無教育とは何か?

杉浦省三

 

「海外に住むことで,物の見方や考え方の可能性が広がり,新しい価値観を得られるような気がするが,それが十分価値あることなのか,よく分からない。そもそも,食事,習慣,文化など,海外よりも日本のほうが居心地がよい。だから,あえて海外に行きたいとは思わない」

 

これは,学生の書いたレポートから抜粋した文章である。なるほど,言っていることはよく分かる。私自身も海外で15年暮らすまでは,これと同じ「よく分からない状態」だった。この状態について,分かり易く答えている有名な話がある。西洋哲学史上最も重要といわれるプラトンの「洞窟の比喩」である。2400年も前に書かれたものだが,全く古さを感じさせないのはなぜか。

 

洞窟の比喩は、「教育と無教育に関し、我々人間の状態がどのように違うか?」という冒頭のくだりから始まる。その洞窟の中で人々は“世の中の”様々なことを勉強する。多くの知識・常識を教え込まれ,よい学校・よい会社に入り,何度か表彰もされ,地位・名誉を授かり,一生を終える―――プラトンはこのような人間を,無教育の哀れな(悟りのない)終身刑の囚人に喩えている。囚人たちは洞窟の中で生まれ,洞窟の中で一生を終える。外(そと)の世界を知らぬがゆえに,自分の哀れさ・無知さに気付かないのが特徴だ。洞窟から出て,外の世界(reality)を体験すること――プラトンはこれを「真の教育」(enlightenment)としている。

 

住み慣れた洞窟から出るとき,囚人Aは嫌がり,激しく抵抗するが,(教育者は)困惑する囚人Aを「力ずくで」外の世界に引きずり出す。外の世界を体験するとは,洞窟の外のことを本やテレビで見たり,学校で勉強したり,洞窟の外を短期間旅行したりすることではなく,洞窟の外で自ら生きることを意味する。最初は,外の世界(異文化・異環境)に適応できずに苦しむが,次第に理解し順応していく。

 

洞窟から出て,外界の様々なイデア,とくに「善のイデア」(Form of Good)を理解した囚人Aは,洞窟の中の旧友たちを次第に哀れむようになる。そして(善のイデアからくる義務感ゆえに)洞窟に戻って,旧友たちに対して,「外には真の世界(reality)がある」ことを熱心に説くのだが……,馬鹿げたこと(突拍子もないこと)として,皆から嘲笑の的にされ,「洗脳された愚か者」として蔑まれる。その一方で,洞窟の中で「世間の常識」を唱える者が,“正しき者”として最も大衆の支持を集める。多くの人は,洞窟の中の世俗,すなわち自分に染み付いた文化,常識,価値観などを(無意識のうちに)排他的に尊重している。これが「無教育の状態」である。

 

洞窟の比喩の概要は以上述べた通りだが,実世界では,洞窟の外に出たか否か,分からない(確認できない)。さらに,洞窟の外が本当にrealityだという証明もできない。洞窟の外が別の洞窟への入り口かもしれない。あるいは,洞窟の外が「別のさらに大きな洞窟の中」にあるかもしれない(ad infinitum)。すなわち,洞窟から出た囚人Aが,realityForms, Ideas)の識者とはいえず,また,識者と驕ること自体,思い上がり(危険)だろう。洞窟の外は,ひとつの異文化に過ぎない。しかし,そのような“異なるもの”を多く経験し,その本質をつかみ,多面的に(全体を)俯瞰することで,弁証法的な絶対知:Absolute Idea (Ultimate Reality)に近づくことはできる。

 

プラトンの洞窟の比喩,とくにイデア論は,高校の倫理の教科書に必ず記載されている内容だ(但し,原典と違う記述が多く残念――例えば,洞窟の外に出るのは「逃避」などではなく,(教育者が)嫌がる囚人を力づくで引きずり出す。すなわち,囚人たちは引きこもりの状態にある)。洞窟の比喩は時空を超えた教育論であり,現代もなお教育哲学の中心に息づいている。もちろん,このような教育論は,教育者(教師,教育専門家)や教育委員会のためにあるのではない。教育論を学ぶ第一の目的,それは自分自身の教育・成長のためである。自分が「自分教育の総監督」であることを忘れてはならない。

 

今どきの学生は真面目な“よい子”が多い。高学歴で,物知りで,敬語も知っている。どこで覚えたか,「先生を喜ばす作文の文言」まで知っており,感心する。それが,作文の「正解答案」だと思っているのだろう。しかし,自分で考え,自主的に行動できる学生が少ない(指示待ち型?)。青年海外協力隊への応募者(年間)は1020年前の5分の1に減少している。海外留学者数もかなり減少している(内向き志向?)。臆病という難病が,日本の若い世代を蝕んでいるようだ。

 

不安と孤独から逃れるため,同類の友人同士が集まり,同類として同じような考え方・同じような行動をする。自分と同類の人々としか交わらないのは,精神的に引きこもりの状態である。自分たちの世界(集団,世代などの文化や価値観)――すなわち,自分たちの殻――に閉じこもっている「洞窟の囚人」そのものである。 

 

 

以下,プラトン著『国家』第7巻(洞窟の比喩;藤沢令夫 訳)より引用

 

「そもそも教育というものは,ある人々が世に宣言しながら主張しているような,そんなものではないということだ。彼らの主張によれば,魂のなかに知識がないから,自分たちが知識をなかに入れてやるのだ,ということらしい――あたかも盲人の目のなかに,視力を外から植えつけるかのようにね」

 

「教育とは,・・・向け変えの技術にほかならない。それは,その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて,視力ははじめからもっているけれども,ただその向きが正しくなくて,見なければならぬ方向を見ていないから,その点を直すように工夫する技術なのだ」

 

 

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