いざない−1

【詩帆】

 少女がゆっくりと目を覚ますと、そこにはいつもと変わらない風景が広がっていた。
 ただ、白いだけの天井。
 ふっ……、とぼやける視界に右手で目をこすりながら視線をベッドの脇に移す。
 小さなチェストと、その隣にぽつんと置かれた椅子が見えた。
 いつもならそこに腰掛けているはずの人物が今はいない。
「お母さん?」――問いかけに返事は無かった。

 少女は上体を起こすと掛布団の上にあったカーディガンをはおり、ベッドの脇に降り立った。
 反動でベッドの欄干に下げられていた白いプレートが小刻みに揺れる。そこには「菅原詩帆」と書かれていた。
 詩帆が病室から外に抜け出すと、前の廊下は面会の人や、色々な人でごったがえしていた。
 斜め向かいの待合室に母親の後ろ姿を見つけ、小走りで母親に近づく。誰かと話をしているようだ……声が聞こえてくる。
「そうそう、こんな噂をご存知ですか?この病院の地下には特別室があるって」
 ひそめるような声に、詩帆の母親は不思議そうな顔をして首を横に振り、答えた。
「いいえ、知りませんわ。そもそも地下なんてあるんですか?」

 特別室……?
 壁際の柱に隠れるように立っていた詩帆はそれらのやりとりを聞いて首を傾げた。
 入院していれば自然と、色々な噂話が耳に入ってくるもの。しかし、そんな話は初耳だったのだ。
 回れ右をするなりエレベーターに向かう。
 探してみよう、と思ったのだ。所詮、普段から刺激も何もない病院内。こういう話を聞くと大人であれ子供であれ、好奇心が湧くのは当たり前というものだ。ましてや10歳の子供となれば尚更の事。

 地下へ向かう階段は患者で賑わう外来を抜けた先にあった。
 おもむろに階段の傍に寄ると、手摺に手を掛け、つま先立って下を覗き込む。
 左回りの階段は、ぐるぐると下へ向かって伸びており、その先の方は薄闇の中へと消えていた。
 突然吹き上げ来た冷たい風が頬を掠め、詩帆は小さく悲鳴を上げた。湿った匂いが微かに鼻をつく。
 覗き込んでいた顔を引っ込め、カーディガンを羽織り直した後、意を決したように階段を下り始める。
 地上から遠ざかるにつれ、外来のざわめきは遠くなって行き、やがては聞こえなくなった。
 詩帆は周囲の空気が徐々に湿気を孕んだ物に変わってゆき、それに伴うように温度が徐々に低くなってゆくのを感じた。自分の部屋よりも心地よいと感じるのは多分、病院独特の消毒液の匂いがしないからだろう。

 何度目かの踊り場に差し掛かった時、彼女は壁に扉を見つけた。
 恐る恐る手を伸ばした指先に冷たいドアノブが触れる。もし、鍵が掛かっていれば引き返していただろう。しかし、軽く力を入れただけでそれはくるりと回った。

 きぃ……。

 ドアの向こうに開けた通路はぼんやりと薄暗い。詩帆はそこに吸い込まれるように消えてゆく。

 地下の通路には無論、窓は無く、ぼんやりとした蛍光灯が照らす通路には誰もいない。
 曲がり角すら見当たらない真っ直ぐな通路を歩きながら、詩帆は右の壁に扉があるのに気付いた。
 病室の扉とは全く違う、しっかりした造りの両開きの扉。その前に立ち、呆然と見上げる。
「ここのことかしら?」
 小さく呟くと鈍い金色のドアノブに手を伸ばす。開けようなどとは考えていなかった。ちょっと触ろうとしただけだ。
 しかし指が触れるか触れないかしないうちに扉は勝手に内側に開いた……音も立てずに。突然の事に驚き、まるで熱いものにでも触ったかのように慌てて手を引っ込める。怒られるかもしれない、何故かは判らないがそんな風に詩帆は思った。
 高鳴る心臓をなんとか収め、回れ右をして速攻で立ち去ろうとした、その時、部屋の中から声が聞こえた。
「どうぞ。可愛いお客様。そんなに怖がらずに、入っておいで」
 まるで部屋の中から詩帆の様子が見えているかのようだ。僅かに笑みを含んだ声。
「せっかく、ここまで来たのだから――お茶でもどう?」

 少々躊躇したものの、結局部屋に入ってしまったのは、部屋の主の声が余りに魅力的だったせいか、それとも萎えて来た好奇心が再び目覚めたせいか。
 先程まで薄暗いと思っていた部屋の中は入ってみると意外にも明るかった。落ち着いた赤を基調とした、広々とした部屋。足元には毛足の長い絨毯が敷かれ、その上には意匠を凝らしたヨーロッパ家具が置かれている。どう考えてもそこは病院内ではなかった。どちらかと云えば豪奢な造りのホテルの、最上階の一室といった所だろうか。

 詩帆は炎がゆらめくシャンデリアを見上げ、ソファの傍に視線を移すと、お邪魔します、と言った。部屋の主は軽く微笑んで会釈するとソファを勧めた。いつの間に用意したものかティーセットをトレイに載せている。
 23〜4と云った所か。
 黒髪の部屋の主は端正な顔立ちをしていた。
 黒曜石を思わせる切れ長の黒い瞳、形の良い眉……その白皙の顔に、何故かそこだけは異様に紅いと感じる唇。
 黒いスラックスの上に白いワイシャツを着ているが、裾をだらしなくだしている。しかし、それが不思議と似合っているような気がするのは何故だろう。
 彼はまるで男性とは思えない華奢な指でティーポットに熱湯を注ぐと、それを詩帆の元に運んだ。
 詩帆の向かい側のソファに腰掛け、優雅としか言いようのない動きで軽く足を組む。
「……詩帆ちゃんだね?僕の名前は彰人」
 詩帆は不思議そうに目の前の青年の顔をじっと見つめた。黒い瞳には穏やかな光が湛えられている。
 何故、自分の名前を知っているのだろう?と不思議に思いつつも、言い出せないのは目の前に佇むこの不可思議な男が自分の周囲にいる人とは根本的に何かが違うような気がしたからだ。自分の考えている事など全て見透かされているのではないか?と詩帆は思った。
 彰人はまだ少し熱いティーカップを口に運び、何故ここに来たの?と訊いた。
――暫しの沈黙の後。
「……地下にね、特別室があるって噂を聞いたから病院の中を探してみたの。1Fの階段を降りて、廊下を歩いてきたらここに着いて……でも、まさか人がいるなんて、思っていなかった……ごめんなさい」
 申し訳無さそうな顔をして俯いた詩帆に、彰人は安心させるように微笑みかけた。
「謝る事はないよ。久々の来客で僕はむしろ、喜んでいるし。何しろこんな可愛いお客様だ――それにしても」
 急に声のトーンを落とし、眉根をひそめる。
「噂が立っているのか。困ったな……こないだ前を通り過ぎた男が行方不明にでもなったか?」
 表の廊下の方を見やり、向き直ると詩帆が不思議そうな顔をして彰人の方を見ていた。
「……独り言だよ。気にしないで――詩帆ちゃんは廊下の奥に行かないようにね」
 それがどういう意味なのか知ってか知らずしてか、少女は頷いた。
「いつからこの病院に入院しているの?」 
「5歳の時に発作が起って、それからずっと」
「発作?」
「うん、たまにね。物凄く苦しくなってそのうち訳が判らなくなるの」
「何の病気か判らないの?」
 途端に詩帆の表情が曇るのを見て、彰人は心の中で後悔した。
「……誰もね、教えてくれないの。お母さんも、お医者さんも――何故かな?」
「詩帆ちゃんが知らないような病気かも知れないね」
 あっさりと言った。その「妥当な答え」が正しければいいが。
 誰も病名を教えてくれないのは、彼女の病気が尋常の病気ではないからかも知れない。
 5年間も入院していて今現在も発作が起こり、それが収まらないのは病気に対する対処法が見つからないからだろう。
「知らないような病気……そうかもしれない」
 自分自身を納得させる様にそう呟くと詩帆はティーカップに口をつけた。
 一口、口に含んだ後、突然何かを思い出したようだ。はっという顔をする。
「私そろそろ帰らなきゃ」
 彰人はソファから立ち上がり、扉を開けた。廊下の光が部屋の中に差し込む――その中で詩帆は一礼した。
「ごめんなさい。突然お邪魔して――紅茶、美味しかったです。もし、彰人さんが良ければ……」
 詩帆は恥ずかしそうに顔を伏せた後、また来てもいいですか?と尋ねた。
「構わないよ。ただし、誰にも見つからないようにね」
 その答えに嬉しそうに微笑むと詩帆はくるっと踵を返した。パタパタと乾いたスリッパの音が廊下の遠くへと消えてゆく。
 小さく、儚げなその姿が消えるまで彰人は見送っていた。

<<<<<Back Next>>>>>