水産増養殖技術の進化と持続可能な選択

 (生物資源管理学概論2011より)

 杉浦省三

 

 最近、持続可能という言葉が良く聞かれますが、これは英語のSustainableを直訳したものです。30年ぐらい前から英語のSustainableあるいはSustainabilityという言葉が使われるようになりました。しかし、そのころはまだ「持続可能」という日本語訳がなかったと思います。そこで私はこのSustainableという言葉をどう和訳したらよいか悩んだ揚句、「将来性のある」という訳をつけたことがあります。今はもちろん「Sustainable = 持続可能な」という訳が定着していますが、この直訳は未だにぎこちない感があります。

 

 

 それはさておき、なぜ持続可能ということが頻繁に叫ばれるようになったのでしょうか。それは、人類史上始まって以来の爆発的な人口増加(上図)と、それに起因する環境負荷の増大(環境異変の頻発)、食糧問題、エネルギー問題などが年々深刻化する現状に、多くの人々が将来を憂慮するようになったからです。

 このまま人口が増え続けたらどうなるか? それは誰も知りません。しかし、生物全般に共通する増殖曲線というものがあります。そのパターンは、環境収容力が一定の場合、人口は(1)ある一定のレベルに落ち着く、(2)減少していく、(3)絶滅する、のいずれかです。

 環境異変に耐えられなかった生物は死滅し、食糧不足や疫病によって減少します。これらのパターンはバクテリアを培地で培養していると明らかで、菌数の指数関数的増加は、今の人間の人口増加曲線にぴったりです(上図)。ただ、人間は細菌よりも「愚か」ですから、核兵器を作ったり戦争もします。すなわち細菌よりも絶滅する可能性が高いかもしれません。

 いずれにせよ、持続可能な要件は、人口、環境、食料、エネルギー、そして人間の場合は平和も含まれます。私は水産養殖が専門ですから、これら持続可能な要件の中で、食料問題の観点から持続可能性について論じることにします。

 

 

 

 この図を見るとよく分かりますが、昔は魚の「養殖」など、ほとんど存在せず、水産といえば漁獲(天然魚)のことでした。私が学生の頃は、養殖(アクアカルチャー:Aquaculture)という言葉自体が、外国では通じませんでした。養殖が世界的に注目され始めたのは、ここ30年ほどで、年々その重要性は高まっています。養殖は全食料生産部門のなかで最も速い進展を遂げており、FAO国連食糧農業機関)もその将来性に注目しています(2002年の「持続可能な開発に関する世界首脳会議」通称「ヨハネスブルクサミット」で明言)。

 一方、養殖と対照的なのが、近年の漁獲量の頭打ちです。海洋の生産力は基礎生産(第一次生産)によって決まっていますから、海が生産できる魚の量(すなわち漁獲可能量)には限界があります。近年の漁獲量は、この上限に達しているようで、今以上に漁獲すると乱獲となり、逆に資源が減ってしまうという訳です。

 では、増加する世界人口を食べさせるには、どうやって食料を確保すればよいのでしょうか? そこで期待されているのが養殖による生産です。養殖は漁獲と違って「生産する業」すなわち理論的にはいくらでも作れるわけです。漁獲を「とる漁業」と呼ぶのに対し、養殖を「つくる漁業」と呼ぶ所以です。世界の養殖生産量は、今や牛肉生産量をも追い越して伸び続けているのです(上図)。

 今日、私たちが食べている魚の50%は養殖魚と言われています。今後はますます養殖魚の割合が増加すると見込まれています。しかし、養殖生産量が増加しているのは海外(とくに中国と東南アジア)であって、日本での養殖生産量は年々減少傾向にあります。これは日本で養殖するよりも、海外で養殖して輸入したほうが安いためです。

 

 

 養殖とは主に食用目的で魚を飼育し、大きく育てて販売する「商売」で、養豚や養鶏に相当します。日本はこの養殖技術で、世界をリードしている(?)と言われており、マグロやウナギなど繁殖の困難な種で、新しい技術を研究開発しています。このような分野では、確かに技術が進歩しています。けれども、基本的な養殖技術は一世紀以上前に、既に一通り出来上がっていたようです。

 たとえば、1897年にアメリカで出版された『Manual of Fish Culture(水産養殖マニュアル)を読むと、現在と殆ど変わらない内容が記載されています。多くの養殖場では一世紀前と同じ技術が今も使われています。違っている点は、新しい魚種(特に高級魚)が養殖されるようになった点と、機械化が進み、養殖の効率化(集約養魚)が普及してきた点です。養殖場では高級魚が高密度で、栄養価の高い餌を大量に与えられ、短期間で早く成長させられます(上図)。養殖は商売ですから、利益を上げるためにこのような方向に進化したのでしょう。

 

 

 日本で養殖されている魚(および海外で養殖され、日本に輸入される魚)は、どのような種類でしょうか? 生産量が多いのは、ブリの類(ハマチ、カンパチ、ヒラマサ、シマアジなど)、タイ、マグロ、サケ・マス類、フグ、ヒラメ、ウナギなどです。これらの魚類に共通している点は何でしょうか? それは「高級魚」ということです。

 高級魚とは、高く売れる魚という意味以外に、食物連鎖の一番上(高次捕食者)という意味もあります。すなわち、高級魚は肉食性(魚食性)の強い魚たちです。一般に、食物連鎖の栄養段階が一階級上がるごとに、生物資源量(バイオマス)が10分の1になるといわれています(上図)。すなわち、捕食者1に対して被捕食者(エサとなる魚)が10の割合で生態系の食物連鎖が成り立っています。

 

 

 ブリ養殖の場合は、101よりも効率がよいのですが、それでも1キロの養殖魚を育てるために、平均して8キロのエサとなる魚(イワシ、サバ、アジなど)が必要です。そしてその差(8キロ−1キロ=7キロ)は無くなるのではなく、糞や尿(リン、窒素、有機物)として、環境を汚染しています。

 マグロ養殖は、かなり効率が悪く、約15キロのエサ(おもにサバ)を食べさせると、1キロ成長するといわれています。もちろん、この1キロは、マグロの刺身1キロではなく、内臓もヒレも頭も骨もすべて含んだ「体重1キロのことです。このように、日本の養殖は、魚に魚を食べさせることで、大幅に魚(食料)を消費しているのです。さらに、環境にも大変厳しい産業といえます。食料的にも環境的にも「持続可能でない」ことは明らかです。

 そもそも、なぜこのような理不尽なことが、一般の人々(消費者)にあまり知られていないのでしょうか? それは、このような「マイナスのイメージ」を持たれると、都合の悪い人々がいるからです。養殖は商売ですから、イメージが大切なのです……。

 

 

 実際に養殖場でエサをやっている様子を見ると、冷凍魚を丸ごと与えたり、チョッパーでぶつ切りにして与えています(上図)。配合飼料(ペレット、練り餌など)を使う場合も同じことです。配合飼料は、魚の原形こそ留めていませんが、魚粉(魚を乾燥して粉にしたもの)を原料として作られています。すなわち、魚に魚を食べさせていることに変わりありません。

 よく、1キロの魚を養殖するのに、1キロの配合飼料しか使わないから、「養殖は効率が良い」などと言われます。これには誤解しやすい(させやすい)トリックがあります。1キロの魚というのは、生(なま)の魚の重さで、7080%の水分を含んでいます。一方、1キロの配合飼料とは、乾燥した餌です。乾燥した配合飼料を1キロ作るのに、生の魚が何キロ必要か計算してみて下さい。効率は「とても悪い」ことが分かります。

 

 

 魚に魚を食べさせる養殖は、食料の大幅な損失となっており、持続可能とはいえません。さらに、魚粉価格も世界的に高騰しています。このため、最近では配合飼料に魚粉のほかに穀物を多く混ぜるようになってきました。穀物とは、大豆、小麦、大麦、グルテンなどです。しかし、このような原料も人間が直接食べられる「食べ物」に変わりありません。さらに、このような穀物も、国際価格が年々上昇しています。すなわち、穀物を使ったエサも持続可能とは言えません。世界的に食糧が余っているのなら、話は別ですが……。

 

 

 家畜や鶏の場合はどうでしょうか。まず、牛の場合ですが、牛は草食動物で草を食べて成長します。では、実際に草を与えて飼育しているかというと、どうもそうではないようです。草で飼育すると太らないので、肉が美味しくないそうです。肉牛にはトウモロコシ、大豆、麦類などの穀物(濃厚飼料と呼ばれる)を与え、なるべく運動させないように狭いところに閉じ込めて肥らせる。すると、脂ののった美味しいお肉が出来るようです。

 では、1キロの牛肉を作るのに何キロのエサ(穀物)が必要かというと、これが9キロとも11キロとも言われています(上図)。ブタの場合は牛よりも少し効率が良いようですが、それでも大幅に食べ物を消費していることが分かります。鶏は最も効率が良いのですが、それでも自分の成長の約4倍もの穀物(食糧)を消費します。すなわち、養殖も家畜も養鶏も、生産すればするほど、(その何倍もの量の「食べ物」が)消費される「食糧消費産業」といえます。

 日本人の牛肉消費量は、ここ40年の間に7倍に増加していますから、日本の人口は増えていなくても、穀物(食べ物)の消費量は大幅に増加していることになります。養殖魚の消費も増えていますから、エサとなる魚の消費量も増加しています。日本は資源に乏しい国ですから、食料もエサも、多くは輸入に頼っています。

 日本が、家畜や魚に食べさせるために、世界の穀物、魚(魚粉)などを大量に買い占めると、当然それらの世界市場での相場が上がります。すると、貧しい国(途上国)は、人が生きていくために必要な穀物でさえも買えない状態に陥ってしまいます。こうして、飽食の国と飢餓の国が生じます。

 

 

 世界の穀物生産量は1年に20億トン。これは世界の人口、65億人の実に2倍の人が食べていくのに十分な量だそうです。しかし今、世界の約6分の1の人々は、飢餓と栄養不足に苦しみ、毎日25000人が亡くなっています(FAO 国連食糧農業機関)。世界で一番穀物を輸入しているのは日本、世界流通量の10%を輸入しています。しかし、日本人が直接食べるのはこのうち3分の1だけで、残り3分の2は家畜や魚のエサとなっています。世界全体で見ても、全穀物生産の40%が家畜や魚の飼料に使われています(FAO「世界農業白書」より)。

 世界の貧しい国々で、多くの人が、食べ物が無くて死んでいる今、日本では食べ物があるのが当たり前。食べ物がありすぎてメタボになって、多くの人が困っています。

 

 

 これまで述べてきたように、養殖というのは残念ながら一般に知られているような「つくる漁業」ではありません。少なくとも日本や先進国の養殖は、魚や穀物を大量に消費する「消費産業」です。これから先(すでに今も)、世界の食糧問題が一層深刻化する中で、漁獲も養殖も持続可能でないのなら、私たちは一体どうしたらよいのでしょうか? まず、魚に魚を食べさせるような今の(消費型の)養殖を見直す必要があるのではないでしょうか。魚に穀物(大豆、麦類、植物油など)を与える養殖も持続可能とはいえません。

 やはり、人間が食べられるものは人間が食べるべきでしょう。イワシやサバは、魚に食べさせるのではなく、人間が食べればよいのです。もちろん、そうするとマグロやブリの養殖が(現在の方式では)できなくなります。しかし、考えてみれば、マグロやブリのような魚は、元々少ししか獲れない魚なのです。食物連鎖の頂点にいる魚ですから、資源的にも少ないのが当り前です。それを人工的に大量生産しようという養殖自体が、自然のバランスを無視した持続不可能な行為のように思います。

 私は幸運にも日本に生まれ、あまり食べ物に不自由することなく生きています。でも、もし私が世界のどこか貧しい国で、飢餓の中で日々生き長らえている立場だったら、日本のマグロやブリの養殖を見て、何を思うでしょうか。

 

 

 食べ物が無い国では、魚は人間が食べます。決して養殖魚のエサなどにはしません。人間が食べられるものは全て人間が食べます。では、人間が食べられないものはどうするか? 途上国では、人間が食べられないものを魚に与えて養殖をしています(上図)。人間が食べられないものとは、鶏の腸、羽毛、家畜の血液、水草、雑草、植物の葉、糠(ぬか)や豆類の皮、虫の食った穀物や実の入らなかった穀物などです。

 さらに、家畜や人の糞尿を養殖池に入れて、植物プランクトンを発生させ、自然の生産力を利用して養殖する方法(施肥養魚)も広く行われています。いずれの方法も、本当の意味で「つくる養殖」といえます。「ゼロからつくる養殖」すなわち、食べ物が無い国では、食べ物を作るための養殖をしているのです。

 養殖する魚は、低級魚(食物連鎖の低次の魚)、すなわちプランクトンや雑草を食べて育つ魚たちです。このような魚の代表格が、ハクレン(蓮魚)、ソウギョ(草魚)、テラピア、コイ・フナの類、ミルクフィッシュなどです。途上国ではこのような魚種を広い養殖池で粗放的に養殖しています。

 

 

 この写真は、私が以前働いていた途上国の養魚場です。広大な養殖池が何面もあって、養殖場の端から端まで歩くと1時間ぐらいかかりました。そのような所で、池の中では、太陽光 植物プランクトン 動物プランクトン 魚というように、自然の生産力を利用した養殖、すなわち、ゼロからつくる養殖が行われています。このような養殖は環境にもやさしく、食料生産と環境保全の双方において持続可能な養殖といえます。

 

 

 この養魚場では、補助的に配合飼料(エサ)が使われていました。それがこれです(上図)。先ほども言いましたが、途上国で使われている配合飼料は、人間の食べられないものを使って作っています。日本の感覚から言えば、これは配合飼料というよりも、ゴミを固めてペレットにしたようなものです。そんな飼料だから、魚の成長が悪いのは当然です。

 先進国のエサとは一目瞭然の違いです。先進国のエサは、高密度の養殖でも魚が病気に罹らないよう、ビタミンやミネラルも十分入ったエサです。良質のタンパク質、DHAEPA、タウリンなども多く含まれています。じつは、魚も人間も同じ種類の栄養素(各種ビタミンなど)をほぼ同じ分量必要とします。先進国で使われているエサは、人間にとっても、大変栄養価の高い「食べ物」なのです。このような“エサ”を、発展途上国の栄養不足の子供たちに食べさせたら、すぐ元気になります。それでも(日本の)養殖魚に食べさせるほうが重要なのでしょうか。

 

 

 途上国で行われている養殖に共通しているのは、どれも粗放的で自然の生産力を利用した環境にやさしい養殖、そして食物連鎖の低次の消費者(植物食性の魚)を養殖する点です。(途上国養殖の例外は、日本など先進国に輸出するための養殖で、これは日本の養殖に近い方式で行われています)。

 途上国の粗放養殖は、日本が最も不得手とする養殖技術でもあります。適正技術の概念に、「技術には上も下もなく、あるのは適、不適のみ」というものがあります。そう考えると、日本の養殖技術は進んでいる(優れている)のではなく、「日本に合っている」に過ぎないのだと思います。日本の養殖技術は、途上国では「使い物にならない」のです。

 

 

 この途上国の養殖を研究・教育する大学がアメリカにあります。アラバマ州のオーバン大学は、温水養魚の分野で世界的に知られています。徹底した現場主義の教育精神は、初代学部長Dr.スイングルから今日に至るまで受け継がれており、世界中の途上国から多くの学生・研修生・研究員を受け入れています。教授陣も途上国へ頻繁に足を運んでいます。私がいた頃も、アフリカや東南アジアの学生たちで賑わっていました。彼らと机を並べて授業を受けると、しばしば劣等感を覚えるほど彼ら(彼女ら)の能力の高さに驚かされました。

 この航空写真はオーバン大学の広大な養殖試験池です。池の色がそれぞれ違うのは、湧いている植物プランクトンの種類や密度が異なるためです。学生はこの試験池で、ナマズ、テラピアなどの魚を養殖し、失敗をしながら粗放養魚のノウハウを身につけています。日本にはこのような粗放養魚を教える大学が無いのが残念です。日本の養殖技術および関心は、この分野で非常に遅れています。

 

 

 日本や先進国の集約養魚が、食料消費型の環境に厳しい養殖であるのに対し、途上国で行われている(求められている)養殖は、ゼロからつくる食料生産型の養殖であることを述べてきました。でも、食料生産なら、別に養殖でなくても、農業でもよいわけです。ではなぜ魚なのか? なぜ「お米」ではいけないのか?――― それには明確な理由があります。

 穀物はエネルギー源として重要な食糧ですが、栄養はあまり多くありません。栄養不足(栄養失調)の人々を救うには、米やトウモロコシではなく、栄養のある食べ物が必要です。魚には、途上国で最も不足しているビタミンA、鉄分、カルシウム、DHA、タウリンなどが多く含まれています(とくに内臓や骨も食べる場合)。

 すなわち、魚は食べ物である以上に「自然の栄養剤」といえます。だから魚の養殖が途上国で必要なのです。魚を食べれば、栄養失調の子供たちが救われます。

 

「途上国は、私には関係ない、かかわりたくもない」と多くの日本人は思っているかもしれません。本当に途上国と日本は関係ないのでしょうか? 日本は資源の乏しい国ですから、非常にたくさんの物品を外国から輸入しています。途上国からも多く輸入しています。

 たとえばチョコレート。原料のカカオは、アフリカのコートジボアールやガーナで作られています。子供たちが学校へも行かず、暑い農場で奴隷のように働いてカカオを栽培収穫しています。その作物は二束三文で買い上げられ、アンフェアーなトレード制のために、生産者は貧困から抜け出せないしくみに置かれています。チョコレートを食べる私たちは、それを作っている人たちのことを少しは思っているでしょうか?

 ほかにも、コーヒー、衣類、魚介類、植物油、木材、レアメタル等々、日本は途上国から実に多くのものを安く輸入しています。

 

 

 こうした途上国(後進国)と日本の関係は、生態ピラミッドのような気がします(上図)。日本は多くの中進国や後進国に支えられて生きている国、他国がなければ生きられない国です。日本の持続可能性(将来性)は、後進国の犠牲の上に得られるものではなく、助け助けられる関係(共生)によって成り立つものだと思います。生態ピラミッドも同じです。基礎生産の植物プランクトンが消滅すると(養殖池ではこれを「水変り」という)、池の生態系が崩壊し、上位の生物も死滅します。

 途上国に人口が多いのは、農場での労働力が必要だからです。労働力が多ければ、それに比例して生産力が高くなるからどうしても人口が増えていきます。そうやって生産されたものが先進国に輸出され、私たちの生活を支えています。後進国の人々に支えられている日本人、その私たちが今のまま贅沢三昧で、後進国の人々に無関心でいいのでしょうか。

 

 現在、日本で食用とされる魚の約50%は養殖魚ですから、誰もが養殖魚を口にしていると思います。そして、日本人なら誰もが牛肉、豚肉、鶏肉などの肉類を何らかの形で食べているでしょう。すなわち、食料消費型の日本の養殖や畜産業は、私たちが消費者として係っている問題です。生産物を消費することで、生産を促しているのです。

 私たちが養殖魚や肉類を食べることで、誰かが不幸になっているとしたら、この問題に対して、「興味ない」「関係ない」では済まないと思います。それは、間接的であるにせよ、飢餓に苦しむ人々から食べ物を取り上げていることになるからです。

 

 

  

 

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