぶ。言うまでもなく、自分が興味をもった研究をしたいと思っていることだろう。卒論が、自分の将来の仕事に役立つかなど、長期的な展望を持っている人もいるだろう。

 

 しかし、研究室を選ぶにあたって、まず考えるべきことは、研究内容ではない。研究内容よりも重要なのは何か? 元東北大学総長で発明家の西澤潤一(故人)は、「誰を師に選ぶかによって、全く違った人生観を持ち、全く違った人生を歩むことになる」と述べている。私もその通りだと思う。

 

 少し補足するならば、選ぶ師によっては、人生観が形成されないままになる(モラトリアムの遷延)。これは最も危険なことだ。「自己」(アイデンティティ)のない人は、周りに、時代に、目先の利益に翻弄され、容易に自分を見失う。そのような人は、たとえ頭脳明晰、明朗快活であっても、遭難した船のように、弱く、脆いものである。

 

 よい師とは、総じて、「自分を成長させてくれる教師」と言えるだろう。成長の内容も、知識や技術の習得、すなわち「学習」ではなく、「人間的成長」が重要だ。人間的成長は、社会人として必要となるだけでなく、人生をより豊かにする礎石となる。滋賀県立大学の教育理念「人が育つ」は、この人間的成長のことである。教育基本法の人格陶冶も同じ意味である。

 

 人生100年と言われる昨今にあって、卒論生はこれからの1年間が、最後の学校生活であり、社会に出ていく準備期間となる。卒業後は、多くの人が社会人として50年ぐらい働くことになる。気の遠くなるような長さ、想像を絶する時間ではないか――それは、水平線の彼方へ、自力で泳ぎ出すようなものだろう。泳ぎ方も分からずに、いきなり大海原に放り出されれば、溺れてしまう。また、泳ぎ方が分かっていても、強さ(体力や精神力)が足りなければ、やはり途中で力尽きて諦めてしまうだろう。

 

 すなわち、よい師とは、泳ぎ方を教えてくれる人、社会で溺れないための体力・精神力を付けてくれる人である。そのような師は、例外なく厳しい。その厳しさは将来のためである。厳しいトレーニングは、分野を問わず、自分の将来への投資なのだ。

 

 厳しい教師と対極にあるのは、やさしい“教師”である。やさしい教師は、どこでも人気者である。保母さんのように、いつも穏やかで面倒見がよいからだ。学生を、お客様(オトモダチ)のように扱い、怠惰もワガママも許してくれる。学生は、べっとり甘えることができる。このような人は教育者ではなく、卒業世話人である。その行動目的は、「教育すること」ではなく、「卒業させること」なのだ。このような人のもとで、上記した「泳ぐ力」はついているか?

 

 泳げないまま卒業し、社会の荒海に突き落とされたら、誰だって溺れてしまう。溺れるとは、転職(の繰り返し)、精神疾患、引きこもりなどを意味する。もちろん、そうなる前に、様々な困難から逃げ、常に楽なほうに選択の舵を切るようになる。逃げ癖、言い訳癖、他責癖が染み付いてしまう。ひ弱な自分を守るために、そうせざるを得ないのだろう。これでは、社会で「何とか生き延びる」ことは出来ても、成功・活躍などできるはずがない。そんな人は、毎日が苦痛あるいは空虚だろう。50年間の毎日が……。

 

 やさしい教師は、ありのままを受け入れる。これは教育ではなく「保育」である。保育によって、社会で殆ど役に立たない専門知識や技術は身に付いても、泳ぐ力は身に付かない。学生が嫌がる「トレーニング」を怠るためだ。このような教師Wに保育された子どもたちは、泳げないまま社会に放り出される。果たしてこれが優しいことなのか? よく考えてみよう。これからの50年間は自己責任なのだから。

 

 

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