ZEISS-IKONの歴史

―戦前期のContaxと、その思想―

 ZEISS-IKONの歴史は、まさしくContaxの歴史に他なりません。
 コンタックスとは、製品名であると同時に、開発プロジエクトの名でした。コンタックスとは何か、それは「撮影者の意図を、忠実に画像で再現する機械」の商品名であり、それを実現するための機構を設計、開発するプロジエクトなのです。

 なぜ、コンタックスが生まれたのか?それを知るにはツアイス・イコン社の設立まで遡らなくてはなりません。ツアイス・イコン社は1926年に創設されました。当時のドイツは第一次大戦後の大不況と悪性インフレの渦中にあり、ドレスデンを中心とした写真産業は経済的に重大な危機に 直面していました。そこで、中小の光学機械メーカーの大同団結を図り、資本、技術、設備、人材の集中によって、この難局を乗り切ろうという意図がありました。

 このようにして誕生したツアイス・イコン社は世界最大の光学機械メーカーとなります。その商品ラインナップは、カメラだけに限らず自動車用のヘッドライトなどの照明設備や“鍵”(家庭用から銀行の金庫室まで)のような精密機械も含まれていました。しかし、所詮は“寄り合い所帯”ですので、決して内部は穏やかではありませんでした。創立当時の1926〜30年頃の商品は、ただ各メーカーの旧製品に「ZEISS-IKON」の商標を付けただけのものが多かったのです。

 1929年、ツアイス・イエナからハインツ・キュペンベンダー博士(1901〜1985)が派遣されます。この若きエンジニアは、新生ツアイス・イコンをして、その象徴となるようなカメラの開発を意図します。それは、寄り合い所帯であったツアイス・イコン社に精神的目標を設定することを意味していました。即ち世界最大、最高の技術力を持つツアイス・イコン社にふさわしいカメラの開発、それがコンタックスです。結果的に、これは成功を収めます。ツアイス・イコン社は、世界最大の光学機械メーカーにふさわしく、下は青少年向けのボックスカメラから、上はコンタックスまでというピラミッド型の商品ラインナップを揃え、他を圧倒する力を持ちます。

 ツアイス・イコン社にとってコンタックスは、精神的主柱にはなっても、収益が上がらないカメラでした。市販価格が高価だったことは問題ではありません。対抗機種であるライカとのシェア競争も、問題ではありません。常に技術的に最先端であることが、コンタックスの使命だったのです。特に1932〜36年に発売されていた最初のコンタックスT型は、5年余りの発売期間に外見が7度変化し、内部機構は無数に変化しました。前期型と後期型では、レンズマウントの規格以外、ほぼ共通する部分は存在しないと思われます。つまり、延々と試作品を販売していたと云っても過言ではありません。

 そんな方法では、収益が上がる筈もありません。販売店からは、クレームが殺到したと云います。開発プロジエクトのリーダーであったキュペンベンダー博士は、後にコンタックスT型では収益が上がったことは無かったと回想しています。これは「撮影者の意図を、忠実に画像で再現する機械」である限り、避けられない運命
でした。ツアイス・イコン社は、その膨大な商品ピラミッドの中で、中級・低級機で収益を上げてコンタックスという頂点を支えていたのです。技術のイノベーションに終わりが無いように、其れが具現化したコンタックスには完成がありませんでした。コンタックスとは「科学、技術、未来、そして理想」を志向した光学機械なのです。それは、ツアイス・イコン社の親会社であるツアイス・イエナの意向であり、更にはツアイス財団の意向でした。

 この理想は、1889年に書かれたツアイス財団の創業者であるエルンスト・アッベ博士の定款の中に読み取れます。
「財団傘下の企業体は、未来のいかなる時点においても、出来るだけ広範囲で技術的価値は高いが、むしろそれ故に、孤高を守るという風になりがちな領域を守るべきである。無論、こうした領域での事業は利益をもたらすことは少ないが、その反面、グループ全体の技術レベルを向上させるのに役立つということもあるし、また何よりも、企業体を営利追求のためのみ、要領よく運営してゆくというのが、経営のあり方であるという現代の風潮に対して、断固として同調しないばかりか、これと対決してゆく姿勢を明瞭に示してゆくことである」

 コンタックスは「技術道楽」という謗りを受けることもあります。しかし、道楽でない思想や理想が存在するでしょうか?現状を甘んじない思想、過剰に追求する本能こそ、人間が他の動物と違うところであり、人間が人間たる最大の所以であると考えます。そして、人間の最大の資源は、精神である限り「理想」という名の道楽こそが、後世に残せる最大の資産ではないでしょうか?



―Contaxという理想―

 Contaxとは、理想を目指したカメラでした。
技術的に、未来を目指したもので、1930年代の欧米で達した最先端の技術が盛り込まれていました。まず、ボディはアルミニュウム合金が採用されました。これはシリコン含有アルミニュウム合金というものです。現在では自動車部品の中でも特に強度が必要で且つ軽量化が必要な部品に使われているものです。そして、金属幕シャッターの採用です。特にコンタックスの初期のモデルでは、ジュラルミン(銅含有アルミニュウム合金)が採用されていました。しかし、これは後に真鍮合金に変ります。ジュラルミンは、時として「裂けて」しまうことが、ままあったからです。

 そして、コンタックスの後期型から採用されたプリズム式連動距離計です。距離計が1個の長いプリズムで出来ていました。これらは、コンタックスの技術的急進性を顕すものですが、それだけでは足りません。最も突出した理想が、露出の自動化でした。コンタックスは、露出計との完全連動を目指していたのです。1933年にアメリカで登録された特許(US.PAT2031321)には、露出計と連動するコンタックスが登場します。コンタックスT型は、カメラ正面左側に巻き上げノブと、シャッター変速ダイアルがあり、これが使いにくい元凶と非難されますが、1933年に出された特許を見れば、シャッターとレンズの絞り構造の関係で、自動露出を実現するに は、どうしても、この位置に巻き上げノブとシャッター変速ダイアルが無ければならなかった、つまり合理的な発想だったのです。

 つまり、コンタックスは既に生まれた時点から、高度にエレクトロニクス化された自動化機構を目指していたのです。コンタックスT型における連動露出計の組み込みは、遂に実現されませんでした。露出計内臓は1936年のコンタックスV型で実現されますが、それは単に露出計の数字を読み取るものに過ぎません。いま、カメラは高度にエレクトロニクス化を果たしています。露出の自動化は当たり前になっていますが1930年代、既にコンタックスの目指した理想の1つを達成したに過ぎないのです。

 いま、我々はコンタックスが目指したような“理想”を思い浮かべることは、出来るでしょうか?そして、それはコンタックスのように“確かな未来を予言”したものとなれるでしょうか?



―"Sonnar"という名の思想―

 Sonnarとは、Zeiss ikon社が発売した35ミリカメラ、Contaxの為に用意されたレンズです。コンタックスが「撮影者の意図を、忠実に画像で再現する機械」であるならば、そのレンズは「撮影者の意図を、忠実に画像で再現する光学機器」でなければなりません。

 ゾナーは史上初の万能性を持った大口径レンズです。コンタックスの開発において、カメラ以上に大きな意味を持っていたのはレンズの開発である。ゾナーの開発は“Ernostar”シリーズの開発で知れる。ルードビッヒ・ベルテレ(1900〜1985)によってなされました。エルノスター型レンズは、基本的に3枚玉のトリプレットの発展させた大口径レンズですが、ゾナーもまた基本的には3枚玉トリプレットの発展させた大口径レンズと位置付けることが出来ます。

 ゾナー型レンズの特徴は、基本的に3群の貼合わせレンズでです。非常にコストのかかるレンズで、まず大塊の光学ガラスが必要となり、曲率の高いレンズを製作する高度な加工技術、さらに曲率の高いレンズ同士を、光軸をずらすことなく、張り合わせる高度な熟練も必要とされました。その為に、ゾナーの製造は非常に高価なものとなってしまいました。事実、コンタックスT型とテッサー5cmF2.8が300ライヒス・マルクだったのですが、ゾナー5cmF1.5も300ライヒス・マルクでした。つまり、カメラ+レンズと同価格だったのです。

 なぜ、このようなコストの嵩むレンズ設計にしたのか? それは、なるべく、空気とレンズ面の接触を少なくして、空気とレンズ面に起こる反射を防ぐ為であす。これによって、光量の損失とコントラストの低下を防ぎ、明るいレンズにも関わらずきわめて鮮鋭な画像が得られました。ライカのズマール(Summar)5cmF2が、6枚玉で空気接触面が8だったのに対して、ゾナー5cmF2は6枚玉で空気接触面は6.5cmF1.5ゾナーは7枚玉で6である。この差は大きいものです。レンズの大口径化に必要な条件として、各光収差を抑えつつ、レンズ枚数を多くして少しずつ光を屈折させるのはレンズ設計の要件ですが、1930年代頃には、まだコーティング技術(反射防止膜)が無かった為に、各レンズを張り合わせて空気間隔を減らすという手法をベルテレは採用しました。つまり、コーティング技術の欠如が生んだ産物であったと云うことが出来ます。

 ゾナー型レンズの欠点として、比較的に周辺の湾曲収差が大きいことが知られています。特にゾナー型を継承したBiogone 3.5cmF2.8ではその傾向が顕著であり、建築物などの直線を画像に入れると、湾曲が判り易くなります。しかし、湾曲収差は像の鮮鋭さに関係なく被写体の幾何学的形状を結像で歪ませる収差であるので、コーティング技術の因る光量損失とコントラスト低下を秤にかけ、湾曲収差が比較的大きいにも関わらず、このレンズ形式を選んだと考えられます。しかし、のちに、コーティング技術が開発され発展すると、空気とレンズ面に起こる反射と光量低下は、レンズ設計において大きな足枷とはならなくなりました。これを発明したのもツアイスですから、皮肉な話です。これによって、製造コストのかかるゾナー型は衰退しますが、技術史的な意義は大きいものです。なぜなら、それまで大口径レンズに較べて、昼夜を問わず高画質な画像をはじめて得ることができた史上初の大口径レンズであり「撮影者の意図を、忠実に画像で再現する光学機器」だったからです。

 ゾナーは、主に標準レンズでは5cmF1.5、5cmF2、中望遠では8.5cmF2、望遠では13.5cmF4の4種が製作されたが、その他に18cmF2.8と30cmF4が存在しています。

―Olympia Sonnar18cmF2.8―
 Sonnar18cmF2.8は究極のゾナーとされ「Olympia Sonnar」と呼ばれました。このオリンピア・ゾナーは1936年のベルリンオリンピックに向けて開発されたものであり、コンタックスのみならずツアイス・グループ、ドイツ光学技術の象徴とされたものであり「光の巨人」と呼ばれました。最初に生産されたモデルは、コンタックスの連動距離計に直接連動し、後のモデルではFLEKT-SKOP(フレクトスコープ)という一眼レフ装置(ライカで云えば、VISO‐FLEXに相当する)で使用するモデルになります。主に、中古市場で流通しているのは、フレクトスコープを使った後期型モデルです。直接連動モデルの初期型は、きわめて珍しいモデルです。このHPに紹介するオリンピア・ゾナーは、最初に生産された50本中の24番目のもので、直接連動型です。もしかしたら、1936年のオリンピックに実際に使われていた可能性も否定出来ません。現在までの調査では、この製造番号Nr1503724の個体は、戦前期の日本に輸入された数本のうちの1本であると考えられています。 (オリンピア・ゾナーの作例

 このオリンピア・ゾナーには、革製の専用トランクが付属しています。この革製トランクは、旧日本軍のものと酷似しており、更にトランクの一部に刃物で切り取った形跡があります。時代背景から察するに、旧陸海軍の関連する組織、または研究施設が所有していた可能性が高いと思われます。このオリンピア・ゾナーは敗戦時にトランクごと非合法に持ち出され、組織や施設の刻印を消すために、トランクの一部が刃物で切り取られたと考えています。現在、オリンピア・ゾナーの極初期ロットである50本のうち、所在が確かめられたのは、この個体を含めて4本だけです。このオリンピア・ゾナーについての詳細は、筆者のカメラレビュー誌における著作をご覧下さい。

カメラレビュー53号〜50人のコレクターに聞く私の1題
森 亮資著「距離計連動型のオリンピア・ゾナー18cmF2.8」94〜95ページ 朝日ソノラマ 1999年
カメラレビュー59号〜ニコンS・コンタックス・バヨネットレンズ
森 亮資著「オリンピア・ゾナー18cmF2.8<距離計連動型>」69ページ 朝日ソノラマ 2001年