ああ、人間探求学

 

 

『人間探求学』が笑われた。教育学会でのことだ。

 ある著名な先生(以下S先生)と話す機会があった。国立教育政策研究所に長く勤め、理科教育がご専門の方だ。その時、私は『環境フィールドワーク』の授業方法について、ご意見を伺っていた。学生の就学意欲が低いことに話題が転じた時、私はこう切り出した。

「じつは『人間探求学』という授業も担当しているのですが……

 すると、S先生は急に身を乗り出して興味を示された。『人間探求学』という途方もないタイトルに驚かれたのか、それとも、社会経験の少ない大学教員が、「人間探求」の授業をしていることに驚かれたのかもしれない。

「それは素晴らしい! いったいどのような内容なのですか?」――そう聞かれた私は、まず自分の授業内容を申し上げた。

「戦中戦後のこと:原爆、沖縄戦、特攻、庶民のくらしなどを、動画や資料から学んでいます。食料、物品、教育、医療、自由、命さえも――何も無かったあの時代、自分の祖父母が生きた時代をよく知ることが大切だと思います。そこから、何でもあるのが当たり前と思っている自分を内観させ、命の連鎖や生きる意味について考えさせています。意図は平和学習ではなく、自身との対比です。平成の時代にすっかり無くしてしまった宝物、すなわち精神的な強さを学ぶためです。精神論だの根性論だのと、今の人はすぐに茶化すけれども、それは、そこが自分の弱点であることを図星に突いているからでしょう。豊かさの中で人間がずいぶん弱くなった。その弱さ・幼さが個人だけでなく、国家を衰退させているのでしょう。」

 続いて私は、人間探求学の授業内容が担当教員に一任されている点を申し上げ、他の担当教員の授業内容についても、いくつか例を挙げてお話しした。すると、S先生は鼻で笑ったように、あるいは失望したようにも見受けられた。当然だろう。「人間探求」と銘打っておきながら、レポートの書き方や図書館の使い方などを教えているようでは、さすがに欺瞞と言わざるを得ない。レポートも図書館も重要だが、『人間探求学』とは関係ない。「人間探求」の意味も分かっていないのだろう。

 

『人間探求学』(あるいは『人間探究学』)というタイトルの書籍は、ありそうだが、無い。しかし、『人間探求』というタイトルの書籍はある。その冒頭の一節をまず紹介しよう。それは、ペトラルカの『無知について』からの引用である。ルネサンス期、イタリアの詩人として活躍したペトラルカは、当時、アリストテレス学派の人々が、あまりに自然科学の知識に傾倒しているのを憂慮して、次のように記している。

「こうした(自然科学の)知識の多くは間違いです。たとえそのような知識が真実であったとしても、幸福な生活とは何の関わりもありません。思うに、人間の本性はいかなるものか、何のためにわれわれは生まれたのか、どこから来て、どこへ行くのか、ということを知らず、(その究明を)なおざりにしておいて、獣や鳥や魚や蛇の性質を知ったとしても、それがいったい何の意味があるのでしょうか。」

 実存哲学のキルケゴールも22歳の若さで、このペトラルカに似た思いを著している。キルケゴールはまた、主著『死にいたる病』で、次のようにも述べている。

「自己自身を失うという最大の危機が、世間ではまるで何でもないことのように、いとも平静におこなわれている。(中略)こうして個人は群衆に呑まれ、一つの商品、一つの番号、つまらぬ輩に堕するのである。」

 この世で唯一、確かなもの。それは、考えている自分(意識)である。デカルト然り、パスカル然り、エマーソン然り、実存主義者然り……。自分が消失したとき、人間はモノ化する。キルケゴール曰く、「そういう人は、小石のように丸く削られ、硬貨のように流通している。」

 ここに『人間探究の流れ』という書籍もある。厚さ1センチ程度、何の変哲もない本だが、巻末の索引を見ると、実に300人前後の哲学者が名を連ねる。これほど多くの叡知が――歴史に名を刻んだ人類最高の頭脳が――人間探究を極めたのである。高等学校で使われている『倫理』の教科書を見ても、「人間とは何か」「自己とは何か」「青年期の自己形成」などの問いに対して、200人前後の哲学者や偉人が独自の分析・解釈を繰り広げている。このような学びを、十把一絡げに無視した人間探求学の授業など、おおよそ正気の沙汰とは思えない。

 科学者(研究者)と呼ばれる人々は、豊富な専門知識を持ち、それを自身のアイデンティティとしている。また、好奇心という形で己の専門性を正当化している。このような人々は、客観的な真理、とくに「自分の専門」のことになると、意気揚々、何時間でも話すことができる。しかし、人間探求に関してはどうか? 残念ながら、私は(科学者から)腑に落ちる回答を聞いたことがない。

 科学とは専門分野の学問だ。「科」には部分という意味がある(例えば、科目、理科、産婦人科、内科、百科事典など)。部分を極めても全体は分からない。ヘーゲルではないが、真理は必ず全体にある。では、全体の学問とは何か? それが哲学である。

 哲学は、世界と人生を追求する学問で、倫理学、認識論、形而上学などの分野から成る。しかし、哲学の分野は科学と違い、命題はあくまで全体の理解にある。科学と哲学は対極なのだ。科の人が「人生とは何か」、答えられない理由ではないか。

 井の中の蛙たちは、孟子を読んだか? セネカは? サルトルは?……。もっとも、井蛙の人生経験で、どこまで深読みできるのか、大いに疑問だが。重要な学び(気づき)のない一生は、幼児的であり、物欲的である。このようなことは、目からウロコが落ちて初めてそれと分かる。学歴、偏差値、社会的地位などは恐らく、全く関係ない。

 人間とは何か。自分とは何か。自分は、なぜ、何のために生きているのか。――このような本質的な問いを探求するのが、人間探求学の本来意図するところであり、より良く生きるために必要な学びだろう。とくに、モラトリアムの真っ只中をさまよう学生たちにとって、人間探求学こそ、まさに自身の実存に直結する「最重要な学び」ではないのか。

 

「人が育つ」とは、滋賀県立大学の教育理念である。人が育つとは、生物としての成長ではなく、人間としての成長を意味する。人間的成長は、専門知識や技術の獲得(すなわち、科の学習、練習)では成し得ない。例えば、専門知識・技術をふんだんに身にまとった「高学歴エリート」――巧言を弄する俗物たちは、人間性を疑うような醜態をさらしながら、なおそれに気づかないでいる。まさに巧言乱徳――昨今の政治家のように見苦しい。

 その反対に、学歴のない「叩き上げ」の人々に、感服するような人間味・人間力を感じることが多い。専門教育、職業教育、その他、点数評価できるものは、それ自体、教育の付随的要素に過ぎない。知識や技術の量が、人間を成長させるのではない。

 教育の本質は、気づかせること、導くことである。その目的は、心身ともに健全な人間を育成すること、すなわち人間的成長に他ならない。教育基本法の人格陶冶、安岡正篤の「教師憲章」、森信三の『修身教授録』などにも同様の記述がある。西洋では、プラトンからボルノウまで、皆同じようなことを述べている。人間教育の普遍原理である。

 ところが、必修科目の『人間探求学』、および選択必修の「人間学」の科目群(約40科目)を見る限り、これが出来ているか、大いに疑わしい。恐れ入るのは、「人間学」を標榜しながら、倫理学はもとより、哲学関連の科目が皆無なことだ。これで本当に人間的成長を重んじているのか? 「人が育つ」と思っているのか?

 試しに、学生たちに聞いてみるとよい。「君は何のために生きているの?」 これは、生物的には生きていても精神的にはどうなのか、という問いに他ならない。看板授業である『人間探求学』が始まって15年が経つ。その内容を学外に向けて堂々と発信できない現状は、教育理念の形骸化を示している。何とも恥ずかしいことだ。

 

 赴任後、何年も経ってから気付いたことがある。私は、他の教員や事務職員とは、物事の考え方がずいぶん違うということだ。当然、現行の教育内容や教育方法にも、異議を抱くことが多い。海外経験が長いためかもしれない。米国では、在籍した大学だけでも5校に及ぶ。学術以外の現場経験も多い。その分、机上の知識だけでなく、実体験から得た信念や教訓が多い。それが私の教師としての持ち味であり、強みではなかったか。

 これまで会議などで様々な提案や指摘を行なってきたが、多くの場合、私の意見は議事録にも記されない。異論は一切なかったことにしたいのだろう。仮に議事録に記載された場合であっても、それが具体的な行動や対応に結びついたことがない。

 事なかれ主義を金科玉条としているのか、前例主義を正解と思っているのか、同調主義の文化・価値観か、保身目的の思考停止か、考える力がないのか、それとも、何もしたくないのか……。思えば、学内の多種多様な会議で、デューイなど教育学者の名前を耳にしたことが一度もない。どの会議もあまりに事務的で、言いようのない空虚感が漂う。この人々は、一体何を指針として教育に当たっているのか?

 近年は四方八方、面倒見のよい教師ばかりになった。ドラえもんのように、いつも学生に寄り添う。何かあるとすぐに手を差し伸べ、障害を取り除く。年々生徒化・児童化する学生たち、自立できない子供たち――こともあろうに、ドラえもんに感謝している! ドラえもん教師の存在が、自分を弱くしていることに、なぜ気付かない? これでは、「主体的行動力」「問題解決力」「実践力」など、身に付くはずがない。

 平穏無事な教育は、教育ではない。それは「保育」といわれるものだ。保育は柔和で心地よい。ゆえに保育者は必ず慕われる。しかも、当面はそれで何の不都合もない。少なくとも、ドラえもんが寄り添っている在学中は、何の問題も起きない。いや、起こさせない、絶対に。何か問題が起きれば教師の責任になる。だから打算的な教師・学校ほど、保育モード、あるいは当り障りのない「友達モード」になる。

 しかし、青年期の保育は、生きる力を確実に奪う。体力も免疫力もない「ひ弱な個体」は、温室環境(学校)で生き生きしていても、野生(一般社会)で病む。この点、ヒトも動物も植物も本質的に変わらない。

 すなわち、青年期の保育は、その後の人生に巣くう静かな殺人行為のようなもの。それは、血を流さず、手も汚さず、誰にも気付かれない。だが、その影響はいずれ必ず顕在化する。些細なことが重圧となり、ひ弱な自分を苦しめる。弱い自分は、重圧や逆境、不安から逃れるため、「都合のよい言い訳」を次々に発明し、それを盾に現実から逃避する。すなわち臆病になる。

 臆病は、軽症であれ重症であれ、行動力を蝕む難病だ。行動力を失った“植物体”は、酔生夢死の一生を送ることになる。臆病は、自分の中の可能性を自ら潰す選択を繰り返す――しかも無意識に。

 若き学生たちよ。無限の可能性を宿した存在よ。自分教育の最高責任者は自分自身だ。自分を生かすも殺すも自分次第ということだ。だから、どうかくれぐれも、志、高く強く、切磋琢磨されよ。

 

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 さて、年寄りの長話はもう終わりにしよう。だが、最後にもう一つ言っておく。

 近年よく目にする記事に、大学を様々な切り口からランキングするというのがある(就職に強い大学、留学生の比率が高い大学、等々)。ある日、インターネットの画面で、私の目に留まったのが、「学生を伸ばしてくれる大学ランキング」というものだ。見た瞬間、「これぞ『人が育つ滋賀県立大学』の土俵だ!」と思った。

 3位以内かな? いや待てよ……30年前の開学時から「人が育つ」と声高に宣言しているのだから、1位のような気もする。ドキドキ・ソワソワ! 期待感が十分高まったところで、指の間からランキングを見る。しかし、3位以内には入っていなかった。「う〜ん、残念。猿も木から落ちるということか……。」――しばし落胆の後、気を取り直して、恐る恐るその下に目をやる。ところが、10位以内にもない! 「そ、そんなはずは、ない、ない、ない。」 いよいよ焦りながら順位を追っていくと、50位にも、100位にも入っていなかった。ああ、何と哀れな。一体どうなっているんだ?

「こんなランキング当てにならんよ」と、冷静な顔で受け流す教員がいたら、この大学も本当に終わりだ。いや、時制は未来形ではない。もし人が育っていれば、それなりに各方面から注目されるはずだ。卒業生が「活躍」することで、人が育っていることが証明されるはずだ。しかし、現実にはそうなっていない、ということだろう。少なくとも、他大学と比較して、取るに足らないということだ。

 そもそも「人が育つ」と唱って学生を呼び込んだ以上、大学はその教育責任(契約)を果たさなくてはならない。現場教師は、その言葉に教育者としての責任感・使命感を持たなくてはならない。「これは単なる教育理念だよ」といって、美辞麗句、言いたい放題ではいけない。それでは虚偽や詐欺と変わらないではないか。

 孟子曰く、「人の患いは、好んで人の師と為るに在り」(離婁章句上23)。

 人が育つ大学か……。見苦しいなあ。

 

 

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